Essay
日々の雑文


 58   20090809★アニメ解題『NieA_7 ニアアンダーセブン』2
更新日時:
2009/08/11 
 
 
 
NieA_7
(ニア アンダーセブン)-2
 
 
……10年早すぎた
リアル貧乏SF
『ニア』の再評価
 
 
 
 
 
 
 
 
 
写真をクリックすると『プリズナーbU』の関連サイトへ。
 
 
 
●完璧な結末
視聴者からの『ニア』の作品評価には「結局、謎はそのままにして延々とギャグが続くうちに話が終わってしまい、何も変化がない」といった声が散見される。
確かに、宇宙人がなぜ地球へやってきたのか、母船はどうして、ああなってしまったのか、荏の花地区と荏ノ花湯の運命は、そしてまゆ子とカーナと源蔵クンの三角関係は……と、あれこれ解決してほしかった課題が残っているように見える。第1話と同じパターンで繰り返される最終話のドタバタを比較すると、要するに話の始まりと終わりで、何も変化していないではないか……と、拍子抜けする人も多かったのではないだろうか。
しかし、注意して繰り返し見ると、大小さまざまな変化が現れていて、今後が想像できる上、手つかずにされたように見える大きな謎も、じつは意表を突く方法…おそらく、アニメ史上最も大胆かつ常識的な方法…で、概ねきれいに解決されている。もう、見事なまでにすっきりと、正攻法で、このお話は結末を迎えているのである。
第12話から最終話にかけて、目立たないながら、“伏線の解決”シーンが随所に見られ、ずっしりと重みのある感動をともないながら、「ああ、このお話は、こうやっておしまいになるのだ……」と心から納得させてくれる。
これは、史上まれにみる完璧な大団円と申し上げてよいと思う。
だから『ニア』にはあえて続編を望みたくはない。この全13話分で、珠のごとく磨き抜かれた宝石の輝きを放ってくれるからだ。
例によって私の創作的妄想を加えながら、いくつかの謎に決着をつけてみよう。
 
