Essay
日々の雑文


 71   20110731★アニメ解題『コクリコ坂の謎』
更新日時:
2011/08/14 
 
 
 
 
コクリコ坂の謎
 
 
 
 
写真にカーソルを置くと、水路を行くタグボートと英国海軍の揚陸艦。タグボートはこれほど小さい。
 
 
 
 
(2011.08.11一部修正追加)
 
宮崎吾朗監督のジブリアニメ『コクリコ坂より』を観ました。公開日の2011年7月16日に、例によって自宅から徒歩数分の劇場にて。深夜の時間帯でしたので、観客は二十人程度。のんびりゆったりと観賞できるのが、田舎町の贅沢です。
ほのぼのと楽しめる、いい映画。さすがジブリというか、タグボートや外洋船の曲線的なフォルムがきっちりと描かれていて、当時のフネの魅力が伝わってきます。ほんの2カットほどしか登場しないLSTも正確に描写され、好感を持ちました。たいていのアニメ作品では、フネの絵で手抜きされることが多いのです。構造が複雑だからでしょう。
もちろんストーリーも、真っすぐな少年少女たちの爽やかな青春! でして、ああ、こんなにのびやかな時代もあったんだ、と心ゆくまでノスタルジーにひたれる佳作に仕上がっていました。概ね、非の打ちどころがない……と言いたいのですが、まあ、そこはそれ、少し考えてみれば、あれ? と首をかしげたくなる部分もあるわけでして、コクリコ坂はけっこう不可解な謎に満ちた不思議世界でもあるのです。
まず、なんといっても説明不足は否めなく、アニメの中では「コクリコ坂」なる言葉が出てきませんし、主人公が掲げる旗「UW」がどんな意味なのか、話題にもなっていません。主人公が名前の「海」に因んだ愛称で「メル」と呼ばれていることも、説明がなく唐突な印象があります。
そこで重箱も隅をつつけばネタが出るという、ちょっと意地悪な見方で恐縮ですが、私の主観に基づくコクリコ坂の謎の数々をご紹介します。ただし私は市販された脚本を読んで、作品を一回見ただけなので、数々の謎はあくまで私個人の“創作的妄想”でして、客観的正確さはございません。思い違いや見落としがあるかと思いますが、わざとではありませんので、そこは何卒ご容赦下さいますよう。
 
なお、いわゆるネタバレ的な箇所もありますので、
必ず作品の本編を観賞なさってからお読み下さい。
 
●驚異の望遠視力
朝陽に輝く海に向かって、旗竿に信号旗を掲揚する主人公の少女・海(普通名詞の海と混同するので、以下、メルと表記します)。その旗を視認して、答礼の旗をかかげる、タグボートの少年・風間俊。しかし家並みや立木が邪魔して、メルには海上のタグボートが見えない。かわってタグボートにかかげられた旗を、コクリコ荘の二階の住人・画学生の広小路さんがしばしば目撃しています。
さて、メルと俊の恋を取り持つことになる信号旗。ここに最初の謎が生まれます。
旗の目的は、信号。
信号である以上、見える距離の範囲になくては、意味をなしません。
コクリコ荘は小高い丘の上、下界の商店街まで数百メートルの距離があることは、風間少年がメルを自転車に乗せて駆け下る場面で推察できるでしょう。距離が短ければ、自転車に乗せてあげる意味がありませんし。ならば、コクリコ荘と海をゆく船の間の直線距離は、おそらく1q程度あるのでは? 
これは遠い。旗はゴマ粒みたい、タグボートもハエ程度の大きさに見えてしまいます。
しかしこの距離を置いて、タグボート上の風間少年は、コクリコ荘の旗の図柄を見分けています。普通の人にはゴマ粒程度にしか見えない旗ですが、それを見分ける超人的な視力を、風間少年は備えていたのでしようか? もっとも、タグボートには双眼鏡くらい常備しているでしょうから、その助けを得たとも言えるのですが、風間少年が最初にどうやってコクリコ荘の旗に気付き、読み取ることができたのか、ちょっと不思議になりますね。
そしてさらに超人的な視力の持ち主が、画学生の広小路さん。朝陽できらきらと輝く逆光状態の海面を進む、ハエ並みの大きさにしか見えないタグボートのマストに昇る旗を、意味はわからなくとも、色柄を見分けて絵に描いているのですから。しかも広小路さん、想像するにかなり夜型の生活リズムで、夜っぴて絵を描いて明け方に床に就いているようです。一晩頑張って疲れた目で、小さな旗を見分けている。しかも彼女は眼鏡を常用しています。それって近眼? となればなおさら、謎は深まります。広小路さんはどうやって、タグボートの旗を視認できたのでしょうか?
この謎を説明するには、広小路さんの部屋にも高性能の双眼鏡が常備されていたと考えるしかない……。でなければ、実は広小路さんは、普段は伊達眼鏡で隠しているけれど、裸眼視力はかのマサイ族なみだったのだ、と解釈すべきでしょうか。
 
