Essay
日々の雑文


 72   20110901●雑感『無宗教宣言』
更新日時:
2011/12/20 
20110901
 
 
 
 
「無宗教宣言」
 
 
 
お墓とお金
……そうか、私がお墓に入らなければいいのだ。
そして「散骨クラブ」のススメ
 
 
 
 
 
 
【以下の本文は2011年8月に書いたものです】
 
日本の、特に仏式のお葬式にかかる費用は一般に葬儀二百万円+お布施五十万円と言われている(実際はもっとかかることが多い)。しかし核家族少子化が進み、貧富の格差が拡大した今、仏教のお葬式はその労力も費用も、普通以下の家族では担えない規模と額になってしまったことを実感する。両親の葬式に加えて代々のお墓の維持費と毎年のお布施、墓の修復や仏壇の買い替えなど積算すれば、長男夫婦にのしかかる生涯宗教費用が一千万円を超えることも想定されるのだ。しかし、宗教や墓との関わりをリストラし、「無宗教・火葬式のみ・散骨」を選べば、一千万円のコストが百万円程度に圧縮でき、それだけ、残された家族の生活を支えることができる。
ごくフツーのサラリーマン家族にとって、もはや選択の余地はないだろう。「断捨離」ならぬ「仏捨離」の時代が近づいているのではないだろうか。
 
 
 
●非科学的な現実
SFの最大の敵といえば、何だろう。まあ「敵」というのは言い過ぎかもしれないから、「正反対と言っていいほどに対立する概念」と考えてみよう。
一般に、正反対の対極的な概念は、ハブとマングースの如く、天敵のように扱われる。「戦争と平和」「善と悪」「天使と悪魔」「デカとホシ」「男と女」「金持ちと貧乏人」、かつての「アメリカとソビエト」「資本主義と共産主義」……
なら、「SF」にも対立概念があるだろう。
SFをサイエンス・フィクションと読むならば、その意味は「科学的な空想」といったところか。そのまま言葉を裏返せば、SFの対立概念は「非科学的な現実」となる。
それは、非科学的なるもの……すなわち、科学ならざるものに立脚している何かであり、しかも現実として存在するものである。
その代表格が「宗教」であることは、ご納得いただけると思う。
科学的に存在が立証されていない神や仏を信じ、救世主の到来を信じ、天国や地獄を信じ、それらが現実に存在していると心から確信する行為であることにおいて、宗教は全般的に「非科学的な現実」という範疇に含まれるだろう。
 
それは、はからずもSFの信奉者である私にとって、とにかく理解しがたい、超苦手な概念である。日々、「科学的な世界を空想したい!」と願い、それをささやかな人生の幸せとして生きているのに、例えば目の前に、科学的根拠とは無関係な御仏壇やお墓がでーんと出現して、事実上の喪主として葬儀を主催するはめになると……
なかなか、とても、辛いものがあるのだ。
 
もちろん宗教には敬意を払いたい。御本尊や聖典や宗教施設を無意味なものと愚弄するつもりは一切ないし、信仰する人たちに無宗教を説くつもりも一切ない。ただ、個人としての自分自身が、科学的に立証されていない神仏や霊の世界や閻魔様の裁きを「現実に実在するもの」として信じられるかといえば……完璧にNOなのである。
 
と、いうことで……
SFを信奉する私は、宗教というもの全般になじめないのだ。
科学的に立証されたものを事実と信じ、科学的に立証されるであろうことを空想することを楽しみとする生活は、いまさら転向できないのである。私の中において、宗教を信じるのはSFを否定することなのだ。昔の隠れキリシタン摘発のようにSFと書かれた踏絵を踏むことを強制されるようなもので、結局のところ踏めずに、SF形の十字架にかけられて殉教してしまうのではなかろうか。そんなわけで、地動説のガリレオや進化論のダーウィンは、やっぱり偉い人だったなあ、と思う。遺伝子のメンデルさんも大陸移動説のウェゲナーもビッグバンの提唱者も偉いと思うし、日本沈没の田所博士も尊敬したい。
「科学的に立証される物事を現実とし、科学的に空想する」
そういう生き方でありたいと思う。「この世には、科学で割り切れない物事がある」という方もおられるが、科学で割り切れないとされる物事を科学的に探求することで、人類がさまざまな欺瞞や迷信から解放されてきたことも事実ではないか。
 
余談だが「原発の安全神話」という言葉が世間を闊歩した。「神話」と称する以上、原発の安全性が科学的に立証されていないことを自ら認めるという、自己矛盾表現なのだが。「原爆は危険だが原発は安全」と、科学的な根拠がないにも関わらず、ゆるぎない現実であるかのように、みんなが信じてしまったことに、フクシマの惨劇の原因があるのだろう。ならば科学的に立証されていない安全性は絶対に信じてはいけないと、日本人は学習したはずなのだが、震災から半年を過ぎた今、そんな簡単なことも忘れてしまったようだ。「国が責任を負う」から「原発を再稼働してもいい」という政治的判断に、いかなる科学的根拠があるというのだろうか。学者先生がそう言うからといって「プルトニウムも少しなら身体にいい」と信じるようなものである。
 
●私は無宗教
誤解のないように重ねて申し上げる。この雑文の筆者である私は、仏教をはじめいかなる宗教も信仰していない無宗教者である。私が信奉するのはSFであり、世界でいちばん好きな教典があるとすれば、それは日本国憲法であり、神が実在するとすれば、日本国憲法における「信教の自由」を定めた条文こそが神に相当すると考えたい。
 
