鍼灸師としての岐路


今年は開業10年の節目の年です。
東日本大震災からは14年経ちました。
多くの方にとって2011年3月11日は、どこで何をやっていたかを今でも鮮明に思い出せる日ではないでしょうか。

普段はあまり自分の実績や想いをこのように書くことは無いのですが、ちょうど節目の年でもあり緩和ケア鍼灸を始めた理由や、なぜそのような特殊技術が必要な鍼灸術ができるようになったのかをお話ししたいと思います。
少し長くなります。


私は平成18年(2006年)に鍼灸免許取得し、卒業後は整骨院に勤務していました。
整骨院なので本来はは捻挫やギックリ腰などの外傷の方しか診ることはできないのですが、実際には疲労性(慢性)の肩こり腰痛の方がほとんどでした。
とは言え普段から肩こり腰痛の施術を行っているので、ギックリ腰や足関節捻挫などケガの時は頼りにしてくれる方も多く、急性腰痛や捻挫、打撲などの外傷は数多く診てきました。
時に骨折や脱臼などの方もいらっしゃり、整復術はできませんが、すぐに整形外科を紹介するなど骨折、脱臼、打撲などの鑑別も得意で、当時は同僚の柔整師よりも包帯やテーピング技術もうまく、鍼施術も誰よりも多くこなしていました。

新人時代を過ぎ、中堅となった5年目の2011年に震災が起こりました。
私は生まれは神戸市須磨区と言うところで、親戚は神戸に住んでいます。
1995年に阪神淡路大震災がありましたが、当時の私は中学3年生。何もできないでテレビを見ていました。

今度は何か力になれるだろう、と思いボランティアを検索したところ「災害鍼灸マッサージプロジェクト(通称災プロ)」と言うグループを見つけました。

災プロに応募し2011年5月の連休を利用し宮城県岩沼市へボランティア鍼灸師として現地入りしました。

現地では
1.被災者への施術
2.消防、警察、自衛隊への施術
3.市役所職員への施術
が主な内容でした。
(自衛隊は規律が非常に厳しく、施術はお断りされました)

4月30日の夜の仕事終わりに新幹線で仙台まで行き在来線に乗り換え岩沼へ到着。その日はタクシーでホテルへ向かいました。

 

翌日5月1日、徒歩で岩沼市総合体育館へ移動。
責任者の方に挨拶をして、ボランティアの受付をしに社会福祉協議会へ。
その日は10人ほどの鍼灸マッサージ師がボランティアに来られており、連休中はボランティアの人数も充足しているとのことでした(連休前は2~3人くらいだったそうです)
ボランティアの受付を済ませ総合体育館のリハーサル室を区切った簡易の施術室へ移動。
マットレスが敷いてあり、そこに寝てもらい鍼灸施術をおこないます。

 

 

その時まで私は出張施術の経験がありませんでした。
ベッドやパルス、カーテンに赤外線と全て設備のそろった院内で施術をしていたため、このように全て自分で用意し完結させなければいけない状況を経験したことが無かったのです。
道具の準備はしていましたが、慣れない環境での施術はかなり緊張しました。

最初に施術にいらっしゃった方は年齢は60を過ぎたくらいの男性で、主訴は足のしびれ。
お話を聞くと、津波で6時間近く水に浸かっていたとのこと。
足のしびれも梨状筋症候群からくるしびれなら対応できるレベルだった私は長時間水に浸かったことによるしびれの治し方は分からず、いきなりテンパってしまいました。
水に浸かって冷えたことによるしびれなら寒湿邪の阻滞と今ならすぐわかりますが、その時はとりあえず温めて腰に鍼打ってマッサージして…と言う治療しか思いつきませんでした。

次の方は70代くらいの女性の方。
とにかく不安で夜に眠れないとの訴え。まだ余震も続いており、避難所生活での心身の疲労。
当時の私は肩こり腰痛やギックリ腰は治せても不眠をどう鍼灸で施術すればいいのか分からず、鍼とマッサージをしてひたすらお話を聞くことしかできませんでした。

50代くらいの男性は家族を探すため毎日歩き回っており、足と腰が痛くて仕方が無いと訴えられました。
その時はもう何て返事をしていいのか分からず、ただただ痛みが取れるように、ご家族が見つかりますようにと祈るような気持ちで治療をしたことを覚えています。

午後は施術室のほかに、体育館内を見回り部屋に来られない方への施術。
岩沼総合体育館はかなり広い施設ですが、当時は2000人以上の方が避難されておりどこもいっぱいで、カルテと先任の先生から申し送りを頼りに似た方に声をかけ施術を行いました。
多くの方は震災の恐怖、親しい人の喪失、余震の不安、避難所のストレスに起因するさまざまな症状を訴えられており、恥ずかしながらそれらの症状に対応することがほとんどできませんでした。

 

この日の夜、地元のレストランの方から夕食を食べに来ないかと言うお誘いを受け、プロジェクトメンバーと一緒に夕食を食べに行きました。
このような状況を見たあとで食事を食べていいものか少し迷ったのですが「これも復興支援の一つですよ」と言う言葉に救われました。
災プロに参加した鍼灸・マッサージ師のみなさんは全国からボランティアに駆け付けた方で、中にはカナダで開業している先生もいらっしゃいました。