●ストーカー風間少年
旗にからんで、次なる謎は、われらのヒーロー少年・俊君が、コクリコ荘に旗を揚げているのが自分と同じ年頃の少女であり、それがメルであることを、いつごろ、いかなる方法で特定したのか、ということです。
週刊カルチェラタンに俊が掲載した詩によると、旗を揚げるのは「少女」と明記されていますので、俊はすでにこの時点までに、コクリコ荘に毎朝旗を揚げるのがおっさんやおばさんや男の子でなく、少女であることを知っています。しかし、メルからタグボートは見えないことになっていますから、逆に俊がタグボートから双眼鏡で旗竿の下の人物を探したとしても、見えないはずなのです。
それなら俊はいかなる方法で、旗を揚げるのは少女であることを確認したのでしょうか。
しかも週刊カルチェラタンは、校内配布のメディアです。その掲載詩を使って呼びかけるのですから、俊はすでに、旗を揚げる少女が本校の生徒であることも調査済みであったと考えてよさそうですね。
では、いったい、どうやって?
俊は、メルより年齢がひとつ上で、高校三年生です。高校入学後二年余り、ずっと父のタグボートに便乗して通学していたのなら、コクリコ荘の旗を目撃して、関心を持ち、旗を揚げる人物を探すのに十分な時間があったといえるでしょう。
毎朝、コクリコ荘の旗を見た俊は、思春期の少年らしい当然のなりゆきで、誰が旗を掲揚しているのか確かめたくなります。
その方法は簡単です。幸いコクリコ荘は、俊が学校から自転車で帰宅する道のすぐ近くです。カレーに入れる肉を買おうとしてコクリコ荘を出たメルが、自転車の俊に出くわす場面がありますから。
ということは……。
おそらく、俊はすでに何度か、こっそりと、学校の帰りにコクリコ荘に立ち寄っていたのです。旗竿にひるがえる旗を確認し、日暮れ時にその旗を降ろす人物を盗み見するために。で、生垣の隙間からのぞき見ると、胸キュンのナイスな少女ではないか。そしてもっと胸キュンなことに、その子は学校で見たことがある! セーラー服のリボンの色を思い出せば、一年下の子だ。ついでに表札も確認する。松崎という姓であることがわかる。次の日、学生名簿を調べ、一年下のクラスの、松崎という姓の女の子(といっても一学年三百人くらいなので、松崎姓は男女含めてもせいぜい十数人以下でしょう)を片っ端から見に行った俊は、旗を揚げる少女・メルのフルネームやクラスを突き止めることができた……はずですね。
稀代のストーカー、風間少年!
こうして彼は、意中の女の子をメルに絞って、ラブレターを出したわけです。
全校生徒に向けた週刊カルチェラタンの掲載詩という形で。
メルが毎朝自宅で旗を揚げていることは、女の子の間では知られはじめていました。
となれば「週刊カルチェラタンの詩人は、メルに関心を持ち、呼びかけている」というメッセージが、友達を介してメル自身に伝わるのは間違いなく、そうすればいずれ、メルはその詩人を探してカルチェラタンの編集部を訪れるであろう。ならばまずはガリ切りでも手伝ってもらい、それを口実にお友達になって……といったミエミエの下心、姑息なガールハントの打算を俊が持っていなかったとは言わせないぞ! と、思うわけです。
すでに物語が始まる前の時点で、俊はメルにターゲットを絞り、出会いの口実を作り出すために、虎視眈々と智慧を絞っていたのでした。アニメの中に、この詩を評して「干し草の山(もしくは砂漠だったかな?)に針を探すような……」といったセリフがあったように思いますが、なんのその、事実は全く逆で、ターゲットを完全に絞り込んだ「一本釣り」だったのです。こう考えると身もふたも無いのですが、私はあえて言いたい。風間少年よ、君はカルチェラタン始まって以来の、愛のペテン師だったのだ! と。
 
●最強の“愛の猛禽類”、空
しかしさらに強力な愛のペテン師が、この物語に存在していました。
メルの妹の、空。
メルと同じ高校で一年生である空(普通名詞の空と混同するので、以下、ソラと表記します)は、お姉さんのメルよりも、ちょっとおませ。朝は鏡から離れず、おしゃれに熱心で、異性への関心も強く積極的。なんといっても、空中ダイブしている俊君の写真を手に入れて、「サインをもらいに行く!」というのですから。
しかし、ここに不可解な謎が……
自分一人では心細いといって、姉のメルを連れてカルチェラタンへ出向き、そこで憧れ(?)の俊くんのサインをもらうことに成功したソラなのですが……、俊君のガリ切りを手伝ってくれないかと水沼から頼まれたとたん、「お姉ちゃん、手伝ってあげたら。私は字がヘタだし」と、すぐさま姉のメルに押しつけてしまうのです。
おかしいですね。憧れのヒーロー、俊君のお手伝いをして二人きりになれる絶好のチャンス! なのに、ソラはあっさりと断り、そのかわり、「出口までエスコートしよう」という水沼の誘いを、ポッと赤くなって受けるのです。「じゃあ六時な」と戻る時刻を俊君に告げた水沼はソラと一緒にその場を去り、ほぼ時間通りに戻ってきたようです。とすれば、ソラと水沼が二人きりで語り合う時間はおそらく2時間ほどあった……ことになりますね。
そして後日の展開をみると、カルチェ大掃除のゴミの焚火を前にして、ソラは水沼とベッタリ! 宇宙時代を迎えたばかりの当時の表現でいう「ランデブー状態」となっているのです。
あれれ? それでいいの?
憧れの俊くんのサインをもらったその瞬間、なんと、ソラはあっさりと水沼に乗り換えてしまった!
これを「運命的な一目惚れ」と考えることもできますが、にしても、なんだか不自然なほど唐突すぎはしませんか?
この事態を合理的に説明するとしたら……
そう、「最初から、ソラの恋愛のターゲットは水沼であり、俊の写真にサインをもらいに行くのは、俊でなく水沼に会うための口実だった」ということになるのです。
毎朝、鏡の前でおしゃれに余念のないソラが振り向いてほしかった男子は、最初から水沼ひとりだったのです。しかし水沼は秀才でクールなイケメン、たぶんスポーツも万能のスーパー男子でありますから、彼に惚れるライバル女子生徒はわんさか! 一年生のソラが水沼ファンの先輩女子たちを出し抜いて直接アタックするのは危険です。方法を間違えると全校女子からメラメラの嫉妬を買いかねません。
 