……と、自分の無宗教性をくどくど述べる失礼お許しいただきたい。それは、この雑文が、いずれ私が死んだときに遺族が読んで、私の葬儀に関してあれこれ迷わなくてもいいように、という意図があるからだ。何も書き残さないでいると、なんとなく社会通念で「長いものに巻かれましょう」式に、仏式の葬儀になってしまう。そうではなく、「無宗教」であることをここに明記しておきたいのだ。つまるところ、正規の遺言書を作るにはまだ早いので、先にホームページに意思表示して、家族に周知しておこう、という魂胆である。
 
公開された電子媒体に自分の正式な遺言に先立つ「プレ遺言書」を残しておくことは、これをお読みの皆さんにもお薦めしたい。ご自分の葬儀形式は、生前のなるべく早いうちから、ホームページなりブログなりメールといった、第三者に確認できる記録に残しておくのが賢明である。でなければ、「なんとなく仏式」になり、そして葬儀費用の請求書とお布施の額に、あなたでなくご遺族が仰天し言葉を失い、果ては生きる気力すらなくす結果になることも……ないとはいえないだろうからだ。
 
二十世紀の私たちは永らく、人の死を社会的なタブーとし、身内ですら葬儀の在り方を語り合うことを避けてきた。しかしもう、そんな体面を気にしてはいられなくなってきた。生きているうちに自分の葬儀とその費用について、尻を捲って赤裸々に希望を述べ、遺族が困らないように話をつけておかないと、冗談抜きで「子孫にツケを回す」ことになりかねない。葬儀費用は、生涯の出費としては住宅の購入に次ぐスケールに膨らんでいる。買った家屋は財産として残るが、葬式の費用は、形あるものは何も残してはくれない。人生にそう何度とない「一夜にして大金が消え失せてしまう」現象なのだ。それだけに、不用意に死んでしまうと、自分を弔う子供たちの首を絞めかねないのである。
 
さて私の場合について書き記しておこう。
ただしこれはあくまで私個人の考え方であり、社会一般に対して主張するものではないことを、あらかじめご了解いただきたい。
 
●葬儀費用との遭遇
一月に父が亡くなった。高齢であり入退院を繰り返していたので、世の中によくあるケースだと思う。病床に家族がみな集まって、看取ることができた。母は元気だが高齢なので、長男である私が喪主代理を務めて葬式を出した。
父の葬儀は本人の希望により仏式だった。生前から熱心に菩提寺へ寄付して、分散していた先祖の墓石をまとめて集合墓をつくり、自分が入る墓石を新築して、夫婦揃って戒名を墓石に刻んでいた。仏壇も箪笥より大きなものを新調していたから、仏式で行うことに疑問の余地はない。
とはいえ墓の造営や仏壇の新調は長男の私が知ると反対するに決まっている、父は聞く耳持たぬとばかりに黙って強行してしまった。古代エジプトのファラオ気分だったのだろうか。ご先祖の(とおぼしき)何基もの古びた墓石を従えて、その中央にいずれ自分が入ることになるぴかぴかの墓石が建立されたときは、さぞ満足したことと思う。菩提寺の墓地で最大級の墓石集合体であり、知らぬ人が見たら、どこの殿様のお墓かと、墓碑銘を確かめたくなるかもしれない。
そのおかげで……
父の死によって、頼んでもいないのにある日突然、無宗教者である私の目の前に普通のお墓に数倍する規模の“○○家代々の墓”と、トイレの個室なみの大きさの仏壇が姿を現して、さあ拝め、さあ墓守りをしろとせまってきたのである。NOの一言も許さず問答無用で、これから自分が死ぬまで背負わねばならない。母親は平然として、長男だから当然でしょうという顔をする。
改めてその豪壮な墓石の前に立って拝んだとき、私はただ、人生最大級のため息を漏らすしかなかった。
これをいったい、どうしろってんだ……
只今お取り込み中のフクシマ第一原発一号機から六号機を見るような思いで、私はずらりと並ぶ墓石を眺めていたのだと思う。無宗教者である私の人生に、これらのものは全く必要がないのだ。だからといって棄てるわけにはいかない。墓は檀家の私有財産ではなく、檀家の意志で自由に処分することはできないということを、父は知らなかったのだろう。
墓石の下には、メルトダウンした格納容器……ならぬ、ご先祖のお骨と霊が鎮座なさっている。私は霊の存在など信じないが、墓を冒涜するつもりはない。とはいえ、ご先祖の霊という物理的実体のない非科学の産物が、自分の家の名を刻んだ墓石に実体化して、そこに存在している。これはまぎれもなく現実であり、しかも思いっきり受け入れがたい「非科学的な現実」であるのだ。
そしてさらに非科学的な現実として、その豪壮なお墓の入居費用は……
お一人様四百万円。
つまり、それが、父の葬儀一式のお値段だったのである。
当然、今生きている母親は自分もこのお墓に入るものと思っている。費用は喪主となる長男がなんとかするだろうと笑って誤魔化している。それまで、参列者からお香典をもらえば葬式代を完全にまかなえて、おつりが来るとすら思っていた節がある。
現実には、そんなに甘くないことは知っていた。かりに葬儀費用を百万円としても、お香典は半額ほどお返しするので、二百人もの参列者に一万円ずつ包んでもらわねばならない計算になる。こうも多数では、香典返しの事務処理を想像しただけでアウトである。お香典は一切ご辞退とした。それでも母親が「仕方がないから」と受け取ってしまったケースが数十件あって、おひとりずつ、お名前・住所・電話番号の確認をせねばならなかった。香典袋にはそんなこと、きっちりと書かれていないので、人づてに聞くしかない場合も、ままある。それ自体は大きな手間ではないにしても、お役所の相続手続きまで含めて、葬儀の事後処理を実質的に自分一人でこつこつとやっていくしかないのは、骨が折れる。
というわけで、葬儀費用は原則的に香典に頼ることなく支払った。
 
