Essay
日々の雑文


 10   19940100●雑感『クリスマス(2)サンタなき聖夜』
更新日時:
2006/10/17 
940100
 
 
クリスマスのお話(2)
 
 
 
サンタなき聖夜
 
 
 
 
 
●人類最初のクリスマス・イブ
 
 去年(1993)、初めて教会のクリスマス礼拝に行ってきました。
 近所のプロテスタント教会です。大津は戦災に遭っていないので、素朴な切妻屋根と塔の整った木造の教会が残っており、娘もそこの幼稚園に通っていました。とはいえ私も妻も娘も信者ではなく、大晦日に三井寺、初詣は近江神宮へ行くのなら、クリスマスは教会に……という安易な動機です。
 礼拝は例によってキャンドルサービスがあり、聖書の朗読と賛美歌を交互に歌うという次第です。演出された厳粛さはなく、聖書の一節を読む信者代表もときどき文句をとちったり、つまったりしながらも、おだやかに儀式は進みました。
 礼拝のクライマックスは、牧師さんの講話です。出席者が手に捧げる数十本の蝋燭の光に照らされて、彼はこう語り始めました。「みなさん、今夜はタイムトンネルをくぐってほぼ二千年をさかのぼり、聖なる第一回のクリスマスの夜に心をはせることにしましょう……」
(なんだかSF的イントロで喜んだのですが、世俗の垢にまみれたサラリーマンの私はこのとき、会社の創業記念日の会長講話を思い出し、そうか今夜はキリスト教の創業記念日であり、上席役員が創業者の偉功を讃える話をするのかな……と罰当たりなことを考えたりしています)
 しかし、それから牧師さんが滔々と語った、歴史上最初のクリスマスの夜の話は、やや意外な展開でした。
 
 クリスマスはキリストの誕生日、これは当然なのですが、牧師の話は終始、主イエスその人よりも信者である羊飼いたちに焦点を当てています。 
 第一回のクリスマスの夜は、もちろんクリスマスでも何でもないただの夜であり、華やいだ祝いの風景はなく、むしろ圧政と貧困と、不満と怨念に満ちた寒い夜だった。ユダヤ人たちはローマの総督に屈従しており、ユダヤ人の中でも財産を持たない羊飼い(羊は所有せず、本来の持ち主から羊の群れを委託されているだけの雇われ人)たちはさらに迫害され、蔑視されていた……。
 
 ベツレヘムの街には人があふれかえっていたが、それは祝いごとのためではなく、人口調査のために集められたにすぎない。その目的は、支配者による徴税の強化であり、集まった人々にとっては新たな苦しみの始まる日でしかなかった。
 この夜、貧しい羊飼いたちは、街の近郊で野宿していた。そこへ天より神の御使が現われ、救世主の生誕を告げる。天を駆け、光輝く御使たちに恐れおののくかれらだったが、ようやく御使のメッセージを理解した羊飼いたちは、一縷の希望を胸に街をめざす。
 馬小屋のマリアとヨセフ、飼葉おけに寝かされているキリストを探しあてたかれらは、喜びいさんで、街の人々に救世主の到来を触れて回る。無学無産の羊飼いたちを軽蔑していた市民はそれを信じず、奇異に思うだけだ。しかし羊飼いたちは、自分たちの神を高らかに賛美しながら夜明けの荒野へと帰っていく……。
 
 そんな話でしたが、つまり最初のクリスマスとは、それまで社会の最下層にあって、普通の人々と口をきくこともできないほど萎縮していた羊飼いたちが、はじめて人生に希望を抱き、他のユダヤ人に嬉々としてその思いを語り、人間の誇りに目覚めた日だ。という主旨でした。自己喪失していた人々がアイデンティティを持った日だったのです。
 今更に気づくのですのが、人類最初のクリスマスにはサンタクロースは存在せず、華やかなツリーもケーキも現われません。およそ現代のクリスマスのイメージとはかけはなれた、しかし重厚な意味があったように感じます。
 
●サンタのいないクリスマス
 
 豊かな日本のクリスマスからサンタを抜くと何が残るのかと思うのですが、本棚とビデオを探してみると、サンタ抜き、つまり華やかさや豊かさとは無縁のクリスマスの物語がずいぶん見つかります。
 
