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“未出版”作品
 


 9    20100621■短編『幸福の黄色いハンカチを、…1』
更新日時:
2010.06.25 Fri.
習作短篇
(書き下ろし)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これは、今から近いとも遠いとも言えない、ある時代の、ある場所で起こった不思議な出来事……
 
 
幸福の黄色いハンカチを、
結んだ彼女の物語。 (1)
 
 
 
その立派な樹は、大空にそびえ立つ入道雲がふくらはぎから下を地上に置き忘れていったかのように、町外れの丘のふもとに、こんもりとしたシルエットを浮き立たせていた。太い幹にささえられたダークグリーンの梢の高さを建物と比べるなら六、七階くらいになるだろうか。ほかに背の高さを競う樹木も建物もなかったので、この大樹はひとりぼっちだったけれど、そのかわり枝ぶりがあまりにも豊かで、みずみずしい葉が絶えることなく、夏には涼しい木陰を旅人に差し延べ、冬には暖かい寝床を鳥たちに貸してやり、ささやかな感謝を受けるのだった。
晴れた午後、太陽が西に傾きはじめると、この大樹の涼やかな葉影が、すぐ目の前の街道まで延びて、長距離バスの停留所の標識を包み込む。北の大都市から南の半島まで、長く長く続くバスルートの途中のどこかに、この小さな町がある。周囲は綿の畑か牧草地か、それともただの雑草の野原。箒で掃き溜めた塵のように集まる家屋は平屋ばかりで、その壁は黄ばんだ白か灰色、窓を飾るカーテンもみな陽に焼けて黄色に変わっていた。色彩に乏しいだけでなく、人々の暮らし振りもどことなく乏しい、そんな田舎町の家並みが途切れるところに、この大樹は一里塚のようにすっくと生えていた。
大樹の根元には、放射状に広がった根の間をほどよく毛羽立った下草が埋めて、そこはバス停を利用する人たちにとって心地よい待合室にもなっていた。丸太のように太くすべすべした根は小ぶりなベンチになり、やわらかな下草は、靴を脱いで足で踏むとちょっと贅沢な絨毯の感触だったし、ときには根を枕にして寝転んでしまい、そのまま居眠りしてバスを乗りすごしてしまう人もいた。
そして今、この場所、見上げても樹冠がわからないほど大きな緑の屋根の下で、一人の婦人が佇んでいた。
歳は二十代後半か、それとも三十代だろうか。黒い髪に浅黒い肌が、白いブラウスとインディゴブルーの大きなスカートに映えている。目鼻立ちはくっきりとして、とびきりの美人というほどではないにしても、チャンスがあれば声をかけて立ち話でもしたくなるような、品の良さを兼ね備えていた。その表情に憂いと期待が入り交じり、どこか思い詰めた悲壮感に沈んでいなければ、ちょっと見には五歳ばかり若返って、新婚の奥様といった風情にも見えたことだろう。
彼女は待っていた。
バスではない。バスがやってきて、過ぎ去り、乗り降りする人や見送る人がいなくなる時間を、彼女は目立たないように待っていたのだった。
銀のメタリックボディに春の西日を受けて、ぎらぎらと輝く巨大な芋虫にも似た長距離バスが、丘を回り、街道を走ってきた。エンジンの轟音が近づき、ウインカーを瞬かせて停車する。降りる客はおらず、バス停の標識の前にいた二人の青年が乗車した。二人とも野球帽を頭に載せ、これからちょっとした長旅に出るらしく膨らんだボストンバッグを抱えている。バスの運転士は開いたドア越しに木陰の彼女を一瞥して、乗る意志がないことを確かめるとドアを閉じた。
排気ガスと埃を巻いてバスが去るのを見送ると、彼女は木陰から進み出た。
「マルティアーナ、何してるの。誰かを待っているの?」
突然に背後から声をかけられ、マルティアーナと呼ばれた彼女はびくっと背を縮めると、振り向いた。
声をかけたのは、町でただひとつのドライブインで一緒に働いている若い娘だった。客の注文を取って料理を運ぶウェイトレス。自転車にまたがったままで、帰宅する途中のようだ。マルティアーナはいつも厨房の中にいて、ハンバーグを焼いたり皿を洗う係なので、あまり喋ったことはない。ロッカールームで、ちょっと雑談する程度の間柄だ。
「ええ、その」とマルティアーナは口篭もった。「なんでもないのよ、ちょっと、その、夕涼み」
どぎまぎして、かえってこの娘の関心を惹いてしまったようだ。
「そうかなあ。どうみても待ち人だよ。彼氏、それとも旦那さん?」
マルティアーナは内心の動揺を振り払うように首を振った。
「なにもないの。ふと、立ち止まって、ぼんやりと、一休みしてただけ」
ウェイトレスの娘は、マルティアーナの不自然なよそよそしさに、かすかに怪訝な表情をしたが、深入りして訊ねようとはしなかった。
「ふうん。じゃあね、またあした」
自転車に乗ったウェイトレスが夕日に薄赤く染まった埃の中に消えてしまうと、マルティアーナは腰の後ろに回した手に握っていたものを、大きな樹の、道路に向いた一番低くて大きな枝へと差し上げた。
一枚の、黄色いハンカチだった。
つま先立ちになり、腕を一杯に伸ばして、枝の先に結びつける。
ひらひらと、ぬるやかな風にそれはなびいた。若葉の緑が、夕日の赤に滲んで混じりゆく視界の中で、ハンカチの黄色は、小さな灯火(ともしび)のように揺らいだ。
結び終えると、マルティアーナは人目を避けるように身をかがめて数歩離れ、夕日を照り返す道の彼方に目をやった。
バスがやってくる方向に。
見えるかしら、バスの窓から……。
それだけが心配だった。
道の果てと、翻る黄色いハンカチをかわるがわる見て、たぶん、だいじょうぶよ、と自分に言い聞かせると、彼女はそっと大樹に背を向け、お腹を空かせた子供たちが待つ家へと歩いていった。
 
