Essay
日々の雑文


 9   19930804▼論考『勇者は故郷をめざす』(4)
更新日時:
2006/05/28 

19930804▼作品論『勇者は故郷をめざす』(4)
 
 
 
4 夢と希望のラストシーン
 
 さて本講義のクライマックスである。ヒロイックファンタジーが、読者のウケを維持しながら最終回までひっぱっていくための、ストーリーづくりの大原則を述べてしめくくることにしよう。
 
●ストーリー展開の三原則
 
  最強兵器は悪役のものである
 
 強大な敵に挑むからこそ、ヒロイックなのである。強い兵器は常に敵の手にあり、それを破壊し無力化する行動に主人公の冒険がある。
 敵が弱かったら冒険にならず、主人公が何をやっても「弱い者いぢめ」に終わってしまう。思えばヤマトの航海の失敗はこの一点にあった。波動砲なんて最終兵器を最初から持つものではない(航海の途中で作っていくようにすればよかった)。ガミラスを焦土と化してしまえる戦艦が、あの旅から無事に生還するのはあたりまえであって、冒険でも何でもないのだ。
 ナウシカの巨神兵、ラピュタの雷、コナンのギガントそしてレッドノア。最強兵器は最後の瞬間まで悪役の手中になくてはならない。
 とはいっても、最後に主人公が最強兵器を打ち破らなくては、物語が終わってくれない。しかもヒロヒロ三原則の@がある。武器による解決はゆるされないのだ。
 そこで、ヒーロー、ヒロインは武力に代わる「第二の手段」を開発しなくてはならない。この「第二の手段」がミソなのである。
 二人が悪に対抗する第二の手段を開発する過程が、ストーリーの大黒柱であるといってさしつかえない。この「第二の手段」とは、物理的ではなく、精神的な力である。この力は、二人が力をあわせることによってのみ完成され、そこで物語は悪を滅ぼすクライマックスに突入する。それまで物語を支配していた力が、武器から愛情へと転化する、偉大なパワーシフトの瞬間である。「第二の手段」をいかにして斬新なアイデアでもっともらしく構築するかが、シナリオ作家の腕であろう。これがうまくいけば「名作」となり得るのである。
「第二の手段」作りで名作となったのは、言うまでもない、マクロスである。最後まで波動砲に頼るしかなかったヤマトの悲劇を繰り返さないために登場したのが「ミンメイの歌」であった。グランドキャノンでもできなかったことを彼女のラブソングが可能にしてしまう場面は、それまでのストーリー手法を根底からくつがえす大事件であったのだ。ただ惜しむらくは、その登場が早すぎたことだ。「第二の手段」は主人公たちの、本当の意味での切札なので、クライマックスまでとっておくものである。ミンメイの歌でボドル旗艦を撃破したとき、マクロスのクライマックスは終わってしまった。この後、物語を続ける材料は、ヒカルとミンメイと未沙の三角関係しかなくなってしまったのである。                    
  
