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25    20070121『ラウル・ワレンバーグ(3)』

『ラウル・ワレンバーグ(3)』

ラウル・ワレンバーグ(3)
 
 
だから……
ラウルのことを、忘れてはならないと思います。
400万のユダヤ人が殺され、
原爆で十万単位の人々が殺され、
世界で、罪もない市民が意味もなく生命を奪われ、
ごくまともな人が兵士として殺戮を強制された、
あのおぞましい時代が現実にあったことと、
そんな時代にラウルのような人々が現実にいたことを。
たとえ大海の一滴にすぎないとはいえ、
高潔な良心を示した人がいたことを。
 
記念碑の、ラウルの像の背中の壁に
彼の行いが記されています。
しかし、ラウルのことを知る人は、
この国では少ないでしょう。
世界史の教科書ですら、
おそらく、多くを殺した人の方が、
多くを救った人よりも、大きく扱われているのでは?
 
たぶん、それは、ラウルのことを思い出すと、
今の社会と、そして自分が恥ずかしくなるからでしょう。
あれから何十年も過ぎたのに、
いまだに互いに殺し合い、
傷つけ、いじめたり自殺に追いやり、
なんら心が進歩せず、ラウルに顔向けできないという
この現実を認めるしかないからでしょう。
 
ただ私は思います。
世界の歴史の中から
“英雄”の名に値する人物を探すとすれば、アレクサンダーやチンギス・ハーンやナポレオンなどではなく、
たぶん、ラウル・ワレンバーグのような人々なのだと。
 
そのような人々に救われて、
私たちは今を生きているのだと。
 
救けた人の数とか、そういった結果のことではありません。
本来、そんなことをする立場も義理も義務もなく、
そんなことをしなくても、幸せな日々を送れたはずなのに、
なぜか、心の中に「何かがあった」ために、
人を不幸から救うため、
自分の将来を投げうって歩みだした人々。
 
それは、なぜでしょうか?
 
19世紀。
セレブな良家のお嬢様、フロレンス・ナイチンゲールは、
みずから看護団を率いて野戦病院へ赴きました。
汚物をいとわず、感染症も恐れず、
かいがいしく傷病者をいたわる“白衣の天使”。
しかし、そうやってアイドル化されたことだけが、
彼女の偉業ではありません。
 
当時、ナースという職種は、
無教養で俗悪な女性の最低級の仕事とばかりに
社会から蔑まれていました。
それを、誇り高いプロフェッショナルに育て上げ、
かつ科学的な“看護学”を成立させて、
病院の衛生マネジメントまで研究し、
男尊女卑の社会でありながら、
その職業的地位を高め、尊敬されるものとしたことに、
歴史的な意義があると思います。
彼女のおかげで、ナースは立派な仕事と認められました。
それが、いったい何億の人々を救うことになったのか、
はかりしれません。
 
しかし、なぜ、裕福な家庭のお嬢様が、
ならなくてもいいナースになり、死と汚れにまみれた
戦場へわざわざ出向いていったのか、
その胸のうちは、謎なのです。
「何かがあった」としか思えません。
 
貧しいポーランド娘、マリア・スクロドフスカが、
一人、パリに出て赤貧の学究生活に耐え、
やがて夫と、ラジウムの抽出に成功して、
ダブルのノーベル賞と、
億万長者へのプラチナチケットを手に入れながら、
みずからは1スウも利益を得ることなく、
ラジウム関連の特許権を放棄して、世界に無償公開。
第一次大戦には、放射線撮影車を運転して
かならずしも救う義理のない、フランスの傷病者の
救援にまで奔走したのは、なぜなのか。
 
今ならば青色発光ダイオードどころか、
放射線産業の根幹を握って、
世界の超々セレブに君臨できたのに……
惜し気もなく万金の特許を捨て、清貧のうちに、
放射能にむしばまれてこの世を去った、
マリー・キュリーの名で知られる女性の、
その胸のうちも、やはり、謎なのです。
 
20世紀。
ごく普通のお嬢さんだった女の子、
アグネス・ゴンジャ・ボワジュが、
誰に頼まれたわけでもなく、
インドへ出向いていったこと。
彼女が最初にたった一人で、インドの街角で
だれも、やろうとする人のいなかった、
死に瀕する人々への奉仕を始めたのは、なぜ?
マザー・テレサと呼ばれて、世界中に慕われた彼女の、
その胸のうちも、やはり、謎なのです。
 
ほかにも、何人も、そんな人はいたことでしょう。
そうすべき立場でもなく、
それをする義理も義務もなかったのに、
それをしなくても、幸せな生活が得られたはずなのに、
なぜか、心の中に「何かがあった」ために、
ただ一人ででも、その道を選び、
自分の幸せを捨て去ってでも、
それをやりとげた人々。
なぜなんだろう?
世界を本当の意味で、善くした人々には、
なぜか、そういった心の謎があり、
その謎はそのまま、私たちに問い掛けられています。
 
その、大きな、心の謎の一遇に、
ラウル・ワレンバーグは佇んでいます。
 
忘れてはならないと思います。
彼と、彼のような人たちのことを。
 
 
更新日時:
2007/01/23

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Last updated: 2010/1/11

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