Essay
日々の雑文


 8   19930803▼論考『勇者は故郷をめざす』(3)
更新日時:
2006/05/28 

19930803▼作品論『勇者は故郷をめざす』(3)
 
 
 
 純正悪玉
 
 敵のボスである。最後に滅ぶことで話の結末をつけてくれる役。滅び方が派手であればあるほど、クライマックスの演出効果が盛り上がる。滅びなくてはならないので、残酷にして同情の余地がなく、絶対に改心せずに信念を持ってワルの道を貫く意志の力が要求される。そのタイプは3種類。
 
@真性悪役。救いようのないワル。ナディアのガーゴイルは最後までよくその役をこなした。滅び方も実に潔い。カリオストロ伯爵、ムスカ、レプカ、キシリア、グルンワルドにも「よくやった。ほめてやるぞ」と称賛を送りたい。余談だが、悪役の名前はカ行とラ行の音を含むことが多いようだ。
 
A美顔悪役。見かけは良くて、中身が悪役。描き方によってはワルさが一段と光る。しかしその美貌ゆえに何をやっても許されてしまう欠点もあり、意外や視聴者の人気が高まってしまい、話の途中で味方キャラに寝返らないとファンの支持を失う……という制作者泣かせの悪役でもある。
 
B不本意悪役。性善説に立ち、若いころの過ちによってワルになってしまったタイプ。これは扱いが難しい。出戻りしそこなった出戻りキャラといえるもので、いくぶんか同情の余地が漂うため、なるべく自滅させてあげるのが無難である。ヒーローがあっさりやっつけると、かわいそうになってくる。
 
 さて、私はヒロイックファンタジーのワンパターン化にはそれほど抵抗を感じてはいないが、悪役のキャラクター設定に関しては、きわめて批判的な見解を持っている。
 そもそも悪役とは、正義と愛による制約から完全に解放された、最も自由な存在なのである。悪の本質とは何か。世の中の一切の良識、道徳、規範を否定して自己の欲望のおもむくままに行動する、邪心に満ちた悪魔的な存在のことではないか。
 自己の欲望を満たすためなら手段を選ばない。謀略と欺瞞、嫉妬と中傷、卑怯にして卑劣、他人の良心を抜け目なく利用し、他人を陥れて平然としていられる冷酷な人格のことではないのか。
 それなのに作品中の悪役は、どうしてこうもワンパターンなのだ。作品中のあらゆるキャラクターの中で無限のバリエーションが可能なはずなのである。これこそ作者の腕の見せ所、作者のクリエイティブが存分に発揮されなければならぬ。なのに……なのに、どの悪役も金太郎飴なのは、どうしてなのだ? 考えてみれば、あまたある作品の中で悪役ほど型にはめられた存在はない。その証拠に次の法則をご覧いただきたい。
 
●悪役金太郎飴の法則(悪役迫害の三条)
 