 

2日目。
この日は私は他の二人の先生と共に、名取市役所と名取市消防署に出張。
名取市の閖上地区や仙台空港は津波による甚大な被害を受けた地域です。

岩沼から名取へ移動する時に少し沿岸部を走りました。

 

 

 

 

午前中は消防本部で、武道場のようなところで施術を行いました。
消防士さんたちの主訴は足の捻挫や脚の痛み、腰痛でした。
がれきの中を不明者を探し歩き続け、がれきをどけて、また歩きの繰り返しだったそうで釘や鉄骨で足を負傷する隊員の方も多かったそうです。
同僚を亡くした方、家族が見つかっていない方もいらっしゃいました。
被災者同士はお互い何かしら失ったものがあり、なかなかそのつらさを話せないともおっしゃっていました。

 

午後から夕方にかけては名取市役所へ。
市役所の方は震災の日からほぼ休みが無く心身ともに疲労が溜まりきっているということでしたが、私たちが到着してからも職員の方はほとんど施術にはいらっしゃませんでした。

 


消防の方、職員の方の中には家族を亡くしそれでもなお働いている方がおり、本当に言葉にならない思いで施術をしました。

 

名取市役所を出るとき、1階のロビーには安否不明の家族を探す人たちの貼り紙が数多く張られており、テレビでは報道されなかった被災地の現実を見て泣きながら帰途につきました。

 

3日目は総合体育館での施術でした。
たった3日間でしたがボランティアの先生は毎日入れ替わり「2日いればもう先輩」と言う状況の中、後任の先生に施術室の状況とカルテなどで説明をし自分も施術を行いと忙しく動き回り、あっという間に最終日が終わりました。
私は後片付けをし、後任の先生方に挨拶をし岩沼駅まで歩き、20時の新幹線で東京へ帰りました。

帰ってきて思ったのは、何の役にも立てなかったと言うことでした。
5年の経験があり少しは腕を上げただろうと思っていましたが、とんでもない。

不眠、不安、痛み、しびれ、疲れ、吐き気、めまい、苦しさ…
少なからずPTSDに近い症状を発症している方に自分は肩こりと腰痛の鍼しかできず、あまりにも情けなく、申し訳なく、不甲斐なく何のために鍼灸を学んだのだと猛省しました。

それから2年ほどした時のことです。
義理の弟の奥さんから「私の叔母が中国鍼灸のすごい技術を持っている人なんだけど、興味ある?」と聞かれ、鍼灸技術レベルを上げたかった私はすぐに紹介してもらい、先生から中医学を教わることになりました。

中医学の理論は私には難しく、何度書籍を読み返しても理解できず中医学基礎を修了するまでは2年以上かかったと思います。
また李家伝統鍼灸は捻転操作が特殊で、マスターするまでにはかなりの時間がかかりました。

李家伝統鍼灸の真骨頂は「少にして精」と「鍼薬同効」にあります。
鍼薬同効と言うのは鍼でも漢方薬と同等の効果を出せると言う意味です。


この時、私は避難所での施術を思い出しました。
震災から2カ月経ったとはいえ、自宅も診療所もすべて流されてしまったり破壊された地域の人たちには未だ医療が十分に行きわたっておらず、不眠や不安、痛みに対する薬もカウンセラーなどのフォローも不足していました。
あの時、もし自分が李式鍼灸と中医学をマスターしていればもっと違う施術ができて、もっと多くの人たちを治療できたのではないか。
これからまた同じような大災害が来て数週間の間医薬品が届かないような状況になったとしても、その技術があれば鍼で症状の進行を食い止めたり緩和できるのではないかと考えたのです。


実際、東日本大震災では広範囲に渡る地震被害や津波被害で1週間以上孤立した病院、集落、学校、福祉施設が数多くあり、医療、救助、支援が行き届かず失われた命も多かったそうです。
現代の日本で1週間以上医薬品や支援が届かなくなる状況など想像できませんが、実際にそれが起こってしまいました。

医療支援が途絶えた時、鍼が医療の代わりとなるかもしれない。

それから私は中医学と李式伝統鍼灸でさまざまな症状への治療を学び、今では自律神経全般の症状と多くの整形外科疾患、薬が必要とする症状や服薬でも効果が表れにくい症状、醒脳開竅法と言う脳血管障害後遺症に対する治療も鍼灸で対応できるようになりました。

災害が来たときは本当の意味での代替医療として。
平時はその技術と知識を活かす場として緩和ケアを始めました。

疼痛管理が難しい疾患やこれ以上服薬量を増やせない状況でペインコントロールの手段として、緩和ケア鍼灸が役立つと考えています。
薬が使えない場面と言うのは災害時でも平時でも起こり得ます。
その時にもう一つの選択肢として鍼灸があるということを広く知ってもらいたいし、患者さんの訴えを聞いた時に打つ手が無く天を仰ぐようなことはもうしたくありません。

 

私が鍼灸師になったきっかけに感動的な動機はありませんし、震災で直接被災した訳でもありません。
しかし震災ボランティアの経験は、その後の鍼灸師としての方向を決定付けたできごとでした。

これからも多くの疾患や症状に対応できるように研鑽を重ねていくので、どうぞよろしくお願いいたします。

2025年03月13日