Essay
日々の雑文


 60   20100103●雑感『謹賀新年2010』
更新日時:
2010/01/04 

20100101
今年は寅年、虎と言えばタイガー、ということでティーゲル三兄弟の揃い踏み。
イラストにカーソルを置くと別画像。
 
 
謹賀新年2010
 
“取り戻す十年”の始まり
 
 
 
 
早や、2010年。
クラーク原作の映画だと、ソ連が健在(あるいは復活?)で、木星で遭難したディスカバリー号をサルベージするために宇宙船を派遣している年だ。
引きかえ現状を見るにつけ、人類がいかに、思ったほど進歩できなかったことか……。
 
振り返ってみよう。私たちの国ニッポンを。
まず、二十世紀最後の十年だ。
いわゆるバブル経済が崩壊した1990年代の十年間を、人々は「失われた十年」と呼ぶ。
何が失われたのだろうか?
お金である。超巨万の富がどこへともなく消え去り、その行方はいまだに確かめられていない。あのバブル経済の主役は不動産だった。一千万円で買ったマンションを二千万円で転売し、それがまた三千万円で誰かに売られる……といった、トランプのババ抜きに似たマネーゲームが全国的に展開された。本来ならそんな高値になるはずのない土地や建物でも、銀行がじゃんじゃん貸してくれるので、買える。買った以上の金額で転がせば、濡れ手に粟のアブク銭が手元に残るのだ。
そして最後に、とんでもない高値で誰かが買い、ついに、いくら何でもそんな金額では誰も手を出しませんよ、という限界に達したとき、一斉に買い手がささーっと引き、瞬時にしてマネーゲームはおじゃんとなった。不動産の相場がドテンと下落したとき、最後にその不動産をつかまされていた者が、莫大な借金を抱えたまま、ドボン。返済の希望を断たれ、生ける不良債権と化してしまった。
困ったのは銀行だ。貸した金が戻ってこない。そのままでは銀行がつぶれてしまうので、政府は国民の税金を「公的資金」と言い換えて銀行に補填した。本来なら社会的弱者の生活支援に使われるべき血税が、そうやっていずこへともなく消えていった……という記憶が残っている。
公的資金は、すべてつつがなく国庫へ戻ってきたのだろうか。そして、金融機関に返済されることのなかった巨額のお金は、どこへ行ってしまったのだろうか。お金を返したくても返せない境遇に陥って破産した人、一方で、意図的に、借りたお金を懐に入れたまま踏み倒して逃げた人も大変な数に達したことと思われる。
その結果、私たちの想像を超える、何兆だか何十兆だかわからない巨万の富が、どこの誰ともわからない、社会の闇へ吸い込まれていった。
そう考えてもおかしくはないだろう。
 
そして次の十年。西暦2000年から2009年まで。
先の十年が「失われた十年」ならば、この十年は「奪われた十年」と名付けられるべきだと思う。
何が奪われたのか。
労働の尊厳である。
「失われた十年」は、不動産や株を売り逃げしてマネーゲームに勝った者と、ゲームに参加すらできずに高額のローンを抱える羽目になった敗者を生みだした。「富める者と貧しき者」の格差がくっきりと開いたところに、「構造改革」という無慈悲な嵐が襲いかかった。
当時の政権が打ち出した「構造改革」は、一般の労働者にとって、具体的には「年功序列と終身雇用の崩壊」という打撃をもたらした。年功序列は成果主義に置き換わり、終身雇用の約束はあっさりと反古にされて、リストラという名の首切りが、怒濤のように弱者の生活を砕き、押し流していった。労働者派遣業が、短期の低賃金労働者を扱うようになったことで、そのわずかな給与から派遣業者が手数料を差っ引いて、「生活保護以下の低賃金」が当たり前になってしまった。統計からの推察では、お金がなくて食べ物が買えないという経験のある世帯は、全体の二割にせまるという。実態はもっとひどいだろう。本当に生活の苦しい世帯は、アンケートに回答するどころではないからだ。
この十年で、何が奪われたのか。単なるお金ではない。「真面目に働けば人並みに食っていける」という、人として報われるぎりぎりの生存常識が奪われてしまったのだ。一方で、「勝ち組」の強者にこびへつらい、「負け組」の弱者を侮蔑する人たちを量産してしまった。食えなくなるのは自己責任、という非常識が横行する。憲法で「勤労の義務」を負う以上は、なんとか食べていけるだけの雇用を確保するのは、社会全体の責任であるとみなすべきなのに……。
しかし本当に、食べていけなくなる人が、ものすごい数になってしまったのだ。
 
