Essay
日々の雑文


 62   20100209★映画解題『きっと来る〜アバター2と……』
更新日時:
2010/02/08 

♪来〜る、きっと来る、きっと来る
『アバター2』と『アバター3Dゲーム』の“頭上の脅威”
 
 
●漂う既視感
キャメロン監督の3D映画『アバター』が空前のヒットで、世界興行記録を塗り替えたという。滋賀県の映画館でもやっていたので、例の立体メガネをかけて観賞してきた。
やはり立体の効果はすばらしかった。竜のような怪鳥に乗って大空を飛翔するシーンや空中戦では、空間の深みが見事に感じられて、本当に自分が空中に浮かんでいるような気分にさせてくれる。その反面、狭い室内シーンや近接格闘戦ではかなり疲れを感じた。
総じて、画面の動きに大きな広がりと時間的なゆとりがあって、自分の意志で遠景や近景を選んでながめられるときは立体感を楽しめるが、画面がせわしなく動いて、立体ゆえに視点が半強制的に移動させられてしまうとき(ロボット兵器や馬上の先住民が駆け巡り、くんずほぐれつの戦いを展開するシーンとか、一対一の格闘など)には、画面のどこに目のピントを合わせていいのか、うまくついていけない。そこに視覚的なストレスを感じるのだと思う。
もちろん技術的には、3Dのリアリティの進歩に驚かされた。しかしストーリーの組み立ては、それほど驚くものではなかった。どこかで見たような既視感が常につきまとう。その上、要するに戦って勝てばいいのか、それしか方法はないのか……という、朝青龍的無常感が漂う結末だっただけに、失望とまではいかないが「何度でも見たい!」といった感動には至らなかった。あくまで個人的な感想だけど……
 
既視感の源として最初に思い浮かぶ作品は、トム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』だ。説明するまでもなく、物語の構成がそっくり。ついでに『モヒカン族の最後(ラスト・オブ・モヒカン)』も思い出してしまうが、ナヴィ族がアメリカ先住民を連想させる生活様式であることからも、『アバター』がルーツを同じくしていても不思議はなかろう。キャメロン監督にしてみれば、そんなこと最初からご承知の確信犯なのだろうが……。
先住民と征服者の戦いという設定に着目すれば、原典と考えたいのは、ラウレンティス監督の『デューン 砂の惑星』だ。苛酷だが美しくもある環境に生きる現地住民と、その資源を奪おうとする先進国の陰謀は、『アバター』に共通する。しかし、「繰り返し見たい」と思うのは、『デューン』の方だ。作品テーマの深み、スケールの大きさ、デザインの独創性、様式美、刺激的な音楽、なによりもあのサンドウォームの迫力。その異世界ぶりは心底からSF者を堪能させてくれる。『アバター』には、アクションはあっても、情念が不足するように感じる。
しかしそれ以上に、『アバター』の個々の場面で「どこかで見た」感が湧いてくるのは、宮崎駿監督のアニメ作品、いわゆる宮崎アニメとの“そっくり度”であろう。
物語の構成では、『もののけ姫』によく似ている。自然神を抱く大森林に住まう動物たちと、森を焼き払い、地下資源(鉄)を奪い去ろうとする人間たちとの対立の構図は、『アバター』も全く同じだ。アシタカとサンの関係は、『アバター』の主人公二人に共通するものがある。空中に浮かぶ岩山は、『天空の城ラピュタ』か、むしろ『耳をすませば』のイバラード世界にそっくりである。生命の精霊の樹と、神経繊維のようなもので交感する場面は『風の谷のナウシカ』でナウシカとオームが触れ合う姿を思わせる。毒性大気の設定は「腐海」そのものだ。二足歩行ロボット兵器は『未来少年コナン』のロボノイドが近い。探せばほかにもあるだろう。言葉はよくないが、「上手にパクられている」ことを、私たちは疑い、そして気付かねばならない。
キャメロン監督は、最初からそのつもりで、『アバター』の世界を組み立てたのではないか……ということに。事実、キ監督はサイトのニュースで語っている「宮崎アニメは大好き」と。
視覚的なデザインを見ると、『アバター』の天空に浮かぶ岩山はラピュタかイバラードか、毒性大気と樹海の風景はナウシカか、族長の娘はもののけ姫か……といった具合で、いわゆる宮崎アニメをCGで追想するような錯覚を引きずる。しかしそんなことは、キ監督は重々承知。確信犯的に、過去のさまざまな作品イメージを総合した超大作を狙ったのではないか。というのは、作品タイトルが「風の谷のパンドラ」とか「天空の城ハレルヤ」「もののけナヴィ姫」などではなく、仮想世界の副人格を意味する『アバター』という、普遍的なネーミングであるからだ。この一作を、いずれ全世界のアバターたちの代名詞にしようという野心が透けて見えはしないか。現在の私たちは、アバターという言葉がどこで、どうやって生まれたのか、ほとんど知らない。そこへこの映画『アバター』の大ヒットだ。アバターという言葉を広く印象づけることによって、20年なり30年先になったとき、一般の人たちはみな、「アバター」の語源はこの映画作品にあると信じるようになっているのではないだろうか。
そうなったとしたら、『アバター』の立体映像を版権化していくにあたって、有利な心理的効果を得られるだろう。作品中の人物設定やメカ、CGで描かれた風景描写などは、「すでにある作品に似ている」にもかかわらず、『アバター』こそがオリジナルであると思わせてしまう効果である。
 