ここは迂廻戦術でしょう。ソラは、カルチェの中で水沼や俊と同室である新聞部二年生の山崎と三村から俊の写真を買い、しばらくして相談を持ち掛けます。
「お姉ちゃん(メル)が風間俊さんのファンになっちゃって、写真にサインをもらいたがっているんですけど、自分から頼むのは恥ずかしいってことで、あたしが代わりに、もらいに行ってもいいですか? お姉ちゃんも一緒についてくる格好になるけれど」
もちろんウェルカム! と快諾する新聞部の山崎&三村に、ソラは続けてお願いをします。「でも、サインを断られたら、お姉ちゃん(メル)はきっとショックで寝込んじゃう。だからこのことを、事前に水沼さんにお話して、了解をとって下さいな。水沼さんに言われたら、俊さんはOKするでしょ? お礼に、何かお手伝いすることがあったら喜んでしますから」
……と、しっかり根回しして、ソラは姉のメルに写真を見せます。
「せっかく買ったし、サインがほしいの。ねえ、風間さんのところに行くの、ついてきて……」
あとは作品の筋書き通り。おそらく事前に新聞部の山崎&三村から「松崎の妹さんが、お姉さんの代わりに俊のサインをもらいに来るよ」と聞いていた水沼は、ソラからサインを求められて戸惑う俊に「してやれよ、ヒーロー」と命じます。続いて水沼から、ガリ切りを手伝ってもらえないかと頼まれたとき、ソラはすかさず「お姉ちゃん、手伝ってあげたら。私は字がヘタだし」と、姉のメルに押しつけます。
そうです、姉のメルを連れて行ったのは、メルに俊の相手をさせることによって、水沼君の関心を自分に引き付け、相手をしてもらうためだったのですね。
本当にサインを欲しがっているのはソラでなくメルの方だ、と了解している水沼は気を効かせてメルの方にガリ切りの依頼先を変えます。おそらく水沼はすでに、俊もメルに対して気があることを感づいていたことでしょう。このときの水沼は、俊とメルの愛を橋渡しするキューピッド役の気分なのです。そして俊とメルに「じゃあ、六時な(それまで帰ってこないから、よろしくやりな)」と告げると、ソラをエスコートして去ることになります。
アタック・チャーンス!!
内心、小躍りのソラ。ただ一度の好機を逃がすことはしません。6時まで、@水沼に他の用事をキャンセルさせて、二人きりでお話する。A次なるデートのお約束を取り付ける。……という一世一代のミッションを成功させたと思われます。水沼君も、可愛い一年生の熱烈なモーションは、まんざらでもなかったのでしょうな……。
それまで、一年生で風間さんのファンクラブを作ると言って、姉のメルをはじめ、他の女子生徒にはソラ自身が俊君に惹かれているように思わせておき、一方で男子に対しては、姉の代理で俊君のサインをもらいに行くふりをする。このように周囲をあざむいておき、ターゲットの水沼と二人きりになれるチャンスを作り出したソラ。このお話の中で、最も巧緻にたけた“愛の猛禽類”というべきでしょう。ストーカー俊くんより一枚も二枚も上手の、華麗なる愛のペテン師、最強のボーイハンターこそ、メルの妹のソラだったのです。
その結果……
ソラの陰謀でガリ切りを手伝ってしまったばかりに純愛のスイッチが入ってしまい、もしかして私たちって許されない関係? そうじゃなかった? と禁断の領域で七転八倒するはめになってしまったメルと俊君を尻目に、ソラは着々とデートを繰り返し、全校女子憧れのプリンス・水沼君を射止めてしまったのでした。
本編の美しいラストシーン。そしてエンドマークに重なって、「ピース!」と指で輪を作るソラのニンマリした勝利の笑顔が幻のように浮かんではきませんか? 全編を通じていちばん幸せなハッピーエンドをつかんだのは、彼女だったのです。
ま、よろしくやっとくれ……
 
●旗は無くてもよかった
先に述べたように、俊君の片思いをスタートさせる上で重要な役割を担った旗ですが、ストーリーを振り返ってみますと、実はそれ以外になにひとつ役割を果たしていないことに気づきませんか?
そう、コクリコ荘の「旗」は、二人の出会いや恋愛の進行に、全くと言っていいほど関わっていないのです。
アニメの筋に沿って見ると、それまで面識のなかった二人は、すごく都合のいい偶然(貯水槽に飛び込んだ俊をメルが助け上げる)と、それに続いて俊のサインをもらいたがる妹についていき、たまたまガリ切りを手伝うはめになったことで、決定的な出会いを遂げました。しかしその後は、「僕は毎朝、きみの旗を見ていた」と俊が告白して二人の愛が燃え上がる……場面などはなく、旗とは何ら関係なく、むしろカルチェラタンの存続運動をめぐって、二人の関係が語られていきます。
つまり、俊とメルの実際のなれ初めには、「旗」が介在しなかったのです。週刊カルチェラタンに載った、旗を揚げる少女の詩を俊が掲載したことや、タグボートの答礼の旗が見えなかったことなどを二人が会話するのは、物語もかなり終盤のことになります。このお話のストーリーで、少なくとも、中心となる二人の恋愛ドラマに関するかぎり、「旗」はなくてもよかったのです。
改めて、想像してみて下さい。この作品から、メルが旗を掲げるなど「旗」に関わる場面をすべて取り去ったとしたら……。
それでも、お話は問題なく成立してしまいますね。
だから、旗の信号の意味についての説明が作品中になくても、観客は困らないのです。
「旗」に関わるエピソードはロマンティックですし、あった方がストーリーに彩りを添えることは事実です。しかし、宣伝ポスターや作品冒頭やエンディングで強調されるほど、重要な役割を果たしているとは言いがたい。このお話は「旗抜き」でオッケーなのです。見終わって、「やられたな……」みたいな気分も残りませんか?
宮崎吾朗監督、すこぶる狡猾!?
 
●消えた女子文化部員の謎
「男の魔窟」と異名をとる文化部室棟カルチェラタン。このユニークな施設の存続をめぐって、メルと俊の交際が深まっていきますし、「お掃除」のアイデアや数々の資材調達にメルが協力する一方で、学生の集会や施設の改修作業に俊が活躍し、二人の関係が近くもなり遠くもなる様子が、青春のトキメキとともに、見事に活写されています。
ところが……
「旗」と違って物語の中で明らかに重要な役割を果たしているカルチェラタンなのですが、ここにこそ、作品の決定的に不自然な矛盾点が浮かび上がってくるのです。
天文学や化学や高等数学や哲学や文芸や考古学の部活ボックスがひしめくカルチェラタン。その中にうごめくのは、なぜか男子生徒ばかり。
どうして、天文学や化学や高等数学や哲学や文芸や考古学の、女子部員はいないのだろう?
これは問題です。じつは、教育上極めて由々しき大問題なのです。
カルチェの中に部室を構えるクラブは、いちおう女子部員も募集しています。メルが妹と訪れたとき、入部の勧誘を受けていますね。学校は男女共学ですし、文化系のクラブはよほどの例外がない限り、男女とも等しく参加可能のはずです。
それなのに、カルチェの中は、女子部員が皆無……
おそらく入部しても、クサイ、クライ、キタナイの3Kで居つけず、早々に退部していくものと思われます。しかしそれでOKなはずがないでしょう。結果的に、この学校では女子生徒の文化部活動の機会が奪われるか、大幅に制限されてしまうのです。
かりに、女子だけ別にきれいな文化部の部室を持っていたとしても、男女共学の教育方針に照らして物議を醸すことは明らか。逆に男子の立場からみても、なぜ男だけがあんなにクサイ、クライ、キタナイ場所に分離されねばならないのか。この高校は私立ですが大学進学が当然とされる、屈指の進学校と思われます。となれば、女子の親たちに加えて男子の親たちからも厳しい要望が出てくるでしょう。
女子の親からは……
「女性蔑視の牙城、差別施設カルチェラタン!」
男子の親からは……
「男子生徒を隔離する、不潔な牢獄カルチェラタン!」
PTAは理事会に、あるいは教育委員会に直訴したことでしょう。あのクサイ、クライ、キタナイ場所を取り壊して、女子生徒も気持ちよく参加できるきれいなクラブハウスを建てるべし……と。
そう考えられます。
 