@悪役は醜い顔と悪趣味な制服を与えられる。
A悪役は金と権力とSEXで世界最強を自惚れている
B悪役は計画性に欠け、悪業に一貫性がない。
 
 いったいいつのまに、誰が「悪役はこういうものだ」と決め付けたのであろう。専制国家を連想させる没個性なデザインのコスチューム、おおむね体形も醜く、よこしまを絵に描いたようにつりあがった眉、濁った目、薄い唇(自分の似顔絵を見るようで悲しくなる)……部下や家族にすら嫉妬して内紛で身を滅ぼし、しかも素人目にもヌケが目立つ、その場限りの戦術と、世界を悪で征服することができたら、その後どうしようかという将来ビジョンの欠如。
 これでは画一的な背広を着て、趣味の悪いネクタイだけで個性を主張した気になっている三流サラリーマンの私と同じではないか! ……とまで言い切るつもりはないが、それにしても、この安易な悪役イメージだけは何とかしなければならないという気になるものである。
 そして、数々の悪役たちの歴史は、この金太郎飴の法則から、なんとかして脱皮したいとあらがう闘争の歴史であった。ナチス、プロシア、ローマ帝国、クー・クラックス・クラン……すぐにお里が知れてしまう猿真似のお仕着せコスチュームに身を包まされながらも、悪役たちはそれでも必死に手を変え品を変え、個性を主張してきたのである。
 この場では詳しい議論に立ち入るのはよそう。悪役論だけで一冊の本になるだろうし、悪役論は実はそのまま現代の社会論につながるのである。ここでは要点だけを述べる。すなわち、非現実であるはずのヒロイックファンタジーの作品世界の中で、最も現実に近いのが悪役たちの組織社会なのである。あえて極論すれば、悪役こそ現代の我々の大人社会をそのまま描き写したものではないか、という仮説である。そんなばかな、私はそんなに悪趣味じゃないという方は、通勤通学途中の自分の姿を一歩離れて客観的にながめてみたまえ。背広姿のあなたがレプカに似ていないといえるだろうか。職場の制服を着たあなたがガミラスやムスカの兵士(下っぱの方だよ!)に似ていないといえるのか。スキー、スキューバのあなたはストームトルーパーでないといえるのか、夜中にパックしたあなたの顔がガーゴイルしていないといえるのだろうか! 
 ……ああいかん。私は少し興奮してしまったようだ。聴講生諸君、悪役論に深入りするのは禁物である。この私がとり乱してしまうほどに、この問題は悪魔的なのである。
 ともあれ、悪役の組織社会がそのまま現代の大人の実像を映しているという仮説に立てば、ヒロイックファンタジーの世界の解明に明確な指針を与えることができ、金太郎飴の法則が証明でき、ヒーローとヒロインが現実の大人社会の一員である親から切り離された状況で登場することにうなずけるのである。非現実の世界を構築するファンタジーの最大の敵、最大の悪役はこの現実社会をおいてほかにないのだ。
 それはさておき、話を戻そう。悪役のワンパターンなイメージを何とかしたいという話である。ここで私はひとつのアンチテーゼを提供しておく。現実社会の歴史において、古今東西を通じて、悪役がカッコ悪く登場した例はないということである。
 どのような悪でも最初はカッコよく現われ、その外見は人々を魅了し、理想と希望を与えるものと誤解されたものである。ナチスがその代表例といえよう。それならば、作品の中の世界にも、どこからどうみても正義の使者としか見えない、善のかたまりという外見を装った悪の親玉が出現しても良いだろう。その侵略手段は武器によらない。高度な精神力と魅力で武装した悪役である。その武器の用い方も正攻法ではない。善玉同士を不信のとりこにし、善玉同士で殺しあわせ、生き残った善玉たちに救いの手を差し伸べるポーズをとりながら、その心の中を支配してしまう怪物である。
 このアンチテーゼを具象化した決定版の作品がある。 「ホルスの大冒険」である。平和な村人たちの前に登場した悪魔の妹ヒルダはその美貌と不思議な歌の魅力で村人同士を離反させ、相互殺戮をもくろむのだ。二十年以上も前の作品である。しかしいまだかつて、ヒルダ以上に強力な悪役が登場した例はない。この、たったひとつのことだけで、この作品は現代のあらゆるヒロイックファンタジーを凌駕しているのである。
 ヒルダについてさらにコメントを加えると、彼女は悪役でありながらも、寝返りと裏切り、出戻りとよろめきといった複雑心理描写の役柄をすべてこなした大女優なのだ。味方としてホルスや村人の信頼を得、破壊工作では敵となりつつ、心の中では敵味方の間を幾度となく揺れ動く。最後は正体を現してホルスに斬りかかるが、剣劇のさなかですら、斬るべきか斬らざるべきか迷い続ける。ついに正義の側につくものの、ラストシーンに至るまで正義の側に受け入れられるのか迷い続ける。
 これほど鮮烈に敵味方をいきつ戻りつしたキャラはいない。人間心理の二面性を見事に演じた性格俳優であるといえよう。ローティーンの少女とは思えない成熟した演技に違和感を覚える方々もおられるかと思うが、彼女は悪魔の妹として、命の珠によって永遠の生命を保証されているのである。外見は十二、三でも実年齢はン千歳なのだ。いまどきの大人の女性よりもはるかにオトナびていて不思議はないのである。この点においても彼女はファンタジー史上に空前絶後の、横綱級のキャラクターといえるのだ。
 
