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“未出版”作品
 


 11    20100623■短編『幸福の黄色いハンカチを、…3』
更新日時:
2010.06.25 Fri.
習作短編
(書き下ろし)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これは、今から近いとも遠いとも言えない、ある時代の、ある場所で起こった不思議な出来事……
 
 
幸福の黄色いハンカチを、
結んだ彼女の物語。 (3)
 
 
 
 
 
マルティアーナは目覚めた。
何が起こったのか,自分がどうなったのか、よく思い出せない。
ただ悲しい、それだけだった。
このまま死んでしまいたい。けれど、それはできなかった。
子供たちがいるから。生きなくてはならない。今日も目覚めて、つらくても働いて、この子たちを生かさなくてはならない。
でも、もう、この町には住めないだろう。
そして、彼とはもう、一生、会うことはできないだろう。
誰かがドアをノックしていた。こつこつと、粘り強く、急かしはしないけれど、ここで待っているから、起きてもらわなくてはならない、と、規則正く続くノックの音が告げていた。
「どなた?」
牧師の声がドアの向こうから伝わった。それはマルティアーナにとって、魔女を刑場へと引いて行く牢番の声と同じだった。
「マルティアーナ。来ていただかなくてはならない。これは義務です。あなたは、みんなの前に出てゆかねばなりません。あの樹のところへ」
「はい」
逆らう気力など微塵もなかった。
これは裁判だ。町の人たちは、私を責めるだろう。氷よりも冷たい視線で背筋を刺すだろう。それでも、私はひざまづいて、裁きを受けて、詫びて、この町を出ていこう。
殺人者の妻として。
マルティアーナはのろのろと服を着替え、今や心の牢獄と化した自宅の扉を開けた。
牧師の顔があった、やつれ、心身ともに疲れ果てていることがわかった。
その深刻さとうらはらに、朝日があくまで明るく、まぶしかった。
「行くのです」
牧師の汚れた手が、マルティアーナの腕をつかんだ。若い男の手が、獣のように力をこめて、彼女を連行した。有無を言わさずに引っ張っていく乱暴さも感じたが、そうでもなければ彼女は生気を失い、その場に座りこんでしまったに違いない。
「さあ、マルティアーナ、顔を上げて、よく見るのです。あなたが招いたことを!」
命令だった。
その通りに、マルティアーナはした。
真っ青な空に、あの樹がそびえていた。
樹の姿にただ圧倒されて、マルティアーナは全身の力が抜けた。肉体が風に溶けて消え去った。ただ、泣くだけ泣いて枯れ果てていたはずの涙が、なぜか尽きることなく湧いて流れ落ちていくのが感じられた。
そして、ひとつの言葉が、ひとりでに喉から漏れこぼれた。
「ああ、神様、神様、どうして、どうして……」
樹の下に、人々がいた。昨夜と同じくらい、多くの人がいた。
ウェイトレスの娘が駆けてきて、今にも倒れそうなマルティアーナを支えた。
牧師が樹の下の人々に歩み寄ると、地主の男が彼を迎え、肩を抱き、背中を元気づけるように叩いた。そしてささやくように、しかし、しっかりした口調で喋った。
「これだけはきちんと懺悔しておかんとな。夕べはみんな、マルティアーナに騙されたと思った。あんたが彼女を家に見送ったとき、みんな、魔女にたぶらかされたと毒づいた。幸福の黄色いハンカチは、人殺しの悪魔を呼ぶクレイジーな魔法陣だとな。重罪人を赦す彼女を馬鹿女と嘲笑った。悪党の妾とばかりに。しかしそのとき、戻ってきたあんたは、確かにこう言った」
地主の男はじっと、自分の息子ほどに若い牧師に尊敬の眼差しを寄せると、牧師から聞いた言葉を、味わうようにゆっくりと繰り返した。
「神は愚かな私たちを哀れんでくださる。しかし嘲ることはなさらない」
牧師は疲れを隠せず、弱々しく微笑んで答えた。
「説教をするつもりではなかったのですが」
「その一言で、わしは目が開いた。そしてあんたが焼け残ったハンカチをひろって、最初に結びなおしたのを見た。それで、わかったのだ」
「燃えてしまったハンカチを、それでよしと捨て置いたら、おれたちだって、この樹を燃やした放火犯と同罪じゃないかってことがね」ドライブインのマスターは不精髭の頬をなでて、言葉を継いだ。「それはいやだ。なんだかよくわからんが、あのまま黄色いハンカチを忘れちまって、そのまま帰って寝てしまったら、一生、後悔が残りそうだと、心の中でだれかが喋ったんだ。きっと、ロックの神様がそう言い聞かせてくれたんだろうさ」