●本当の自分と出会う日
「社会的地位や世間体、そんな幻にすがって生きる者は死んでもわからんものを、兄さんは見つけたのさ……本当の自分ってやつ」
最終話冒頭のシーンで、変装したニアが落胆したジェロニモを諭す台詞だ。おごりをゲットするための知ったかぶり戦術ということにしながら、作者はニアに、作品テーマの重要な柱のひとつを喋らせている。
「本当の自分とは何か」
ギャグアニメを標榜しつつ、憎いほどシリアスにこのテーマが呈示されているところに、『ニア』の油断ならぬところがある。
「世の中」という大きな抑圧社会の中で、自分ひとりの存在はあまりにも小さく、虚しい。いや、存在することすら、認めてもらえないのが現実かもしれない。
自分の居場所は、どこにもないのではないか?
多くの若者が社会に出る時に直面する、この恐れと不安と絶望感を、『ニア』は的確に描き出す。
まず、ニア自身がそうである。階級格差の序列の最底辺からも落ちこぼれた、アンダーセブンの自分。好き好んでアンダーになったのではないことは、ニア自身が「差別発言!」と反発しているからわかる。脳天気にギャグでくるんでいるので見過ごしがちになるが、ニアは内心、本当に深くキズついているのだ。
いつもはへらへらと笑って誤魔化しているけれども、その苦しみがはっきりと顔に出たときがある。第9話でジャンク屋のおやじにそそのかされて、立入禁止区域のスクラップを掘り出して戻ってきたときの、汚れきってうなだれたニアの表情だ。
立入禁止区域の実態は、汚染しきった有害廃棄物が積層した荒野だった。たちこめる悪臭と埃に、ニアは「胸くそ悪……」とうめく。
しかし、ニアにショックを与えたのは、汚染された荒野の風景だけではない。もっと深い精神的ショックがつきまとったはずだ。
というのは、なぜ、ここが立入禁止になっているのか、その理由だ。
危険だから……といった単純な理由ではあるまい。危険を知りつつ違法投棄を続けてきたゴミの大地。違法投棄禁止の看板に記された年代は1994年だ。長年放置し続けてきたのは行政当局の怠慢に尽きる。だから、ここが立入禁止になっているのは、うっかり迷い込もうとする人の安全を守るためではない。違法投棄を放置し続けた行政の汚点を隠すためなのだ。
行政が責任追求されるのを避けるために、まず「臭いものにフタ」をしたのである。
このとき、ニアは悟ったはずだ。
お役所の記録にすら残してもらえない、はみ出しアンダーの自分は、ここに違法投棄されたゴミと同じではないか。役所の無策と怠慢でこうなってしまったアンダーセブンの自分は、記録上、最初からいないことにされている。違法ゴミの如く無視され、存在を隠されているのだ。
立入禁止にすることで、存在を隠されている違法ゴミ。この足元で腐り続ける有害ゴミこそ、自分。それ以上の存在ですらないのだ。
蓋をされたゴミ。
ぞっとする絶望が、ニアをむしばんだことだろう。
一方、ニアが失踪したとき、お役所へ調査を頼みに行ったまゆ子も、係官の前で同じ現実に直面する。「最初からいない宇宙人を、探すことはできませんよ」と。
胸の奥にぽっかりと穴があいたような気持ちになる、そこまで大事な存在になっているニアなのに、お役所では、にべもなくゴミと同じ扱いを受けている。
役所を出るときに振り向いたまゆ子の、睨みつけるような鋭い視線は、勝手に決め付けた階級格差だけを理由に、ヒトをゴミ同然に扱う不条理への怒りだ。
憤るまゆ子。
そしてまた、まゆ子自身も、格差の不条理に直面している。
第7話の合コンがそれだ。貧富の差を意識することが少ない学生同士の間でも、確実に互いの壁を思い知らされる事件となった。周りの女の子が着飾ってくる場面に、自分ひとりだけ着ていく服がなく、髪を整えることすらできない。
しかし今、このような体験はアニメの絵空事ではない。現代の私たちの日常でしばしばみられるリアルなのだ。
『ニア』が最初に放映された当時、まゆ子の貧困エピソードは19世紀の『小公女セーラ』レベルの昔話だったのだが、なんとも皮肉なことに、西暦2009年の今、まゆ子の生活は21世紀に暮らす私たちの現実そのものに変貌している。スーパーの半額セールで買う豚バラ肉の値段が、実際に百グラム95円前後であることを意識したい。第一話でまゆ子がメモにつけるバイトの月収が新聞配達と出前ウェイトレスを合わせて15万円であることも、妙にリアルである。税抜き月収15万円、社会保険なし。この条件はもはやとりたててプアではなく、非正規雇用者にとってはスタンダードであり、それすら満たされないケースが多々ある。
着ていく服がない、それだけで自分の居場所を失い、自分の人格そのものがゴミのように消えてなくなりそうな、悲しい体験は、決して他人事ではない。
さらに、合コンの回では、まゆ子とちあ紀の経済格差が如実に描写される。パソコン、携帯電話、デジカメの所有の有無など。とりわけ、荏ノ花湯のダイヤル式黒電話をかけるまゆ子と、携帯で受けるちあ紀との差がくっきりと表れる。
すっかり落ち込むまゆ子。親友のちあ紀すら、まゆ子が住むことのできない別世界の住人なのだ。
しかし、すでに実社会を逞しく泳ぐ術を身につけている言実さんから、一発で解決法を指南されて驚く。
「行くも行かないもまゆ子ちゃんの気持ち次第……それには、まず、まゆ子ちゃん自身がどうしたいのか、わかってなくちゃね」
応じること、断ること。自分の意志をしっかりと持ち、その意志の通りに行動できれば、つまらない引け目や屈辱感をはねのけることができる。
大人の台詞を借りて、この作品はまゆ子の悩みに答えてくれる。そして先に申し上げたとおり、現代において、まゆ子の悩みは、多くの普通の人の悩みでもあるのだ。
その悩みはまた、作品中の宇宙人たちの悩みでもある。最終話冒頭のニアの台詞が、その回答だ。「本当の自分ってやつ」。プラスからアンダーへの階級格差、その抑圧と苦痛をはねのけるには、階級格差とは関係のない、本当の自分を見つけて、格差のくびきを振っきることに尽きるのではないだろうか。
私たちの現実社会でも同じことだ。社会で、会社で、世間で、学校で、いろいろな階級格差に直面し、道理が通らない理不尽さに苦しむとき、ニアの台詞は一服の鎮痛剤になることだろう。
本当の自分でいられれば、苦しむことはない。
人生を今までよりも少し幸せに生きるための、普遍的な指針を、『ニア』はギャグの糖衣をからめて教えてくれるのだ。
 
●アンダー7とナンバー6、そして「自分次第」
「貧乏」である、それだけで、なぜこんなに惨めな気持ちになるのだろう。
先に述べたように、第7話で、落ち込むまゆ子に、言実さんが「それは、まゆ子ちゃんの気持ち次第」と答えている。
自分次第、気の持ちようで、けっこうなんとかなる。
これも『ニア』の感動のエッセンスだ。ありふれていて、さりげなさ過ぎるほどだが、なんと貴重な言葉であることか。
惨めな気持ちで落ち込んだとき。それは、自分が他人に認められなかったり、笑いものにされたり、無視されたり、望まないことを強制されたりして、そのことに抗えないときだ。
物理的というよりも、精神的な牢獄に押しこまれて、何を言っても、何をしても脱出できないと絶望するときだ。
現実に、そんなことはしばしばある。いやむしろ、大人の実生活はほとんどがそういう牢獄状態であって、自分が望むことを自由にやり、そのことで自分やだれかを幸せにできるなんてことは、滅多にないだろう。
無気力、鬱々とした状態。
そんな牢獄を脱出する方法として、「気の持ちよう」という武器が提示される。
たかがアニメで、ここまできちんとソリューションしてくれるとは、もう感涙ものではないか。
 
