Essay
日々の雑文


 70   20110730●雑感『原発と総理と……』
更新日時:
2011/08/01 
 
 
原発と総理と“あのお方”
 
…なぜ私は心配するのをやめて、
 「脱原発」を愛するようになったのか。
 
 
 
 
 
《以下の文章は2011年7月13日以前に書いたものです》
 
※以下の文は、原発事故にまつわる、2011年7月現在の総理大臣の発言について書いたものでありまして、原発関連以外の政策について述べるものではありません。現総理のあらゆる方面の政策のすべてに賛成するという意味ではありませんので、何卒誤解なさいませんよう……
 
 
●もしかすると“あのお方”が……
死者・行方不明者二万人余り。
戦時中の硫黄島玉砕に匹敵する犠牲者を数える震災から、四ヵ月。
ニッポンの政治は相変わらずで……
六月初めの、菅総理の不信任案騒動以来、国会は空回りして物事が決まらず、七月七日の七夕に至ってなお、総理が発表した『ストレステスト』の実施決定で玄海原発の再稼働が宙に浮いてしまい、ハシゴを外され手のひらを返されて国政はいよいよダッチロール状態、あんなにやめろと言われてやめないダメ総理を頂くこの国はお先真っ暗……といった慨嘆がマスコミにあふれています。が……
 
うーん、しかし、考えようによっては、案外これは、悪くないのかも。
奇妙ながら、新聞を読みTVを見るにつけ、いやどうも、政局の現状は捨てたものではなく、ひょっとしてニッポンの国に善い方向性をもたらしてくれるかもしれない、という気がしてきました。
 
というのは、三月十一日の東日本大震災から日々が過ぎるごとに、原発事故とその関連事象に限って言えば、一連の政局に、あらゆる勢力を超えた、見えざる神の手とも言うべき超常的なパワーが作用しているような“感じ”がしてきたからです。
神の手とは……この国の歴史を紐解けば、たとえば、某国の憲法前文でお馴染みの“あのお方”、某国首都の千代田区千代田にお住まいの“あのお方”がイメージされますね。くれぐれも、某怪物映画のヴォルデモート氏のことではありませんよ。
そもそものきっかけは、震災直後の三月十六日に全国のTVで放映された“陛下のお言葉”です。その中で「労をねぎらいたい」と特段の激励をもって紹介された人々の筆頭に「自衛隊」の名前が出たことには、瞬間的に違和感を持ちました。自衛隊の名が出るのは当然としても、順序としては最初に現場で災害に直面した「地元の救急、消防、警察、自治体の防災関係者」といった方々を先にされるのが自然ではないかと感じたわけです。しかしその翌日の朝、自衛隊のヘリコプターが福島第一原発への空中放水に飛び立つ様子をニュースで見て、なるほどと納得しました。もちろん陛下はこの作戦の実施とその危険性の高さをあらかじめご照覧になっていたから、なのでしょう。
 
それからというもの、何だか気にかかるようになりました。この国の中で、原発事故に最もガチンコ(真摯)な当事者意識を持ち、深く心を痛めておられるのは“あのお方”ではないかと。だから、古式ゆかしい表現で“大御心”(おおみこころ)と称されるそのご意思が、窓辺にそよぐレースのカーテンを見て、初めて風が吹いていることを知るような、そこはかとない形で、原発に関わる政局に吹き渡ってきたような気がしてくるのです。そういえば、この四ヵ月を振り返ると、「なぜ?」と気になることがちらほらと出てきます。
たとえば……
ことごとく孤立し、支持率が低下しても、うろたえず笑って辞めない総理。
内輪からブリブリ文句を垂れながら、一向に瓦解しない内閣。
あれほど総理のことを嫌っているのに、不信任案を自ら否決した議員の皆さん。やめろコールの大合唱を浴びせながらも、総理ならオレの方がちゃんとできると請け合うヒトもなく、本音のところは辞めさせる気がないんだろ? と看破されても仕方ありませんね。
しかも、不信任案に反対票を投じ、すなわち信任しておきながら、その後で「総理退陣!」を叫ぶ議員の見苦しさ。みんなが総理に「続けて下さい」と言っちゃったわけだから、総理が辞められないのは当然だしそれ以外の選択はないはずですね。
 