 
  万能のトライアングル
 
 三人、三グループ、三つの移動体。三つの場面。ストーリーのダイナミズムは常に三という数字が基本となっている。
 正義と愛のヒロイックファンタジーであるから、愛の三角関係は定番メニューである。古代・島・ユキ、コナン・ラナ・ダイス、ヒカル・ミンメイ・未沙、コーチ・お姉さま・ノリコ、敵を交えた三角関係としてアムロ・ララァ・シャア、パズー・シータ・ムスカ、ルパン・クラリス・伯爵……と枚挙にいとまがない。「ナディア」にいたっては次々と大小の三角関係を組みあげて、戦闘場面以外は三角関係しかやっていないと思えるほどだ。グランディス・サンソン・ハンソンの関係があり、グランディスはエレクトラとネモの関係に加わり、エレクトラはナディアとネモの関係に加わり、ナディアとジャンの関係にはキングが加わるという、ペットのライオンまで動員した三角関係のオンパレードである。
 三人、という人物構成は西は三銃士、東は水戸黄門をもって完成された。アニメではもちろんディズニーの「三匹の子豚」である。
 三人ひと組の定石は現代アニメでも変わらない。これはテレビの画面で一度にちゃんと映せるのは三人が限度という特性からもきている。そこでストーリー展開は「2+1→次の場面」を基本として進んでいく。
 「ナディア」の冒頭を例にとろう。ジャンとおじさん+ナディアが自転車で通る→エッフェル塔へ移動。ジャンとナディア+グランディス現われる→ナディア逃げてサーカス小屋へ。ナディアをつかまえるグランディス+ジャンが救出→逃亡。逃げる二人+グラタンで追いつくグランディス→ナディアを捕まえて空中へ。空のグランディスとナディア+飛行機で救うジャン→飛び下りてセーヌ川へ。船上のジャンとナディア+橋の上から声をかけるおじさん→二人は去る。といった具合である。追う者と追われるものに、ちょっかいを出す者という関係を次々とオーバーラップさせることで追跡劇を成立させている。
 三つの移動体というのも、同じことである。物語の中のひとつのエピソードに登場する乗り物はおおむね三種類ということだ。ナディア第一話は追跡劇なので登場するメカは多いが、ナディアとジャンが同時に乗る移動体は一輪バイク・グラタン・船である。その後の回では、ノーチラス・ガーフィッシュ・米国戦艦、ノーチラス・ガーゴイル飛行船・グラタンという具合に、三つの移動体が同時に行動する。とくにノーチラスが空中に引きあげられてガーゴイルと苦しい決戦を展開する回では、潜水艦・空中戦艦・タイムボカン(グラタン)が三つの点となって空中で戦闘する。このような筋運びを三角艦数という。
 移動体が登場しない回では、三つの場面として考えてみよう。各回の物語を舞台劇としてセットを組むとすれば、おおむね三つの場面でなんとか演じられる。ナディア第二話は、ジャンの家の中・グラタン・飛行機の上であり、第三話では海上・米国戦艦の上・グラタンの中である。 万能のトライアングル。ヒロイックファンタジーの物語を展開していくキーとして、「三」の魔力を無視することはできない。
 
  
  主人公は故郷をめざす
 
 ヒーローとヒロインは冒険の旅を続ける。では、どこが二人のゴールになるのか。
 説明するまでもなく「故郷」である。
 このワンパターンぶりにはさすがの私ものけぞってしまうのだが、ありとあらゆる作品において、二人がゴールインする「約束の地」は故郷しかないのだ。「故郷」というのには、物理的な「ふるさと」もあれば精神的な「家庭」もあるのだが、ともかく二人がめざす地は「故郷」である。ヤマトの終着地は地球であり、アムロはホワイトベースの仲間たちのもとに帰り、マクロスも「地球へ……」もスリーナインも、結局は地球帰還の旅である。二人の旅こそ「帰還の旅」にほかならないと証明したのは、いみじくも「トップをねらえ!」であった。エンドタイトル寸前で地球に輝く「オカエリナサイ」の七文字は、物語のスケールがどんなに巨大であろうと、いきつくゴールはここしかないと高らかに宣言している。
 最後に「ナディア」の二人の最後のセリフを引用しておこう。
ジャン 「ここは……」
ナディア「宇宙船の中よ。あなたのふるさとへ帰っていくの」
ジャン 「違うよ。きみのふるさとさ。きみが生まれた星だよ……ぼくらは同じ地球人じゃないか」
ナディア「ジャン……」
……ワンパターンだけど、やっぱり泣かせるなあ。
 
 今回の講義はこれで終わる。大変長時間の講義であったが、つきあっていただいた聴講生の諸君に感謝を申し上げる。
 私が述べたヒロイックファンタジーの諸原則はけっして最近になって確立されたものではなく、古くは旧約聖書の時代から連綿と語りつがれてきたものである。
 この世に正義と愛を信じる人がいる限り、そして三角関係にもつれる人がいる限り……そして故郷を喪失し、ふるさとを探したずねるあなたがいる限り、これらの原則がくずれることはない。そして、さまざまな作品を生み出して、きみたちの人生に夢と希望を与えてくれるに違いない。ワンパターンもおおいに結構。これらの原則を十二分に充たしてくれる作品こそウェル・メイド(上出来)の作品であり、私が待ち望んでいるものである。
 《講義ノート記録:1991・4・21》
 
 


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