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“未出版”作品
 


 3    19900219■短編『楽日(らくび)』(同人誌)
更新日時:
2006.02.13 Mon.
900219
※これは同人誌に掲載した、1990年の作品です。読みにくさ等はご容赦下さい。
 
短篇小説   
 
 
楽日(らくび)
 
 
                    
 幕が降り始め、劇が終わったことを確認して、観客はようやく拍手を送る気になったようだ。風の凪いだ夜の海でゆっくりと浜に打ち寄せる波の音のような、静かな拍手だった。この劇場の常客はいつもそうだ。劇の途中で手を叩いたり、かけ声を飛ばす者は滅多にいない。
今夜は、僕もそんな観客の一人だった。適当に手を打ち合わせて、早々に席を立った。それほど有名ではない、ありふれた劇団が、ごくありふれた出しものをやった、それだけの印象しか残っていない。シェイクスピアの喜劇を下敷きにした脚本、ミュージカル仕立ての演出、観客を笑わせようとおどけた動作をつくる役者たち。何もかも一生懸命に演じているのだが、その正直さが僕をしらけさせた。
 通路は狭く、出口へ流れる観客が詰まっている。僕はあせりを感じた。早く帰っても楽しいことはひとつもないのだが、戻らなくてはならない。一年前に転職した勤め先は倒産寸前だったし、新築のマイホームもローンを払い切れなくなって、今月中に明け渡さなくてはならない。月に一回、この劇場に来て演劇を楽しむ習慣は今夜で終わりだ。明日からは観劇どころじゃない。  
 重いドアを押してロビーに出ると、突然、景気のいいバグパイプの曲が聞こえた。出口へと流れる観客の前に、役者たちが並んでいる。ついさっきまで中世の英国の「侯爵様」だった役者が、そのままの衣装で、数人の兵士を従えてフロアの中央に進んできた。ロビン・フッドのように軽快な足取りで、兵士がかなでるバグパイプに合わせて、この世にこれ以上楽しいことはないというステップで踊り、肩を組んで合唱した。観客は驚いて振り返り、たちまちロビーは村祭りの雰囲気になった。曲は劇のラストシーンを飾ったコーラスと同じだったが、歌詞は変えてあった。
 
「お客さま、ありがとう。
お芝居は、幕を閉じましたが、
私達の旅は終わりません。
どうかみなさまも、人生の旅の途中で、
ときにはこのお芝居を思い出され、
心の中で、その思い出を、
お気に召すままに
かわいがって下さいますよう。         
この世はすべて舞台
人々はみな一人の役者」
 