   *
 
翌日の朝、ドライブインへ働きに行く途中で、マルティアーナはバス停の横の大樹に立ち寄った。ハンカチは昨日のまま変わらず、ひらひらとなびいていた。
それを一瞥して、なぜか不安になった。
あまりにも大きな樹の、山のように豊かな緑の中で、一枚きりの黄色いハンカチはとても小さい、ぽつんと浮かぶ点でしかなく、消えてしまいそうなほど頼り無げに見えた。
銀色の芋虫のようなバスが走ってきて、スピードを緩めることなくバス停を通り過ぎていったとき、マルティアーナは悟った。
これでは、バスの窓から見えるのは、ほんの一瞬もない。ええ、これではきっと、あの人は見落としてしまうに違いない……
仕事の帰り、彼女は町に一軒だけのドラッグストアに寄り道した。財布の中の少ない現金から、思い切って1ダースもの黄色いハンカチを買った。そしてバス停の大きな樹の下に立った。
葉陰に隠れるようにしてバスを一台、続いてやってきたステーションワゴンとピックアップ・トラックをやり過ごすと、道に面した枝に、ハンカチを結び付けていった。一枚、二枚……
十二枚を結び終えた。ちらちらと振り向いて、誰にも見られていないことを確かめると、マルティアーナはそっと身をかがめるようにして、夕映えの道を帰っていった。
 