総額四百万円と述べたが、その内訳で大きいのは、戒名から葬儀の読経、そして百か日の法事に至るまでの、住職様へのお布施がフルセットでおよそ百万円、葬儀会場の仏式祭壇使用料が二日で百万円。要するに、葬儀社から形式を問われたときに「仏式です」と言ったとたんに二百万円が飛んで行ったことになる。
これは衝撃的だった。私は日々スーパーの特売品をあさり、チケットショップを利用して十円二十円を節約するのが当たり前の生活を送っているのだ。なのに田舎の葬式は、お金をかけるほど供養になると思われているのかもしれない。喪主である母は、祭壇もお花も棺桶も、みな平均以上のレベルを注文した。駆けつけた親類縁者の手前、一番安いランクは発注しづらい。結果、葬式は立派なものになったが、お布施を含めた費用四百万円を一発で支払うことになった。
私がそれまで漠然と想定していた葬儀予算は百万円台だった。父親一人で三人分の予算を使い切ってしまったのだ。
もう、出せるお金はない。
私はファーストガンダムの冒頭のナレーションを思い出さずにおれなかった。
「……人類は、自らの行為に恐怖した」
私も、みずからの葬儀に心底恐怖したのである。
いかなるホラー映画よりも、現実の方が恐ろしい。
そして、これから、どうしたらいいのだ。小さな座敷を完全に占領した巨大な金ピカ仏壇の前で、徹底的に気分が凹みまくる日々が始まった。ともあれ自分で考えて、今、結論を出さねばならない。ぐずぐずしていると……
次のお葬式がやってくるのである。
 
●現代の家族では支えられない仏式葬儀
さて私は、父親の葬儀費用が総額四百万円だったことについて、「高すぎて不当である」と抗議するつもりはない。これは自らの誤算が招いた「想定外の事態」である。その点どうか誤解されないように……。
 
とはいえ、葬式に振り向けられる予算が家計から消えてなくなったという現実は率直に認めて、すみやかに対処策を考えなくてはならない。問題は、漠然と考えていた金額と、実際に支払った金額の大きな差が、いかなる原因で生じたか、ということである。
 
日本消費者協会が平成15年に調査した葬儀費用の全国平均額は、236万6千円。地方によって大きな差があり、例えば、愛知・岐阜・静岡・長野・山梨の中部地区では平均 378.9万円で全国一高いエリアとなっている。一番安い地域は、栃木・茨城・群馬・千葉の関東地域で平均 165.1万円。同じ関東でも、東京・神奈川・埼玉では平均 313万円と全国で2番目に高いという。これらの金額にはいわゆる戒名代までは含んでいないようだから、それらのデータを信じるかぎり、私の父親の葬儀費用はハイレベルとはいえ、ありえない金額というわけではなさそうだ。
また、『葬式は、要らない』(島田裕巳著、幻冬舎新書)によると、日本の葬儀費用の平均は231万円で、主な内訳は葬儀社に支払う葬儀一式費用(平均142万3000円)、料理屋に支払う飲食接待費用(平均40万1000円)、お布施や心付けといった寺などに支払う費用(平均54万9000円)となっている。
 
しかし欧米・諸外国と比較すれば……
アメリカの葬儀費用は平均44.4万円、イギリス12.3万円、ドイツは平均19.8万円、韓国は平均37.3万円(冠婚葬祭業サン・ライフによる)。日本が「飛び抜けて高い」と言われるのはもっともなことだ。なぜ日本ではこんなに高いのか。イギリスは葬儀自体にかかる費用が4万円程度、棺も4万円程度で、その他教会への費用が1万円強で済んでしまうという。「仏式」にしたとたん二百万円が吹っ飛んでしまった当方のケースと比較するまでもなく、ニッポンのお葬式の最大のコスト要因は、お葬式の実費ではなく、いわば付加価値部分を占める宗教費なのだ。
 
家族単位でみた、生涯スパンの宗教費用を考えてみよう。
長男は事実上の喪主として、両親の葬儀を行うことになる。私の場合、父親で四百万円かかったのだから、両親併せれば八百万円。過去三十年余りのお墓維持費とお布施で累積百万円、仏壇を新調して百万円、これで一千万円である。さらに私の父はお墓の造営に数百万円をかけている。一世代の負担で、ざっと千五百万円くらいを払うことになるわけだ。
これは住居の購入費用に次ぐ、生涯規模の大出費である。いや住居を買えばそこに住めるが、宗教費用は現世に何ひとつ残してはくれない。来世に備えた信心に基づく「喜捨」であるから当然ではあるが、すくなくとも私はこの金額を今後出せるかどうか……という、しごく現実的な選択にせまられてしまったわけだ。
お葬式をタブー視して、その形式や費用について「考えたくない」という方もおられよう。そういった方は、この文を読まれない方がいい。私が直面しているのは、お値段の妥当性ではない。ともかくも、今後想定される金額を支払えるかどうか……
 
つまり、純粋に「支払能力」の問題なのだ。
支払えない金額を無理して支払おうとすると、借金しなくてはならない。
後で述べるが、お香典も、実質的には長期返済・有利子の借金である。
借金すると、当然、生活の安全性が根底からおびやかされる。
絶対に避けたいのである。
 