このあたり、菅総理の粘り方は、会社からリストラの標的にされた中高年社員が、知恵を絞って現職を守る姿に通じるではありませんか。そっくりですよ。しかも、辞職までずるずると時間を稼いで有利な条件を引き出していくテクニックなど、まさに負け組サラリーマンの鑑といっていい高等戦術です。カイシャの中で社員が身を守るのに、内圧(さらなる上位者とのコネクション)と外圧(社外コネクションと社会的風評)を活用するうえで、おおいに参考としてよろしいかと……
 
さて、総理の評判の悪さは民衆に定着した感がありますが、具体的になにがどう悪いのかわからないのが不思議ですね。相談もせず独善的に物事を決めていると、議員の多くが菅総理の性格を責める。しかし菅総理の政策は責めない。与野党を問わずかくも悪しざまに罵られ、身内の大臣からはナメた言動が続出していながら、総理が独断専行で打ち出す突拍子もない対原子力政策の善し悪しはほとんど議論されず、文句を言いながらも、だれもが従っていくという、なんとも奇妙奇天烈な政局です。政策決定の手順が身勝手すぎると非難しながらも、政策そのものを「間違っている、絶対に従えない!」と斬り捨てて袂を分かつ人はいないのです。
その顕著な例は、五月六日、浜岡原発の唐突な停止決定でした。法的根拠もない総理の単なる“声”でしかないのですから「絶対反対。停止させたくば議会で立法せよ」と正論で拒否する人がいるかと思ったのですが、そうはならず、行政がもやもやと黙認し、電力会社はしぶしぶ従いました。議員の皆さんも憤激するどころか、なんとなく「まあ、それでいいじゃないか」と納得されてしまったようです。
このことには、とても奇妙な印象を受けました。まるで、総理の背後に霊的なパワーが控えていて、その権威が人々を従わせているようにも見えるのです。
 
●国会空転も、想定内?
その傍ら、国会の空転は続きました。法案審議が停滞し、電力会社の経営に影響するかもしれない原発賠償関係や自然エネルギー関係法案などが進展せず、おかげで電力会社は株主総会をすんなりと乗り切れました。しかも女性問題のスキャンダルで原子力安全・保安院のスポークスマンが株主総会直前の一週間、沈黙してくれるというおまけもついたこと。この期間、原発事故の情報発信源は東電一本に絞られ、経営側にとって完全に情報を統制できる、絶好の環境となりました。福島第一原発で不測のトラブルが生じても、株主総会を機に、経営が打撃を受ける危機は避けられたわけです。
このことは電力会社だけが一方的に漁夫の利を得たかのように見えますが、さにあらず、総理の側にとっても、震災後初の株主総会が混乱して株価が地に落ちるようなことは避けたかったはず。まだ今の段階では、東電が潰れて、賠償の主体を失うわけにはいかない。だから、反原発側から突っ込まれて混乱しそうな法案は、株主総会終了までは塩漬けにするというのが、総理と電力会社のパワーゲームの妥協点だったのではないか、そんな気がするのです。
そこで六月末に株主総会が終わったとたん、菅総理の「ストレステスト実施」が降って湧き、経産大臣や地元知事や村長が合意しかかっていた玄海原発の再稼働が覆りました。しかも、その理由を補強してあげるかのようにタイミングよく、原発説明会への九州電力による「やらせメール」がリークされ、担当大臣や地元知事や村長にとって、再稼働を棚上げにする格好の口実が提供されたわけですが、これは偶然でしょうか? ストレステストに反対する政治家もおられるように思うのですが、こちらもなんとなく「まあ、総論では賛成だね」みたいなムードに流れていきます。不満を口にしても、ストレステスト絶対反対! とは、ならないのです。内閣支持率は10%にせまる危険水位、菅政権は風前の灯なのに、総理が一人で打ち出す政策は、誰が言うともなしに、みんなが支持しているのです。
 
これらの流れを振り返ると「危険な原発は止めなさい、しかし電力会社の破綻までは望みません、とはいえまだ安全は保障されず、再稼働できる時期ではありません」…そんな暗黙の意思で、出来事の全体が貫かれているように思われてなりません。これはまた、大多数の国民にとってまずは妥当な、納得できる流れとはいえないでしょうか。
また余談ながら、被災地で「知恵を出さないやつは助けない」と発言し辞職に追い込まれた大臣が会見した際に、ジャズバーや被災児童の作文集の話題など冗舌をきわめながら、肝心の辞職理由については誰かに口止めされたかのように沈黙を通したこと。前夜には「総理からも遺留された。辞めない」と明言していたのに、いったい誰に諭されて、お辞めになったのでしようか?
 
