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“未出版”作品
 


 10    20100622■短編『幸福の黄色いハンカチを、…2』
更新日時:
2010.06.26 Sat.
習作短編
(書き下ろし)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これは、今から近いとも遠いとも言えない、ある時代の、ある場所で起こった不思議な出来事……
 
 
幸福の黄色いハンカチを、
結んだ彼女の物語。 (2)
 
 
 
 
マルティアーナは日曜の礼拝に初めて行きそびれた。地獄の劫火の縁に足をかけているような、陰鬱な気分が続き、満足に立って歩けないような感覚すらあった。神様の御手に守られた教会は、正しい人が信心するための場所だ。自分のような、他人に迷惑をかけて、そのことについて一言も弁明できない人間は、教会の敷居をまたぐ資格がない。そんな自責の念が、マルティアーナの心をむしばんでいた。
二室だけの小屋のような家で、子供たちに食事をつくり、食べさせ、昼すぎになって子供たちが近所の友達と一緒に遊びに行くと、彼女は一人寂しくテーブルに両手をついて頭を抱え、悩み苦しんで過ごした。
何度も思い返す。
地主の男は強制的にハンカチを全部むしり取ってしまいはしなかった。これが邪教のまじないだったら、そんなことをして真っ先に魔女に祟られるのは自分だからだ。
だから地主の男は、ハンカチを結ぶ理由を説明できないまま、ただ目からぼろぼろと涙をこぼして、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と頭を下げるだけのマルティアーナにあきれ果てて、こう言ったのだった。
「……やれやれ、今日はもう陽が暮れる。明日の日曜、よく考えて、月曜じゅうには何とかしてくれ。いいな。月曜の夕暮れまでだぞ。そうでなければ、保安官を呼んででも、全部取っ払ってしまうからな。わかったな」
 