千五百万円といえば平均的なサラリーマン年収の二年分だ。私本人でなく父母の葬式だけでも八百万円となるので、それだけで年収一年分。この金額を貯金するのに、何年かかるだろうか。とくに私の場合は現在失業中で収入はゼロである。退職金から支払うことができても、将来に備えた貴重な蓄えが消えてしまう。その行為は十年後、二十年後に私と子供たちの首を絞めるかもしれないのだ。いや、これだけ高額なら間違いなく首を絞めるだろう。
 
こうなると、葬儀費用の支払い能力を決めるのは、親の遺産である。墓も仏壇も、昔風にいう「家長」となる長男に家督として引き継がれるのが習わしだが、その裏付けとして、収入源となる家業、田畑や山林、家屋敷や土地などが長男優位で相続され、それゆえ長男は「代々の墓」を維持するための金銭的な担保を得るわけだ。
ただし私の場合、父親は家も土地も残さなかった。父と母は、長男夫婦つまり私と妻が買った家(別宅)に家賃相当の修繕を加えて住んでいたのだ。そして父が残したわずかな預金も母親の生活費に充当すれば消えてしまい、息子世代は相続ゼロとなった。父親は全財産を煙のように使い果たして、素寒貧であの世へ旅立ったわけだ。長男としては文句がなくもないが、ある程度予想はしていたので、まあこれも運命、生前供養と解釈するしかないだろう。
 
しかし現実は現実である。将来にわたって長期的に墓と仏壇を維持する財源はなくなってしまった。相続財産ゼロで、巨大な墓と巨大な仏壇だけを残して「後は頼んだ」と言い残して逝かれたのでは、まるでトホホなホームコメディだが、当事者の私はぼんやりしてはおれない。次なる葬儀の費用と墓の維持費用は出費可能なのか。急いで判断せねばならくなったのだ。
 
父親の葬式を出して、仏式の葬儀には、もうひとつ大きな問題があることに気付かされた。さまざまな儀式的ルールの制約である。通夜には蝋燭の火を絶やさぬよう、斎場に宿泊しなくてはならない。棺を担ぐのは六人、男性でなくてはならない。「どうして蝋燭ランプにして帰宅してはダメなのか。遺体を運ぶのはストレッチャーではだめなのか。女性ではだめなのか」と私は真面目に尋ねてしまった。
というのは、葬儀を主催する家族の側がすでに核家族少子化しており、決定的に人手不足なのだ。一世代昔ならば兄弟が何人もおりその下に若い息子たちがいて、一族で十分な人手を工面できた。さもなくば地域の共同体(村落の隣組)が協力してくれた。今はそんな環境にはない。実働できる男性作業員は私と弟と、私の息子の三人だけである。親戚も少子化、年寄りばかりで若い人はいない。「私一人で喪主代理の挨拶と通夜の泊りと、受付と棺桶担ぎその他何でも全部やっていい」といっても、そうはいかないお役目があれやこれやと重なって閉口してしまった。「遺影や位牌は女性が持てばいい、おれは棺桶を担ぐ」と主張してもダメなようである。これは正直、ものすごく困る。その場で解決しなくてはならないからだ。通夜も初七日も四十九日の法事も飲食を伴い、普段おつきあいのない父母の親戚筋からだれを呼ぶの呼ばないの、その会場や出欠や粗供養はどうするのと議論になるが、田舎のせいか永田町なみに物事が決まらない。肉体的にも精神的にも納得できないことだらけで、へとへとになってしまった。
仏式の葬儀を遂行するシステムは、どうやらいまだに戦前ながらの、村落単位の檀家全員の協力で支える、集団参加型を基本としているようだ。葬儀運営の手が足りなければ、村の隣組や町内会で人を出して助ける……といった想定が当然のように組み込まれているわけで、その方式をそのまま二十一世紀まで踏襲していると思われる。これでは百年前のシステムではないか。
 
仏式の葬儀システムは、もはや時代の現状から外れていると言わざるを得ない。今、都市部で行われる葬儀は、喪主側のスタッフが家族四人だけ(実働できるのは夫婦二人だけ)……という現状になりつつあるはずであり、あらゆることに手が回らなくなっている。
その上、初七日以降毎週と、四十九日、百か日、初盆、一周忌……と連続する法事に取られる時間と労力と気疲れはただならぬものがある。遊んで暮らせるほど莫大な財産を相続したのならともかく、そうでなければ今生きている家族の使命は、一刻も早く生活を平常化し、収入を安定させて、さらに生き延びていくことに尽きるのだ。なのに、いつまでたっても仏壇がオープンして、お線香の煙がたなびき、毎日決まったマニュアル通りにお供えを欠かさず……といった日々が繰り返されると、私は刻々と精神的に追い詰められていくのを自覚するようになった。いったい、いつまでお弔いが続くのだ?
 
仏式の葬儀は、費用も規模も手数も、現代の少数家族で対応できるレベルを、はるかに超えていたのである。
 
それらを鑑みると、結論は迷うまでもない。
「今後は支払える金額の範囲で葬儀を行い、少数の家族で実施可能なサイズに葬儀規模を縮小する」ということだ。理屈ではない。そうしなければご遺体を前に、葬儀の実施すら頓挫してしまう。これが現実であるからどうしようもないのだ。
そして、仏式を選んだとたんに二百万円のコストが生じた事実は、「コストダウンしたければ仏教をあきらめなさい」と冷徹に物語っている。
となれば結論は、「基本的に仏式を断念し、あらゆる儀式手順を省略する」ことに至る。無宗教で、通夜も告別式も省略、墓を作らず散骨して、法事は一切しない。
すぐには無理でも、いずれそうなるであろう。そうせざるをえないのだ。
 
にしても、父親の葬式に四百万円支払った以上、その代償として、生きている家族の誰かが葬式代を節約しなければならないことは明らかだ。
私は納得した。
そうか、私がお墓に入らなければいいのだ。
 