保安官が重々しく続けた。
「そうだ。考えてみれば、彼女はなにか悪いことをしでかしたのか? いや、なにひとつしていない。彼女は他人の木にハンカチを結んだ。それはポップアートだ。それならいいさと俺たちは認めた。要するに、それだけのことなのさ。なのにおれたちは、マルティアーナを罪人みたいに見下してしまった。彼女を裁いてしまった」
牧師は、保安官を慰めるように諭した。
「人を裁くことができるのは人ではない。神様だけです。そのかわり人は,神様に代わって、人を赦すことができる。他者を赦す資格があるという意味で、人は、神様と同じくらい偉大になれるときがあるのですよ」
「いつもながら、説教がクソ上手だねえ、牧師さんは」
ドラッグストアのかみさんが、ざっくばらんに誉めた。鋏を手にキャンピングテーブルに集まっていた二十人ばかりの主婦たちも、口々にうなずいて、牧師をねぎらった。
「いい説教だったよ。あたしたちは神様にも聖人にもなれっこないけれど、牧師さんの真似ぐらいはできそうな気にさせてくれるじゃないか」と……。
「若輩なもので」と牧師は照れながら、「でも、神さまは、実は、どこにもいないのかもしれません。手を伸ばしても握手はできず、足を出したからといって、蹴つまづいてころんでくださるものでもない」
「牧師さんのくせに、不信心者だな。みんなが、神様がいると思えば、神様はいるもんだぜ。そうだろう?」と地主の男が答えると、牧師は顔をほころばせた。一夜の疲れを忘れさせる笑顔だった。
「そのお言葉を聞いて、私も安心しました。これで当分は失業しないで済みそうです。なにぶん、神様あってのなりわいですから」
そのとき、空から声が降ってきた。
「最後の一枚、完了!」
消防のハシゴ車が残っていて、ラダーをいっぱいに伸ばして、大樹の頂へと届かせていた。ラダーの先端に身体を固定している消防士が、今しも、手にした最後の黄色いハンカチを、樹と天空の境界線にある、いちばん高い枝先に結び終えたのだった。
さらに樹の周囲には数台のピックアップ・トラックも停まっていて、その荷台から幹へと、あるいは大きな枝へと、幾本もの折畳み式の梯子がかけられていた。一夜を撤した作業が組織的かつ大規模に行なわれた名残りだった。
それにもまして印象的なのは、やはり最新式のハシゴ式消防車の勇姿だった。
主婦の一人がほれぼれして言った。
「立派なハシゴ車だねえ。ぴっかぴかじゃないか」
運転席の消防士が答えた。
「町長が去年、特別予算をつけてくれたんだ。映画を観て、これからは高層建築の火災が恐いってことになってね。年始に、新車で届いたところだ」
「映画?」
「ほら、大ヒットしてアカデミー賞を取った、“そびえたつ地獄”(タワーリング・インフェルノ)というタイトルでさ」
「なら、さだめしこの樹は、“そびえたつ天国”(タワーリング・ヘイヴン)というところかね」
主婦たちは口々に喋った。
「町の家は平屋しかないので、出動したのは昨夜が初めてなんだってさ」
「てことは、ハンカチを結ぶために、新車一台買ったみたいなもんだね」
「それも運命さね。消防冥利に尽きるんじゃない? 大活躍したんだから」
消防の隊長は、徹夜作業で目の下に隈を作った顔で、ハシゴ車の上から敬礼した。
「そういうことで、車体の性能試験、これにて終了」
「ミッション・コンプリート」
操作席の消防士が宣言し、するすると、ラダーが車体に収納された。
全員の仕事が、これで終わった。
ドラッグストアのかみさんを中心に、集まった主婦集団は、ご苦労さんとばかりに腰を伸ばし、大樹の天辺(てっぺん)を見つめた。誰かが言った。
「まあしかし、たった一晩の内職としては、グッジョブってやつさね」
そこには、すばらしい朝日に映えて、どこまでも青い空に綿菓子のようにふんわりとそびえ立つ、金色の天国があった。焼け焦げた枝から、樹の中ほどより高くの、緑の葉が生き生きと残る先端まで、数百枚、数千枚、いや、万に達しようとする黄色いハンカチが、きらきらと輝き、風にゆらぎ、群生する魚たちのように、あるいは群舞する鳥たちのように、大空に踊っている。その一枚一枚が、人の手で結ばれ、そこにかけられた無数の願いが集まり調和して、さながら荘厳な聖堂の内側に隠された、巨大な祈りの空間が、清らかな空気の塔をなして現われたかのように思われた。