そこで思い出すのは、『プリズナーbU』。1968年放映という昔のTVドラマだ。
詳細はサイトをご覧いただければいいが、ロンドンで国家的な秘密情報機関に勤務するやり手のエージェントが、何があったのか突然上司に辞表を突きつけて退職……した途端に自宅から誘拐されて、目がさめたところは「村」だった。村人たちはみなナンバーで呼ばれ、「bQ」という管理官に身も心も支配されている。目覚めた主人公は勝手に「bU」と名付けられ、エージェントとして知る機密情報を漏洩するよう、あの手この手で強制されるのだ。bUは苦悶する。毎回のように村から脱出を試みるが失敗の連続。戦っても戦っても、報われることはない。村は一見して、のどかな理想郷であり、恐ろしい陰謀の存在は視覚的に隠されている。しかし「bQ」に逆らって破れたものを待つのは、洗脳や拷問や、あるいは死なのだ。目に見える鉄格子はなくても、村はまさしく精神の牢獄なのである。しかしついにbUは支配者のbQに挑んでこれを倒し、その上に君臨する真の総帥「bP」に肉薄することになる。
……というお話なのだが、困ったことに、結局のところbUの正体も、村の正体も、bPの正体も、すべての事件の真実も、黒幕が何であるのかも、なにひとつ明らかにされないのだ。
放映後40年に及ぶのに、いまだ謎は謎のままであるという、ミステリアスな名作。
だが、しかし……
『ニア アンダーセブン』は『プリズナーbU』の最大の謎に、あっけないソリューションをもたらしている。
それはつまり、自分自身の、気の持ちようですね、と。
『プリズナーbU』にはさまざまな異なった解釈があるので、いちがいにこうと決めつけることはできない。ここでは、リアルなドラマとしてではなく、SF的な「寓話」としてとらえてみよう。「村」というのはリアルなスパイ拷問監禁施設ではなく、私たちを束縛する社会そのものを象徴している。bPは、現代社会の私たちをがんじがらめに支配する何者かだ。正体は不明だが、私たちから自由を奪う存在である。
そう考えると、「気の持ちよう」はひとつの解決として成立する。
「村」は主人公がみずから作り上げ、自分で自分を縛りつけた精神の牢獄だ。そしてbPこそ、自分自身なのだと。だから「村」もリアルな現実の存在ではない。自分が自由を放棄してしまったとき、いつでも、どこでも、自分のいるこの場所が「村」になるのだ。「村」はどこか遠くにでなく、ここにあるのである。
この解釈はそう外れてはいないと思う。『プリズナーbU』の最終話では、主人公がじつはbPであったのではないか、あるいは「村」も海のかなたの某国ではなく、近所のそのあたりにあったのではないか……という暗示が見られる。
つまるところ『プリズナーbU』のテーマとは、自分の気の持ちよう次第で、人はいつでも精神の牢獄に投げこまれてしまうし、自分で自分を縛り付けてしまうこともあるのだ……ということではないか。
 
だから逆に、自分の気の持ちよう次第で、自由を取り戻し、あるいは、自由を求めて元気よく戦い、闘うことの意味に気付くことができるのだ。
そこのところ、まゆ子の悩みに通じるものがありそうだ。
落ち込むまゆ子、しかしそれは、自分で自分を精神の牢獄に閉じ込めているのかもしれない。閉じた扉を押せば開くのに、厳重に施錠されていると思い込んでいる場合もあるだろう。
そしてまた『ニア』の宇宙人たちも、ある意味、精神の牢獄の中にいる。
プラスからアンダーまでの、階級格差。アンテナの有る無しといった、ちょっとした見た目の違いまで、からかいの対象になる。ニアが指弾するまでもなく、明らかな差別社会である。
しかし宇宙人たちは心底から憎み合うのをぎりぎりで回避し、7種のカレー弁当で世界を救うと誤魔化しながら、「気の持ちよう」でするりと立ち直っていくのだ。
悩みを吹っ切る代表格こそ、ジェロニモ本郷。
アンダー出身であることが理由で、彼はスターの座を追われる。なにひとつ失敗も失態もないのに、理不尽な転落。すなわち階級格差の被害者だ。
しかしそれでも、ニアに諭されたのがきっかけなのか、ジェロニモはプライドを吹っ切って、気ぐるみコメディアンに転身する。世間の笑い者になりながら、しかし彼は、今まで以上に心の自由を手にしたのではないか。つまり、要するに……
自分自身の、気の持ちようなのだ。
ここで、あなたも気付くはずだ。
宇宙人の多くが「気の持ちよう」で物事を解決しているらしいことに。
そして考えようによれば、自分自身が今抱えている問題も、かなりの部分が、そうやって解決できるのではないか。
もちろん、たかが「気の持ちよう」だから、根本解決をもたらす特効薬になるとは限らない。
しかし、今日の破滅を防ぎ、明日へ生き延びて、問題の何分の一かを片付けるパワーがあることは、信じてもいいのではないか。たとえプラシーボ効果でも、あるとなしでは、天国と地獄の開きになる。
その秘訣は、自分で自分を縛らないこと。自分で自分を閉じ込めないこと。
それが『ニア』の凄いところだ。現代の私たちが「気の持ちよう」だけで取り戻せる自由が、意外と身近なところにころがっているのではないか、と、さらりと教えてくれるのだ。荏ノ花湯にいくつもころがっている手桶に書かれた「ケロリン」の効能のように……
 
