A la carte

“未出版”作品
 


 1    19890900■短編『選択肢の関係』(同人誌)
更新日時:
2006.02.13 Mon.
890900
※これは同人誌に掲載した1989年の作品です。読みにくさ等、ご容赦下さい。
 
 
短編小説
 
選 択 肢 の 関 係 
 
 
 どうしてこんなところへ来てしまったんだろう。彼の誘いを断れば良かったのに、と令子は後悔する。日本海に浮かぶ小さな島、荒波に削られた岬の、神社の境内。もうすぐ村祭りの前夜祭が始まる。まだ秋ではないのに、日が傾くと風が強くなり、暗い灰色の雲がいびつに渦巻いてかぶさってくる。
 うっとおしい天気に、令子はいら立った。早く帰りたいと思う。名もない島の祭り太鼓を見物して、どこがおもしろいというの。それでも彼は、令子の気持ちにはお構いなしに、ボロフスキーのイラストをプリントした安物のTシャツ一枚で、少し出っ張った腹を日本海に突き出して立っている。
 令子が、私もう帰る、と言い捨ててフェリーの船着場に歩き出すことができないのは、まだ二時間たっぷりは船が出ないからだ。そうすると彼はかならず追いかけてきて、いつものように令子にすがりつく。ごめんよ。連れてきた僕が悪かった。君が帰るのなら、一緒に帰るからさ……。
 いつでもそうなんだ。いつでも。と令子は心の中で繰り返す。そうなんだ。もうずっと前に別れていてもよかったんだ。それでも続いてきたのは、私が機嫌を悪くする一瞬前に、彼の方からごめんねとあやまり、私のストレスが爆発寸前になるのを見計らったみたいに、電話をかけてきてくれたからだ。ねえ、そろそろ旅に出たくない? どこがいいかな、と。僕はさびしいんだ。君がいないとやっていけないんだ、と感じさせながら。そうよ。だから私はこの人を捨て切れなかった。でも、もうおしまい。この旅が最後よ。
 風は強いけれど、なまぬるい。雲は夕日の赤味を吸い込んでじっとりと垂れ下り、濡れぞうきんに見えてくる。私達の関係と同じだわ。台所のシンクのそばで、半乾きのまま、ぺたりとへばりついているスポンジといっしょよ。学生のうちに知り合い、それぞれ就職して五年間、つかず離れずの曖昧な関係。
 それなのに、ここへ来てしまったのはなぜだろう。オフィスで彼からの電話を取ると、向かいに座っているプランナーの女友達が笑う。またレイコのテディ・ベアね。
 そのとき私は決めたんだわ。テディ・ベアのお守りをするのは、もうご免だって。私が関係を断ち切ると、この人は崩れるかもしれない。よりかかる杖を失って、アスファルトの道にころがって、道の両側にこびり付いたタバコの吸い殻や、カンビールのプルリングにキスしてしまうかもね。それでも仕方ないんだ。そうしなきゃ私は、自分の新しい生活に踏みだせない。
 でも、断りきれなかった。今回の電話は少し違った。遠慮がちな語りくちはそのままだったけれど、ちょっぴり強引だった。ちょっと遠いところ、日本海の島なんだけど、来てほしいんだ。どうしても……と。
 そう、驚いたことに、彼は自分で行き先を決めていたんだわ。こんなことは初めて。いつだって、どこへ行きたい? と聞くのは彼で、行き先を決めるのは私だった。それなのに今度は、なぜ?
「ほら、始まるよ」と彼は舞台を指差す。
 丸太を組んで作った質素な舞台に、両手でも抱え切れない大きな和太鼓が並んでいる。提灯に火が点り、見物人も増えていた。島の人じゃない。カンバスの袋を無造作に下げた旅行者。六十年代のジーンズを昔のままに履きこなした外人たち。令子はうらやましいと思う。あの人たち、世界中どこへ行っても、そこをウッドストックの芝生の広場に変えてしまう。