昔の日本映画で『キューポラのある街』というのがある。小さな鋳物工場で働いている貧しい家庭の娘を吉永小百合が演じている。まもなく中学卒業で、就職するか高校へ進学するかで悩む。進学したいが、修学旅行へ行くお金もなく、自分のお小遣いもなく、中学生なのにパチンコ屋でバイトして、自分の学費を稼ぐ。小学生の弟まで新聞配達のバイトに出るあたりは、さすがに児童福祉の観点から、すさまじい時代だと思わされる。さて、この彼女の生活状況が描かれているのは、なんと1962年公開の映画なのだ。今からほぼ半世紀前の、貧しい家庭の中学生の女の子の生活実態と、現代の一般庶民を比較してどうなのだろう。この国は少しでも、良くなったと言えるのだろうか。中学生や小学生がバイトすることの是非は別として……。
映画の中で吉永小百合が演じる女の子は、就職も検討して、会社見学へ行く。ある電器メーカーで、彼女は自分の先輩たちが、定時制高校へ通いながら働く姿に触れる。賃金は高くはなかろうし、就職後数年で結婚退社することが前提になっているとはいえ、しかし彼女を試験し、雇用するのはその会社なのだ。まがりなりにも正社員であり、労働組合に加入する。その点に関しては、半世紀前の雇用環境の方が、21世紀の今よりも良質だったということになりはしないだろうか。
 
もっともっと昔、1927年の映画『メトロポリス』を思い出す。資本家と労働者の生活格差、過酷な労働条件がくっきりと描かれているが、それでもこの未来都市に暮らす最貧労働者には家があり、ホームレスは存在していないのだ。私たちの未来ビジョンでは、『アトム』で夢見た輝かしい未来都市の生活が現実となり、少なくとも貧困の問題は解決しているはずであった。しかるに、この21世紀の実態は何だろうか。
衛星軌道に国際宇宙ステーションが回り、十万トンの豪華客船が海を走り、砂漠の都市に摩天楼が林立していても、自殺者年間三万人、ひき逃げ事故一万五千件のこの社会の、どこが素晴らしい未来だというのだろう。
 
こんな21世紀は、誰も望んでいなかった。何とかしなくてはならない。そんな庶民の幻滅と焦燥感が、昨年に歴史的な政権交代を実現したということなのだろう。庶民の望みは「チェンジ」。世の中のゆがみをここで是正しなくては、この国は不幸に包まれてしまい、そして二度と正常な道に戻れない。
今こそ、変化がもたらされねばならないのだ。
 
だから、これからの十年は……
「取り戻す十年」であるべきだ。
失ったもの、奪われたものが何であるかを考え、それぞれの生活の中で、損害の回復をはかる十年にならなくてはいけない。政権が変わったからといって、本当に社会の価値観が変わるかどうかは、疑ってかかった方がいい。やめると言ったダムは本当にやめられるのか。子供手当をばらまく一方で、じつは重税になりはしないか。消えた年金は復活できるのか。沖縄の米軍基地はどうなるのか。何かが変わりそうに見せかけて、じつは旧政権と同じ結果にしかならないのではないか。現政権の支持すべきところは支持しながらも、これらの疑いは抱き続けてちょうどいいくらいだろう。
その上で、私たちは、何を取り戻せばいいのだろうか。
この国ニッポンの中で、経済的に「負け組」に入れられてしまった世帯の多くは、ものすごく真剣に考えているはずだ。何かを取り戻さなければ、おそらく十年後の未来はないことを。
貧困の解決、しかしそれだけではない。小学校の給食代を払えない親がいるのと同時に、払えるのに踏み倒す親がいるという。両方の問題が、同時に解決されなくてはならないのだ。正当に努力し工夫して儲け、富を築く人がいることは、なんら問題ではない。世の中にアンバランスをもたらす諸悪の根源は、税金を払わず、法をねじ曲げ、偽り、他者を騙したり脅したりして、債務を踏み倒し、不当な利益をわがものにしながら、平気で威張る人々だ。だから、単なる富の再分配だけではなく、富を得ることに関するモラルの構築が、絶対に必要なはずである。そして、それは至極単純なことなのだ。「フェアにおやり。ネコババはダメよ」これだけなのである。
 