そして、菅総理が、自分が辞めない理由のひとつとして挙げた名言「政治家は理解者が一人いればいい」。その一人とは……マスコミでは、総理の奥様とされていますが、そこまで個人的な事情を表に出すよりも、より普遍性のある言葉だと解するならば、むしろそれは奥様よりも、ひょっとして“あのお方”のことではありますまいか?
 
あくまで私個人の妄想ですが、原子力関係に限れば、総理の背後に“あのお方”がおられて、その“大御心”を慮(おもんばか)って総理とその周囲が動いているとしたら、この四ヵ月の政局には、ナルホドとうなずける場面が多々あるわけです。もしも、仮にそうだとしたら、そのような総理大臣は、既存の政治勢力に偏らず、したがって孤立を恐れず、国民の非難に耐え、最後は一人で責任を背負い、名誉も称賛も期待せず、自ら泥をかぶって去る覚悟が必要となります。もしかすると……現総理はその“適任者”であって、それゆえ代わりになろうとする人が現れにくいのかもしれません。
なぜならば、もしも今、総理が“あのお方”の“大御心”を代行しているとしたら、その政権が支持率を上げてさらに長期化することは、民主政治にとって望ましくないからでしょう。ここでもしも支持率が上がれば、総理が“大御心”を利用してみずからの権力を強化することが容易となり、ともすれば戦前の悪夢が繰り返されるからです。“大御心”を戴く総理が政権の座にあるのは、今のこのとき限り。長引いてはならず、世論に熱狂的に支持されるのは逆に避けなければならない。むしろ“大御心”の存在を大衆に気取られぬよう、評判の悪い内閣であってもらった方がいい。そう推察することもできるかと思います。
 
 
●この国の行く末
さてそれでは、その“大御心”の真意は「脱原発」なのでしょうか。そうとは断言できないでしょう。原発のストレステスト実施を決めた菅総理は、野党議員から詰問されても、当初は「脱原発」を明言せず曖昧にぼかしています。これは正しい判断です。「脱原発」を言明すれば、菅総理は全国民に「脱原発」のレッテルを無理矢理押しつけることになるからです。
“あのお方”の大御心がここに作用しているならば、「脱原発」であれ「原発推進」であれ、一方を押しつけるのは避けられることでしょう。
福島の原発事故を知ったとき、“あのお方”の心中に去来したのは、多感な少年期の頃に、軍部の暴走を止められずに大戦に突入し、百万単位の死者、そしてヒロシマ・ナガサキの惨禍を招いた痛恨と慚愧と悲嘆の記憶ではなかったでしょうか。
そこから推し量るに、大御心の本意は「性急に事を決めて後日後悔しないように、ここはしばらく辛抱して、国民みなが慎重に考えてみよ」ということではないか。「脱原発」か「原発推進」のいずれにしても暴走することは止め、国民全体でよく考えてみるのだ、今こそ、早まってはならぬ……とおっしゃっているように思えてなりませんし、そしてまた、実際に、じわじわと、その方向に事態が動いているようにも見えます。総理は語らず、“あのお方”も黙したまま、ただ風のように物事が、和やかな、善い方向へとゆらいでいく。もしも、そうだとしたら、国会の空転もマスコミの喧騒もどこへやら、なんとエレガントなお導きであることか。
“あのお方”の大御心がおだやかに政局にそよいでゆく。これは民主主義の理念からみてかなり疑問はあれど、その力学と方向性が絶妙に配慮されていれば、ポピュリズムに堕しがちな国民性を補って、民主主義を補完する機能を果たすかもしれません。
重ねて申しますが、これらはすべて私の個人的な妄想です。とはいえ、そのような空想をしたくなるような、不思議な政局でもあります。本当にそうなのか、それはまったくわかりませんが、SF的な、あるいはファンタジックな想定でこの現実を見るのは実にスリリングであり、真実を探るひとつの試みではありますまいか。
 
