ノーラは静かに仰向けになり、隠れたまま舟を走らせることにした。 しかしそれが生涯に渡る悔いを生んだ。 順風が我が舟と我が身を後押ししていると、ノーラにはすることがなくて、海神メーラに感謝を捧げながら量 の多い金髪を片手で漉き続けた。 晴れ渡る天空にも見るべきものはなくて、細くなった猫の瞳はそびえる帆に自然と吸い寄せられた。 (ほんの少し元気がなくなってら)少女の瞳はかすかな変化を捉えた。風向きが予測の範疇だが変わってい て、最大速力を維持したければ帆の調整が必要だった。 「大して変わらにゃいよ」ノーラは、帆に正しく風を食べさせるために立ち上がろうとはしなかった。 舟の速力が鈍ったことで、かき分ける水音はかすかに静まりシャーズの耳は後方に何かを捉えた。(波じゃ ない、水を叩く音だ) さすがに上体を起こして洋上に目を凝らせば、はるか彼方だがきらめく波間に見え隠れするものがある。 ノーラは感嘆の声をもらしてから忌々しく思った。(あたいの舟を目標にしてやがんな)先程の水練の子だっ た。 舟の前方を確かめる。やはりそちらには変わったものは眼に入ってこない。進んでいてもまるで変化がないか のように錯覚する絶海の只中。後方の子も同じように感じて自分の舟に吸い寄せられるみたいになっている のだとノーラは判じた。 (速力は鈍ってる。けど舟についてくるなんてとんでもないやつ) 「陸にかえれなくなっても知らないぞ」ノーラが立ち上がって帆を正しく調整したのは、意地悪と親切心を同時 に起こしたからである。 「ふう!」舟の挙動に手ごたえを感じたのでノーラは帆を固定した。後ろの子に別れを告げてやろうかと余裕 綽々になって振り返れば、視界の横から不意につっと入ってくるものがあった。再び波間に消えていったが確か に目に映った。 「人食い鮫!!」船乗りにとって最も不吉な海のモンスターが、その見まがうことのない背びれを洋上に現し ていたのだ。その特徴的なひれの指し示す方向は明らかである。 ノーラは子供を助けるための方策を直ちに考えた。海のモンスターと戦う装備は搭載していたが、手持ちの 銛である。 (しかし近い。馬鹿め!)いま人食い鮫はノーラと泳ぐ子の間に位置していて、ノーラの舟のほうが近かった。 「ちっ、いっちょ前に姿現しやがって」子供に襲いかかろうと気がいっぱいなら、あたいが襲ってやる。簡単だ、と ノーラは思った。 しかし唐突に人食い鮫があらぬ方向へ遠ざかっていくではないか。 「ちょ、ちょ! どこ連れてくんだよ!! ……当然か!」ノーラは自分の足場を叱ってから、今まで舟を動か していた風向きに思い至った。 「回頭回頭、緊急回頭!」届かぬ銛を一旦あきらめて帆に駆け寄る。(まさかあたいの針路が変わったのが 分かったから浮かび上がってきたのか?) 「ちくしょ〜〜目の前でやられてたまっか!!」縄を引き絞って帆を操り、舟を転回させながらノーラは左手を 伸ばした。こういう時のために、警鐘は近くに配置してある。 絶海に金属音は鳴り響く。《カ・イ・ヒ・セ・ヨ》 「なんで聞かにゃいんだよ!!」泳ぐ子供の針路は変わらず、こちらを目指している。そして鮫はその子を目が けて海中を走る。 (もしかしてこいつが……舟幽霊……?)脳裏に不吉な予言が蘇る。 |
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