●「維持すれど入らず」
私は以下のように今後の方針を決め、決めたことの一部をお盆の機会に菩提寺の住職様へお伝えした。
 
(一)
長男の私は無宗教ゆえ、自分が死亡したおりの葬儀は無宗教で行う。通夜も告別式も略し、家族だけで火葬式のみ行い、海洋に散骨する。墓は作らない。私の遺骨は菩提寺の墓に入らず、位牌や過去帳に記さずともよい。菩提寺の代々の墓は祖先供養のためのハードの維持のみとする。そうすることで、約一名分、葬式代を節約する。
→長男だからといって、かならずしも「代々の墓」に入ることはないのだ。
 
(二)
母親の葬儀は仏式を想定するがコストダウンに努める。通夜をはじめその他の法事も家族のみで行い、飲食を伴わないなど。事情によっては葬儀社を変えたり、ためらわず無宗教葬に変更し、後日の納骨のみ仏式に則ることも考慮する。
→本人の希望が仏式でも、状況によって添えない場合があることを事前に納得しておくことだ。
 
(三)
お香典のやりとりは母親の代で終わらせる。
昔はお香典で葬儀費用がまかなえた(事実、私の祖父母の葬儀はそうだった)が、今はとてもお香典でカバーしきれない金額に膨らんでいる。 またお香典のうち葬儀費用に使えるのは半額にとどまる一方、頂戴した以上、後日誰かにご不幸があれば、お香典を携えて葬儀参列に伺わねばならない。百人からもらったら、のちに百回弔問してお返し差し上げることになる。そこで「香典貧乏」なる言葉も出てくるようだが、ということは、経済的に見れば事実上、お香典をもらうことは利息の必要な借金をするのと同じなのだ。
お香典をいただく。半額分を品物で返すが、梱包代や送料がかかる。
お香典を差し上げる(いわば返済する)。半額分が品物で戻るが、梱包代や送料がかかる。
この繰り返しである。半額分で物を買うことで、業者側が利益を得て、梱包代や手数料を取られることが、借金の利息に相当する出費になっている。
これはもう、お互い様で、略させていただこう。
→葬儀において金銭の授受は一切ご辞退する。
 
基本線は、以上三点だ。
要点をまとめると……
墓は捨てず、最小のコストで維持するが、新規入居はできるだけ避ける。
「維持すれど入らず」である。
 
私の妻と息子、また私の弟がどのような選択をするのかは、それぞれ本人の意志に委ねることになる。
とはいえ事実上、数名に満たない家族でお葬式を行う以上、仏式は無理(棺桶を担ぐ人数すら足りない)から、「無宗教・火葬式のみで散骨」の方向に流れていくことは避けられないと思う。
 
ネットなどを見ると「海に散骨するのはやめてほしい。泳げなくなる」という声もある。しかしアメリカ軍に殺害されたビンラディン氏をはじめ水葬は数知れず、このたびの震災でも数千人規模の方々が津波で沖へ流され行方不明になったと思われる。タイタニック号の悲劇もある。海はすでに墓なのだ。海水浴のみなさんは、人類古来の巨大なお墓の片隅で身を清めておられるだけなのである。
 
「散骨したら、死後に故人を拝む場所がなくなって寂しすぎる」という声も聞く。しかし散骨を望む本人の立場から言えば「拝む気があるから、生きているうちに拝んでくれ」が本音ではないか。私個人の感覚では、自分が死んでから拝まれても、私の実体がないのだから嬉しくも何ともない。拝んで賽銭をくれるなら、生きているうちにどうぞ、その方が私もありがたいし……ね。
 
●爆発的に増える? 「無宗教・散骨葬」
葬祭業の日比谷花壇が行った『葬儀に関するアンケート調査2010』(首都圏男女、30〜50代2322人回答)によると、「あなたが希望する葬儀スタイル」を尋ねた質問で、回答がこうなっている。
 
仏教:36%
宗教は信仰していないが仏教で行う:23%
わからない、答えたくない:23%
無宗教:14%
 
もっとも、現在のところ仏式のお葬式の件数は全体の九割以上を占めているというから、このパーセンテージは「実績」ではない。しかしこのアンケートで「無宗教」と答えた人たちが死亡していったとき、どれだけお葬式の無宗教化が進むかが注目される。日本消費者協会の2007年の調査では「無宗教」の希望者が首都圏で7.8%だったというから、ここ数年で倍増する勢いがうかがわれるのだ。
さらに、日比谷花壇の同じ調査で「お葬式の予算」を聞いているが、その結果に驚いた。金額の範囲を明示して「200万円以上」の高額(実際に係る金額)を想定する人は、わずか4.6% なのである。「わからない。考えたくない」が最も多くて26%、次いで「50万円以上100万円未満」が20%だ。
これは何を意味するのか。回答者のほぼ95%の人々が、私と同じように「そんなにかからないだろう」とタカをくくっているのである。回答者の年齢が五十代以下だから、親の葬儀がまだこれからという人が多いことを反映しているのだろう。しかしそれだけに、実際の葬儀に直面したとき、その費用の実額から受けるショックは大きなものになるはずである。
「希望する葬儀スタイル」で、「宗教は信仰していないが仏教で行う:23%」と「わからない、答えたくない:23%」の計46%におよぶ多数層が、これから親の葬儀に直面して、私のように、自らの行為に恐怖することは間違いない。ほとんど全員が請求書を前に、「え(濁点つき)!」と絶句するのだ。その結果、どうするだろう。もう一度同じ金額を払いたいと思うだろうか? いや、払えるだけの蓄えが残っているだろうか?
全体の半数近くの、「無宗教」と「仏教」の間でゆらゆらしている人々が、これから十数年のうちに親の葬式を経験することで、なだれを打って「無宗教」へ転向してくることが考えられる。建前はどうあれ、経済的な理由で選択の余地はなく、そうせざるをえなくなるのである。お金がないのだ。
 