ならばカルチェラタン存続問題の本質は、あの魔窟文化の保存などではなく、「文化部活動から排除されてきた女子生徒の参加問題」であることになります。
しかし作品中の学生たちの主張は、文化部を志す女子生徒の思いを全く無視しているかのようです。学生集会でも、女子の発言はありません。いかに昔とはいえ、むしろ現在よりも「男女同権」が頻繁に唱えられ、人権運動も盛り上がっていたはずです。全校集会で、女子生徒のこんな発言があってもよかったことでしょう。
「私は宇宙物理をやりたくて天文部に入ろうとしたけれど、あんなキタナイ場所ではできません。カルチェをブッ壊して清潔なクラブハウスに建て替えることを、切に望みます。魔窟のバイキン男どもを撲滅せよ!」
むべなるかな……カルチェラタンの取り壊しに全校生徒の大半が賛成するのは、まず、この理由があったはずです。そのことを隠さずに、作品中に表現してほしかったと思います。そうすれば、あの「大掃除」の意味合いも異なってくるからです。とうとう業を煮やした女子生徒の軍団が歯向かう男子を蹴散らしてカルチェに突入し、女の子でも安心して部活できるように強制清掃作戦を開始した……という展開の方がむしろうなずけますし、清掃が男女の協力で完了した結果、カルチェの男どもと勇敢な文化系女子の間にいくつかのロマンスも生まれたことでしょう。
 
一連の騒動の結末が「カルチェ保存&新クラブハウス建設」なのか「やはりカルチェを壊すけれど、新クラブハウス建設」で満足されてしまったのか、理事長の言葉だけでははっきりしないところも気がかりですが、ともあれ部活動への女子の参画問題を避けて通られたことには、ちょっと腑に落ちない観客もおられたのではないでしょうか。カルチェラタンにおいて女子が果たす役割は、ガリ切りとお掃除だけではないはず。理事長が、きれいになったカルチェを訪れたとき、天文部も高等数学研究会も、すでに女子部員がはりきって活動している、という場面があっていいはずですね。そうなっていれば、理事長の「文化を守る」のセリフに、より共感できる厚みが生まれたことと思うのですが。
 
●写真に写っていない“第四の男”
主人公のメルと俊、二人の初々しい恋の旅路を揺さぶるのが、二人の出生の秘密なのですが、その秘密の扉を開ける鍵となった写真がありますね。本編で何回か画面に登場する、戦時中の商船大学(ただし戦中までの名称は「高等商船学校」であり、「商船大学」となったのは1957年)の若者三人が写った写真です。その一人は、メルの父・雄一郎。
この写真の一枚は、メルの家にあり、メルがお気に入りの写真です。
もう一枚、俊も同じ写真を持っていて、そこから、男女交際を始めたばかりのメルと俊の間に、今後の交際を破綻させる禁断の出生疑惑があるのではないか? という不安が首をもたげてきます。
それはさておき、ちょっと混乱の原因になるのが、写真に写った三人の人物です。1人目は、メルの父であり、俊君の出生疑惑の原因となる沢村雄一郎。2人目は、のちに俊君の出生疑惑に強く関係してくる人物。そして3人目は現在、商船船長となっている小野寺氏。
したがって、俊を育ててきた父である風間のおやじさんは、写真に写っていません。写真の三人とは関係の薄い、4人目ということになります。
ところが、小野寺船長の紹介と登場がお話のラスト近くになるため、観客としては、写真に写っている3人目は小野寺ではなく風間だと思い込んでしまい、お話のラスト近くまで、勘違いに気付かず過ごしてしまう恐れがあります。私も作品を観終わってから、「ラスト近くで出てきた小野寺船長が“写真の3人目”なら、風間のおやじさんは何だったっけ?」と不思議に思ってしまいました。
うーん、ややこしい……
順序立ててストーリーを思い出せばわかることではありますが……
 