私はこの一文で、日本国憲法に定める天皇制について過度の賛美も批判もする意図はありません。ただ、原発を今後どうするかが、この国の未来の運命を左右することは間違いなく、数十年後の未来の人々が歴史を振り返ったとき、この国が「品位ある選択」をしたか否かを評価する、その瀬戸際が今、目前にせまっていることは事実でしょう。このことは“あのお方”も無関係であるとはいえないはず。これからの政局、SF的な視線で、固唾を呑んで見守りたいと思います。
 
 
【以上は七月十二日までに書いた文章です。以下に追伸します】
 
●この日、歴史が変わった?
そして七月十三日、菅総理は記者会見を開いて、「脱原発」を表明しました。とはいっても正確には「脱・原発依存」のようですから、原発と正面対決して決戦を挑むのではなく、徐々に減らしていく“漸減作戦”のようです。そうだとしても、翌日の朝刊には「首相、脱原発を表明」の見出しが踊りましたし、社民党の党首からは「英断!」のラブコールが届き、大規模野党からは「具体的な計画が示されていない。総理のただの願望」といったブーイングが上がりましたから、事実上「脱」原発と認めてよさそうです。
 
平成二十三年七月十三日、水曜日。
この日は、ニッポンの歴史に残る、記念碑的な日となりました。
皇紀二千六百七十一年、この国の歴史で初めて、総理大臣みずからが、原子力に反旗を翻したのです。
菅総理の、見事な作戦勝ちです。
これは、目立たないようで、実はとても、すごいことなのですね。
これまで「核兵器」はまだしも、平和利用の「原子力」に楯突く与党政治家は皆無だったといっていいでしょう。戦後まもなくの一九五○年代から高度成長期に、原子力は二十一世紀の未来を輝かしく彩るエネルギーとして、ニッポンの子供たちを魅了してきました。未来社会を描く絵物語や人形劇では原子力旅客機や原子力客船が縦横無尽、正義の味方であるヒーロー・ロボットの体内には原子炉が収納され、炉が過熱したらシガレット形の冷却材を服用し、宇宙戦争で放射能汚染の事故があっても、放射能除去剤やなんとかクリーナーによってたちどころに無害化される設定になっていました。
原子爆弾は危ない。けれど原子力は安全。
その根拠もわからず、私たちは安心していました。
フクシマの事故が起こってなおも、反原発のデモに参加する人たちに「現実を見ないとね」と冷笑を送っていた人々が大半ではなかったのか。
まさにここ数年は、だれからも、一言の批判も許さない、「泣く子も黙る原子力」だったのです。
 
だから、総理大臣の「脱原発」発表は劇的でした。
これは、ひとつの国が歩む方向を変える、壮大なパラダイム・シフトの始まりなのです。
 
「脱原発」と景気よく唱えても、絵に描いた餅。具体的なスケジュールと段階的な目標が明らかになっていない……という批判が集中し、さらに閣僚たちからも「内閣としてはそんなことは事前に聞いていない」とそっぽを向かれて、七月十五日にさっそく菅総理は、「脱原発」は政府としてではなく「自分個人の考えだ」とトーンダウンしました。
まあしかし、考えてみれば、総理はまず全体のビジョンを示すことから始めたのであって、具体的なスケジュールは担当大臣と官僚がやればいいですし、そもそも、「即時退陣」を要求している人たちには具体的なスケジュールを提示してやる必要性も意味もないのです。「私を辞めさせたい? それなら具体的なスケジュールは次の総理に聞いてくれたまえ」が総理からの正しい回答でしょう。
「脱原発」が自分個人の意思でしかないと認めたのは、この発言に関して責任を免れたいと考える閣僚に配慮してのことでしょう。したがって、七月十三日の「脱原発」は菅総理一人の責任によって発言されたことになりました。要するに、閣僚たちは一切の責任を管総理個人に帰したいのであって、菅総理もそれを許容したということです。
 