●母船と荏ノ花湯と、そしてコロッケの謎
最終話、荏ノ花湯の屋根から、母船の消えた海を見つめながら、ちあ紀がつぶやく。
「ずーっとそこにあって当然だと思われていたんだけどさ、消えちゃうとあっけないものだね」
そして、はっと気づいて、すまなそうにまゆ子を見る。
ここで、「ニアと母船の関係」という形で物語に秘められていた伏線のひとつが解決する。
そう、「ニアと母船の関係」は、すなわち「まゆ子と荏ノ花湯の関係」と等価だったのだ。
まゆ子にとって、荏ノ花湯こそ、母船。
柱のキズの意味を知り、「私は、ここにいた」と実感し、物語のなかでただ一度、涙ぐんだまゆ子。荏ノ花湯は、まゆ子にとって、父母とともに過ごした唯一の場所。ある意味、この古びた銭湯は、観念的にまゆ子の両親の一部でもあると言えるのだ。
そしてこの荏ノ花湯は、ニアの母船と同じように、いずれ永遠の別れを告げることになるのだろう。今すぐではない。しかしその別れは、必ずやってくる。
ニアにとって、母船は文字通り母親であり、母船の消滅は、母との死別に等しかったことと想像される。そして同じように、まゆ子もいつか、病弱な母を失うことになるであろうことが、「荏ノ花湯の買収」という話題に重ねられていく。
親を失うこと。それは悲しい別離であると同時に、運命的な自立のときでもある。
人生を前に進むかぎり、いつかくぐらねばならぬ門。
それを暗示して、最終話の時が流れていく。
文字通り最終話タイトルは「荏の花に、時は流れる」。学生の身分なのに経済的に満たされ、豊かな浪人生活をエンジョイしているちあ紀は、変わりばえしない都会の風景をながめて「退屈」とぼやく。
しかし貧しいまゆ子は、「変わってきた」ことを感じ取っている。「秋になった」という、季節の変化を口にする。
ちあ紀が期待する「変化」は、驚くような事件や革命的な進歩、いずれにしても、ヒトが起こす人為的な変化だ。しかし、そのようなこととは別に、日々とどまることなく時は流れ、明らかに自然が変化し、自分自身も変化してゆく。
13話分のエピソードを経て、一向に『ニア』の世界は変わり映えしていないように見えて、時の流れは、確実に全てを変えている。その変化がゆるやかなため、忙しい現代人は気付かないだけなのだ。
『ニア』の最終話は、そのことを明らかにしてくれる。
変わった証拠は、まゆ子がメモにはさんだ一枚の枯葉だけではない。
このあとまゆ子は、ニアを評して、しみじみと言う。
「ヘタレな居候だけど、あれで結構憎めないところがあるから」
まゆ子のこの夏、7月から9月までの三か月、貧乏ゆえにどこへも遊びに行けず、ただ銭湯と予備校とバイトを往復した三か月、ストーリーの起伏はゼロに等しい。よくまあこんな難しい条件の中で、これだけ濃厚なお話が作り上げられたものだが、この三か月で劇的に変化したのは、やはりまゆ子とニアの心の絆だろう。ちょっとしたことでいがみあい、「なら、出て行けば?」と突き放したこともあったのに、秋を迎えたまゆ子は、迷惑な居候であるニアを、完全に許容しているのだ。
そのきっかけは、第8〜9話の、二つのコロッケのエピソードだろう。二人の関係が危機的状況を迎えたとき、まゆ子が奮発して買ってきたコロッケだが、二人の行動のすれ違いによって、ソースをかけたものの食べられぬまま一昼夜を経てしまう。
二個のコロッケだ。普通、一個を食べて一個を残せばいいはずなのだ。
ニアに至っては、まゆ子の隙を見て、二個ともぺろりとやれたはずである。
なのに、なぜか二個のまま残してしまう。
一緒に食べたいかどうか、ということよりも、相手をフライングできない。
たったそれだけのことなのだが、お互いにフライングできないことを知ったとき、二人の絆はかけがえのない強さで結ばれたのだ。いわば「同じ釜の飯を食った家族」となったのではないか。その事実が、コロッケに象徴されていると思うのだ。
私たちの日常にありふれた小さな事件。しかしそれが、一生に残る思い出となったのである。
そのすぐ後で、ニアは姿を消す。このときまゆ子は、ニアがいてくれないという、それだけのことに、強い恐れと不安を感じてしまう。「本当は怖かった……胸の中にぽっかりと穴が開いてしまったような」と。
しかしニアは戻ってきた。なぜ、戻ってきたのだろう。望めば、母船とともに宇宙へ帰ることができたであろうに……
そう、コロッケをフライングしなかったように、ニアは今度も、まゆ子にフライングすることはしなかったのだ。
それはきっと、ニアもまゆ子と同じ気持ちになったからだ。まゆ子と永遠に別れることを考えたとき、ニアも、胸の中にぽっかりと穴が開いたのではないだろうか。
でも、ニアは語らない。もしも語ったら、それは、愛する母船とまゆ子を比較することになるから。二つを天秤にかけたのではなく、ニアはおそらく自分の意志で戻ってきたのだ。
そしていずれ、まゆ子にも、ニアが母船と別れたのと同じ別れが訪れることになる。そのことを、まゆ子は知っている。いつか、荏ノ花湯と別れ、母親とも死別するという、人生の悲しい門をくぐる日がやってきたとき……
でも、ニアがいてくれればきっと怖くない、不安ではない。
最終話で、まゆ子はそう信じることができたのだろう。
人と人、いや、人類と宇宙人の絆の不思議さを、この夏、まゆ子は知ることになったのだ。
 
