A la carte

“未出版”作品
 


 2    19900200■短編『地権者たち』(京都新聞)
更新日時:
2006.02.13 Mon.
900200
※これは1990年2月に、京都新聞の「読者の短篇小説」で佳作掲載された作品です。
 
 
短篇小説
 
地権者たち 
 
 
 
 地権者の説得は順調に進んでいるようだった。その物件……古本屋の店番をしていたおばさんは、令子が名刺を渡すとすぐに温かい昆布茶を出してくれた。息子と二人暮らしなので、他に店番をする人がいないの。ここでかんべんしてね、とレジ台に盆を置き、横の丸椅子を占領していた古本を片付けてくれた。
 令子が礼を言って、コートを膝の上に畳んで座ると、天井まで積み上げた百科事典が背もたれになり、ニイチェの全集が具合のいい肘掛けになった。タクシーが渋滞で動かなくなったので、雪まじりの風の中を歩いてきた身体がほっこりと暖まる。
「東京から来られたんですか。お寒い中を、どうも……」
 おばさんは老眼鏡を直して、令子の名刺をながめた。令子の母親くらいの歳だろう。何かを見るときに愛想よく笑ったように目を細める様子が、母に似ていると令子は思った。 
 店は間口二間の、戦前からの狭い町屋だった。昔はしっかりしていた柱や梁も、歳老いて弱り、家全体がわずかに平行四辺形にかしいでいる。店内は六畳の間より少し広い程度で、左右の壁はそのまま本棚で、その間に二列の本棚が立って、天井まで隙間なく古本が詰まっていた。まるで本の表紙と表紙を接着剤で固め、それが柱代わりになってこの家の崩れそうな屋根を支えているように見えた。
 木造で土壁、二階の町屋。取り壊すのは簡単だ。黄色い、かわいいクレーンとミニ・ブルドーザで三日もあれば、ここはきれいな更地になるだろう。
「しばらく来ないうちに、町並みがずいぶん変わりましたね」令子は話を切りだした。「駅前には美しい広場ができてますし、地下鉄も伸びて、すっかり便利になって……」
「そうかねえ」おばさんは音を立てずに、昆布茶をすすった。「背の高いマンションとホテルばかり。ご近所も郊外に引っ越して、もう、どこに誰が住んでいるのかわからないねえ。古本のお客さんもめっきり減ってしまって。昔はね、前の大通りに市電が走っていて、それで大学に通う学生さんが近くに下宿していたから、この店は文学青年のたまり場だったんですけどねえ」
 令子は少し不安になった。部下の営業マンときたら、今度課長が説得したら、絶対にあの古本屋は陥落しますよ、と私をおだてたくせに。通りを見ると、雪がみぞれに変わり、何列にも並んで渋滞している車のルーフをたたいていた。
「私も、十年ほど前、ここの大学に通っていたんです」
「そう。なんていう大学?」
令子は大学の名を言った。「文学部で、英国の詩人を研究していたんです」              「そうなの……その大学も去年、隣の市へ移転してしまったねえ。だから……」
 おばさんは、また目を細めて令子を見た。
「私もね、もうこの店をたたんで、静かな、日当たりのいいところへ引っ越してもいいと思っているの。あなたの会社の男の人も何度か来られて、代わりに環境のいい宅地を斡旋するとおっしゃっているし、息子もどうやらその気になってくれそうなものだから」
 これもご時勢だからね。と、おばさんの目は語っていた。世の中の変化に逆らわずにささやかな人生を楽しめる人のようだった。
 令子はほっとした。よかった。ほとんど話がついていたのだ。これでひと仕事が終わる。
「ありがとうございます。必ず私どもで、ご満足いただける物件をご用意させていただきますわ」
そう言いながら、令子はこの土地の未来を思い描いた。古本屋の両隣の豆腐屋とクリーニング店は交渉が終わっている。