しかしそれに加えて、頭の中が混乱するもうひとつの理由が生み出されてしまいます。
それでは、写真に入っていない部外者の“第四の男”である風間のおやじさんは、写真の三人とどのような関係だったのでしょうか。
見終わってからストーリーを振り返りますと、沢村雄一郎との間にはただならぬ義理と友情が生まれていたようであり、また、作品の終盤で登場する小野寺船長のことも知っていて、直接連絡のとれる間柄であることがわかります。さらに物語後半で、メルの母である良子が喫茶店に風間のおやじさんを呼び出す場面がありますから、風間のおやじさんは沢村の死後も良子と連絡を取り合える関係であったことがうかがえます。年賀状のやり取りくらいはあったでしょうし、もっと深い親交が残っていたかもしれません。部外者どころか、写真の三人と同等かそれ以上の、かなり深入りした関係者だったのです。いかなるいきさつで、どの程度の深さで交流が続いていたのか、気になるところです。しかもそのことをメルは知らされていません。なぜ、良子は隠していたのか。ここにも、さらなる謎が感じられます。
というのは、例の、商船学校の三人の写真と同じものを俊も持っているわけですが、それは、だれが、いつごろ、俊に渡したのでしょう。風間のおやじさんは写真に写っていないので、もともと持っていません。とすると、俊が持っている写真の出所は、沢村雄一郎か、その寡婦でありメルの母である良子から(たぶん複写を)、風間のおやじさんを介して渡されたものと思われます。
では、何のために?
その写真が、もしも、俊君に、“本当の父親”とされる人物の面影を伝えるために手渡されていたのだとすれば……
ここにも謎が生まれます。
良子が、この写真を渡した意図はどこにあったのでしょうか? もしも俊君が出生の真実を知ったなら、この写真が俊君を大混乱させ苦しめることは最初から想像できたであろうと思われるのです。
結果的に、この写真は出生疑惑を呼んだだけでなく、物語の終盤で、もっと驚くべき現実を俊君に突きつけてしまいました。脚本によると、物語もラストシーン直前あたりになってから、俊君は初めて会った人物から、「きみは○○の息子か」と、名指しで決定的な回答めいた言葉を投げかけられるのです。
そのときの俊君は黙って冷静に、その宣告を受け止めたようですが。しかし……
これはよく考えると、俊君にとって青天の霹靂、全く想定外の情報なのです。事前に俊君がそのように知らされていたかどうか、作品には描かれていません。
ということは、ある日まったく突然に、「いやすまん、じつはあっちでもそっちでもなくてこっちのナントカいう男が本物のお父っつぁんだったのだよ、なーんちゃって、はっはっは」
と、ちょっとした人違いだったみたいに言われるようなものですね。
その心境はいかばかりでしょうか。
「えっ、そうなんですか、本当にそうなんですか!!」とびっくり仰天するのが実態でしょう。足元ガラガラ、奈落の底へ落ちていく気分になってあたりまえと思われます。
「それなら、俺っていったい何なんだぁぁぁぁぁぁぁ!」
頭を抱え、そう絶叫しても不思議はありませんね。
表面は冷静を装って、その場を取り繕っているように見える俊君ですが、心の中は驚天動地でパニック状態。地震、雷、火事より怖い親父の名前……でしょう。
「俺の本当の親って、いったい誰なんだ。オトナはみんなウソつきだぁ!」……
そんな悲鳴も聞こえてきそうです。
三人が写ったあの写真、時を超えて戦後の少年(そして少女)に、とんでもない混乱をもたらしたのではないでしょうか。なんとも罪作りな一枚のようです。
 
●一番大事な問題はまったく解決していない!
ついに幸せなラストシーン。俊君とメルの苦悩は洗い流され、晴れやかな笑顔の二人を載せたタグボートは波を蹴立てて一路母港へ……と大団円を迎えるのですが……ちょっと待てよ!
何か、とても大事なことを忘れてはいませんか?
エンドロール寸前でストーリーの進行を止めて、思い返してみましょう。二人の出生にまつわる疑惑と苦悩の、最も直接的な原因は、どこにあったのか。
あの因縁の三人が写っている写真……ではなく、俊君が役所へ行って確かめてきた戸籍の内容だったのでしたね。二人の清く正しい男女交際を滅茶苦茶にし、二人の愛を切り裂く悲劇の原因は、ひとえに、俊君の戸籍に記録された“父親の名”にありました。
となれば……
物語のラストシーンを迎えた俊君にとって最大の急務は……
問題の戸籍を訂正すること、なのです!
大人たちの言葉によって、二人の間の問題は解決したかのように見えますが、今のところそれはただの思い出話、それも俊君とは血縁でもない第三者の間接証言でしかありません。しかも俊君の出生疑惑の答えを直接的に知っている沢村雄一郎氏はすでに故人。さあ、ニッポンのお役所は、はたして俊君の戸籍を、はいそうですかと訂正してくれるでしょうか? 
ここで客観的証拠といえば、当時可能な方法として、血液型による判定がありますね。しかし、それでわかるものなら、賢い俊君のこと、すでに調べているはずです。それでも俊とメルに血縁疑惑が生まれるのですから、きっと、主要登場人物の血液型はみんな同じB型だったとか、そういった裏設定があるのでしょう。
ともあれ、物的証拠なしとなれば……
このまま男女交際を続けて、いつかめでたく結婚を、となったとき、二人の戸籍が訂正されず現在のままだったなら、役所は普通、婚姻届を受け付けてくれないだろうと思われます。
そう、つまり……
メルと俊、清く正しい二人の男女交際問題は、じつはなにひとつ解決していないのです。
タグボートの上で手をつなぎ、にっこり笑っている場合じゃない。二人の戸籍関係修正をめざすイバラの道が、この瞬間から始まるのです。それは、俊君の本当の父と母が誰であるのかを証明する、客観的な証拠を求める長い旅。戦災や海難で直接当事者は一人も生き残っていない……という絶望的な状況で、俊君は証拠探しを始めなくてはなりません。『母をたずねて三千里』に匹敵するもうひとつの苦難の物語が、二人の未来に横たわっているのです。
 
では、問題の焦点となっている俊君の戸籍は、どのように記載されていたのでしょうか?
俊君は作中で、市役所へ戸籍を調べに行って確認し、戸籍に登録された父親の名をメルに告げて、「まるで安っぽいメロドラマだ」と自嘲しています。が、ここでひとつの謎が残るのです。
“母親の名”はどうなっていたのでしょう?
実際に戸籍に誰の名が記載されていたのか、じつは、具体的に述べられていません。
ここんとこ、ちょいズルですよ、宮崎監督!
本当のところは、どうだったのでしょう。
メルの母・良子が雄一郎との新婚時代を回想するシーンからも、はっきりしたことはわかりません。ただ、可能性としては、下記の三つが考えられると思います。
(A)俊を実際に出産した、真の母親の名。
(B)第三者の女性の名。これは形式的に書類を整えただけの、虚偽の母親となる。 
(C)沢村良子(メルの母である良子の当時の名)。
この三つのうち、最も可能性が高いのは(C) の「沢村良子」でしょう。というのは、(A)(B)のいずれにしても、戸籍にそのように記載してしまったら、沢村雄一郎の妻である良子にとって、夫には結婚直前に内縁の妻、すなわち愛人がいて、その間に子供を作っていたと認めることになるのです。
親に勘当され駆け落ちまでして一緒になったのに、その夫に愛人ありを認めるなんて、良子に許せるでしょうか。たとえ架空の愛人だとしても、戸籍に記録されてしまい、否定できない事実とされてしまうのです。
冗談じゃないわ、何言ってんのよバカ!
……と、良子が激昂しても不思議はないでしょう。ましてや、そんな戸籍を認めようものなら、将来、夫の沢村雄一郎が亡くなって遺産相続が発生したときに、雄一郎の内縁の妻なる人物やその血縁者が現れて相続権や子供の親権だかを口にされたら、もっと面倒なことになると思われます。
となれば……
 