●腕時計をめぐる言葉
最終話、荏ノ花湯の屋根の上、ちあ紀の前で腕時計を耳にあてるまゆ子。つぶやく。
「最近遅れぎみで、たまに止まったり……古いからかな」
ちあ紀は善意でアドバイスする。
「まゆ子ちゃんの手には大きすぎて不便なんじゃない? この間、小っちゃくて可愛いの、安く売っているお店、見つけたんだ。今度一緒に見に行こうよ」
しかし、まゆ子はしっかりと断る。
「ううん……いいんだ、これで。直せたらまだ動くもの。それに、ちょっとくらい遅れたって、私、あまり急がないから」
合コンを断った時の優柔不断ぶりは、ここにはない。このとき、まゆ子は自分の意志をはっきりと取り戻している。自分の自由で、意志を決めていることに注目したい。
本当の自分を、まゆ子は見つけたのかもしれない。
そんなまゆ子に、ちあ紀も同意する。
「急がないから……結構、いいかもね。そういうの」
急がない……という人生の選択を、まゆ子はこのとき、間接的に宣言したことになる。貧しさゆえの引け目、劣等感、屈辱感は、「私は急がない」という意志を持つだけで、実は魔法のように軽くなることがあるのだ、と。
「急がない」ことは、「今すぐ」という強迫観念を脱ぎ捨てることだから。「今すぐ」というあせりに陥ることで、人生の判断を誤ることは多々ある。一歩後ずさりして考えるゆとりを持つことで、刹那的な欲望に振り回されずに、本当に豊かな生き方を見つけることができるのではないだろうか。
都会の風景に退屈し、刺激的な変化を求めるちあ紀に対して、まゆ子は拾ってきた枯葉の一枚を出して、ゆるやかな季節の変化を語る。「急がない」ことで、何が見えてくるのか。すばらしい答えがここにある。
夏から秋へ、『ニア』の全13話を通してまゆ子が悩んできた問題への結論が、最終話でこうして明確に示されたのである。
 
さて、この腕時計に関して、まゆ子はもうひとつ、大きな決断をしている。
「買い替えない」ということ。言いかえれば「ずっと持ち続ける」ということ。遅れても、止まっても、きっと捨てたりしない。
それは、この時計が父の形見であることも、ひとつの理由。
そしていまひとつ、普遍的な意味が、この時計にかぶさってくる。
この時計は、七歳のときに父にもらってから、ずっと、一緒に同じ時間を生きてきた時計。それはまた、今までのまゆ子の人生の時間そのものでもある。
時計を「買い替えない」こと。それはまた、自分の人生も買い替えないということ。
貧しくて、侘しい気持ちになることが多いけれど、この荏ノ花湯で、ニアと一緒に生きた、このありきたりな夏の時間も、私は買い替えない。それはかけがえのない大事なものだから。
だから、まゆ子は静かに、自分自身にこう誓うのだ。
「ここがいつかなくなるのかとしょんぼりしているより、ここにいる時間を大事にしようって……みんな前よりもはりきっているんだ」
人生の幸せというのは、そのような時間と場所にあるのではないのだろうか。だれのものでもない、どこにでもない、自分自身が「ここにいる時間」に。
 