 一年もすれば昔ながらの町屋は消えて、敷地一杯に、条令の制限ぎりぎりまで高くした、白く輝くプチ・マンションが姿を現すだろう。つややかな大理石が、やわらかな光に映えるアトリウム。住まう人の風格を感じさせる、雅びやかなエントランス……。そんな決まり文句のコピーで飾ったパンフレットが、選ばれた顧客に配られる。普通の人には買えない価格だけれど、それでもこの街のたたずまいにあこがれる人は多い。そして、おばさんには、新しい土地での余裕ある生活。
「……もし、このお店を続けられるようでしたら、学生さんの多い地域の物件を選んでさしあげることもできますし……」
「いいのよ」おばさんは優しく答え、令子の茶碗を引き下げた。「ここを出ることになったら、古本屋はやめると言っているからね、息子は。いまどき、古本の好きな学生さんは珍しいですからね。この店はもう道楽みたいなもので息子の書庫代わりですよ。たまにお客さんがみえても、息子が気に入った本だと、売るのをお断りしたりね」
「息子さん、本好きなんですね」
「変わり者でね」と言いながらも、おばさんは嬉しそうに笑った。
「本好きがこじれて、図書館に勤めているの。もうすぐ帰ってくるから、それまで待っていただけないかしら。この家のことは息子を入れて話をしないとね」
 ええ、もちろんお待ちしますわ。本を見せていただいていいかしら、と令子は尋ね、おばさんは、どうぞどうぞ、とうなずいた。
 令子が立つと、それまで肘をついていたニイチェの全集が、ぎしっと音を立てた。土曜の昼下がり、昼寝をしていたニイチェ自身が、起き上がってあぐらをかいたような音だった。
 本棚には令子の日常生活に縁のない本ばかりが並んでいた。上のほうで、プラトンとカントが仲良くお茶を飲んでいた。さらにその上にヘーゲルが横たわり、ぼんやりと令子に顔を向ける。わしの思索の邪魔をせんでくれ……と文句を言われそうで、令子は手を引っ込めた。次の棚ではツルゲーネフとトルストイが、黙々とウオツカをあおっている令子が本の背に手を触れると、二人は、まだ書きたいことは山ほどあるんだが、どうせあんたには読む暇はないじゃろう、としかめ面をする。
 プライドを傷付けられた令子は、私は忙しいのが好きだからね、と冷たく答える。ごめんねあなたたちには、ここを出ていってもらわなければならないの。それが世の中ってものよ。
 どこへ行くんだね、おれたちは、とホメロスが尋ねてくる。
 ……そうね。またどこかの古本屋に入居できるか、それとも、「燃やせるゴミ」になって、灰になってしまうのかしら。見たところ、どの本も、一昔前の学生に受けたものばかりで、古書マニアが飛び付くような珍本はないようね。資産価値はゼロよ。手垢と埃が染みついた表紙、端が黄ばんだページ。誰か、あなたたちを引き取る人がいればいいのにと、令子は同情する。
 同情なんかいらない、とサローヤンがパイプをくゆらして、ピート・ハミルと肩を組む。君の思うままに人生を生きればいい。
 許してね。令子はなだめる。古いものを取り去って、時代に合った、新しいものに置き換えるのが私の仕事なの。
 棚の裏に回って、令子は足を止めた。読んだことのある作家が何人かいた。シェイクスピア、ディケンズ、シリトー、そしてエリオットにテニスン。……あなたたちここにいたの。なつかしい。大学のテキストにいた人たち。
 令子は一冊の本を抜き取る。タイトルに見覚えがあった。英国の、原文の詩集。いつ、どんなところで読んだのかしら。固い表紙の角がすり減って丸くなっている。ひとりでに、終わりの方のページが開いた。前の持ち主が何回もそこを読んだのだろう。折り癖がついている。載っている詩の、最後の行が目に入る。声に出さずに口ずさんでみる。
To strive’to seek’to find’ and not to yield.……。
「努め、求め、たずね、挫けぬ意志こそ……」
 訳文が後を追う。令子は思い出した。彼が好きだったフレーズ。彼が暗唱していた詩。十年、もっと前。大学の一回生だったとき。彼は四回生。二人とも、市電に揺られて通っていた。帰り道は、いつも私が先に降りた。 私は座席に掛け、彼はその前で、吊り革につかまっていた。空いた片手は難しそうな本を数冊まとめて持っていた。十字に本を縛ったブックバンドが印象に残っている。角を曲がるとき、市電が大きく揺れたことも。車輪がレールと石畳をこすり、激しい音を立てる。