   *
 
でも、翌日また、マルティアーナは不安になった。
数の増えたハンカチは、少しばかり自分自身を主張していた。バス停から道を渡って、注意して見ると、黄色のたなびきが翼を休める鳥の家族のようにも見えた。
でも、その枚数を数えてみると、十三枚。
わけもなく、不吉な予感がした。
見落とすかもしれない。バスが通りすぎるのは、ほんの二、三秒のこと。たとえ窓際の座席に座って、目をこらしていたとしても、そのとき運悪く、誰かに声をかけられたり、それとも持病で咳き込んでいたりしたら……、それとも、うっかり居眠りでもして、はっと気がついて後ろを振り返っても、ハンカチは頭(こうべ)を垂れた緑の梢に隠されて、見えなくなっているかもしれない……。
彼女はまた、ドラッグストアに立ち寄って、さらに1ダースのハンカチを買った。単色の黄色いハンカチは棚からなくなってしまい、黄色っぽい柄物が半分ほど混じることになったけれど、十二枚を買ってしまった。
なんとなく、十二枚でなくてはいけないような気がした。教会の聖堂に祭られている、行ない正しき使徒は十二人だったから。
一度に十二枚を結べば、きっとあの人も、見てくれる。あの人は、教会では居眠りしたりせず、牧師様から目をそらさず、お説教を聞き漏らしたりしなかったから……
そんな思いをめぐらせながら、マルティアーナは西日に照らされて、バス停の大きな樹の下でハンカチを結びつけた。そしてバス停まで降りて、ハンカチが黄色い灯火のようにたなびいているのを確かめた。しかし、またも不安に襲われた。
道の向こうから、バスはあんなふうに走ってくる。あの低い丘を回って、小さく左右に揺れて。その窓から、このハンカチたちはどんなふうに見えるかしら……。
お願い神様、そのとき、しっかりと見えるようにしてください。
マルティアーナは願い、思わず両手の指を組んで短く祈った。それでも不安が消えることはなかった。
彼女は意を決して、今来た道を引き返し、ドラッグストアに舞い戻った。
しかし、もともとたいして数のなかった黄色いハンカチの在庫は尽きていたし、注文してもいつ入荷するかわからないということだった。
「そんなに黄色いハンカチがお好みなの? でも、黄色は人気がないものね」とドラッグストアのおかみさんは驚きをこめて首を傾げ、ほかの色のチェックや花柄を勧めたが、マルティアーナがどうしても黄色でなくてはと固執すると、しばらく考えて名案を出してくれた。
「黄色のカーテン生地が何ヤールだか、倉庫にあったと思うわ。それを切ってハンカチを作っては?」
マルティアーナはためらわず、一束購入した。普段からのつきあいが役立って、代金は月末払いにしてもらえた。これで難題は解決した。その夜、彼女は息せき切って鋏をふるい、ミシンを踏んで裾をまつり、やや大振りな黄色いハンカチを何枚も何枚も量産した。
夜の闇とともに、不安がなぜか何倍にもなって押し寄せてくるのがわかった。
彼が戻ってくるのはいつかしら……。彼からの手紙が着いてから、そのことばかりが気掛かりだった。幾度も幾度も、そのことを考えた。バスに乗れるようになる日のことを考えると、彼の到着は、たぶん明日以降になるだろう。
もしかして、明日の午前のバスに、彼が乗っていたならば、そして、もしも、樹に結びつけたハンカチの数が足りなくて、見過ごしてしまったとしたら……。
機会は一度だけ、そしてほんの一瞬。彼との初めてのキスの、あの切ない一瞬よりも、きっと短い時間しかない。
そう考えると、矢も楯もたまらなくなった。翌日の早朝、ろくに眠る間もなくマルティアーナは家を出て、バス停の大きな樹に、持ってきたハンカチを狂ったように急いで結びつけると、ハンカチの群れに手を合わせ、願を掛けたのだった。
神様、彼が気付いてくれますように、と。
 