●知らない他人、知らない宇宙人、知らない自分
最終話、荏ノ花湯の屋根の上、まゆ子の、独り言にも似たつぶやき。
「ときどき、あの子のこと、いまだにひとつもわかってないような気になることがあります……私には、わかりようもない。あの子が胸の奥に何を抱えて生きているのかなんてこと。それで……いいんだよね」
「あの子」とは、ニアのこと。
最終話のまゆ子にとって、ニアはもう無二の親友なのだが、それでも「ひとつもわかっていない」と述懐する。普通なら「だから、もっとわかってあげなくちゃ」となるところなのだろうか、そこはさすが『ニア』である。
「それで、いいんだよね」と、明確な結論を出したのだ。
なにかこう、人間関係について、喉の奥に詰まりかけていたもやもやが,一気にすとんと落ちた気分になるではないか。
わからなくていいのだ。
本当に、そうなのだ。無理してまで、わかりあわなくてはならないと、誰が決めたのだろう。人間と人間、それぞれ独立した個体の生き物なのだから、何もかも全てわかりあうなんて、もともと不可能なのだ。
なのに、私たちは「全てわかりあわなくてはならない」と、必死になりがちだ。何者かに脅迫されたかのように、首根っこをつかんで怒鳴り、絶叫し、殴りあってでも、わかりあおうとする。青春ドラマにつきもののシーンだ。ぶたれて、はっとして、わかり合う友情の美しさ……なんてことが、そうそう現実にあるはずがない。暴力をふるったら、どんなに善意でも、暴力で応酬されることになるのが関の山、というのが現実の世界だ。
『ニア』はそのことを、あっけらかんと指摘してくれたのだ。
無理して、必死になって、わかりあわなくてもいいんだ。
すばらしい結論だと思う。
けだし真実ではないか。
他人ならばもちろんのこと、夫婦だって、親子だって、互いのことはほとんどわかってはいないのだ。「わかってよ!」と相手に強制しているだけなのだ。
思えば、私たちはしゃかりきになって、知りたがる。わかり合おうと必死になる。親子も恋人も友達同士も、相手のことを良く知らなければ人間関係失格。だからいつだって、「隠し事をするなんて」「そんな水臭いことを」「遠慮なんかしなくていい」「どうして正直に言ってくれないの!」と叱咤する。疎遠であることは罪悪といわんばかりだ。
あげくの果てには、四六時中、ケータイでつながらないと気がすまなくなる。メール、メール、またメールで、すぐに返信しないと友情にかかわる……
しかしそれは、じつのところは、ただの疑心暗鬼の裏返し。相手をわかろうとするよりは、相手に自分を無理矢理、わからせようとしているのが本音ではないか。
だから、わからなくていいんだよ。そう、『ニア』はやさしく振っきってくれる。
知らなくて当然ではないか。だって、自分自身ですらはっきりわからないのだから。
そのことをまゆ子自身が、小さかったころの記憶を探って、悟ることになる。
肉親である父親の顔を、よく思い出せない。
それどころか、自分のことすら、きちんと思い出せない。
思い出しているつもりになっていただけだ。
その証拠に、知らなかった自分を、他人に教えてもらうことになる。
母親から送られてきた古い写真。それを見たことで、柱のキズの意味を知った。
小さかったころ、父の真似をして、いろいろなお話を考えていたこと。それをまゆ子は、源蔵クンに教えてもらう。父にもらった時計を自慢していたことも。いじめられてしょげた源蔵クンを元気づけていたことも。
自分すら、知らなかった。忘れていた。
でも、それでよかった。知らなかった自分を思い出させてもらえたから。
まゆ子と源蔵がときおりぽつぽつと交わすだけの会話。しかしそこから、ふと蘇る、あのときの自分。
たったそれだけのこと、日常、さほど珍しくもないことのはずなのに、どうしてこんなに素敵に輝くのだろうか。
ドラマチックな演出はなく、ぼそぼそと語る源蔵クン、それを微笑んで聞くまゆ子の表情だけ。ただセリフがやりとりされるだけなのだが、他のアニメ作品ではちょっと出会うことのない、『ニア』ならではの名場面だ。
忘れていた、置き去りにしていた過去の自分に出会うこと。これも、ひとつの幸せな時間なのだと。
そのことで、まゆ子の人生が、少しだけど確実に変わっていくことだろう。
そして、まゆ子も悟る。
ニアとどんなに親しくありたいと願っても、ことさらにニアを深く知ろうとしなくていい。これから何年も先、十年とか二十年先になって、「あの時、きみはこうしていたね」と教えてあげればいいのだと。
まったく、そのとおりだと思う。
『ニア』の感動は、このようにありふれた日常に、風のように流れていく。ミレーの名画『晩鐘』に漂う静謐な幸せが、ひたひたと寄せてくるかのようなのだ。
 
●蛇足だけど、心に残ったシーン
印象に残った、ほほえましいシーンは、第9話で「かるちぇ」のマスターと智絵ちゃんが並んで歯磨きしているところ。磨き方が偶然全く一緒にシンクロしてる、と思ったら、コマ送りしてみると、じつはお父さんの動きが先であるとわかる。一瞬遅れで智絵ちゃんがぴったり後についているのだ。父と娘の、とてもいい関係。
 