ニッポンの貧困は拡大し続けている。朝日新聞2011.1.22の記事では、生活保護の受給世帯は昨年10月時点で過去最多の141万世帯。そして国の推計では生活保護基準以下の所得なのに生活保護を受けていない人は最大229万世帯あるという。全国の世帯数は五千万くらいあるというが、このうち370万の世帯が生活保護に相当するのだ。だいたい十二軒に一軒である。これはもう他人事ではない。今はそうでなくとも、いつ自分がその中に含まれてもおかしくないパーセンテージなのである。
そこで葬式となって「戒名だけで50万円前後」と聞けばどうだろう。常識的に、出せる金額とは思えない。この私でも、「戒名50万円」となればその時点でアウトである。スーパーの値引きで十円二十円を節約している身なのだ。一万円でもためらい、「じゃあ結構です。仏教、いりません」と答えてしまうだろう。自分の葬式代は最低でいいから、生きているうちに少しでも安心で幸せな生活を送りたいし、家族に一円でも多く蓄えを残したい。それが生活者としての本音であり、切実な願いではないか。
ニッポンは貧しい。全国の世帯の十分の一くらいは、すでに事実上、仏式葬儀から排除されてしまったと考えていいのではないだろうか。
 
さらに貯蓄額を見てみよう。総務省統計局の「全国消費実態調査」により、2004年の世帯主年齢階級別・金融資産額(貯蓄−負債)階級別の世帯の分布を見ると、年齢五十歳以上では、貯蓄額が「七百万円未満」「七百〜二千万円未満」「二千万円以上」でおおむね三分の一ずつに分かれている。
貯蓄額が二千万円以上のリッチ世帯は、まず余裕をもって仏式葬儀を出せるだろう。しかし「七百万円未満」の世帯は、葬式代の請求書に仰天し青ざめるだろう。両親二人分の葬儀で貯金が消滅するのである。払えないものは払えない。選択の余地もなく、貯金七百万円未満のプア層は仏教を離れて無宗教葬へ移行するしかなくなる。葬式代を払ってしまったら、ローンの返済や教育費、いや日々の食費にすら影響しかねないのだ。そのとき失業していたらどうだろう。葬式代よりも、国民年金の納入や、国民健康保険の保険金を支払う方を優先せねばならないはずである。さもないと生きている家族の生死にすらかかわってくるのだ。事態はそこまで切迫しているのである。
 
最初から積極的に好きこのんで仏教離れする檀家はないだろう。先祖の墓があり、拝んで冥福を祈ってあげたいと思うのも自然な感情のひとつだ。しかしそんな私たちは、まず「戒名だけで50万円」という金額を即刻支払えるかどうかで、ふるいにかけられてしまう。払えないのなら、仏教とは別の方法を選ぶしかないではないか。僧侶の方々は「檀家の寺離れ」に嘆かれているというが、実態は「人が寺から離れるのではなく、寺が貧しい人を排除している」としか見えないのだ……
 
毎日新聞2011年8月19日大阪夕刊の記事によると、お参りする人がいない「無縁墓」が全国で急増している。金沢市のある墓苑では約700基の墓のうち約15%が無縁墓だ。10年前の約3倍で、住職は「墓を守ってきた世代が亡くなり、県外に出た次の世代が墓参りに来ない」と嘆く。また島根県のある霊苑は永代借地(約160区画)の檀家から3年ごとに管理費を徴収しているが、09年は約2割と連絡が取れなかった。03年の約2%と比べ急増。請求書は「宛先不明」で戻ってくる。運営者は「県外に出て家庭を持つと、そこが古里になる。帰郷する人が減り、墓参りも少なくなった」と話す。日本石材産業協会によると、都市部でも同じ傾向で「高齢者が墓の世話をできなくなっても、次の世代が引き継がない場合が多い。墓を大事にする習慣が薄れ、無縁墓はここ10年、地方でも都市でも顕著に増えている」という。
 
この記事だけをみると、関西の一例として、無縁墓は過去十年ほどで三倍から十倍の勢いで増えており、現在、約二割に達している、ということだ。そしておそらく、無縁墓が減る見込みはない。墓守りの話が出たとたん、次男以下がささっとドン引きし、長男がどうにもできずに引き受けている現実が感じられないだろうか。少しでも墓を維持する意志があれば、引っ越したからといって菩提寺との連絡を断つはずがないのだ。今や墓守り自体が苦行であり、報酬もなく、法事のたびに忙殺され、お金は着々と出ていく。これでは誰だって、避けて通りたくなる。いったん墓を放置したら、お寺さんとの連絡は心苦しいだけだ。あと十年もすれば、墓地の半分は冗談抜きでゴーストタウンと化しているかもしれない。
 