   *
 
月曜の朝早く、マルティアーナは決心して、ハンカチを結んだ樹のもとへ行った。
垂れ下った黄色い布切れを掴み、そっとほどく。一枚、二枚と、ハンカチを外し、畳んでポケットへ入れる。
そうするしか、なかった。
結局、昨日の午後のバスでも、彼は帰ってきてくれなかった。
いいえ、そうではなくて、彼はすでに昨日のバスに乗っていて、なにか運のめぐりが悪くて、このハンカチを見過ごしてしまったのかもしれない。
……それとも、彼の気が変わって、このハンカチを見つけたのに、やはりバスを降りることなく、そのまま過ぎ去って、行ってしまったのかもしれない。
そうだとしたら、彼はもう帰ってこない。一生、永遠に、会うことはできない。
いつもと同じように雲ひとつなく晴れ渡り、清々しい朝の光を浴びながら、マルティアーナはどす黒い絶望の沼底をさまよっていた。
それでも、一縷の希望にすがりたくなる。
そう、今日これからやってくる午前のバスに、もしかすると彼が乗っているかもしれない……。それならば、なおさら、あたしがここで、最後の一枚を外してしまったら、それでおしまい。
十数枚目をほどいて外そうとしたとき、マルティアーナは動けなくなった。
祈りに似たつぶやきが漏れた。
「神さま、あたしはどうしたら……」
かさ、と草を踏む音がした。若い男の声が、歯切れよく朝の風とともに耳に届く。
「アートだ。見事じゃないですか、綺麗ですよ。これは最新流行の芸術だ。私はそう思うのですがね。奥さん」
聞き間違う声ではなかった。毎週、日曜の礼拝で聞く、説教の声。
「牧師さま……」
この町の牧師は、まだ神学校を出てまもない若い男だった。背筋がほっそりとして、見た感じは虫も殺せない品行方正な印象の好青年だが、兵役も経験して、二の腕に銃創のあとがあるという。しかしその記憶は、教会の説教はもとより、どこでも話題にしたことはなかった。
いつも静かに、おだやかに神の説話を語り、そして人々の悩みの相談や、罪の懺悔に耳を傾けているのだった。
とはいえ若さゆえリベラルな気風も持ち合わせているとみえて、ときおり説教で「神は物理的にはどこにもおられない、神様は皆さんの心の中にしか存在しない」と断言して、「では天国には誰がお住まいなのか。天国はからっぽの空部屋だと言うのかね。最近の牧師様は天国のことも知らんのか」と、頭の固い年寄りたちから失笑を買い、異端者呼ばわりされることも無くはなかったが……
牧師はにこにこと笑顔で、おはよう、と改めて挨拶すると、今しも一枚のハンカチを外そうとしていたマルティアーナの手に、自分の手を添えて、止めた。
「ハンカチは、まだ取らないでください」そのおだやかな声は、マルティアーナを励ます福音となった。「アートと考えれば、なかなかいいものですよ。ええと……なんだっけ、キュビズムなんだかダダイズム、それともシュルレアリスムなんとやら、こんな前衛芸術もあるそうです。そう、北の都会で見たことがある。最新のポップアートというやつだ」
牧師の思いを、マルティアーナは直感した。この黄色いハンカチ、それを結んで祈る彼女の奇妙なふるまいは、悪意の呪術などではなく、純真な芸術表現なのだと、そういうことになさってはいかがですか、という導きなのだ。
なぜ、この若い牧師が、バス停の樹の黄色いハンカチの噂を知っているのか、マルティアーナは不思議に思った。しかし、すぐに疑問は消えた。昨日は日曜だった。そして教会の日曜礼拝には、この小さな町の主だった大人たちはみんな集まる。賛美歌を歌い、説教も終わってから、牧師は教会の前庭で市民を見送りながら雑談するのが常だった。
そこで、相談したのだろう。地主の男が、マルティアーナの奇行と黄色いハンカチについて。そこにきっと、ドラッグストア経営の夫婦が加わって、そういえば彼女は黄色い布地をずいぶん買っていったわねと、噂話に加わった。そこへウェイトレスの娘や、あるいはドライブインのマスターも入って、マルティアーナの人柄を弁護してくれたかもしれない。そして極めつけは、マルティアーナがその場を欠席していたことだ。
「ともかく、ご本人がおられないのに、あれこれと語るのはここまでにしましょう」と、牧師は状況をとりまとめ、そして町の市民を代表して、牧師自身がマルティアーナに事の真相を確かめる役割を引き受けたに違いない。
そのことを不満に思う筋合いはなかった。なにぶん魔女の嫌疑がかけられているのだ。このような問題に対して真偽を確かめ、審判を下すのに、牧師よりも適任の人は、この町にはいなかった。
そして若い牧師は、最初から一方的な魔女狩りに加担しようとはしなかった。
まずは、黄色いハンカチを悪意のない“芸術”と解釈し、その上で、マルティアーナの反応を受けとめようとしてくれたのだった。
「あなたがこの作品をおつくりになった心を、どうか私に打ち明けてくださいませんか。お聞きするのは、神様と私だけ。ほかの人には誓って口外しませんから」
相手が悪かった、というべきかもしれない。教会の牧師様には、嘘をつくことはできなかった。もしも嘘をついて誤魔化したら……そんな邪(よこしま)な女には、神様が罰をお与えになるだろう。その罰とは……きっと、もう、彼とは会えなくされるに違いない。
「少しでも結構です。どんなことでも、お話になれば……なにか、お力になれることがあるかもしれません」
そう諭す牧師は優しかった。いい人なのだ、とマルティアーナは察した。
だから、告白するしかなかった。すべての事情を。
 