 ああ、今夜は楽日なんだ、と僕は思った。公演の最終日だ。この役者たちは、明日はもうこの街にいない。コーラスに加わっていない役者たちは、ロビーの出口近くに二、三人ずつ立って、即興でセリフを交わしたり、観客に握手して、別れを惜しんでいた。
 観客の拍手があちこちで聞こえた。とりすましたお付き合いの拍手ではなく、温かみのある音だった。
 これは、拍手に値する演出だよ、と誰かが話しながら傍らを通りすぎた。役者たちの仕事は最後に報われたようだほんの数分前まで、観客にとってただの絵空事だった劇がかけがえのない体験に変わろうとしていた。
けれど、僕にはそれを楽しむ時間がなかった。すぐにでも心配しなければならない生活の問題が山ほどあった。僕は歩きはじめた。出口では派手派手しい道化の衣装を着た役者が一人、ひょうきんな身振りで人ごみの間を踊り抜けながら、ポスターを配っていた。  「当公演のポスター。もうおいらにゃ用なしさ。お客さん観劇の記念にどうだい。遠慮しないで。芝居の木戸銭はもう払ってるんだから。おまけだよ。サービスだよ」
 道化は僕にポスターを差し出した。僕は反射的に手を出し、筒状にまるめたポスターを受け取った。道化は僕を見た。ふしぎそうな顔をした。目は点のように小さく、鼻と口は顔いっぱいに大きく描き、大笑いの表情で固定した化粧の裏に、驚きが読み取れた。僕は「どうも」とだけ言って、去ろうとしたが、道化はするりと僕の前に出た。
「あの、もしかして……」
道化は僕の名を言った。女の声だった。僕は面くらった。この道化は初老の男だとばかり思っていたからだ。舞台にいた道化は、男が女性の声をまねているようにも見えた。だぶだぶの帽子と市松模様のコミカルな衣装が、彼女を性別不明にしていた。
「ええ、そうですが、あなたは……」僕は口ごもりながら尋ねた。大げさな化粧が彼女の正体を隠しているのに比べて、僕の間の抜けた顔つきは丸出しだった。彼女は、そのことに気付いたようだ。
「ああそうね。この顔じゃわかんないよね。ほら、高校のとき、演劇部で一緒だった……ユリよ」
 ユリは、彼女の本名じゃない。高校の文化祭で演劇部が公演するために、僕が書いた脚本のヒロインだ。ダンサー志望で、フォックストロットのステップが得意な女の子。ユリは人と喋るとき、必ず言葉よりも先に、ステップを踏む。その役を引き受けてくれたのが彼女だった。僕は脚本を書くだけで出演しない。彼女は演じる。しばしば、脚本にない演技を自分勝手に作る。そのたびに僕は口ぎたなく彼女をけなし、彼女はそれ以上にひどい言葉で僕をやり込めた。喧嘩を繰り返しているうちに、なぜか二人は親しくなった。
 僕は思いだした。その脚本のおかげで文化祭から卒業までの数か月、彼女と僕は、ただならぬ、いい関係だったことも。
「そうか、そういえば。……卒業してすぐ、アメリカに行ったんだよね。ミュージカル・ダンサーになると言って。それっきり音沙汰がないものだから」
「あなたのせいよ」彼女のセリフには十五年あまりのブランクは感じられなかった。何事もすぐ、僕のせいにするところも。
「あなたがその気にさせたんだから。とうとうブロードウェイまで行ってしまったのよ。親には反対されるし、一人きりでね。倉庫みたいなアパートで、大きな鏡を置いて、その前で毎晩踊っていた。ステージの役もついたわ」
「すごいね」僕はそれしか言えなかった。彼女に気後れを感じた。彼女はやりたいことを間に合ううちにやってしまったのだから。まだ若いうちに。
「どうして?」
「だって、きみは夢を実現したんだろう。すばらしいよ」「そうね」彼女は一瞬僕から目をそらし、劇場の壁の向こうに、ありもしない美しい風景をながめるような顔をした「そうかもしれないわね。今も舞台に立っているし、はまり役ももらってるしね」
「ああ。いい役だよ。ベテランの、立派な道化になりきってた。話しかけられるまで、きみとはわからなかった。本当に、男の道化だと思っていたよ」彼女をほめているつもりだったが、ほめているようには聞こえなかったようだ。彼女は挑発的に言葉を返した。
「あれが地声よ。今の私は声を作っているんだ。女を演じているだけ。そう思わない? 舞台の私が本物で、この私は偽物かもね」