●屋根瓦とロープの謎
荏ノ花湯の大屋根。がっしりとした瓦屋根の棟に腰掛けて、はるか母船をながめるニアとまゆ子……という、のどかな場面がある。これに、ちあ紀や言実さんが入れ替わるように昇ってくる。瓦に腰を降ろし気持ちよさそうに寝そべる。
いいなあ、あんなふうにのんびりと時間をすごしてみたい……と憧れる場面である。
普通の屋上でなく、古びた瓦屋根というのが郷愁を誘う。
しかし……しかし!
季節は夏。ギンギラ太陽の光降り注ぐ夏である。炎天下である。常識的に考えて、あの大屋根の瓦は、太陽光に焼かれてちゅんちゅんに熱されているはずだ。空焚きした土鍋の中みたいな、灼熱モハービ砂漠かつ石焼ビビンバ状態のはずである。
明け方の前後二三時間くらいの範囲でなければ、とても、あんなに涼しい顔で、のんびり座ったり、寝そべることのできる環境とは思えない。曇っていても結構熱くなっているし、日が暮れてもしばらくは放熱しているので、あの場所はうだうだに暑いであろう。だから、不可解なのだ。『ニア』七不思議の一つである。
ニアや登場人物の人類たちが、サイボーグ的耐熱体質であるとは考えられない。第6話でニアは、あまりの暑さにクーラー設置を要求しているではないか。
とすると、考えられるのは……
あの屋根の瓦はみんな、ただの瓦ではない。宇宙人仕様の特殊耐熱瓦なのだ。早い話が、スペースシャトルの黒いお腹と同様の耐熱タイルなのである。何時間も直射日光を受けても、表面は熱くならず、おそらくその熱を裏側へ蓄熱して、なんらかの回路でもって熱を集めて銭湯の釜へ送り、湯沸しの足しにしているのであろう。超高性能の熱交換システムを内臓した、スーパーハイテク瓦だったのだ!
そう考えると、第6話でニアが部屋の暑さに音を上げるのもうなずかれる。第1話の後半にて、ニアがUFOでまゆ子の部屋の屋根をブッ飛ばして穴を開けたことによって、ハイテク熱交換瓦がはがれてしまった。かわりに応急処置されたブルーシートでは太陽光の熱を防ぐことができず、部屋が蒸し焼き状態になったと想像される。
この涼しい熱交換エコ瓦を開発し、販売したのはおそらく宇宙人たちだ。市販の瓦に比べて安いかどうかわからないが、比較的目方が軽いようで、第12話の暴風で飛ばされている。ただし暴風で飛ばされた瓦がニアの顔面を直撃したとき、まゆ子が「一個いくらすると思ってるのよ!」と心配する程度には高額であるようだ。
さて、屋根にはもうひとつ、不思議なロープがある。窓のすぐ外にぶら下がっていて、ニアがするするとよじ昇り降りするシーンがあるのだが、宇宙人はそれでいいとしても、一体全体、地球人の登場人物たちはどうやって屋根の上へ安全に昇り降りしているのだろう。まゆ子の部屋自体が二階にあり、ベランダもないので、正直、かなり危険である。落ちたら大ケガか、命も危ない。なのに、第1話から初心者のちあ紀すら、ロープ伝いに屋根の上へやすやすと昇っている。
不可解である。『ニア』七不思議の二であろう。
察するに、このロープも、見た目は何の変哲もないが、じつは宇宙人仕様の反重力・カモンスネーク・タイプの安全昇降ロープなのであろう。持ったとたんにまつわりついて、手から離れないように安定してくれて、さらに反重力効果で引っ張り上げてくれるのである。その様子はインドの蛇使いのスネークダンスの如しであろう。チャダのように印度ナイズされた宇宙人が販売しているものに違いない。もともとは、宇宙航行中のUFOから船外に出て活動するときの装備だったのであろう。こういった反重力安全ロープは、たとえば国際宇宙ステーションISSあたりで外を歩くときに、絶好の命綱となるはずだ。
このように、おそらく見た目はわからないが、宇宙人仕様のとんでもないハイテク道具が荏の花地区の庶民生活に入りこんでいると思われる。だから第2話で、得体の知れないクレーター油を平気で湯沸し用に持ってきたりできるのだ。
昭和30年代を彷彿とさせる後進地域の荏の花だが、その実体は、いつのまにか宇宙科学の粋を凝らしたハイテク・タウンに進化しているのだ。地区外の人類が、そのことに関心を持たず、気付いていないだけなのである。
 
●カレンダーの謎
不可解きわまる『ニア』七不思議の三は、カレンダーである。
背景にはしばしばカレンダーがかかっている。まゆ子の室内、荏ノ花湯の階段下、洋食屋「かるちぇ」の店内や奥の部屋。物語の時系列に従って、最初は7月、そして8月、9月へとかけ変わっている。それはいい、しかし……
一か月の日数や一週間の日数が、めちゃくちゃなのである。一か月が40日近くあったり、一週間を示す一列が9日ほどあったりとか、である。たまに、週と日数がきちんとしたものもあるので、それをもとに『ニア』の年代特定を試みてもいいだろうが、たいていの場合がいいかげんなので、まあ、深く考えないことにしよう。
正直、カレンダーを見るごとに、異なるパラレルワールドにトリップした気分になる。それもまた、この作品がSFゆえの楽しみなのであろう。とはいえ、どうにも説明がつけられないのも事実である。
あえて説明づけるとするならば、これも、荏の花地区に浸透した宇宙人の産物なのかもしれない。もともとあまり暦とか時間を気にしない宇宙人たちが、自分たち流儀の、適当な「宇宙カレンダー」を作り、高島易断所の暦みたいに、新聞購読の粗品といった形で配っているのではないか。荏の花の人類たちも、捨てるのはもったいないので、手書きで修正して使っているのであろう。地球人と宇宙人が織りなす、奇妙な共同社会が生んだ、とってもてきとーなカレンダーなのだ。
 