 まったく異なった視点で悪役のワンパターン脱皮を試みた作品もある。「トップをねらえ!」である。目的もわからず人間の欲望の次元をこえた、しかも美しい宇宙怪獣たちは、新鮮なイメージでせまってくる。ただ残念なことはせっかくの怪獣たちが巨大な害虫以上の存在になり得なかったことだ。もう少しストーリーが展開すれば、宇宙怪獣の魅力にとらわれて神とあがめる地球人も現われたりして、おもしろくなったことと思う。
 
 ところでさっきから、悪役ばかりに時間を割いて、ちっとも話が進まないと退屈している聴講生もおられるだろう。しかし、ここしばらくは我慢していただきたい。悪役をどう設定するかで、主人公はもとより、すべての登場人物のキャラクターが左右されるのである。悪役なくして主人公なし。ヒロイックファンタジーのキャラ設定をヒーローとヒロインから始めるのは愚かな手法である。まず悪役ありきなのだ。戦う相手がなくて、主人公が存在できるはずがない。
 そこで、悪役のレーゾン・デートル(存在意義)である。悪役の目的は何か。これは重要である。「世界征服じゃ!」という金太郎飴がまた出てくる。もう結構と言いたい。征服してどうする、こんな世界など征服する価値があるのかと、どんな悪役でも一度は自分の職業をアホらしく思ったはずである。豪邸を構えて酒池肉林したいのなら、現在の権力で十分である。何をすき好んでこの上、世界征服しなくてはならないのか。
 この疑問に答えるには、悪役の心の中をのぞかなくてはならない。世界征服は単なるタテマエであって、心の奥底に秘めた悪への情熱の中心には切実な本音が隠されているのである。それははからずも現代のいくつかの作品に、共通したヒントを見いだすことができる。
 そのキーワードは「復活」である。
 デスラー以来、歴代の悪役たちが心から望み、そして果たし得なかったのは「○○の復活」であった。ガミラス帝国の復活、ジオンの栄光の復活、ゼントラーディ以前の文化の復活、太陽エネルギーとギガントの復活、巨神兵の復活、ラピュタの復活、そしてアトランティスの復活である。
 規模や内容こそ違え、悪役たちが全知全能を傾けて望んだのは「過去の偉大なる遺産の復活」だったのだ。その過程として世界を征服するのは二義的なことである。とにかく「復活」こそが重要である。
 なぜか。
 「復活」とは、滅びたものを再びよみがえらせることである。これは普通の人間にはできない。キリストを始め、「神のみわざ」の領域に属することである。単なる再現ではない。死んだものを生き返らせる行為なのだから。
 では悪役たちは、なぜ恐れおおくも神の領域を望むのか。自らご神体となって崇められたいというのではないはずだ。それなら過去の復活よりも、新興宗教の教祖に転職した方が有望である。悪役はもっと本質的なものを求めているのだ。死せるもののよみがえり。その「復活」のわざには「永遠」の香りが漂うではないか。悪役が望むのは永遠性、永遠に存在しつづける力。永遠の命なのである。その心の中にはきわめて人間的かつ根源的な叫びが渦巻いている。
「歳をとりたくない。死にたくない。永遠に今を生きたい!」
 ……ということである。
 「永遠に生き続ける生命の力」を得るためなら、世界征服だって何だって努力を惜しまないと決意した者が、悪役になりうるのである。ガーゴイルだって本当にほしかったのはアトランティスの世界破壊兵器なんかじゃなくて、ブルーウォーターに秘められた生命の力である。……まあ、こう考えると、悪役が生命力の強い若きヒロインを追っ掛け回す気持ちがわからなくもない。未来への希望に燃える美少女に嫉妬するのも仕方がないか……と考えるのは邪推というものである。誤解してはいけない。悪役が追い求めるのは「永遠の生命」であって「永遠の精力」ではないのである。後者を求めるのなら、ドラキュラに弟子入りして処女の血を吸った方が手っ取りばやいであろう。
 では悪役は「永遠の生命」を得て、どうしたいのだろうか。永遠の生命が可能にすることとは……もったいぶらずに言おう。「世界の行く末をすべて見届けられる」ことなのだ。この宇宙には終わりがあるのか、宇宙とはそもそも何なのか、我々は何のために存在しているのか……その解答を自分の目で見届けようと思うならば、宇宙が存在を終えるときまで生きつづけるしかないのだ。 悪役の真の望みはこれなのだ。普段の日常業務は主人公を追い回して縛りあげたり監禁したり、逃げられて地団駄踏んだりしているけれど、心の奥底にあるワルの理想は、宇宙の存在理由を自分の手で解明したいという、崇高にして哲学的好奇心に満ちたテーマなのである。ただ、もたもたしていると自分の寿命が打ち止めになってしまうので、あせっているんだよね。
 この悪役と対照的な生き方をするのがヒーローとヒロインである。二人は決して「永遠の生命」に固執しないのだ。自分たちの生命は有限であっていいと信じているし、あえて「永遠の生命」を得るチャンスを拒否するシーンすら出てくる。
 「ホルスの大冒険」でヒルダが永遠の生命を保証する命の珠を放棄するのが、その代表例である。
 また「ナディア」ではブルーウォーターがジャンを生き返らせたが、これは一回きりのことであって永遠性はない。またジャンを不死の身体に変えたわけでもない。自分たちの生命は次の世代に託せばいいと思っている、そして限られた人生だから精一杯生きようという人生観を象徴している、というわけだ。
 このことは、ラストシーンを迎えた二人の手元に何が残ったかをみてもわかる。物質的なものは何も残っていないのである。大冒険の収穫として残ったのはこれから大人になる二人の「愛」だけである……という結末のなんと美しいことか。二人は、一度きりの青春を燃焼してただ次の世代を生み出すことにつながる「愛」のみを手にするのである。
 