   *
 
その日の昼、いつもよりも熱心にマルティアーナは仕事をした。熱い鉄板の上でハンバーグを焼き、裏返して焦げ目をつけ、目玉焼きをつくり、野菜を切ってサラダをつくり、手を遊ばせる間もなく食器を洗った。
ドライブインのマスターは、うつむいて黙々と働く彼女の顔色をちらちらとうかがって、気分が良くないのではないかと心配してくれたが、マルティアーナは作り笑いでなんとか切り抜けた。
忙しい昼食どき、客の半分はトラック運送の通りすがり。半分は近くで働く町の人たちだ。マスターもカウンターで接客し、ドリンク類やアイスクリームを出し、知り合いと雑談もする。休憩を経てティータイムになったが、今日は客がいつもより多く、洗い物がずいぶんたまってしまった。マルティアーナは少し残業した。そして夕刻がせまったとき、マスターは帰り支度のマルティアーナを呼び止め、意外なものを手渡した。
「どうかな。できたらこれも、ついでに結んでくれないか」
黄色いハンカチだった。ときどきマスターが使っている、黄色いチェック模様のハンカチだったが、その生地の隅には、なぜか油性ペンで「ラヴ・アンド・ピース」と、そしてマスターのサインが入っていた。
「あの……」
「いいから、頼むよ」
いつのまに、マスターまで知っているのか。合点がいかぬまま、マルティアーナは黄色いハンカチを預かって、バス停の樹へ歩いていった。夕暮れの街道には、路肩に沿って木材の電柱が並び、電線の列が雲ひとつない夕焼け空にくっきりと平行線を引いていた。
バス停の樹には、牧師が言うところの“前衛芸術”である黄色いハンカチが、幽霊が手招きするように揺れ動いていた。そして樹の根元近くには、威圧的な大型車が停まっていた。ボディが夕日に赤く染まっていたので、近付いてようやく正体がわかった。保安官のパトカーだった。
サングラスで表情を隠した、いかつい体格の保安官が腕組みをして待ち構えていた。その腰に下がった拳銃のホルスターと手錠に、マルティアーナは身を固くした。というのは、樹にぶらさがった黄色いハンカチの陰から保安官に手を上げて、待ってましたとばかりに挨拶したのが、地主の男だったからだ。二人が並んでマルティアーナの方を向いたとき、彼女は覚悟した。とうとう逮捕されるのだと。
「あんたのことが、評判でね」と保安官が言った。地主の男が言葉を継いだ。
「聞くところでは、ずっと北の遠くで行方不明になっていた旦那が、ようやく便りをよこして、バスで、あんたのところへ帰ってくるんだってな」
マルティアーナはどきっとして、地主の男を見つめた。次に続く言葉を直感したからだ。……そんな下司野郎は未来永劫、この平和な町に降りてもらうわけにゃいかねえ。保安官に頼んで、追い返してもらうからな……と。
しかし反対に、地主の男は満面の笑みを返し、たなびく黄色のハンカチを指し示した。
「だから、このハンカチは、幸運にも生きて帰ってくる旦那への愛と幸せの挨拶ってことじゃないか。最近の流行で、こんな願掛けの方法もあるっていうしな。だから、もういいんだよ。気にするこたあない。どれ、わしも1枚結んで、ちっとばかし福にあやからせてもらうとしよう」
地主は目を丸くしたマルティアーナの前で、自分の黄色いハンカチを出して、木の枝に追加した。そして保安官も、事情は最初から承知していたとばかりに、普段から騎兵隊を気取って首に巻いていた黄色いスカーフを脱いで枝に結ぶと、励ますように言った。
「それじゃ奥さん、幸せな出会いを、な」
感激のあまり声を詰まらせて、ただ、ありがとうございますと何度も繰り返すマルティアーナに、疑って悪かったなと手を振って、地主の男と保安官は去った。マルティアーナはしばらく呆然として、大樹の下枝に黄色いひさしとなってたなびくハンカチを見上げ、立ちつくしていた。
すると、車のヘッドライトがまぶしく目を射た。バス停の近くにクラシックな乗用車が止まり、夫婦らしき人影が降りてきた。この町の人らしかったが、マルティアーナの知らない夫婦だった。しかし夫婦は彼女に会釈すると、新しい黄色いハンカチを出して、それぞれが枝に結びつけ、「幸せが帰ってきますように」とちいさな祈りの言葉を添えると、またマルティアーナに会釈して去ったのだった。