ここからは私の勝手な推測であり、お話に語られていない架空の設定となります。あくまで物語のストーリーとは関係のない仮定の絵空事とお考え下さい。
もしも、俊君が役所で確認した戸籍の母親の欄に、「沢村良子」と記載されていたら、どうなっただろうか……。
そう仮定すると、俊君は、少なくとも役所で戸籍を確かめた時点において、「自分の本当の母親の名前は沢村良子」という認識を得ていたことになります。
そして、男の子にとって、母親の存在は偉大です。なにしろ母をたずねて三千里を旅するくらいですから。俊君は幼少のころから、本当の父親として、あの写真に写っている三人のうち一人の名前が教えられています。それならば当然、「本当の母親はどんな人なのだろう。その人の名前は? 面影は?」と、気になっていたはずですね。ならば戸籍を確かめて、「本当の母の名は沢村良子」と知った俊君の次なる行動は、メルに一言「きみのお母さんの名前は?」と聞くだけですね。
「良子」とメルは答えるでしょう。
そうなったとしたら……
この物語の中盤で、俊君がメルに、このように求める場面が出てきたことでしょう。
「きみのお母さんに会いたい。僕の本当の母親なんだ」と。
母親・良子は物語後半で帰国しています。親子としての良子と俊の対面は可能であり、それはさらにこのお話のメロドラマぶりを盛り上げたことでしょう。
しかし、いったん俊君に会ったら、良子は自分のことを「お母さん」と呼ぶ俊に対して、意外な真実(ただし客観的証拠のない証言ですが)を告げざるを得なくなります。
そして、それはよく考えると、俊君にとって青天の霹靂、全く想定外の情報なのです。
ある日突然に、「ごめんね、じつはこっちでもそっちでもなくあっちのナントカいう男の人が本物のお父さんだったのよ。なーんちゃって、おっほっほ」
と、ちょっとした人違いだったみたいに言われるようなものですね。
その心境はいかばかりでしょうか。
がーん! 大ショック!
「えっ、そうなんですか、本当にそうなんですか!!」とびっくり仰天するのが実態でしょう。足元ガラガラ、奈落の底へ落ちていく気分になってあたりまえと思われます。
「それなら、俺っていったい何なんだぁぁぁぁぁぁぁ!」
頭を抱え、そう絶叫しても不思議はありませんね。
 
実際には作品のストーリーは、そうならなかったのですが、俊君の戸籍に記載されていたはずの母親の名前が、もしも話題になったと仮定すれば……。
やはり結果的に、そういう展開になったことと思われます。
「オトナはみんなウソつきだぁ!」……と。
美しいラストシーン。しかしエンドマークが消えたその後の二人の関係は、「戸籍上は結婚がペケだけど、生物学的には婚姻関係マル???……だよね神様???」という新たな背徳性が加わって、よりスリリングなものになるでしょう。
おそらく、物的証拠も証言者も得られず、訂正できない戸籍に阻まれて正式な結婚ができないまま二人の関係は続き、とうとうメルは、戸籍上のシングルマザーになってしまう。しかし時は流れ、医師として研究を極めたメルは、それから二十数年後の昭和六十年代に、ついに遺伝子解析で自分と俊の関係を解決、戸籍の訂正に成功し、二人は晴れて正式な夫婦に……という結末になったのではないでしょうか。
そこまできて、ようやくこの物語はハッピーエンドを迎えるのです。たぶん……。
 
●親たちの悪夢と、隠された真実?
『コクリコ坂より』は、メルと俊、若く純真な二人が、それぞれの出生に関わる過去の秘密に遭遇し、二人の愛を阻む障害に真摯に対峙する物語でした。
それはまた、メルと俊、それぞれの親たちにとっても、過去の秘密の扉を開けるべきか否か、オトナとして苦慮しつつ、対処していく物語でもあります。
その一例として、こんな場面がありましたね。
俊君の出生疑惑にからんで、娘のメルが母の良子にとんでもない電撃質問をするのです。それも出し抜けに。
「もしも風間さん(俊)がお父さん(雄一郎)の本当の子供だったら?」
思えば、物凄い、大胆なセリフですね。
メルの質問内容は、「母・良子が沢村雄一郎と駈け落ち結婚する時点で、父には、まだ関係を清算していない愛人がいて、その女性との間に連れ子(俊)が生まれていたのでは……?」という、戦慄すべき想定を告げているのです。
いくら仮定の話とはいえ、このような質問を娘から投げ掛けられたとき、母親はどう反応するでしょうか。「おめでとう、ピンポーン、大正解よ!」ではないでしょう。事実、良子は「エッ?」という顔をします。そんなことは考えてもいなかったと。
しかしそれに続く、良子の反応が不可解なのです。
観客としては、普通、このような返事になると想像します。
「メル、なんてこと言うの。絶対にそんなことはないわ。お父さんは無鉄砲だけど本当にいい男だったのよ。浮気して子供を作るなんて、お父さんに限って、百%ありえないのだから。お母さんにはわかってる!」  
亡夫・雄一郎を信じていればこそ、これくらいキッパリと否定してしかるべきでしょう。
だって、「お父さんは浮気者で、よそで子供を作ってました」などと認めたら、次にメルの心中に沸き上がる疑惑は、さらにレベルアップした、一段とおぞましい想定になるのです。
「それなら、お母さん……もしかすると、私も、じつはお父さんと愛人さんの娘ではないの?」
昭和三十年代の高校二年生といえば、現代の感覚よりもずっとオトナです。中卒で就職し、社会人として働く人も多かった時代。二十歳に前後して結婚をめざし、二十五歳で売れ残ったらオールドミスと呼ばれるのですから、若い女性の性生活意識は現代よりもずっと早熟だったことでしょう。メルは十六歳、親の承諾があれば結婚できる年令なのです。コドモだと言ってバカにできません。しっかりしています。
だから、はっきりと答えてあげるべきだと思うのですが、母・良子はなぜか、大切な話題をうやむやに、はぐらかしてしまいます。一瞬は「エッ」と驚くものの、怒ることも、悲しむことも、取り乱すこともなく、昔をなつかしく思い出すかのような態度で、イエスともノーとも言わず、答えをそらせてしまった……。そう解釈できると思うのです。
はっきりと否定すべきことを、否定しない。
なぜでしょう?
その態度には、密かに、恐るべき前提が含まれているように感じます。
 