だからこそ、「この時、歴史は変わった」のです。
後年、NHKの歴史番組でそう評価される日になるかもしれません。私たちは期せずして、歴史の転換点を経験していることになります。
しかもこの転換点を、総理大臣が一人で、しかも個人の責任で、議員にも官僚にも国民にも嫌われて、孤立無援の中で実現していった。後世の歴史はそう評価するでしょう。十年後二十年後はともかく、半世紀後のニッポンの歴史の教科書には、史上初めて原子力の不気味な闇に挑み、議会にも国民にも見放されて孤軍奮闘、史上最低クラスの支持率にあってもなお踏み止まり、正義を信じて戦った英雄的な宰相として、カンナオトの名が刻まれているかもしれません。
案外、そうなるかも、と思います。
というのは、菅総理の「脱原発」発表をマスコミが報じた翌日の七月十五日、各所の大臣が相次いで、新しい原発の建設が困難になった、福井の実験炉の今後を見なおす、やらせメールの九州電力の社長にそれとなく退任をせまるといった、「脱原発」への追い風を送りはじめているのですから。
みんなに嫌われているはずの総理なのに、みんながなぜか従っていく。
どうみてもカリスマ性から程遠い総理なのに、その名は、歴史に刻まれることになりました。
原子力と戦った孤独な英雄。……として。
いや、真実のところは“あのお方”の大御心に沿って……ということでしょうが。孤立無援の首相が、“あのお方”にまで嫌われるようなことをして、自分の主張を通せるとは思えません。それが、大臣たちの同調を無理なく誘っているのでしょう。
とすると、可能性として、この国の「脱原発」への最初の第一歩は、総理大臣と“あのお方”の二人三脚で踏み出されたということではないでしょうか?
 
●「脱原発」は簡単だ
しかしそれも束の間、次の政権では原発推進に逆戻りするのではと、憶測する向きもあるでしょう。しかしそうなると、次期政権は、いかに想定外の災難とはいえ四ヵ月たっても危険な状態が続いているフクシマ原発をもって、「安全の確保」を“あのお方”に説明しなくてはなりません。電力会社の総力に自衛隊も投入して、いまだに防護服なしで近付くことのできない場所を、何をもって「安全です」と請け合うのか。
すでに建設後数十年を過ぎ、老朽化した原発をなお稼働させることのリスク。
そして同様の事故が再び起こったとき、この国が本当に滅びかねない、という恐怖。
その恐怖を最も切実に感じておられるのは“あのお方”の他においてないでしょう。
 
そう考えれば。今こそ、原子力と決別する絶好の機会。
もっと都合のよいことに、「脱原発」で当面発生するさまざまな軋轢の原因と責任を、すべて菅総理一人に押しつければよいではないか……
そう考える、原発推進派の人々も増えているはずです。そのような人たちはもともと原子力にこだわっているのでなく、金儲けできるなら、原発でも風車でも、何でもよいのですから。
 
ここで触れたいのが、再生可能な自然エネルギーで発電した電気を、大手電力会社が強制的に一定の値段で買い取ることを定める法案。いまや総理の退陣の条件にされてしまい、政争の具に使われている法律案ですが、これはもともと震災当日に閣議で了承されていたもの。何事もなければすでに議会を通過していたかもしれません。この法案に、電力会社の側は不安の言を呈しています。他者の電気を高値で買い取れば、電気料金に転嫁することになり、電気料金の値上げは景気や産業界に悪影響を及ぼす……と。
しかし、電力会社の本音を想像してみましょう。電力会社は不安をほのめかしながらも、法案に反対しているのではありません。じつは、むしろ電力会社にとっては、ウエルカムな法律なのです。だって、そんなに魅力的な高値で買い取ることになるのなら、自然エネルギーで発電する子会社を作って、自ら作った電気を自ら高値で買取り、それを理由に電気料金を値上げすればいいのですから。要するに、原子力発電をやめても、自然エネルギーの発電でしっかり儲かる構造を今から作っておくことのできる法律だと察せられるからです。
この法律をうまく使えば、電力会社にとって、買取り料金設定をコントロールすれば、いくらでも金を生み出す打出の小槌になることでしょう。電力会社の本音としては、じつは「脱原発」になんら問題はなく、原発を縮小廃止していく責任すなわちコストを、いかにして国に負担させるかという課題が残るのみなのです。
電力会社の本質は営利企業であって、ニッポンの国策を進めるボランティア政治団体ではありません。電力会社にとっては、利益さえ上げられるならば、電力の生産手段が原子力だろうが風力だろうが太陽光だろうが、何だっていいのです。要は企業として儲けを確保し、株主が潤えばよいわけですね。風力や太陽光の方が儲かるならば、電力会社は本日只今をもって即刻原発をやめて風力や太陽光に鞍替えするわけですし、それが私企業の使命でもあります。要するに、それだけのこと。原発がなくては電力が足りない……とグチるのは、今現在の話であって、来年はどうなっているのか、わからないのですよ。
このことは当の電力会社が一番よくわかっているはず。だいたい、既存の原発はほとんど老朽化してきて今後はコストアップの固まりになることは明らか。ましてや事故ったらその後始末コストは天井知らず。となると、私企業としての関心は、この機会に、いかにして損せずにポンコツ原発を手放すか、といったことではないでしょうか。国策を理由に、まるでトランプのババ抜きみたいに、いまや厄介者と化した原発を国に押しつけてバイバイしようともくろむ電力会社側と、「これまで散々儲けたのだから、ちっとは責任取れよ!」と粘る政権側との綱引きが展開しそうな感じが……。
七月末に至って、新聞の一面は、原子力安全・保安院が中部電力や四国電力に、住民への原発説明会で数々の「やらせ」をするよう教唆していたことや、佐賀県知事も似たようなことを……といった記事がひしめいています。しかしこれらの情報の出所はどうやら電力会社の側。ということは、「原発推進は国の責任だ」と主張する理由として意図的に情報をリークされたとみることもできます。原発の賠償を規定する法案が審議の大詰めを迎える今、電力会社からの攻撃が開始されたということでしょう。このことで「原発の尻拭いは、結局、国が税金で責任を持つ」になるかどうか、注意した方がよさそう。
ともあれ「脱原発」は簡単です。原発じゃない方が儲かればいいだけなのです。
 