●世界戦略映画としての『アバター』
と、なるとすれば……
『アバター』というこの作品の正体は何なのだろうか。
なにかが、見えてくるのではないか。
そう、偶然の産物ではなく、ストーリーもデザインも、なんらかの意図のもとに、このように設計されているということだ。
 
ここからは、例によって、私個人の創作的妄想である。
 
『アバター』の正体とは……
さらなる続編の制作と、それに続く立体PCゲームへの展開を最初から営業戦略に組み込んだ、ハリウッドの三次元版権世界戦略作品であると思われる。
 
今『アバター』は「反アメリカ映画」のような批判を受けてもいる。しかしそれはおそらく、続編『アバター2』の制作につなげるための、計算された布石なのだ。しかも、さらにその先に必ず訪れるであろう立体PCゲームの時代を『アバター3Dゲーム』で真珠湾的に先制攻撃し、世界市場を席巻し、支配する構図がうかがえる。
 
続編? というのには理由がある。
『アバター』を「反アメリカ映画だ」とする批判は、こうだ。楽園の惑星パンドラを、ただ金儲けのためだけに武力制圧する地球人の企業体は、アメリカ資本主義のカリカチュアである。アフガンやイラクを想起させる登場人物や物語設定は、アメリカの世界戦略に対するあからさまなあてこすりではないか……。今どき、アメリカ礼賛だけでは受けないが、「征服者に対する先住民の抵抗」を描けば、アメリカのやり方に困っている人々の共感を得やすい。それが幸いして、世界的ヒットが実現したというわけだ。
批判が集中するキャメロン監督、誠にお気の毒……ということなのだが、まさかそんな。これほどの超大作だ。シナリオ段階で社会的な反応はしっかりとリサーチされている。すなわち、アメリカ軍部寄りの人々から「反アメリカ的だ!」という批判が出るであろうことは、キ監督にとって全く想定内。先刻ご承知のことなのである。
 