ここからは作品中にない、私個人の勝手な邪推です。意地悪な妄想にすぎないとご承知置き下さい。
良子は、亡父・雄一郎が浮気して愛人との間に子を作ったのではないか……とメルに指摘されたとき、ドキッとしながらも、「もしかすると、そうかもしれない……」と思い当たる節があったのではないでしょうか。それでも怒るでも悲しむでもなく、寛容の心で受け入れることができるということは……
裏返せば「私も浮気をしてこの子たちを作ったから、おあいこね」という後悔と自責と、そして穏やかな諦めが、うっすらとほのめいてきませんか?
そう、ここに、悪夢のような想定が生まれるのです。
駈け落ち結婚した当時、夫・雄一郎は「航海に出ていることが多くて」と良子は語っています。長期間、おそらく二ヵ月三ヵ月と家を空け、たまにしか帰ってこない夫。どれほどいい男でも、そばにいてくれないと淋しさがつのります。そんな良子と親しくなったのが風間のおやじさん。地元で小さな海運会社を興したところで、雄一郎ともかなり親しく、雄一郎が留守の間、何かと良子を手助けしてくれたのではないかと思われます。
そして、風間のおやじさんの奥さんは、健康上などの理由で、出産がうまくいかない身体だったと思われます。そうすると……
ごくたまにしか夫と関係を持てない、淋しい人妻と、妻との間に子を授かれず、淋しい思いを抱えた青年が、互いの淋しさを満たすために求め合うようになったとしても、不思議はないのでは?
メル、そして妹の空、弟の陸の三人とも、じつは良子が夫・雄一郎の留守の間に風間のおやじさんと姦通して作った子であって、浮気がばれないよう、雄一郎の子として出産していたのだ……という可能性が、百%否定できるとは限らなくなるのです。
ああ神よ、なんということでしょう。あの写真に写っていない“第四の男”こそ、良子の不倫相手だったとは!
もしも、そうだったとしたら……
メルをはじめ三人の実子は風間との子。だれも雄一郎の血を引いていない。だからもしも俊君が本当に雄一郎の子だったなら、俊君こそ、雄一郎の忘れ形見ということになります。浮気はしたものの、本当に愛していたのは沢村雄一郎。俊が雄一郎の子であったなら、会って、その面影を確かめたいと思っても不思議はないでしょう。
これぞ昭和のメロドラマ。稀代のよろめき有閑マダム、良子!
悪夢です。これはまさに悪夢です。しかし、可能性としてあり得る想定のひとつとして、この物語に登場するオトナたちの、表からは見えないダークな側面を暗示してくれるのではないでしょうか。
 
しかしそこで、良子は親として難題に直面していることを悟ります。
メルと俊は知り合っている。二人は愛し合うかもしれない。
しかも二人は自分たちの出生に疑惑を抱き、社会倫理からみて許されない関係ではないかと悩み苦しんでいる。
そうすると……
親として、二人になんらかの解決を与えなくてはならない。それも、二人を安心させ、同時に、それぞれの親子の関係を傷つけないものにしなくてはならない。そしてさらに、良子と風間夫婦(俊を育てた父と母)の関係も壊したくない……。
まさか、メルたちに事実をそのまま告白するわけにはいきません。そうなったらこの物語はおしまいです。あっちも不倫、こっちも不倫で、本当の親って、どっちの誰なの? みたいな、まるで団地妻・昼下がりの情事を地で行くような痴話ストーリーに堕ちてしまうのです。メルが知ったら、頭を抱えてこう絶叫するでしょう。
「俊君、あなたも私も不倫の子なんだって。それじゃあ私たちって、いったい何なのよぉぉぉぉぉぉぉ!」
世間ではままある話とはいえ、この秘密だけは絶対に守らなくてはなりません。本作品はファミリー観賞を前提としたアニメであって、十八禁ではないのですから。
数日後、良子は風間のおやじさんに連絡して、喫茶店に呼び出します。善後策を協議するためです。打合せた結果、こうなります。(1)メルと空と陸はあくまで、沢村雄一郎と良子の子である。良子と3人の子供たち、そして風間夫婦の人間関係を壊さないためには、そう断定するほかにない。(2)俊に対しては本当の父親が○○であると、関係者全員で認めよう。写真の3人目の小野寺にも、そのように事情を説明してあるのだから。
この(1)と(2)が真実かどうかはこの際問題にしない。これが一番おさまりのいい、波風の立ちにくい解決なのだ……。
これが、大人たちの対処法です。
かくして風間のおやじさんはある人物に連絡を取り、メルと俊を納得させる証言者として、二人に会ってくれと頼みます。
こうして、物語は感動のラストシーンを迎えます。
俊とメルを縛っていた禁断の鎖は解かれ、二人は晴れて自由の身、好きなだけ、いくらでも恋愛していいんだよ! もちろん、いずれはオトナの関係も……と。
これはこれで、合理的な“落としどころ”でしょう。もしも真実が、「メルは良子と風間のおやじさんの子、俊は沢村雄一郎と愛人の子」という悪夢であったとしても、メルと俊の間で婚姻が可能であることに変わりないのですから。
以上はあくまで、親たちの悪夢としての、架空の想定です。
しかしながら、可能性のひとつとして、完全に否定することもできません。
そこに、このお話の、隠されたおもしろさを見ることもできるでしょう。
メルと俊、二人の関係の真実は、本当のところ、どうなのだろう?
大人だからこそ気にかかる、独特の摩訶不思議な余韻をずしりと残して、『コクリコ坂より』は幕を閉じます。
 