●スリリングな現実
とはいえ、原子力をやめて他の手段に鞍替えするとしたら、今までその利権でお金や地位や権力を手にしていた人たちが、そうはいかなくなる、という側面が生まれてきます。
その責任のすべてを、誰に負わせるのか?
そう、ひょっとすると、今のこの国の社会は、「脱原発」を選択するのとひきかえに、菅総理一人にその選択の責任を負わせ、政局のイケニエとすることでしょう。
そのことを覚悟して「脱原発」を発表したのなら、菅総理は自らの政治生命を賭して、この国の命運を救った英雄として、ひそかに後世に伝えられていくことになりますね。
もしもそうだとしたら、なんとも痛快な傑物総理に、政権を担当してもらったというべきでしょう。その去り方は、十数年昔のTVドラマ『総理と呼ばないで』や、アニメの『無責任艦長タイラー』をそのまま地で行く、爽快な切なさに飾られるかもしれません。
 
とすると、現政権の支持率を底辺近くまで引き下げている国民は何なのだろう?
後世の誇り高い歴史家は、私たちのことをこう呼ぶことでありましょう。
都合の悪いことは何もかも総理一人に押しつけてあとは知らん顔をする、見下げ果てた愚民であったと。
 
菅総理自身、そのことをすでに見抜いておられるかもしれません。市民運動のリーダーとして政治に参画していった経歴を持つ首相です。市民活動家であればこそ、一般の市民がどの程度愚かであり、烏合の衆にすぎないかということを、身に染みて体得されているはずだからです。大衆に裏切られ、石もて追われることくらい、先刻ご承知というばかりに……。今のところ菅総理は、誰一人として頼みにすることなく奮闘善戦しているわけですから、そのファイトはナデシコジャパンとともに讃えられるに値するのではないでしょうか?
 
さてはて、この国はこれから、どうなっていくのやら……。
国家存亡物のファンタジーよりも、現実の方がずっとスリリングで、痛快ではありませんか。そう。一連の舞台裏に“あのお方”がおられるとしたら、これはもう、新しい歴史ファンタジーの設定にそのまま使えそうですね。いつか作品化したいものです。幻の利権に目がくらんでしまい、悪魔のパワーに国を委ねようとする国民、真に国の将来を憂い、ただひとり行動を起こす王女、そして王女の説得にほだされて、わが身を犠牲にしても国の将来を変えようと決意し奔走するダメ首相、悪魔のパワーに滅ぼされた大国から逃げてきて、復讐を誓う亡国の王子。このあたりが主要キャストでしょうか。
                   
ニッポンの将来、なんだか楽しみです。
 
 
 


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