「取り戻す十年」、それはまた、今まで「進歩」として押しつけられてきた、ありがた迷惑なサービスを見直す十年になるのかもしれない。たとえばワープロソフト、この雑文を書く中でも、このワープロソフトは「怒濤」という語を変換できず、「°島」としか反応してくれない。「艨艟」も出てこない。「摩天楼」も「魔天楼」とやってくれる。そのたびにいちいち漢字登録する。素人頭でも、このソフトはアホだと思う。やれやれ。頼まなくても校閲してくれるとか、いらないところに番号を勝手につけたり、変な位置で改行したり、意味不明のアイコンがプカプカ出るといった、使わない機能はいろいろ満載してくれるが、作文するという本来の機能は、過去十数年、なにひとつ進歩した形跡がない。
最も実感するのは、鉄道の定期券だ。昔は定期券を、改札の駅員さんの目に示すだけで通れた。それが自動改札によって、いちいち機械のスリットに通したり、決められた位置に押し付けなくてはならなくなった。改札手順の動作を、乗客が肩代わりしているのだ。不具合があれば、それが機械の故障でも、バスンと扉が閉じて通せんぼしてくれる。これが実に失礼な感じだ。家畜や果実を選別する自動機械を思い浮かべればいいだろう。その上最近は、「ICカード専用」なる機械に置き換えられていく。磁気カードの定期券は券面に有効期間や駅名の表示があるので信頼できるが、ICカードでは、何か問題があったとき、目で見てその場で確認できない。昔の紙の定期券に比べて、乗客の動作が増えたうえ、不安までおまけについてきているのだ。これは明らかに進歩でなく退歩である。
ケータイもそうだ。普段は使わないいろいろな機能が満載だが、本当に必要なのは、普通に電話する機能と、そして、ボタン動作ひとつで、確実に最寄りの警察や消防につながる緊急機能だろう。要するに、電話として間違いのない動作をすればいいのだ。液晶も不要。フタの裏に番号メモを貼れば足りる。このように電気を食う機能を最小限にして、せめて電卓なみに、太陽電池で充電できるようにしてほしいものである。それなら愛用できるだろう。「電話機を携帯する」という本来の目的がようやくかなえられるからだ。
もうすぐ地デジというややこしいものがやってくる。それに比べて昔の真空管時代のTVは、ループアンテナみたいな室内アンテナを一緒に買ってくれば、その線をつなぐだけ。あとは電源入れてチャンネル回すだけで、とにかく映ってくれたのだ。故障しても叩けば直る。マニュアルなんか必要なかった。
物事を複雑にすることは、すなわち手続きの増加である。それを理由にしてお金を取り、儲ける手段になることは確かだろうが、物事が進歩したことには全くならないと思う。
映像ソフトにも、進歩を疑う状況がある。ビデオテープからDVD、ブルーレイへと進歩していく過程で、新しい媒体に収録されず、消え去っていく作品がある。少なからず、名作が後世に残されることなく死に絶えてゆく。進歩と豊かさは同じではないのだ。
 
さて、SFにおいてはどうだろう。
お金に不自由しないリッチな人たちばかりが活躍する作品は、もう、面白くなさそうだ。札束を積んで宇宙旅行する人たちは実際にいるし、そういう人のお話を読みたいかといえば、ちょっとねえ……。それに、科学の進歩が問題を解決するかといえば、そうでもなくなってしまった。ライトノベルの世界では、パソコンもケータイもテレビもない世界設定の作品が、むしろ多数派だ。SFそのものが文明の利器を否定し、科学の進歩に疑問を投げかけるようになったのではないか。それはそれで健全ではないか。「科学がいかに進歩しても、ずっと変わることのない生活の営みと、その理由」をテーマにした方がいいのかもしれない。ニッポンの人々は一千年の昔からモチを食っていた、ならば一千年の未来でもモチを食っているだろう。一千年未来のモチって、誰が、どんな風に味わうのだろうか。なぜ、モチはそんなに大切にされたのか、こういった謎もSFになると思う。
一昔前のSFでは、未来の日本人が初詣に行ったり、おみくじを引いたり、モチ食ったり、相撲を観戦するイメージは、あまりなかったと思う。しかし考えてみれば、そういったことが引き継がれていない方が、かえって不自然なのだ。時代を経ても変わらないもの、変わらない価値観とは何か。それが失われたとすれば、なぜなのか。これもSFの大切なテーマになろう。
これからの十年は、SFの中においても、失われたものを「取り戻す十年」になりそうだ。そして私自身にとっても。
 
最近、ひとつ感動した光景がある。
2009年11月13日、和歌山沖で大波を食らって横転の憂き目に遭ったフェリー「ありあけ」。総トン数8000トン近く、全長160メートルという船体のボリュームは、旧海軍の巡洋艦クラスである。その巨体が35度も傾いだまま、懸命にエンジンを回して、高波が逆巻く荒れ模様の海を、陸地目指して航行する姿だ。
そののち陸地の沖合い1キロメートル当りで座礁し、完全に横転するまで、スキー場よりも急勾配、体感的にはほとんど垂直近くに横倒しになった状態で、それでもなんとか、2時間ほど走りぬいたことになる。
大波一発で、デッキの積荷が崩れてしまったのは失態かもしれない。しかしそれでも沈没せず、横転寸前で持ちこたえ、犠牲者を出すことなく、沈没でなく座礁に持ちこめたのは、一方で、フネのダメージコントロールの優秀さと、船長たちクルーの的確な行動があったからではないだろうか。
事故そのものは残念で不幸な出来事には違いないが、沈没による全損を免れ、人命も守られたことは感動的だった。乗組員たちが漫然としてうろたえていたら、フネは沈み、人が亡くなってしまったかもしれない。11月の海、タイタニックほどではないにせよ、海水浴に適しているはずがない。海中に投げ出されたら、その冷たさで、いくらも命は持たないと思われる。
それでもフネと人が救われた舞台裏には、乗組員と乗客たちの、生存に向けた必死の戦いがあったはずなのだ。誰も書かないだろうが、生きた心地のしない、生死の縁ぎりぎりの2時間だったと想像される。たまたま幸いにも悲劇に終わることがなかったし、船員たちも、普通の人たちが当たり前のことをしたということにされるであろうから、世間の注目は少ないかもしれない。しかし、だからこそ、ひそやかな感動を覚えてしまうのだ。
選ばれたエリートでもない普通の人たちが、普通に「最善を尽す」ことが、じつは結構、難しいことなのだから。
 
取り戻したいものは、そういうものかもしれない。


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