シャットは、学校の塀から落ちた時の記憶をたぐり寄せている。怪我はその場で癒えた。しかし今にして思う のは、回復代は誰が支払ったのかということだ。思いはしたが考えたいことではなかった。 「ひゃ〜〜っ気持ちいい!」目の前の軍人見習いの少女がフィンガーボウルを楽しく使っていた。 ノーラは椀から両手を引き上げ満足げに眺める。その笑顔と同様に手指も屈託のない赤子のようになって いるのだろう。 「ほら使え」少女がシャットに椀を差し出す。器に満たされた液体が酒場の中で暗く揺れた。 「きったねえなあ」少年が率直な感想を漏らすとノーラはただちにへそを曲げる。 「しっかりした《ポーション》だぞ。かさぶただって綺麗になら!」 シャットは閉口させられた。「うっ、余計なこと言うんじゃねぇよ。……ちぇっ、恩着せがましく使わせて、またあ とで何かしろって言うつもりなら『シャットさん、どうぞ足からおゆすぎください』だろ」 「いいから足に使えって言ってんの。あたいは両手に大怪我で、お前は裸足で歩いてここまですりむいてきた。 使う順序はこれで正解って言ってんだ」 ノーラは椀を床に置いた。「ほら! 中身は見んな、薄暗いんだからな!」 シャットは不承不承フィンガーボウルに両足を漬けた。「……。……」 「へっ! 気持ち良さそうな顔がよく見えら!」ノーラはまた笑顔に戻った。 「さあ〜〜お手々も洗ったことだし、お食事いたしましょうかあ!」ノーラは店主ティアラの運んでくる第二の皿 を迎えた。 「んん? お皿が一つ」ノーラは何度も料理皿を眺め渡した。「というより、すげえ山盛り」シャットは見上げ た。 「こ、こんなに頼んでないよ」ノーラはパスタの山から顔をどかしてティアラに問う。 「あら、皿をまとめてごまかしたんだけどばれちゃったかい。あたしのおごりさ」 「にゃんだよお。そうか、あたいにまた恩を売ろうってんだな」 「長旅してきてお蕎麦だけじゃお腹すいちまうだろ。疲れた時は腹一杯食べて寝るのが一番さ」 「太っちゃうよ」ノーラは酒場の主人のお腹を眺めた。 「ずるいなあ、持ってきたものを食べちゃだめだなんて言えっこない」ノーラとシャットは山になっているパスタに視 線を吸い寄せられてたまらないようだ。トング麦から作られて美しい色に茹で上がった麺、その上には様々な 魚介と肉がぶつ切りに添えられ、食欲をそそる色と香りの掛け汁がたぽたぽ大量にまぶされている。 「我慢できない、食べよう食べよう!」ノーラはフォークを手に取り山を突き崩しにかかった。シャットもまた矢も 楯もたまらなかった。 二人は麺を熱い油と一緒に喉へ流し込み、ときどき探り当てる具材に舌鼓を打った。島の貴重な真水は コップから二人の若きシャーズの喉を潤し胃へ落ちていった。 シャットは手を止めるほかなくなった。膨らんで苦しい自分の腹に命じられたのだ。少年は眼を閉じきつい幸 福感をなんとか御しようとした。 「あたいがご飯を残すとは、不覚! 余した分は包んでくれていい?」ノーラがティアラに訊いている。 「いいけど、悪くならないかい」「ちょっと足しになるだけで助かるんだ」シャットの猫の耳にそんな会話が入ってく る。 「あんがとさんっ」ノーラが蕎麦の包みを受け取ったようだ。 「さて、商談を始めようかな! へへ、おばちゃん、驚いてるなよ、恩は素早く返しとかないとね!」思わずシャ ットも眼を開ける。 |
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