 このように、悪役というものを分析するだけで、作品の持つ世界観が見えてくる。どの作品も多かれ少なかれ「私たちの生命とは何か。永遠たるべきか、有限たるべきか」という大命題にひっかかっている。万古不滅の巨大なテーマである。このテーマとどのように関わっていくかが(ここで突然俗っぽい表現に落ちてしまい恐縮だが)作品のウケを左右するのである。ナウシカを観て泣いた人も多いと聞く。従来のアニメファンでない人も心底から感動させたという。その理由はあの作品の背景に仏教的な輪廻の生命観が暗示されていたためかも知れない。
 
 一九九三年時点での補足
 
 ここで、活字のSF・ファンタジー世界における主人公たちに寄り道してみたい。
 
 ヒーローとヒロインは無国籍であることが多い。
 
 その手法として、
@舞台として最初から架空世界が設定されている。
A子供である。(子供の心に国境はない)
B大人である場合は「大人であっても子供の心を持ち続けていられる特殊な境遇」(例えばマッドサイエンティスト)が設定されている。
 
 SFの古典的主人公であるネモ船長にしてからに、ネモ(誰でもない)という名前の無国籍人である。もちろん制作者側の意図で、主人公が無国籍である方が描きやすいとか、作品を海外に輸出しやすいといった事情もあるのかもしれない。が、それは副次的な理由である。
 なぜ、主人公に無国籍性が必要とされるのか。
 主人公を現実社会のくびきから解放し、作品の虚構世界の中で自由に活躍させるためである。
 主人公が日の丸を背負ってしまったら、例えば彼は勤務先の朝礼で君が代を斉唱するのか、憲法九条や北方領土問題をどう解釈しているのか、国連軍に参加できるのか、町内会の役員を引き受けるのか、国民年金に加入しているのか、自宅に仏壇はあるのか、赤い羽募金に協力するのか、といった質問に答えるシーンがないとは限らない。
 とりあえず主人公を現実から切り離し、虚構世界に飛び込ませるのに、無国籍性はなにかと便利である。そして読み手としても、無国籍人の方が感情移入しやすい場合もある。
 ここで、読者のニーズも関わってくる。
 なぜSF・ファンタジーを読むのか。
 人それぞれの理由があるだろうから、ここでは一読者としての私見を述べる。
 ストレスの解消である。
 SF・ファンタジーは現実世界では不可能なことを可能にしてくれるからだ。それはとりもなおさず現実の人生ではかなえられないことを、主人公に感情移入することで心象体験できることである。現実社会の中で思うようにならず、鬱積したストレスを主人公は解消してくれるのだ。
 だから、読み終えたときに、自分の中のなにかが、いい方向に変わったと感じたい。一言で言えば、スッキリしたいと期待している。間違っても、読むにつけ煩悩が増し、悩み深まり、不快指数が高まり、イライラが昂じたまま、はいおしまいというのは願い下げである。
 そこで、現実社会によって鬱積したストレスを解消してくれる主人公とは何か、である。
 虚構世界であるSF・ファンタジーの最大の敵は現実社会そのものである。単純化していえば、主人公は読み手になりかわって、現実社会のストレスと戦って、いい勝負をするために登場するのだ。
 だから、主人公が社会的強者であっては具合が悪い。 普通の人が日常生活で感じる弱さや、ひけ目や劣等感や、憤りや、不安や、欠乏感を併せ持っていてほしい。そうすることで、読み手のストレスをまず共有することができるからだ。最初から万能のスーパーマンでは話にならない。水戸黄門ですら番組が始まってから印篭を出すまで四十分は我慢しているのである。ウルトラマンでも三分過ぎればただの人である。強いだけではヒーローにならない。
 さて、こうして主人公は社会のストレスと戦うことになるが、問題はその戦い方である。
 敵をぶっ殺せばいいというものではない。
 戦いには、次の三つの段階がある。
 