それは、多くの人々が建ててくれた、赦しの塔なのだと、マルティアーナは知った。
黄色いハンカチが一枚残らず樹から落ちたままにしておけば、彼は絶対にバスを降りることができない。そうなっても不思議ではなかった。彼は赦しがたい罪人であり、町の人々は決して、罪人の来訪を歓迎するつもりにはなれないだろう。
でも、今ここに、数えきれないハンカチがはためいている。
天に向かって萌え立つ無数の金色の赦しのしるしは、ただひとつの真実を語っていた。
町に住む者の一人残らず全員が、彼を拒んだわけではないことを。
少なくともひとり、迎えようと決意する者がいたではないか。
たとえ、マルティアーナただひとりだとしても、この町の者が彼を暖かく迎えようと願ったことに変わりはない。
たった一人でも、歓迎する者がいるならば、その一人を押し潰し、町から排除するようなことができるだろうか?
いや、そうはしない。したくない。
だからみんな、もう一度、黄色いハンカチを結んだのだ。
町の一人が迎えるかぎり、この町は全員が彼を迎え入れるのだ……と。
ウェル・カム。ようこそ、おいでなさい。
その一言を、この樹は世界に伝えていた。
牧師がマルティアーナに、この情景を見るのはあなたの義務だ、と命じた理由も、よくわかった。
これは、マルティアーナが引き起こしたことだったから。
一週間前、彼女が結んだ最初の黄色いハンカチの一枚が、すべての始まりであり、それが、限りない無数の、幸福の黄色いハンカチになったのだから。
ただしかし、黄色、というには、いささか色褪せたハンカチも目立ってはいたが……
「あれじゃ、枯葉にしか見えねえな」
手をかざして空を圧するハンカチの海を仰ぎ、ドラッグストアの主人がぼやいた。
「よく言うよ、あんたは町じゅうのぼろっちいカーテンをひっぺがしてきただけのくせにさ……」
ドラッグストアのかみさんは、一晩じゅう、男たちが付近の家々から集めてきた大量の、日焼けして黄ばんだカーテンを、着々とハンカチの大きさに切断してきた自慢の裁ち鋏をきらりと見せびらかした。
そして巨大な金色の大樹を見上げると、魔女の親玉のように太い声で、しかし天使のように神妙につぶやいた。
「……これは、みんなの手で不幸を吹っ飛ばす、世界最高のまじないなのさ」
バスが停車した。
樹の下に集まった人々が互いにわいわい騒いでいたので、バスがクラクションを鳴らして注意を促した。それでようやく、うろうろとたむろして街道の交通妨害となっていた人たちが路肩へ寄って、バスに道を開ける格好になった。
しかしバスは発車せず、その車体の、疾走するスマートな犬のマークの上に開いた窓から、巨大な黄色いハンカチの樹を指差して興奮する若者たちの声が流れてきて……
ドアが開いた。
この場にいるありとあらゆる人々の視線が、バスの乗降口に集中した。
この状況が呑み込めず、委細不明の感激と畏れに打ち震え、しかししっかりとした足取りで、その男がステップを降りてきた。
マルティアーナは、彼を見た。
昨夜、絶望の闇で眠ったとき、彼女はこの町で一人ぼっちだった。
しかし、今朝、彼をこの町に招いたのは、もう、彼女だけではなかった。
彼に「おかえり」と挨拶するのは、もう、彼女だけではなかった。
彼を「ウェルカム」と迎えるのも、もう、彼女だけではなかった。
そのことを、ここにいるだれもが知っていた。
そう、きっと、神さまだって、ご存じなのさ、と何人かは思っていたことだろう。
だから、両手を広げて、かけがえのない幸福のもとへ、よろめきながら走り寄ったマルティアーナの唇からこぼれた言葉は、嗚咽まじりで小さく、かすれていたけれど、だれもがしっかりと聞き取ることができたのだった。
「おかえりなさい、あなた。我が家へようこそ」
 
 
 
                                           (了)
 
 
 
……ピート・ハミル氏へ、心から感謝を込めて……
 
ティム・ジャニスの『August』を聴きながら
 
2010年6月21日 秋山完
 
 
 
※本編の「まえがき」を「日々の雑文」に掲載しています。
 
 
 

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