   *
 
でも、その日の夕方……
仕事の帰り、やはりマルティアーナはその樹の下に立ち止まった。
いまやちょっとした大家族の洗濯物を干しているみたいで、かなり遠くからでも目につくようになった黄色いハンカチの枚数を数えてみる。66枚だった。これでは縁起が悪そうに思えた。そこで自分のポケットに残っていた67枚目のハンカチを結びつけたとき、誰かの声が投げ付けられた。
「あんたかね。この黄色いもんをいっぱいつけてくれたのは」
テンガロンハットを被り、日焼けした白髪まじりの男が、泥棒でも見るような疑わしい視線をこちらに向けて、歩み寄ってきた。
いったい何をするつもりだ……と、訊ねたその男は、この近くの牧場主だった。道向こうの綿畑は他人の土地だが、こっち側はわしの土地で、この樹もわしの土地に立っている。ほれ、その丘の上にわしの家がある。最近あんたがこの樹に黄色いもんを着けに来るのが見えておった、と地主の男は続け、マルティアーナにこう告げた。
「これはわしの樹だ。変なことはされたくない。悪魔払いだか何だか知らんが、邪教のしるしでもつけるつもりなら、よそでやってくれ」
「あの……」
マルティアーナは口篭もった。見られていたのだ。隠れてこっそりするつもりだったが、決まった時間に繰り返すと、いずれ誰かの目に止まってしまう。それも、なにかうしろめたい悪事でも企てているかのように、こそこそと黄色い布を結び付けては、時々手を合わせて拝んだのだ。疑い深い人間でなくても、ブードゥーだか何かの奇妙なまじないだと解釈してしまうだろう。
地主の男は無造作に黄色いハンカチの一枚を掴むと、引っ張った。数枚の葉がちぎれ、ハンカチはむしり取られた。それがマルティアーナに差し出される。
「ほれ、さっさとみんな外して持って帰ってくれ。あんたが魔女とまでは言わんが、わしの土地に悪霊なんか棲み憑いてくれては困るんだ。わかるだろ」
一言も答えられず、マルティアーナはうなだれた。どうにも抗いようもなく、こくんとうなずいてハンカチを受け取る。が、次の瞬間、涙があふれてきた。うつむいた頬を伝い、手にしたハンカチに雫が落ちた。
「おじさん」と、唐突に非難めいた声がからんできた。「マルティアーナに何をしたの。泣かせるなんて、ひどいじゃない」
ドライブインで一緒に働いている、ウェイトレスの娘だった。自転車をがたがたと押して街道から掛けあがってくる。
痴漢呼ばわりされることを恐れた地主の男はあわてて、奇妙な黄色いハンカチのことと、マルティアーナの奇行を、魔術めいた憶測を交えて話した。ほれ、昔のこと、セイレムって町で魔女騒ぎがあったじゃないか。あんなことはまっぴらでな……などと。
「あのね、おじさん。それは寝言もいいところよ。マルティアーナは魔女なんかじゃないわ。ドライブインで、誰よりも真面目に一生懸命、仕事している人なんだから」
ウェイトレスの娘は笑って否定すると、マルティアーナに尋ねた。……ねえ、あなたは、ちゃんとした理由もなく変なことする人には見えない。私には信じられないわ。だから堂々と言っておやんなさいよ。この黄色いハンカチは、何のためなのか……。
若い娘は無邪気に問い詰めた。
「ねえ、どうしてなの。教えてよ。これって何かの信号でしょ。誰かに頼まれたんじゃなくて? ほら、いつも待っている彼氏にとかさ。愛してます、っていうことじゃないの」
マルティアーナは心臓を針で刺されたように感じた。
理由は明かせなかった。言うべきかどうか迷ったが、唇は凍り付いて動かなかった。
なぜならば、いったん答えれば最後、バスの中からこのハンカチを見つけて、この町に降りる決心をするであろう人物について、詳しく説明しなくてはならなくなるからだ。
その人物は、親切なウェイトレスの娘や、世間体を気にかける地主の男にとって、ひょっとすると、魔女どころか、悪魔の親玉よりも忌み嫌われるかもしれない……。おそらく、たぶん、そうだろう。
だから、何も言えなかった。
 
    *
 
 
 
 
…next  (2)へ続く…
 

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