@ 目先の敵をやっつける。
 
 刑事が犯人を検挙するようなものである。
 
A その背後にある真の敵をやっつける。
 
 犯人を操っていた黒幕の巨悪を暴くようなものだ。
 戦いはこれで終わったように見えるが、実はそうではない。次の段階を忘れてはならない。
 
B 敵との戦いによって生じた犠牲を癒す。
 
 犯人と黒幕の犠牲となっていた人々や戦いの巻き添えになって傷ついた弱者を救済する仕事である。戦争でいえば戦後の賠償と国土の復興。闘病生活なら退院後のリハビリである。三角関係なら思い破れた一人に新たな恋人が現われるようなものである。
 このBは見落とせない。物語としてはAで終わってもBの結果が暗示できるか否かでラストシーンの印象がまるで違ってくる。またBを配慮すれば@Aの戦い方も変わってくるはずなのだ。
 つまるところ、このBまで貫徹してこそ、主人公は敵であるストレスを解消したことになるのである。ただ敵に勝つだけではヒーローの、読者に対する責任が終わったとはいえないのだ。
 Bの弱者救済とは、つまり魂の救済にほかならない。 たかだか通俗小説のヒロイックファンタジーで魂を救うなどとはおこがましいと言われるかもしれない。しかし同じく通俗的な映画やミュージカルや演劇の大団円シーンを観てみたまえ。ヒット作ほど魂の救済を大々的に暗示するシーンを用意しているではないか。キャッツやコーラスライン、ETや未知との遭遇……むしろSF・ファンタジーほど「魂の救済」を追求しているのだ。これをハリウッドとブロードウェイだから許して、銀座と神田にできないとするのは偏見ではないか。
 なにもアメリカ的ど派手なシーンでなくてもいい。
 戦いが終わり、傷ついてひとり立ちつくす主人公がふと口笛を吹く。無意識にしばらく奏でてから、あ、これは昔、彼女が好きだった歌だ、と気づく。それだけでもなにかが少しは救われているのだ。
 
 
 
 
 
 
 ミーハー・トリオ
 
 シリアスな筋運びに笑いをもたらす、アクセントとなる役回り。人物3人に動物かロボットを適当に添えて登場させることが多い。ガンダムのカツ、レツ、キッカとハロがそうだが、これはどちらかというと失敗したケース。マクロスではブリッジの3人娘とワレラ、ロリー、コンダであり、コナンではダイスにグッチ、ドンゴロスの組合せなど。「ナディア」ではグランディス3人組がこの役をかねている。マジメキャラにデコボコ・コンビという組合せが一般的。スターウォーズではチューバッカにロボットコンビということになる。
 話の時間が短い劇場ものでは、3人組の代わりに動物キャラを使う。これは笑いよりも可愛らしさに重点を置いている。「魔女の::」のジジ、ナウシカのキツネリス。ホルスではヒルダの友達のチロ。動物キャラは一方ではヒロインが男まさりの、きつい性格に設定されているときに、その母性本能を引き出して、裏に隠れた優しさを輝かせるために登場することもある。
 