それは、どういうことなのだろうか。
作品を一目見て感じたことだが、惑星パンドラの風景など、CG造形のクオリティが異常なまでに高い。ワンカットワンカットが物凄い手間暇をかけ、大枚をはたいて実現された画像なのだ。この3DCGのデータとプログラムを映画一回分で終わらせるのは、あまりにも、もったいない。キ監督がそう考えてもおかしくはない。となれば、つまり、最初から続編や、PCゲーム化を予定した画面作りがなされているということだ。
なのに、第一作で「反米的!」の批判が盛り上がってしまっては……と思われがちであるが、そこはそれ、必ずしもマイナス要素ではないのである。
『アバター』第一作で描かれたような、カネのためなら自然も住民も根こそぎ燃やしてしまうような、某ブッシュ+某シュワルツコフ+某ラムズフェルドみたいな感じのこわーい白人のおじさんが、鬼みたいに暴れ回ってばかり……というのが、アメリカ人ではない。アメリカ白人は、決してマイケル某監督がおっしゃる「アホでマヌケな」人ばかりではないのである。聡明で賢く、理想を求めてやまない人だって数多くいるのだ。
だからこそ、キ監督にとって「反米的!」批判はむしろウェルカムなのだ。
「ならば皆さん、私は決してアメリカに絶望していないことを、次の作品でお見せしましょう」ということになるのである。批判こそ、続編を制作するための、格好の理由付けであり、推進剤。それだけ次作への期待も高まるものと推測される。
続編の『アバター2』は、惑星パンドラへ再び攻め寄せる人類たちと、パンドラ先住民との、たび重なる悲しみと憎しみを克服した、愛と理性の、和解の物語となるだろう。
それに、第一作で主人公の恋敵であり、次期族長候補だったユル・ブリンナー似のナヴィの男、彼はまだ「死んだとは限らない」という、微妙な設定で終わっていることにも着目したい。
続編では、ナヴィ人内部での、反目や不信、そして内乱を描くことができるだろう。
そしてまた、地球側勢力の中でも、親ナヴィ派の人たちによる、内部からの抵抗活動が発生するだろう。幾多の犠牲を乗り越えて、ついに、真の「エイワ」(要するに平和のことではないか。そこまでキ監督は読んでおられるのだろうか)が現実のものとなるのだ。
察するに、『風の谷のナウシカ』みたいなラストシーンになるのではと思う。
そうすることで、キ監督は「反米的!」の批判に見事にこたえ、批判の原因に解決をもたらすことができる。そのようなシナリオがすでに用意されているとみても、的外れではないだろう。「反米的!」批判は続編『アバター2』の制作につなげるための、計算された布石なのだ。
 
●3Dゲーム時代への尖兵
そして近々……『アバター』の真の目的である第三段階、『アバター3Dゲーム』が発売される日がやってくることだろう。
2010年現在では、3D映画が話題であり、3DTVが今後普及するかどうかが、議論されている。しかし3DTVは、爆発的な普及は望めないだろう。なんといっても、メガネが面倒であり、画面の大きさが限られる。
それよりも、人が本心から求めているのは、PCゲームの立体化だ。パソコンやTVのディスプレイではなく、左右の目に対応したディスプレイを内蔵したゴーグルを着装して、ゲーム世界の中に、完全に立体的に入り込むことである。
それは押井守監督『アヴァロン』の現実化に他ならない。
世界のゲーマー、欣喜雀躍であろう。
そうすれば、その仮想世界に現われるのは、等身大に見えるCGキャラクターだ。実際にその世界に存在する人たちと同じサイズで、格闘戦も銃撃戦も砲撃戦もでき海戦も空中戦も行なうことができる。そして恋愛も、果てはセックスも……
単純に考えるとこうだ。ゴーグル・ディスプレイを装着すると、そこに、等身大に感じられるキャラクターがやってくる。美少女でもイケメンでも結構だが、そのキャラクターは、あなたと握手することができ、キスすることもできる。360度全周の画像データがあるので、まわりこんで全身を眺めることができ、だからダンスもでき、抱き締めることもできる。二人で手をつないで、バーチャル世界のどこかへデートすることも可能となるのだ。その先の、より深い交際も……
ここまでできるのならば、TVよりも、がぜんパソコンのゲームであろう。
そして、そのようなゲームを出そうというとき、すでに、ひとつの世界が精細なデータで構築されていて、いつでも冒険できる環境が真っ先に整うのが……『アバター』なのだ。
あのリアリティあふれる惑星パンドラに、いつでもようこそ! すでに膨大なデータで、世界が構築されている。しかも立体で。この点に関して『アバター』は目下、全世界に先駆けているのだ。世界でいちばん早く、立体ゲーム用に提供できる等身大の3D世界を営業的に整備したのが『アバター』なのである。
 
