アンジェリカの左の肩が払われた。「いったっ!」「依頼を聞け。今更すくみ上がったか」 彼女は隣のゴランを睨み返しながら、(こんなすごい奴は、後戻りさせてくれそうにないね)目の前にいても、本当に見えていると言えるのだろうか。《ミラージュ》を透かした墓地の壁までアンジェリカの眼に入ってくるのだ。 (でもこんなのが頼んでくる仕事の対象って、もっとすごいのか? 自分でやったら……? ただの人間のあたしになんで頼む……? やれるのかあたしは?)地下の亡霊のような姿から眼が離せないでいると、《ミラージュ》が巻物を二つ取り出すのだった。部屋の卓に二つを広げていくので、二人は見に向かった。(透けているのに物にさわれるんだ)アンジェリカはため息をつきたくなる。 似せ絵が二つ、広げられた。 顔絵と全身像。(男と、女だね)男の方は頭巾と外套が目について隠者のようなたたずまいだったが、顔は若く整った印象を見せた。唇の上に細いひげ。(変装くさいね)そう思ってみると顔つきに気品もあるように思えてくる。(ちょっと考えすぎかな?) 女の側は逆に自らの美を隠さぬ服飾に見えた。身にまとう黒の長衣もひきしまった印象を与えてくる。背には長い外套、挑戦的な目つきに豊かな赤い巻き毛。 《ミラージュ》は重しを二つの巻物にそれぞれ置くのだった。(あ、本物だ)ルビーとサファイアだった。赤い宝石は男の方へ、青い宝石は女の側へ置かれた。 「青いほうは生かせということだ……」「そっか……。……? ねえ?」隣のゴランが美しい女の絵に吸い寄せられているように、アンジェリカには感じられた。暗い地下の部屋は燭台のわずかな光のゆらめきが薄く満たしていたが、ゴランの頭巾の中身は光から背いているようだった。 「ねえ」「いや……別に」ゴランは右手で頭巾の調子を直した。アンジェリカは手にかいている脂汗を見逃さなかった。 雨に沈む地下墓地への入扉から、音もなく進み出てきた二つの影は亡霊ではなかった。男と、女。 「ねえ、ねえ!」女は男の背中に声を浴びせた。「真夜中だからと油断するな。それとも仕事の話を理解できなかったか」長衣の白い姿は背に届けられる声に構わず進んだ。蹴散らされる雨。 「知り合いなんだろ」長衣を翻しゴランはアンジェリカへと向き直った。夜半の雨は彼が地下へ入った時と変わらずガイデンハイムへ降り注ぐ。 「違う」「いいじゃないか。女の方へは手を出すなってご達しなんだ」ゴランの白い肌の顔はこわばり目をむいて、黒い肌の冒険者としばし対峙した。 「関係ない。まったく知らんさ。エルフに誓ってもいい」アンジェリカがしかめっ面をさせられる番になった。 「……はい? 男も女もヒューマンだろ」 「油断をするな、って言いたいのさ。この番いは只事じゃない」 「そうかなぁ。どっかの坊っちゃんが水商売に入れ込んでる、世間のそこらに転がってる話じゃないの?」 「よくある話だと女の側をなんとかするがね……。これはお前をすくみ上がらせるような得体のしれない奴が俺たちのような輩にわざわざ頼んできた話だぜ。詮索しろという意味ではないぞ」 アンジェリカは肩をすくめてみせた。「はいはい、《ミラージュ》もあんたもどうでもいいですよっと。で、仕事の算段はどうすんの、先生」 「明日の……もう今日のだな。正午きっかりに仕事場で落ち合うぞ。それとなくだ。場所は忘れてないだろうな。道順はどうだ」 「あんな奴の見ている前で勉強させられたんだ。一生忘れらんないね。でも奴らの逢い引きは夜だろ?」 「下見もせずにできる冒険者様か。猶予は三日だ。ゆっくりと確実にしていくんだ」 アンジェリカはしたたる雨をぬぐった。「まるでゆっくりに思えない……。あんたの宿屋、いくらくらい?」 「?」「酒をやってあったまって手筈を整えようよ。こういうのはちゃんと話をしないとねぇ」 「あのなぁ」白い肌の薬売りは頭巾に手をやった。「風体の違いすぎる二人を集めたのはどう考えても足がつかないようにするためだ。一緒になっていたら逆の結果だろうが」 「ちぇっ。あんたが恐がっているなら、優しくしてあげようかと思ってたんだけど。ふふ!」 「ちっ。そんなこと言うもんじゃないぞ、おっかさんよ」ゴランは言い放って雨滴と闇のあいだに隠れていった。 (つづく) |
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