「多段蹴りだよ、多段蹴り。シーフの端くれならあたいに教えてほしいくらいだぞ」シャーズの少女は笑う。その 顔は強い陽光を背負って陰り、舟底に手をつくシャットにはよく見えない。 「負けて残念だね」「なんだい、転ばれて負け惜しみを……にゃんで分かるんだよっ」シャットはノーラの伸ばす 手を取って起き上がる。舟の揺れへの意識が強まっている。自分の体重で小舟が上下左右する感覚に少 年は肝を冷やした。そこへノーラがどっかと腰を下ろしたのでもう一回ぞっとさせられた。 自分の右手に気づいてみれば、紅茶椀を取り落としていなかったのでシャットは杯を空ける。 「は……はは、姉ちゃんならドワーフに勝ったって最初からはっきりいばりそうなもんだからな」 「相撲して負けたくらいのもんだよ。試合をやったんだ。ああ、負け惜しみさ!」 「どうして姉ちゃんはドワーフなんかに試合という喧嘩をふっかけたんだい?」 「本当にお前はさっきから無礼だな!」(ちっこいのに頭が働きやがって)貴族の少女ノーラはさっきから自分の 舟に水着で居座っているシーフの優等生に猫舌を巻く思いでいる。 「そりゃあ、悪いことの手伝いをしてたからさ」「ドワーフの悪いこと、って盗掘かい?」 「いや、罪に問えることじゃなくってさ。悪い金持ちの家を建ててやってたんだ」ノーラは釣られたみたいに言葉を 引き出された。ドワーフの頭領のミクに諭されたつもりでいたが、やはり納得できない話と思い直している。 「ゴブリンをいじめて仕返しに家を燃やされた金持ちだよ、恥ずかしいだろ? 貴族の風上にも置けないね」 「可哀想じゃねえか。ゴブリンを掃討してくれるならいい貴族さまだよ」 「にゃんだと!? 弱いもんいじめだぞ!」 「こないだのさ、戒厳令以来、集団登下校させられてるんだ。シャーズらしくねえだろ?」シャットは舟底に紅 茶椀を置いて、少年の黒い尾が不機嫌に振れているのはノーラにも見えた。 「なぜかって、ゴブリンの奴らが路地裏でかつあげするからさ。オレは弱いもんじゃないけど」 「いや、そんな柄の悪いやつらじゃなくってさ……。主人が召使いをいじめるんだぞ。こんなの逆らえない、あっ ちゃあならない、これこそ可哀想なことだ」 「はぁん……? 確かにそれこそひでぇや。いじめられたからって火をつけていいのかよ。ゴブリンなんてどこにい ようがモンスターすれすれだってのがよく分かったぜ」 ノーラの尻尾もまたぱたぱた振れ始めた。「こんのやろ……」 「そうだ、仕事がないってんならモンスター退治でもしてろってんだ。モンスター同士食ってりゃあ腹もふくれるだ ろうぜ」 「ふーっ!!」ノーラは食いしばった歯から唸り声を出す。シャットが彼女の剣幕に目を見開く。「いや、いや、 ちっこいゴブリンにそんな仕事は無理なんだ……」ノーラは努力して声を低めた。 「ね、姉ちゃんはどうしてそんなに奴らをかばうんだよ」 「う、うちの召使いにそんな不埒者はいないんだよ。あたいが保証するから、決めつけるんじゃない」 「ああ……姉ちゃんやっぱり貴族か。幸せそうだな。みんないい顔をしてくれるし、戒厳令のときだって強い兵 隊が詰めてくれて、怖い思いせずにすんだんだろうな。戒厳令は貴族が決めたことだもんな」 「ちやほやされてんなよって……言ってんのか」「そーだよ!!」 「どうせドワーフに向かっても幅を利かせてたんだろ。勝手なことやってのうのうと生きてる姉ちゃんの親の顔も 見てみてえや。どうせ新聞に載るようなカスズのお偉いさんでつまらなそうだけどな!」 ノーラの舟は主人と客を黙りこくったまま運んでゆく。ゴブリンもドワーフも、シャーズの貴賤も存在しない海 を往く。 「弱い者いじめするなって? ゴブリン全部に命令してくれ。いじめられてもおとなしく生きてる低学年や市場 のみんなは一体なんなんだよ。平民は姉ちゃんのうそっぱちみたいな召使い以下なのかよ?」 「ちょっと待ってな」ノーラは立ち上がってシャットに背を向けるのだった。 「えぇ? お、親御さん乗ってたのかい?」シャットは思わず小さな舟底を確かめた。貴族の少女は舟の後方 に荷を取りに行くようだった。 「あ、お茶かい」船上が静まり返ることを恐れるかのようにシャットは言葉を紡ぎ続けた。しかし紅茶椀は舟底 に取り残されている。 |
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