一時間ほどの間に、三々五々といった感じで、車で、自転車で、徒歩で、なにかのついでに、あるいはこれだけの目的で、知らない人たちが現われては、黄色いハンカチを結んでいった。
マルティアーナは少し離れて立ち、訪れる人々の挨拶に答えていたが、はっと思い出して、ドライブインのマスターから預かっていた黄色いハンカチを枝に結びつけた。
そのとき彼女は、今朝、この場所で牧師にすべてを告白した直後に、牧師がなんと言ったのか、その言葉を思い出したのだった。
牧師はこう言ったのだ。
「今お聞きしたあなたのお話は、私はだれにも伝えません。しかし、あなたがなさっていることは、決してこの町に不幸を呼び込むものではなく、むしろささやかな幸福のためなのだと、それだけは申し上げることをお許しいただきたいのです」
詳しい真実は語らない、けれど、マルティアーナに悪気がないことを牧師が保証しなければ、事情を知らない人々から、あらぬ疑いがかけられるだろう。牧師がそのことを心配してくれていることは、痛いほどわかった。だからマルティアーナは答えた。
「牧師さまの御心のままに」と。
まったく霊験あらたかというべきか、その効果は半日のうちに現われた。
この樹は、町の聖地になってしまったのだ。
最初は、たぶん牧師が、マルティアーナを魔女呼ばわりする地主の誤解を解くために、あたりさわりのない説明をして、地主や保安官やその他の関係者を納得させたのだろう。
しかしその詳細を直接に牧師に確かめることは、マルティアーナにはできなかった。
そしておそらく地主やウェイトレスの娘から始まって、知人から知人へと、この小さな町の人々の間に、幸福の黄色いハンカチの噂がささやかれ、太古からの伝説のように静かに、しかし急速に広がっていったのだった。
今日の一日、ドライブインの客が増えた理由も、後になってわかった。噂を聞いた人たちが我先にと訪れ、マスターにマルティアーナのことを尋ねたのだ。ついでに食事をし、コーヒーを飲むか、ビールを一杯やっていったという次第だろう。
“幸福の黄色いハンカチ”の噂話は、さまざまな尾鰭がついては消えたりして、いくつかのバリエーションが生まれていた。
まずは、地主の男が言ったように、マルティアーナの夫が何年も前に、遠い地へ旅に出掛けて、事故で入院したか記憶喪失といったトラブルに見舞われて、最近まで消息不明になっていたというケースだ。あるいは、浮気がばれて不仲になって逃亡したけれど、やはり愛に目覚めてよりを戻しに帰ってくるのだというものもあり、北の金鉱へ出稼ぎに行って、一山あてたらしいというものもあった。こういった微妙な解釈の相違は、善意の誤解に基づくと言うべきだろうか。
それぞれの見解はともあれ、もうすぐマルティアーナが愛してやまない夫がバスで帰ってくることがわかり、そしてマルティアーナは愛する夫の無事な帰宅を祈って、最初に彼がこの町へ降り立つ場所に、永遠の愛を誓うしるしをつけようとしたのだ……という点では一致していた。そのしるしがなぜ黄色いハンカチなのかは、それこそ今、世界一有名なロックアーティストが提唱している最新のラブメッセージなのだ、ということで、皆が納得してしまっていた。
ドライブインのマスターが、ジュークボックスの上にかかげてある、ロックの神様のレコードジャケットを指差し、訳知り顔で客にこう言ったのが、決定打だったらしい。
「見ろ、愛の潜水艦は黄色に決まっているのだ。ラヴ・アンド・ピース」
いずれにしても、マルティアーナには、現状を受け入れることしかできなかった。自分のことを同情してくれる人たちに対して、ただ「ありがとう」と感謝する以外のことは、何一つできようもなかった。せっかくの好意に異論を差し挟んで、また不信と不安を呼び寄せる愚行に陥るわけにはいかない。
しかしマルティアーナも、町の人たちも、あることを忘れていた。
日々の単調な生活の中で、純真な愛を込めたハンカチの伝承を受け入れて信じ、うっとりと祈る人もいる一方で、憎らしいとばかりに反感を持つ人間もいたことを。
 