僕はセリフを失った。その一言に彼女の嘘が見えたからだ。彼女は成功していない。ブロードウェイではたいした役をもらえず、日本に帰っても、一流の劇団に見込まれなかった。それが現実だ。才能の芽が一向に出てこない自分を疑いながら、日々を過ごしているうちに手遅れになってしまった。もう三十代だ。身体も気分もきりきりに巻いたばねみたいに張りがあった、十代のユリではない。顔は痩せ、首筋や手首は鍛えられてがっしりとしていたが、しなやかさは消えていた。どこかに無理をして踊っているんだと僕は直感した。現実の生活の中で、何年も他人に騙されたり騙し返しているうちに、僕は相手の言葉を疑って、嘘を見抜く癖がついていた。
「脚本、書き続けてる?」
彼女が聞く。今度は僕が嘘をつく番だった。幾つか書いたよ。戯曲賞にも応募した。結果はぱっとしないけど、あきらめていない。生活は安定している。家族も家も持った。仕事は芸術的じゃない。忙しいけれど、合間を見つけて書いているよ。
 実際は、彼女と別れてから完成した脚本はひとつもなかった。ありきたりな嘘で彼女をごまかしながら、僕は意識の中で彼女と別れた最後のシーンを繰り返していた。
 幕が開く。舞台は街の中央にある大きな公園だ。高校の卒業式が終わって間もない、ある日の夕暮れ。あたりはうすやみに包まれ、春の霧雨が綿菓子のようにやわらかく降りていた。温かい雨粒のカーテンに、五重の塔がシルエットで浮かびあがる。ユリは僕の傘に入って、並んで歩く。二人の足が、玉じゃりを踏みしだく音しか聞こえない。ともったばかりの街灯の下に、二人は立ち止まる。ユリの顔がはっきりと見える。雨粒が頬にかかっている。二人とも言葉はなかった。セリフもト書きもいらなかった。急に、彼女が踊りのステップを踏んだように感じ、次の瞬間、僕は前にまわったユリを抱きしめる。街灯の光のスポットに降りしきる雨が輝いている。僕の喉元に彼女の呼吸が伝わる。手に持つ傘が邪魔だった。僕はシャッと手をふるう。傘は銀色の雨粒をはじいて飛び、ゆるやかに暗やみへと消えていった。
 拍手してくれる観客はいなかったが、それは、僕たちの最高の舞台だった。夢はいつか二人のものになる。彼女はダンサーとして、僕は脚本家として。そのときには、また会えるはずだと僕は信じた。
 そうやって、僕とユリは別れ、それぞれの夢を追って、別々の道を歩いてきた。  
「タッチストーン!」
 人ごみの向こうから、役者のだれかが、道化の名前を呼んだ。ユリはたちまち、市松模様の道化にもどった。
「へいへい。侯爵さま! お呼びですかな」彼女は男のしわがれ声で答えると、今度は女の声で僕にささやいた。
「舞台を片付けてから、みんなで打ち上げなの。一緒にどう?」
 僕は決めかねた。返事ができなかった。現実の僕は、十数年かけても脚本がひとつも書き上げられず、借金を抱えて世渡りに疲れた男だった。僕は不器用に首を横に振った。
「鉛筆、持ってる?」
彼女は僕が渡したボールペンで、僕のポスターに電話番号を書いた。五ケタの市外局番。僕が知らない、どこか遠くの街だ。
「ここが一応、私の住所なの。芝居に出ていないときは、ここにいるわ。……じゃあね」
 彼女は、人と人の間に、すっと身体を滑り込ませて消えた。はじめからそこに存在していなかったように、跡形もなく。誰だかわからない、道化の市松模様の背中が、僕の目に残像を残した。
 劇場の前のバス停で、僕はやってきたバスを二台乗り過ごした。僕は迷っていた。劇場に戻って道化を探してもよかった。現実の自分を隠して、売れない脚本家を演じればいいのだ。夢にあふれたころの二人にもどって、あの、夕暮れの公園の続きを始めることができる。もう一度、二人のあの舞台を。彼女もそう思っているんじゃないか?
 しかし……彼女も僕の嘘を見抜いたはずだ。役者でもない素人の行き当たりばったりの嘘だ。見抜けなかったはずがない。二人とも挫折しかかっている自分を、演技で繕っていた。そして、二人ともその演技に騙されなかった。
これ以上、見え透いた嘘を続ける自信は、僕にはなかった。
脚本を書こう。僕はつぶやいた。今なら、書ける。書き上げたら、彼女に会おう。
 僕は三台目のバスに乗った。闇の中に溶けていく劇場をながめながら、僕は明日から書き始める最初のシーンを考えていた。(了)
 
 

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