ここで『アバター』の映画が、過去の多くの作品に似通った要素を取り入れていた効果が出てくる。
ひとつの可能性を、仮定してみよう。
二次元とは別に、三次元だけの独立した著作権が認められれば、どうなるのか、と。
『アバター』の3D世界そのものがひとつの著作物として版権を有するとして、「3D専用版権」といったものが認められ、国際的に保護されるとしたら……。
二次元の映像創作物とは別次元で、三次元世界独自の版権が成立してしまう。
すると、『アバター』に後発する立体ゲームメーカーは、大きな障害に直面してしまうだろう。過去の二次元媒体の作品を三次元化するにおいて、『アバター』が持つ膨大な三次元デザインの版権や意匠権が立ちはだかってくるであろうと思われる。もしも、『天空の城ラピュタ』を立体ゲームにしようとしたら、なんと、ラピュタを真似ていた『アバター』の方がオリジナルとされ、立体ラピュタは『アバター』のパクリにされてしまうのだ。
 
実際にどうなるのか、私は専門的な知識を持たないので断言できないが、映画『アバター』の戦略的な本来の目的は、そのあたりにあるのではないか。ストーリーとか感動といった映画本来の魅力や価値とは別なところ……某有名テーマパークがその繁栄を維持してひとり勝ちするために採用している、緻密なまでの版権戦略を、『アバター』は近未来の立体ゲーム市場で展開しようとしているのではないか。そんな気がしてならないのだ。
 
『アバター』に喜ぶ観客の人々に背を向けて、こう思う。
警戒せねばならない。『アバター』には続編がすでに予定されているはずだ。
続編は、『アバター』の米国内での批判を覆すべく、プログラムされているだろう。
そこでますます評判を上げ、そして本番は……近々、必ず訪れるであろう立体PCゲームの時代だ。
このときキ監督は『アバター3Dゲーム』で立体ゲーム市場を真珠湾的に先制攻撃することが可能になる。そこには世界市場を席巻し、支配する構図がうかがえるのだ。
いずれ日米の映像クリエーターたちの間で「三次元版権戦争」が勃発するかもしれない。三次元映像世界だけの、独自の版権が成立し保護されるようになれば、後発国は軒並み、新作はおろか、古い二次元作品の立体化すら不可能にされるかもしれないのだ。
 
おそるべし、『アバター』。それは反アメリカどころか、実は最もアメリカ資本主義的な、未来への征服者の先触れであり、映像帝国主義の申し子、メディア・キャピタリズムの怪物なのだ。いつのまにか私たちの頭上をおおう、巨大な脅威と化してしまうのかもしれない。
結論を言うと『アバター』は、ニッポンの映像クリエイターが厳に警戒すべき、21世紀前半で最大の「黒船」だということである。思い返してみよう、キ監督の手でニッポンにやってきた20世紀末の黒船は『タイタニック』であり、興行成績において前年の『もののけ姫』を討ち取る不沈艦ぶりを発揮したことを。しかして、そのタイタニックをたちまち撃沈したのが『千と千尋…』であったのだ。だから『アバター』はキ監督が満を持してニッポンのアニメ映画界へ差し向けた、リベンジの黒船なのだ……。
 
さて、とはいえ3Dバーチャル技術は、たいへん便利な、別な用途をもたらしてくれる。等身大の人体を目の前に構成できる機能を使えば、たとえば外科手術のシミュレーションや、介護の訓練に利用できる。仮想3Dの技術がグーグルアースのような世界地図データベースと結びつけば、専用ゴーグルをかけるだけで、世界の観光地へトリップして、等身大で街角を歩くことができるようになるだろう。グルメを味わうことはできないが、電子マネーを払って美術館に入って作品を観賞したり、たとえばエッフェル塔やエンパイア・ステート・ビルに登ったり、あるいは有名ブランドの本店へ入って、そこで買物もできるようになる。ある意味究極のネットショッピングだ。バーチャル世界の中で、実在する店に行って、ショーウィンドウを覗き、レジで買物できるというわけだ。あるいは、病気や障害でベッドを離れられない人に、外出と同じ行為を体験してもらうこともできる。とりもなおさず、ショッピングができる。TVショッピングよりもずっとリアルで、その特性を生かして、クルマとか住宅といった大きな買物も、ネットで可能になる。消費者の購買意欲を思いきり引き上げることができるだろう。
そして一方で、妖しい夜のビジネスも、立体仮想世界の中に展開することだろう。
私たちの生活を大きく変える可能性を秘めていることは確かだ。
そうなったとき、三次元デザインのあらゆる著作物の版権を押さえている者がいたら……
その人物こそ、仮想世界の、闇の帝王として君臨する。
しかし、そのような世界……あらゆる人たちが立体仮想の世界に耽溺するようになってしまったら、いずれ、少しずつ、現実の荒廃が始まっていくことだろう。仮想都市のパリで人々がデートを楽しむ。しかし現実のパリは、実際に訪れる人もなくさびれて廃墟と化していく……。なにやらバラード流のSFみたいな風景が、忍び寄ってくるのかもしれない。
 