 拍手がわいた。褌ひとつだけの若者たちが、舞台に駆け上がる。太鼓の前にすっくと立ち、腰を低く落としながら呼吸を整える。わき腹と背中の筋がもり上がり、緊張感が漲る。
 続いて、三味線を抱えた若者が数人、観客の間をぬって舞台に走る。真紅のはっぴが翻り、雄々しく眼を射る。すぐ近くを走り抜けた若者が、ふと彼に気づく。立ち止まって白い歯を見せ「やあ」と笑顔をよこす。
「おっ、がんばれよ!」と彼が答える。
「知ってる人?」と令子は尋ねる。
「うん」彼はうなずく「みんな知ってるよ。友達なんだ」 令子は気後れして、半歩ほど身を引く。同じことなら彼じゃなくて、もっといい男と並んでいたかった。
「前からの知り合いなの?」
「そうだよ。素朴だけど、いい演奏をする連中なんだ。この島で演りたいというんで、手伝っていた」
 許せない、と令子は思う。私に黙って、そんなことを。でも顔には出したくない。
「何を手伝ったの?」
 彼はにっこりと笑う。聞かれたことが嬉しそうに。
「そうだね……宮司さんに、この境内を貸してもらえるように頼んだり、東京の友人に音響設備を手配してもらったり、地元の新聞社にPRしたり。……どうしたんだい。怖い顔をして。座る、座らない?」彼はそう言いながら、足下にビニールシートを敷こうとする。
 よしてよ、令子は反発する。そんな言い方はいや。あなたは選択肢を並べる。旅に出る、出ない? 座る、座らない? そして私が答えを選ぶ。あなたは自分では何も決められない。主体性のない、縫いぐるみのテディ・ベア。もう私の手をわずらわせるのは、いや。
 どん! と太鼓が響く。立ったまま、令子はたじろぐ。若者たちの腕が、鋼のばねのようにしなり、撥が太鼓を打つ。ど、どんと連打音が重なり、令子の胸を打つ。厚い雲の向こうで日が沈み、何もかも曖昧に溶かしてしまううすやみの中で太鼓の音だけが明快に、令子を切り裂く。三味線が激しく太鼓に合わせる。かん高い弦のスタッカート。 令子の感情は昂ぶる。あたり構わず、金切り声を上げたくなる。なによこれ。大嫌いよ、こんな音!
 横を見ると、彼が令子を見つめている。悲しそうに。
「好きになれないわ。悪いけど」
 あなたがどんなに連中が好きでも、この音が好きでも、私はだめなのよ。なぜって……私が選んで、ここへ来たわけじゃないから。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
 彼は令子の耳もとで申し訳なさそうに言い、小走りに、港へ降りる石段へ消えていった。どこへ行くの? と聞く間もなく、令子は、やりきれない音の渦にとり残された自分に気付く。
 舞台は総立ちになった観客の背中に隠れてしまい、ただ音だけが、どどっと滝のように天からなだれ落ちてくる。太鼓がやみ、三味線がソロで後を受ける。この島の、最後の夏の日を追い立てようと、せわしなく。令子も、三味線に合わせて震える。ここは私のいる場所じゃない。帰りたい。ここはわたしの選んだ場所じゃない。
 ぷつん、と三味線が切れた。一瞬にして、音が消える。それもつかのまで、静けさをセミの鳴声が埋める。ひとつの鳴声が次々と林のセミを呼び起こし、ギーッという、耳鳴りに近い音に変わる。どうしたんだろう。令子は背伸びして舞台をのぞく。全身に汗を浮き立たせた若者が、切れた三味線の糸を手に握ったまま、呆然としてこちらを見つめていた。観客はひとり残らず、息を殺している。若者と令子の間にセミの声が割って入り、お互いの距離をどんどん遠ざけていく。