   *
 
次の日、バス停の大樹を訪れたマルティアーナは、もう、自分が孤独ではないことをはっきりと悟った。
黄色いハンカチは増えていた。昨夜の倍近くに。その数も、それが覆う面積もみるみるうちに拡大していった。そしてなによりも、人がいた。入れ替わり立ち替わり、いつも十人ほどの人がいて、黄色いハンカチを結び、そしてマルティアーナのことと、その幸福にあやかりたい自分たちのことを語らっていた。
マルティアーナは何回も何回も、ありがとうと答え、昨日の喜びのかわりに少しずつわだかまってくる不安を圧し殺して歩いた。
ここまでしてもらって、彼が帰ってくれなかったら、どうしよう。
しかしそれよりも、町の人たちにいやな思いをされずに、彼を迎え入れられることがなによりの喜びだった。
マルティアーナは信じた。彼はきっと帰ってくる。こんなに祈っているのだから。町の人たちもみんなが願ってくれるのだから。今日はだめでも明日、たとえ遅くなっても、来週中には。
夕刻、午後のバスは誰も降ろすことなく走り去っていったけれど、バスを楽しみに待っていた人たちは、マルティアーナのそばへ寄って声をかけ、元気づけてくれた。
「明日はきっと。そう信じるのよ。朝が来るのが楽しみ、わくわくするわ」と、ウェイトレスの娘が明るい顔で言った。
しかしそのとき、マルティアーナは、街道にけたたましい排気音を轟かせて飛ばす、数台の改造車を目にした。この町の若者が何人か、やることもなく暇にあかせて、そのような車を乗り回しているらしかった。黄色いハンカチの下に集う人たちは、しばし不快をあらわにしたが、すぐにそのような雑音は無視して、明日の幸せを願う言葉を交わした。
マルティアーナは無言の善意に包まれていた。幸せはもう、そこまでやってきているように見えた。そう、手を伸ばせば届くところに。
ハンカチは二百枚、いや三百枚はあるだろうか。深緑に萌え立つ大樹の梢の下半分は、そこだけ季節外れの紅葉が訪れたかのように、山吹色のさざなみに覆われて、風とともにさわさわと揺れ動く、巨大な黄色いパラソルと化していた。
「もうここまできたら、見落とすやつなんていやしないさ。わがドライブインのネオンサインよりも目立ってる。安心しな。準備完了さね」
ドライブインのオーナー氏がそう請け合い、地主の男やドラッグストアの夫婦が楽しそうにうなずいたその夜、突然に幸福の伝説は終りを告げた。
 