 クリスマスのケーキ「ビュッシュ・ドゥ・ノエル」は丸太の形をしていますが、その由来はクリスマス・プレゼントです。昔、ある貧しい青年がクリスマスの夜に、愛する彼女にプレゼントを贈りたいと思う。しかし貧しくて、贈る品物もそれを買うお金もない……そこで彼は一本の薪を持参して彼女に言う。「僕が差し上げられるのは、こんなものしかありません。どうかこれを燃やしてあたたまって下さい」
 1800年代中頃。ディケンズの「クリスマス・カロル」で、スクルージが第二の幽霊に導かれて世界中のクリスマス風景を走馬灯のように見るシーン。「……善い人であれ悪い人であれ、一年中のどの日よりもこの日には、互いに親切な言葉をかけあった……」
 1906年頃。O.ヘンリの「賢者の贈り物」のラスト。「我が家の一番大事な宝物を最も賢くない方法で互いに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たち……だが、最後に一言。贈り物をするどんな人たちよりも、この二人こそ最も賢い人たちであったのだ……」
 1933年頃。ケストナーの「飛ぶ教室」。貧しさゆえに、寄宿学校にいる息子に帰郷の旅費を送れず、二人きりで寂しいクリスマスを迎えたターラー夫妻の会話。「ねえ、おまえ、こんどのクリスマスは、おたがいになんのおくりものもできない。それだけに、わたしたちは、いっそうよけいにお祝いをいおうじゃないか」
 1948年頃。米映画「34丁目の奇蹟」ではサンタが登場するが、それはデパートの玩具売場で商品を売り付けるセールスマンと化した現代のサンタを揶揄した存在として描かれる。そこで本物のサンタが現われて、本当のクリスマス・プレゼントは金で買う玩具でなく、夢と幸福なのだと諭す。
 1952年頃。ピート・ハミルの「ブルックリン物語」(ただし出版は1973年)。海軍から、クリスマス休暇でブルックリンの実家へ帰ってきた17歳の主人公ピーター・ハミル(作者自身だ)。事故で片足を失い、酒びたりで稼ぎの悪い父親は、久しぶりで再会した息子を前にしてろくに口もきかない。クリスマス・イブ、父親の行きつけの酒場に初めて顔を出したピーターは、父親に生まれて初めて酒をおごる。父はそこで酔いにまかせて立ち、故国アイルランドの歌を朗々と歌うのだ。「歌は父自身から離れ、同時に父自身の中に入りこんで、顔は輝き若々しく天衣無縫で、まさにひとり舞台だった。そして歌は歌を呼び、それらの曲は父から聞きたかったことがらにあふれ……父が海をこえて持ってきたものすべてが込められていた」そして父は誇らしげに、息子を友人たちに紹介する……「こいつは倅のピーターだ、私の自慢の」
 1963年頃。仏映画「シベールの日曜日」。孤児の少女が愛するピエールに贈ったプレゼントはマッチ箱に入れた紙片。そこには彼女の本当の名前が書いてあった。両親に捨てられ、何ひとつ財産を持たない少女にとって、自分の名前こそ、この世界におけるアイデンティティのすべてであり、人に贈れる唯一のものだったのだ。
 
 こうしてみると、時代は移っても、なにかクリスマスの原点にあたるものが時をこえて存在し続けているような気にもなります。
 人類が銀河を超えて旅する時代に、超光速で飛ぶ宇宙船の船員たちや、一公転に数百年かかる惑星とか、植物のない(ツリーにする木がない)星で暮らす人々はどんなふうにクリスマスを祝うのか……もしかすると、地球がクリスマスを迎える夜に、その夜空に見えるように光信号を送る(とはいえ、地球に届くまでには数百年かかるでしょうが)といった風習が生まれているかもしれません。イブの夜、地球では人々が街の照明を消して自然の星空を取り戻し、松明と蝋燭を手にして塔へ昇り、数百光年をこえて届く光のプレゼントを待ち受ける情景がみられるかも……。
 そんな話を、いつか書いてみたいと思っています。
 
 
 


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