 すると、もう一人の若者が立って、太鼓を叩き始めた。最初はゆるやかに、そして強く。セミが鳴き止んだ。まばらな雨滴が風にあおられてぱらぱらと、神社の社にふりかかる。終わるあてもなく太鼓が一定のリズムを続けるかたわらで、糸の切れた三味線の若者は、その場を去ることもできずにいる。
 かわいそうに、と令子は思う。あの子、どうしていいかわからないんだ。
「糸を張るんだ!」
観客の後ろから、力強い声が飛んだ。令子がびっくりして振り向くと、彼が手でメガホンを作って、叫んでいた。
「まだ終わっていないぞお。どんなことがあっても、三味線、弾こうぜ!」
 若者はがばっとうつむいた。三味線を床に寝かせ、胴から糸を繰りだす。素早い手つきで、伸ばし、止め、締め付ける。太鼓のリズムに合わせて二、三回糸を弾いて確かめると、さっと撥をふるう。音が戻った。
 びんびんと張りつめる三味線の音を浴びながら、彼は令子に歩み寄り、借りてきた傘をさしかける。
「ごめん。待たせたね」
 令子は激しく首を振る。
「これ」彼は令子に、フェリーの切符を差し出した。
「台風が近付いているんだ。少し早めに、船が出るんだって。まだ間に合うよ。送っていこう。……それとも、今夜はここで泊まる、泊まらない?」
 令子は切符を受け取る。この島で彼と泊まったら、別れられないだろう。彼を見る。さっきの元気な叫び声とはかけはなれた、寂しげな顔。いつものテディ・ベア。
 船着場へ降りる石段を踏みながら、令子は尋ねた。
「ここは天国なのね。あなたにとっては」
「そうだね」彼はほんの少し、笑顔を作る。
「天国に近い島だね」
「私にとっては、地獄だわ」
どうして、と彼は聞き返さない。「うん」と短く答えただけだった。
「私の上司がね」令子は思い切って言った。
「車で迎えにきてくれたの。仕事が終わってから」
「それで?」
「食事をしたわ。アルンハイムの、素敵なワインの話をして、それから私がもうすぐ、マネージャーに昇格するって約束してくれた」
「うん」
「喜んでくれないの?」
「喜んでるよ。とっても」
「それから、二人はどうしたって、聞かないの?」
「知ってるよ。聞かなくても。上司は君の二つ年上で、サーブに乗ってる。スウェーデンの車だ」
 令子は黙った。彼は知っていた。だから、自分で行き先を決めて、私を誘ったんだわ。でも遅すぎた。あなたがいけないのよ。あなたはいつも選択肢を示して、私に選ばせる。AかBか、それともC? だから、とうとう私は、あなたの選択肢にない答えを選んでしまったのよ。どうしてもっと早く、選択肢をひとつだけにしてくれなかったの。そうすれば、きっと……。
 
 船は桟橋を離れようとして、二、三度波に押し戻され、未練たらしく桟橋に腹をこすりつけた。彼はボロフスキーのTシャツを雨にべっとりと濡らせて、手を振っている。ぐしょぬれのテディ・ベア。それでも精一杯、かっこをつけて。
 令子は気が付いた。彼は私をよく知っているのに、私は彼のことを知らない。知ろうともしなかった。もし知ったら、その場で好きか嫌いか、○か×かを選択してしまっただろう。何も考えずに。それ以外の選択肢を探そうともしないで。だから私は知ろうとせず、彼も今日まで知らせようとしなかった。どちらともつかない、曖昧な関係。
 それを、ここまでひっぱってきて、私の方に、あなたを捨てることを選ばせるなんて。本当に、なんて人。最後まで私に、決めさせるつもりなの? 令子は無理に微笑んでみる。もう一度だけ、私の方からあなたに、選択肢を与えるチャンスはあるかしら。令子は唇をなめる。塩辛い。
                                    (1989・9)
 

prev. index next