実感としての本音を言おう。
自分の家が会社経営者や役員か、豪農のように安定した自営業で、貯蓄が常に「二千万円以上」(負債を差し引いた貯蓄額)あって、収入が将来にわたって保証されたリッチ世帯なら仏式で盛大なお葬式を出せばいい。
しかし一般的なサラリーマン家庭にとって、仏式の葬儀や、墓の維持は事実上困難となってしまった。労力と費用がかかり、葬式となれば数百万円規模でお金が出ていく檀家から一刻も早く脱却したいと考える人が増えているのではないか。仏教はいまや一般市民の手の届かない「金持ち宗教」になってしまったのである。
貯蓄七百万円未満のプア層は今後是非もなく「脱仏教」を選択せざるをえなくなる。そして貯蓄七百万円以上二千万未満の中間層は、仏式と無宗教の間をふらつきながら選択していくだろう。生涯で一千万円以上になりかねない宗教関係の出費を覚悟するか、それとも大胆にリストラして、その金額を未来ある子供のために振り向けるか、である。背に腹は代えられない。これから多くの親たちが、葬式代を切り詰めて、その分を子供世代に回していくことだろう。これは、今を生きるために限られた収入をどのように振り分けていくか、というぎりぎりの選択であり、その判断を非難する資格が誰にあるだろうか。
 
未来の仏教は裕福な家庭でのみ信仰され、お金持ちのステイタスとして君臨するだろう。貧困層は無宗教化していくだろう。そして中間層に対しては……
ひょっとすると「お寺のコンビニ化」、言い換えれば「消費者に対する、お寺の利便性向上」が両者の妥協として広がってくるかもしれない。まずはネット化だ。面倒な儀式は省略して、墓参りに行かなくとも、ネット送金でお布施を振り込めば、住職さんが墓前でお経をあげる画像が送られてくる。位牌はケータイの画面に入り、仏壇もパソコンに入ってしまうだろう。液晶の大画面ディスプレイは仏壇化するのにぴったりである。お墓すなわち納骨堂も電子化するだろう。お寺のホームページに墓地ファイルがあり、そこにパスワードで入れば、墓が写り、同時に故人の遺影や思い出のアルバム、さまざまな資料も検索して取り出せるといった具合だ。そうすれば、檀家が全国どこへ引っ越しても、在宅で法事が可能になるのである。
申し訳ないが、お布施を銀行振込で送金することに、私は全く抵抗なく、むしろ手間のかかる形式を廃した合理的な手法だと思う。震災の義援金だってネットで寄付できるのだ。浄財をネット送金することがブッダの教えに背くかどうかはわからないが、これからは「お布施が面倒だから仏教やめた。墓は勝手にしてくれ」と言い出す人すら、次々と現れるかもしれないのだ。口実さえあれば、誰だって墓を廃棄しかねない、具体的に口に出さなくても「だれかが消去してくれればいいのに」と思っている……
そんな時代がすぐそこに近づいているのではないか。
 
●いずれ「散骨クラブ」で会いましょう。
東日本大震災が勃発して数日後にTVで放映された、犠牲者のご遺体の埋葬がおこなわれる光景がくっきりと印象に残っている。国内のニュース画面ではなく、NHKが放映した「海外のメディアで震災が報道された画面」の一部としてだ。背筋が凍りつきそうなほど寂しいお葬式。僧侶の姿も読経もなく、ただ柩を土に掘った穴に埋めるだけの葬送であり、手向ける花とて事欠いていただろう。埋葬を担当する若い自衛隊員の敬礼だけが死者を丁重に見送っていた。かれらはどんな悲しみを胸中に、あの敬礼をしたのだろうか。そう思うと本当に涙がこぼれた。ひきかえ、震災前とはいえ数百万円に上る華美な葬式を出してしまった自分が、悲しい。震災は、宗教のありようを白紙から考えさせる出来事でもあった。
立派な墓と立派な戒名を残し、子孫に拝まれたいと願うのもひとつなら、骨の灰となってどこかへ消え去るのもひとつの生き方だろう。墓どころか遺体のかけらも残さず消えた偉人も多い。ロアルド・アムンゼン、サン・デグジュペリ、アメリア・イヤハート、グレン・ミラー、ラウル・ワレンバーグ……
墓のあるなしと、その人の人生の価値は、まあ、あまり関係なさそうである。
 
無宗教・散骨葬は、まだ日本では一般化したとはいえない。しかし着実に広がっていくことは間違いないと思う。これまでの葬式は、「亡くなられた人と祖先の霊に感謝し敬って拝む」という“祖先崇拝”の行為が基本になっていた。しかしその一方で、自分がいずれ亡くなることを考え、「死後、葬式の費用や墓守りで子孫に迷惑をかけたくない」という“子孫重視”の思いやりの心が生まれても不思議はなく、そう考える人たちがお葬式の形を変えていっても責めることはできないはずである。
 
経済的な側面では、「無宗教(火葬式のみ)・散骨」はいいことずくめである。費用は数十万円程度で国際水準に収まるだろう。人手がいらず家族数名で済ませられる。葬儀後の香典返しや法事などの労力も出費もいらない。仏壇不要で、墓を維持するランニングコストもゼロである。短期間に、かつ少ない出費で葬儀を済ませ、残された家族はこれからを生きていくことに専念できる。
 
それでは「無宗教・散骨」方式の普及を阻む要因は何か。
ひとつは、遺族の心境だろう。華麗な仏式葬儀と比較すれば、あまりにそっけないのではないか。故人を供養する意味で、親しい人が集まってきちんとした会葬式を営むべきではないか。しかし、無宗教となると、その形式すらわからない……。
解決するには、本人の生前の意思表示が不可欠だ。あえて「無宗教・散骨」方式を希望して、家族の心理的な負担(申し訳ないと思う気持ち)を軽減しておけばいい。私の場合は火葬式のみで、会葬形式の集いは不要である。故人を偲ぶ会を持ちたければ後日、好きな人が居酒屋で一杯やれば事足りるし、故人となる私もその方が気楽でよいのだ。
 