さて、この作品がエンドマークを迎えたとき、すべてが解決してスカッとした……という解放感にひたれる観客は、はたして多いでしょうか? どうもスッキリしない、何かがひっかかる、何かがまだ隠されているのではないかといった、ちょっと言葉が悪くてすみませんが、残尿感のようなものが尾を引いた人も、少なからずいたのではありませんか?
理由は単純です。物語の大きな山場であった、メルと俊の出生疑惑については、この二人の自主的な行動によって解決したのではなく、親たちから解決を“与えられた”からなのです。
例えば『天空の城ラピュタ』を見てみましょう。パズーとシータ、愛し合う二人は誰かに依存して従うのでなく、自ら考え、行動し、決断し、解決を探していきます。そして物語の最も重要なシークエンスで「滅びの呪文」を唱えるか否かは、この二人だけの自主的な決断に委ねられるのです。だから、すべてが終わったときに観客が共感する達成感や解放感は、非常に歯切れの良いものになっています。物語を、主人公が自分の意志で終わらせてくれたからですね。
『コクリコ坂より』はそうではありません。メルと俊、二人の主人公の最大の問題に幕を引いたのは、親たちなのです。結局、親たちに結論を説明され、二人は納得して物語を終えているのですね。ファンタジーでなくリアリティを重視する物語の性質上、問題解決に大人の力を借りることはある程度理解できますが、ワガママな観客の一人として、ちょっと残念な感じが残ってしまうのは、いたし方ないことでしょう。しかしこれも作品のひとつの持ち味であり、「大事な問題は、まだ解決されていない」という“未解決の印象”を後々まで味わえるのも、また一興であると思います。
なんといっても……
“未解決感”が残るがゆえに、私もこの文を書きたくなったのですから。
 
●『キューポラのある街』の彼方に
『コクリコ坂から』の時代は昭和三十八年。東京オリンピックの前年と設定されています。作品の制作にあたって、当時の日本映画がいくつか参考にされたということですが、この年代を舞台にするにあたって、絶対に欠かせないのが、昭和三十七年の『キューポラのある街』でしょう。当時十六、七歳の吉永小百合さんが中学生の主人公・ジュン役を務め、まさに体当たり、迫真の演技を披露されました。赤貧の家庭。風呂もない長屋生活で、父親は失業して飲んだくれ、母は飲み屋稼業や内職で身をすり減らす。弟は白のトレパン一着を買ってもらって大喜びする、という貧しさ。主人公の少女ジュンは中学生なのにパチンコ屋で、もぐりのバイト。話の後半では小学生の弟まで新聞配達のバイトで働きます。高校へ進学したくても、学費のあてはない。そんな、逆境を束にしたような環境で、主人公の少女は信念をもってまっすぐに、ささやかな幸せを求めて堂々と歩んでいきます。どんなに貧しくても、人間の誇りだけは捨てない! と雄々しく高らかに謳いあげた、国産映画屈指の名作だと思います。
この『キューポラのある街』と見比べてしまうので、あくまで個人的な感想ですが、『コクリコ坂から』には、どことなく鋭さを欠いた、生ぬるい雰囲気が感じられてなりません。
主人公たちは高校生、それも大学進学を当然とする、立派な進学校であり、しかも私立。授業料は半端ではありません。メルの母方のおじいさんは開業医で院長、母も英米文学の大学助教授、という、二十一世紀の現在からみても雲の上のエリート家庭なのです。俊君も「俺の家は貧乏」と評しながらも、風間のおやじさんはタグボートの船主(雇われ船長なら、毎日俊君を便乗させることはできないでしょう)であり、オリンピックを控えた好景気に押されて、俊君の学費に困るわけではなさそうです。
つまるところ、未来の生活に不安を抱く人たちではないわけで、中卒の就職が普通で、高校進学すら夢のまた夢、明日をも知れない『キューポラのある街』の主人公ジュンとは全く別世界の物語と言っていいでしょう。同じ首都圏、同じ時代に、これだけの格差があるというわけです。
だからこそ、『キューポラのある街』の画面からあふれる人間味、赤裸々だけど熱く燃える感情、絶望に満ちた未来でもくじけず踏み出す、その勇気とパワーに激しく胸を打たれます。人が生きる力の強さにおいて、二ケタほど違うド迫力があるのです。そして主人公のジュンが、大人の誰かに命じられるのでも説得されるのでもなく、完全に自分の意志で人生の決断を下し、物語を締めくくってくれたことには、心から拍手を送りたくなるのです。
もちろん『コクリコ坂から』はアニメであり、美しく、すぐれた作品であることに間違いありません。しかしそれでも、『キューポラのある街』という巨塔がそこにある以上、勝負を挑んでほしかった。そんな思いもどこかに残るのです。
 
●旗の意味……戦争への鎮魂歌
「旗はなくてもよかった」と酷評して申し訳ありませんでした。たしかにメルと俊のロマンスには実質的に関与しない旗ですが、この作品において、旗には別な意味があると思います。
それは、戦争への鎮魂。
父の冥福を祈ってメルが掲げる旗は、戦争の犠牲となった民間の船乗りへの鎮魂歌と考えることもできるでしょう。朝鮮戦争の当時、ニッポンはまだアメリカの占領下にあり、平和憲法のもと、戦争を放棄したばかりでした。もちろん日本に軍隊があるはずはなく、船舶はすべて非軍人の運営で、主に海外から日本への、復員兵や家族たちの引き揚げ事業に従事していました。しかし朝鮮戦争の勃発で、状況は変わります。米軍は、引き揚げに使われていた輸送船を徴用して、日本人の民間乗組員ごと、朝鮮戦争の現場へ向かわせたといいます。また機雷の掃海艇に民間人が乗り組んで航路の啓開に駆り出されたケースもありました。そこで機雷に触れて、多くの殉職者……というよりも、あってはならない「戦死者」……を出したということです。
あの悲惨な太平洋戦争がようやく終わったのに、平和憲法のもとでふたたび戦争に赴き、死なねばならなかったことの悲嘆。
メルの父を奪った戦争への悲しみと鎮魂の祈りが、その旗に込められていると考えていいでしょう。『コクリコ坂から』の、隠された一面がこの旗に象徴されているようです。戦争が残した悲劇が、平和な時代の若い二人を、「出生の秘密」という意外な形で翻弄し、生きていく以上どうしようもない現実と、歴史の裏の真実に向き合っていく物語でもありました。
やや意地悪な視点で謎をつついてみた失礼をこの場でお詫びしますとともに、これからも、この『コクリコ坂から』でとどまることなく、『キューポラのある街』を超える作品が宮崎監督の手から生み出されていくことを願っています。
 
                        (2011.08.11一部修正追加)
 


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