以上、例によって、私の創作的妄想のお話でした。
さて、『アバター』の件はここで一段落して……
 
●今、振り返る、本当の名作
日本のアニメ映画界を代表する宮崎駿監督が、推薦文を寄せている名画がある。
黒澤明監督、1952年度作品『生きる』。
60年近く昔の、もちろん白黒の映画だ。
そのDVDに付属する冊子に『ワンショットの力』と題して、寄稿されている。
「これは正座して観なければならない映画だと、その瞬間に思った。ひとりの映画監督が生涯に何本とつくれないフィルムに、いま出会っているのだと実感したのだった」と。
DVDを映す。白黒の画面は、いくらかきれいに直されているとはいえ、まだざらざらとして時折り傷が走り、声も聞こえにくい箇所がある。二次元どころか、最近の若い人が観たら、目に埃がつきそうなほど汚れた画面に見えても無理はないだろう。
そして、映される主人公は、年令五十三の、弱々しい初老の男。
PCゲームのヒーローのような、かっこよさは微塵もなく、むしろ逆に、人間の悲しいまでの愚かさを黙して語ってくれる。
物語の最後まで、『アバター』のようなかっこよさは一切存在しない。
しかし、一度観て、確信させられる。
これは、何度でも観たくなるだろう、と。
そして何度か観ている。
爽快なかっこよさは、一切感じられない。
しかしこの作品には、明らかに、戦いが描かれている。壮絶な戦いが。
一人の、ありふれた、力のない人間が、ただより善く生きるためだけに、全力を賭けて、ひたむきに戦い、ひたすらに戦い抜く物語なのだ。
見た目はどうであれ、生きて、そして死ぬ人の尊厳と誇りが、ラストシーンに燦然と輝く。
 
何度観ても、涙がにじむ、爽快な笑いがある、幸福と安堵がある、皮肉もペーソスも、醜態も絶望も、ここちよい味付けになっている。
そんな名作が、実はけっこう、その時代に残されている。
生きることのエネルギーを甦らせてくれる作品たち。
同じく黒澤明監督の『野良犬』『酔いどれ天使』『どですかでん』
小津安二郎監督の『東京物語』
木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾年月』
大島渚監督の『愛と希望の街』
浦山桐郎監督の『キューポラのある街』
今村昌平監督の『豚と軍艦』
山田洋次監督の『馬鹿が戦車でやって来る』『愛の賛歌』
丸山誠治監督の『太平洋奇跡の作戦キスカ』……
洋画では『市民ケーン』『チャップリンの独裁者』『カサブランカ』『第三の男』『オーケストラの少女』『ジェニーの肖像』『シベールの日曜日』『恐怖の報酬』『その男ゾルバ』『ドクトル・ジバゴ』『大列車作戦』『渚にて』『冒険者たち』『ラ・マンチャの男』…… 
 
3D映画には、3Dの魅力がある。
しかし本当の映画は、文字通り次元を超えて、胸を衝く何かをもたらしてくれる。
『アバター』は、過去の名作の輝きを映す鏡でもあるかもしれない。
きらびやかな立体視のミラーの向こうに映るのは、二次元モノクロの少女や男たち。
未来ではなく、過去の彼方にこそ、映画の本質が埋もれているのだ。
 


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