 謎の人物
 
 敵か味方かわからず、不信感を醸し出す役。ストーリーのハラハラ要素に効果的だが、最後まで謎の人物のままで終わっては何にもならないので気をつけたい。 〜 の役がかねることが多い。コナンのラオ、ナディアのネモが名演技を残した。
 
 フライデー
 
 主人公の忠実な下僕。対等な友人として登場したものの、ヒーロー、ヒロインの勢いに押されて没個性化したキャラクターも含む。終わってみると所詮は主人公の引き立て役か、の一言で片付けられる影の薄い役である。ヤマトの島、コナンのジムシー、ガンダムのフラウ。いずれも真面目ないい人なのに、その他大勢の中に埋没してしまう方々である。まあ、男性キャラは仕方ないとして、ガンダムのフラウはあれだけそっけない存在にされてしまったのが可哀相でならない。
 
 
 ヒロイックファンタジーに必要な登場人物のタイプはおおむね以上の九種類であって、その他はまさに「その他大勢」である。ストーリー展開のポイントにはならずだれかいた方がいいから、という程度の、いわば背景の一部として登場している。しかしここでもうひとつ、作品に付加価値をつける重要なキャラクターを加えておかなくてはならない。歌舞伎役者の大見得に拍手を送る日本人の国民性が必要とする、独特のタイプである。
 
 アブラゲトンビ
 
 これはどちらかというと、作者の意図とは別に、はからずもこうなってしまう、というキャラクターである。途中まで脇役にすぎなかったのだが、話が終わってみると、主人公よりもできがよくて、主人公よりも印象に残ってしまうという特殊な魅力を持った存在である。主人公はきっと、物語の幕が降りてから、トンビにアブラゲをさらわれた気分で悔しがっているにちがいない。
 ガンダムのララァ、マクロスの未沙、コナンのモンスリー、ホームズのマリー・ハドソン、ナディアのネモとエレクトラがそうである。スターウォーズのハン・ソロはおもしろいケース。第一話でさっそくルークを食ってしまったので、その後はレイアとうまくいくしかない、結果的にレイアを取られたルークを救うためルークの方を強引にレイアの兄弟にするしかなかったという説も。 ただ、このアブラゲトンビ役を意図的に仕掛けることで、作品が大人のファンの心をつかむことができるのも事実だ。例のヒロヒロ三原則に拘束されないキャラクターなので、オトナの演技ができるのである。少々アクが強くても、スレていても、フリンしていてもいい。やりかたが卑怯でなかったら殺人もSEXも許される。それが主人公にはできない魅力の一面を形作る。
 このようなキャラを仕組んでおいて、話のクライマックスに参加して名場面を与えることだ。女性キャラの場合は態度と仕草で、男性キャラの場合は名セリフでキメさせるのである。高度なテクニックであるが、これがあってこそ、ラストシーンに余韻が残せるのである。
 「カリオストロ」の銭形警部がクラリスに「いや、やつはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」といって敬礼するシーン、コナン最終回のラオ水葬の場面で、それまで小市民していたダイスが「帽、振れーっ!」と叫ぶシーン。宝島の最終回で「おれたちだって、その気になりゃ、まだ立派に飛べるんだ」とつぶやくシルバー。前述した、お導き役が死ぬシーンにおいても同じである。大人のキャラが男をあげる場面はここをおいて他にないのだ。
 女性キャラの場合は、文字で説明しにくい。ちょっとした表情がキメ手になるからだ。ナディア最終回でネモに「後のことは頼む」と言われてお腹をそっと押さえ、決意をこめて「はい」とうなずくエレクトラの表情、といったところだろうか。(それにしてもよくできている::ストーリーの展開上、死ぬことが決まっているネモと、彼を愛するエレクトラの関係を放置しておくと、この二人は最後に心中するしかない。かといって彼女をノーチラスから降ろすとしたら、降りろ降りないで大口論のシーンが発生する。しかも墜落するレッドノアの中で激論させるヒマはないのだ。この問題を解決するため彼女はネモの子を身篭もり、生きるために素直に降りる、決定的な動機を与えられたのである)
 私はあえて断言する。「歴史にのこる名演技」はヒーローとヒロインのものではなく、アブラゲトンビになる脇役のものなのだ。
 
 


prev. index next



HOME

akiyamakan@msn.comakiyamakan@msn.com