   *
 
「マルティアーナ! マルティアーナ!」
寝入りばなを起こされた。玄関の薄いドアをどんどんと叩く音、ウェイトレスの娘の悲痛な呼び声、そして夜のしじまを破って聞こえてくる、消防車の鐘の音。
「燃えてるわ、ハンカチが燃やされてる!」
ネグリジェに着古したローブを羽織って飛び出す。バス停の上の夜空が、赤々と染まり、そして炎の先端が、無慈悲な毒蛇の舌のように、あの大きな樹を這い登っていくのが見えた。よく晴れた空、星々の輝きを目指して、ぼっと燃えあがった大樹は、そのまま、そびえ立つ地獄の劫火だった。
現場に辿りついたとき、すべてが手遅れであることがわかった。
消防車は二台、ポンプ車にハシゴ車が並んで、放水していた。火勢はすぐに衰えたけれど、消防車の照明灯に浮かび上がった樹のありさまは、惨めなものだった。何者かに火を着けられたハンカチは格好の焚き付けとなって灰と散り、運良く燃え残った数枚だけがぐしょぬれのボロ布となって足下の水たまりに落ちていた。樹の下半分は葉が燃え落ちて、焼死体さながらだった。黒焦げの枝が、墓場から出てきた骸骨のように揺れ、火を消すために放たれた水に煤を混ぜて、どす黒い血のようにぽたぽたとしたたらせていた。
町の人々が続々と集まってきた。
だれもが呆然としてわが目を疑い、あちらこちらから女性のすすり泣きが聞こえた。
サイレンを鳴らしてパトカーが着き、保安官が飛び出した。しかしもう、目の前の惨状にうなり声を上げることしかできなかった。
「なんてこった……」
「ここしばらく晴天が続いて、乾燥しきっていた上に、ハンカチに燃えやすい化繊も混じっていたようですな」と消防士の隊長が分析した。「幸い、樹の上半分は緑の枝がかなり残っている。樹の全体が枯れるほどではないと思いますよ。といっても、植木屋に診てもらったほうがいいだろうが」
「そうするよ」と樹の持ち主である地主の男が、力なく答えた。燃えあがるハンカチを見て、最初に消防へ通報したのも地主の男だった。「ひいじいさんの代から長生きしてきた樹だ。こんなことで臨終にさせたくない」
保安官が地主の隣に立って、小声で耳打ちした。
「火を着けたやつのめぼしはついている。暴走のチンピラどもだ。名前もわかる。あんた以外の目撃証言も取った。あんたが被害届を出して訴えるなら、すぐにでもしょっ引いてやるが……」
地主の男は沈痛な表情のまま、しばし黙った。よろよろと走ってきたマルティアーナが、力尽きて樹の根元に倒れたからだ。すぐ後を追ってきたウェイトレスの娘が抱き、支えてやる。慰めの言葉もなかった。幸福の黄色いハンカチ……あれほど多くの人に親しまれたハンカチの木は、この瞬間、不幸な火事場でしかなくなってしまったのだ。
「犯人を捕まえても、なにひとつ救いにならん……」
地主の男はつぶやき、煤けた幹にしがみついて泣くマルティアーナに、何を言ってやればいいのか迷った。しかし次の瞬間、錯乱したかのように髪を逆立てた彼女は、誰にともなく、心の底から声を絞り出していた。いや、むしろ、どうしようもなくほとばしる不吉な思いを、ただ止めようが無かったのかもしれない。
「これは天罰だわ。神様が、いけない私を罰したのよ……。ああ、みんな、みんな、私が悪いのだわ……私が黙っていたから、本当のことを言わなかったから、神様が怒ってしまわれたのよ……」
マルティアーナは、介抱してくれる娘の手を振りほどくと、樹の周りに集まっている人々に顔を向けた。悲嘆と自責に歪んだ顔は、妖鬼のそれだった。涙が喉につかえ、痰がからまり、呪われたしわがれ声が、それに続いた。その言葉は、町の人たちを心底恐れさせる、魔女の告白だった。
「あたしのあのひとは、行方不明なんかじゃない。ずうっと、刑務所にいたの……とても、とても悪いことをして……そうよ、人殺しなの。判事様は、そうおっしゃった。あのひとは、殺人鬼なのよ! 黄色いハンカチは、あたしが彼を赦すしるし。ここに降りてよと、彼を呼ぶしるし。どんなに酷い悪人だとしても、一緒に地獄へ落ちたって、あたしは彼を赦すのだから……だけど、だけど……神様は彼をお赦しにならなかった!」
牧師が駆けつけてきた。パジャマ姿のまま、足にはバスケットシューズで。牧師はマルティアーナの絶叫を止めようとしたが、間に合わなかった。
「神様はお赦しにならなかった!」
マルティアーナの叫びが、悪魔の鉄槌のように牧師を打ちのめした。
狂ったように泣きじゃくるマルティアーナにおののいて、ウェイトレスの娘は身体を離した。暖かい春風に包まれながら、人々の心には極寒の雪つぶてが吹き荒れた。世界中の善意が虚しくなり、一人の魔女にたぶらかされていた自分たちの愚かさを認めるしかなくなったのだ。
「これで、終りということだな……」と保安官は腕組みをして言った。涙も尽き果てて、ただ「あたしがいけないんだ、あたしが……」と嗚咽を漏らすだけのマルティアーナに、これ以上の責め苦となる言葉を投げ付けるのは控えたが、保安官の胸の内は、だれもが察することができた。
前科者を、この平和な町は歓迎しない。しかも重罪の前科者を、と。
おおむね、みんなの思いも同じだった。
たとえ模範囚で、早めに仮釈放されたとしても、犯した罪は消えるものか……
若い牧師は獣のように険しく眼を光らせて、身構えた姿勢で止まっていた。ここは戦場だ、と牧師の動物的な本能がささやいていた。あのときと似ている。燃えた樹、悲鳴、泣き叫ぶ声、むせかえる煙、吐き気のする臭気、血の水溜り。そこは焼き討ちに遭った村。遠くにこだまする銃声、さまよう自分。ああ、地に満てる死神の影よ……
「神様はどこかへ消えちまった。祭りは終わった。さあみんな、家に帰って、眠って、いつものように朝を迎えるんだ。マルティアーナも、そうするがいい」
冷ややかに、しかし火傷のように熱いやるせなさを込めて、ドライブインのマスターが牧師に代わり、人々の思いを口にした。
「なるほど、そういうことですか」と消防の隊長が皮肉めいて請け合った。「火は消しましたよ、もう安全だ。どなたも、もう、安らかにお休みいただける。それを望むならば、だが」
 
   *
 
 
 
 
…next  (3)へ続く…
 
 
 

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