もうひとつは、露骨な表現で恐縮だが、たんなる「世間体」だ。
「無宗教・散骨」方式は仏式と比較して、故人の魂を粗末に扱っているように見えるのではないか、誰かに後ろ指をさされるのではないか……という不安である。
しかし時代は変わる。「世間体」が「経済性」の前にどれほど簡単に屈服してきたか、ここ三十年ほどを振り返れば納得できる。
まず「できちゃった婚」とか「バツイチ婚」だ。昔はどちらも、世間体を気にしてひっそり気味に行われたものだが、いえいえ気にせず明るく派出にやっちゃいましょう。一度きりの人生に数少ない幸せのイベントなんですから……というブライダル業界の思惑に乗ってか、今や恥ずかしさなど微塵もなくなってしまった。それはそれで結構なことである。
次に、リストラである。かつての「年功序列・終身雇用」の時代は、悪いこともしていない社員の首を定年前に切るのは、労組や社会感情の手前、経営側にとってやりにくいことだった。経営者の無能を認めることで、社会的不名誉であった。しかしバブル崩壊以後の不況と雇用難と某首相の“自己責任”政策が風向きを変えてしまった。リストラという洒落た言葉に載って、じゃんじゃん首を切るようになり、上手に部下の首を切ってその場限りの収益を上げた管理者が出世するようになった。良いこととは思えないが、経済性が世間体に勝った事例である。
そしてオタク文化。かつてのアニメファンはそれだけで反社会的なヘンタイ扱いされたものだが、今やお役所が国際的に後押しするかっこいいクールジャパンに変貌してしまった。ガンプラやワンピースのフィギュアくらい、どこの家にあっても不思議はない。いつのまにかメジャーになり、大儲けする人も続出した。これも経済性が世間体を駆逐した好例である。
 
ならば十年先、世間一般の葬儀のトレンドがどうなっているのかと思うと、今、世間体を気にしていたことが恥ずかしく思えるほど、状況が変わっていても不思議はないのだ。
すでに安価な家族葬をアピールする葬儀社のTVCMを見かけるようになった。形式を気にせず近親者だけで行う「ジミ婚」と同じように、小さな「プチ葬」がビジネスとして成り立てば、たちまち普及していくことだろう。ささやかだけど、個性を生かしたスタイリッシュなお葬式、という売りは、今の人たちにマッチする。僧侶の読経のかわりにアニメソングで旅立っていかれても、私にはまったく不自然に思えないのだ。(故人が鉄道ファンだったならば、ささきいさお氏が歌う『銀河鉄道999』のTV版テーマソングなんか、泣けますよね……)
 
そして……
「無宗教・散骨」方式は、なんといっても「子孫に墓守りや法事の面倒をかけず、葬式代の心配をさせない」という、思いやりに満ちた簡潔さが魅力である。ケチではない。故人の霊を粗末にするのでもない。故人の、子孫への温かい“思いやり”によって、費用と手間と気苦労を軽減し、子供たちに迷惑をかけないお葬式として、日本人の心情に合致していくのではないか。「子孫に迷惑をかけない。重荷を残さない」という思想は、「立つ鳥後を濁さず」に通じる和風の美学すらある。生前にこの方式を選び、てらいなくカミングアウトする人が増えていくと思う。
 
するとそのうち、「散骨」という形にのっとった死生観や来世観が新たな庶民の信仰として生まれてくるかもしれない。生前のうちに散骨を選んだ人たちが集まって「散骨クラブ」のようなものをつくり、生き方と死に方と、死後の魂のゆくえについて語り合うのだ。青い地球はひとつだけ。地球のどこに撒かれても一緒なのだと。もしもいつか、私の骨灰が海洋に投じられたら、ひとつ会いたい故人がいる。大戦中にミッドウェーで空母飛龍とともに沈んだ名将・山口多聞にその心境をインタビューしたいのだ……とかね。お互い上司へのグチで盛り上がるのでは……
 
このようなことを書くと、なんだか近々あの世に行かなくてはならないようで、ちょっとキモチが悪くならぬでもないが、だいたい何かにつけ「死ぬ死ぬ」と騒ぐ人ほど長生きして「死ぬ死ぬ詐欺」となるので、お読みの方には、どうか、あらぬ憶測などなさいませんように……。
死はタブー視される。めでたい場でことさらに話題にすることではないと思うが、かといって、だれにでも一度は訪れる、未知の現象であることも事実だ。死を極度に感情的かつ情緒的にとらえるのでなく、科学的探究の対象としてとらえるのも良いのではないか。
死後の世界こそ、人類に残された、究極のファイナル・フロンティアなのであり、その世界を探検する機会は、だれにでも必ず訪れる。自分の死を早めたいとは全く、かけらほども思わないけれど、行って帰ってきた人のない未知の世界を自分の魂でさぐることのできる機会と考えれば、好奇心がチョイとうずくのも確かだ。ならばそのときに、既成の宗教で死後の世界に先入観を持つことなく、無宗教で出発したいと思う。
この世で生きていることは、そのまま不自由の連続だ。ならば死ぬときくらい、心から自由でいたいものである。
 
くどいようですが、この一文は絶対に「遺書」ではなく、私はまだ自分が死ぬ気は毛頭、絶対、全く、素粒子ほどにも持っていませんので、くれぐれも「ご愁傷さま」なんてメールをお返しになりませんよう……
 
昨年末に会社を辞めて失業者になってから、私の精神生活の最大の負担になっていた問題を、ようやくこうして整理することができた。ためらいや迷いがあって、長い時間を要した。しかし先に延ばせる課題でもなかった。結論をためらっていたら、残りの人生がお墓に支配されてしまう。今の私の願いは、お墓から解放された人生を送ることなのだ。墓ない人生もまた幸せではなかろうか。
 
 


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