 ……彼、どんな人だったっけ。令子は記憶をさかのぼった。学生時代の、この街。学生食堂、テニスコート、ゼミ旅行、男の子とのドライブ、ディスコ。彼はいない……彼の名前は? 出てこない。何層にも重なった古い記憶の底で、彼の記憶は今にも消えそうなほどうすっぺらだった。図書館のロビーと英文学史の教室に、ようやく彼は現れた。
 彼は優しかった。だから私は彼に甘えた。ろくに講義に出なくても、レポートは彼が書いてくれた。彼は詩人が好きだった。頼まなくても、いろいろな本を貸してくれた。彼は本によって、私との絆を作りたかったのに違いない。彼は夢を語った。何を話してくれたのかは忘れてしまった。
 私は彼に感謝していたけど、同時に彼は重荷だった。私は彼の本を読む。ほとんどの場合、読んだふりをする……。彼は私の代わりにノートを取り、レポートを書いてくれる。それ以上の関係は持ちたくなかった。だって彼の理想が高すぎて、私なんかにはついていけなかったんだもの。
 嘘つき! 今の令子が、昔の令子をぴしゃりと決め付ける。あなたは彼を利用しただけよ。かっこいい男は、他にいくらでもいた。本の虫みたいな文学青年を、当時のあなたが好きになれるはずがない。一年中が春の日溜まりのような、大学の一回生。未来が目の前に開けて、楽しいことが矢継ぎ早に起こった毎日。面倒なことを気持ちよく引き受けてくれる彼が、便利だっただけじゃない。その証拠に、彼のことはほとんど思い出せない。
……当然よ。思い出したくないことだから。記憶から追い出して忘れてしまいたい、昔の、彼に対する、小さな負い目。
 それなのに、思い出される。彼と別れた瞬間。市電がきしみながら角を曲がる。私が降りる駅。立ち上がると彼が言う。
「もう少し、このまま乗っていてくれないか」
 私は迷わない。軽く笑いを作って本を渡す。彼に借りていた本を。「これ、ありがとう。さよなら」と一言を添えて。
 私は足早にステップを降りる。ドアが閉まる。チンチンと、発車のベル。市電はそのまま彼を運び去っていく……それっきりだった。会うことはなかった。一回生の最後の試験が終わった日。寒かった。
 まさか。思い出が令子の耳たぶを、痛いほどつねって離れていった。この本の、最後のページに。裏表紙の内側を開ける。かすかに手が震える。書き込みが残っていた。
「この本を貸してくださったあなたに。ありがとう。忘れないわ。R.S.」
 丸みのある、まだ子供っぽい筆跡。黒かった万年筆のインクは、年月を吸い取って褐色に変わっている。そして、私のイニシャル。別れる時、私は彼に、思い出の証文を残していたんだ。それが今、私の手の中にある。
 買ってしまおう。この本を持って帰れば、跡は残らない。袋に入れ、固く封をして、引き出しの一番奥へ閉じ込めてしまえば……でも、思い出した後では、手遅れだ……。この思い出は、湾岸に建つ私のマンションの、波打ち際に高層ビルの輝きを眺める窓際には似合わない。私の部屋のどこにも、この本の居場所はない。
 しかも……同じページの下に、この本の、今の持ち主が、思い出の所有権を登記していた。太い鉛筆で簡潔に「非売品」と。私の代わりにノートを取ってくれた、彼の字。
 サローヤンとピート・ハミルが笑ったような気がして令子は顔を上げた。数えきれない古本、この家の地権者たち。本の数と同じだけの、前の持ち主の思い出。売ってくれといったって……思い出という名の土地を、坪いくらで買い取れるだろうか。 
 市電がかん高い音で車輪をきしませて、前の道を通り過ぎた。と思ったのは、店の古いガラス戸が、敷居の錆びたレールの上をぐずつきながらころがる音だった。
「お帰り。お客さんがお待ちだよ」 
 おばさんの声がした。令子は地権者と向きあった。
(一九九○・二月、京都新聞掲載)
 
 

prev. index next