●宇宙人たちの真の目的、そして万能の妙薬「気にしない」
不可解きわまる『ニア』七不思議の四と五は、先に述べたUFOの謎とか母船の謎ってことにして、ここでは七不思議の六として、宇宙人たちの真の目的を考察してみたい。
『ニア』をSFと解するならば、こればかりは避けて通れない。
宇宙人たちは、本当のところ、何しに地球へやってきたのか?
とりあえずの定番は「地球征服」である。B級SFなら、これをはずしてはならない。なんてったって、クリンゴンあってのスタートレック、ダースベーダーあってのスターウォーズなのだからね。征服大好きな宇宙人はSFの友である。
そんなわけで、まず独断しよう。
『ニア』の宇宙人たちの目的はずばり侵略、地球征服なのである。
ああ、なんと安っぽい目標であることか。
しかし、案外それが真実だったとしたら……!
そんなはずはない、と推察するのがノーマルな思考であろう。
どう見ても、地球征服の野望なんか見えない。だって、不可解ではないか。『ニア』の宇宙人たちはみんな、なぜあれほど貧しく、差別にまみれながら、それでも地球に暮らしつづけようとするのだろう。
普通ならば、物語の中で、独立運動やテロやゲリラが跋扈しても不思議ではない。私たち人類の常識では、暴動や戦争に発展していて、むしろ当然なのだ。過去のあまたあるSFは、そうやってきた。その結果として宇宙人が地球征服しても、歴史の成り行きであるというものだ。
なのに、『ニア』の宇宙人たちは、何もしないし、何をされても怒らない。「気にしない」のだ。
本当に、私は驚いた。
過去のSFでも、ちょっとこの種の侵略パターンは見当たらないのである。
地球にやってきた宇宙人ときたら、たいていが征服にかかる。残虐な戦争が起こる。『宇宙戦争』しかり、『インデペンデンス・デイ』しかり、『マーズ・アタックス!』しかり。TVシリーズの『V』だってそうだったね。物理的なパワーによるものでなければ、『盗まれた街』や『光る眼』のように、乗り移り感染型の侵略がある。昨今のSF感覚では、ウイルスに乗せてDNAレベルで侵略してきてもいい。
そのように、あの手この手で征服するのでなければ、宇宙人はその超科学パワーを背景に、人類に正しい道を教えてくれたりすることが多い。『地球が静止する日』『未知との遭遇』しかり、『2001年宇宙の旅』もそうだ。いずれにしても、人類にへりくだるのでなく、上位に立つお導き宇宙人が圧倒的ではないか。
友達になった数少ないケースは『E.T.』や『……番街の奇跡』だけど、ETたちの大量移民は考えられなかった。ちょっと無理だろうね……
しかし……
『ニア』の宇宙人たちは、その逆である。
地球人に学び、恭順し、ギャグでご機嫌すらとり、貧しくてもいじめられても文句を言わない。まさに唯々諾々、地球征服どころか、まるで銀河のかなたからはるばると、地球人に征服されに来たのと同じではないか。
まったくもう、宇宙人なんだから、もう少し宇宙人らしくしてほしいものである。過去の類似作品としては『プラポー火星人』であろうか。似ている点もあるかと思うが、ブラボーな火星人はそんなにぞろぞろいなかったと思う。
しかし、ちょっと考えてみよう。
『ニア』の宇宙人のヘタレぶり。しかしこれは逆に、リアリティを追求した結果とみることもできる。ニッポン大好きでニッポンナイズされた外人タレントが「変なガイジン」を売りにすることがある。まともなガイジンよりも、変なガイジンの方が好かれ、人気が出るのだ。
『ニア』の宇宙人は同じ意味で「変な宇宙人」であるだけではないか。いや、むしろ移民先の環境を学び、順応していけるということは、大変に高度な知的生命体の証である。宇宙人はヘタレに見えても、意外と勤勉で頭がいいのだ。無知蒙昧な野蛮宇宙人だったとしたら、あれほどスムーズに順応できるはずがない。何につけてもトラブルだらけ、喧嘩だらけとなるであろう。
しかも彼ら宇宙人たちは、地球人から疎まれ、差別されても「気にしない」のだ。
このことを「ヘタレ」と言って馬鹿にする地球人こそ愚かである。地球人に屈服する宇宙人。しかし考えようによっては、なんとタフでしたたかなやり方であろうか。ガンジーの無抵抗不服従主義を、一見骨抜きに見せつつ、ただの無抵抗でへらへらとやっていこうというのである。
へらへらとやりすごす。
これは、異郷の環境に適応し、したたかに生きていくための、基本的な処世術。偏見に突き刺されても希望を持ち続ける心のスタンスとして、もっとも強い考え方ではないか。
「気にしない」ことを貫けば、なんとかやっていけることは多い。階級格差を押し付けられても、居住地や婚姻などが制約されても、頼りにしてきた母船が消えうせても、「気にしない」ことで、宇宙人たちは営々として地球に暮らし、なじんでいこうとしている。その様子はただのヘタレに見える。しかし、このやり方は、簡単には潰されない。
「気にしない」からだ。いじめられても馬鹿にされても「気にしない」。
これすなわち、究極の移民手法ではないか。
「気にしない」ことは「絶望を放棄している」ことなのだから。
これは最も長続きする、全宇宙に通用する、共存共栄の妙薬かもしれないのだ。
しかしこの方法は、身の毛もよだつ過酷なリスクを内包している。地球人が残酷野蛮な鬼畜であって、宇宙人をさっさと隔離し、虐殺し絶滅をはかるかもしれないということだ。
しかし、だからおそらく、十数年の間、母船が残されていたのだ。地球人が、宇宙人を絶滅させるような危急存亡の事態に陥ったならば、生き残った宇宙人が宇宙へ脱出する手段として……。しかし、幸いなことに、地球人は宇宙人を厄介者扱いするものの、殺戮するようなことはしなかった。共存者として地球に受け入れられる余地は残されたのだ。
そのことを確信したからこそ、母船は旅立っていったのであろう。
「そんじゃ、あとはよろしくね……」とばかりに。
そして、地球に残された無数の宇宙人たちは、これから地球人との関係をどうしていこうというのだろう。
もう、おわかりだろう。まゆ子とニアの関係、あれがそのまま、億万単位の地球人と宇宙人の関係そのものになるのである。
母船が残した宇宙人は、何十万、いや何百万になるであろうか。
それらがみんな、概ね、地球人の「居候」になってしまうのである。
まこと気宇壮大な地球侵略作戦ではないか。
名付けて「無抵抗居候作戦」。
私は心底驚いた。これまで抱いていた「地球征服の常識」が見事に覆えされたのだ。
地球征服のストラテジーとして、これほど低コストで合目的な侵攻戦略があるだろうか。急がず、あわてず、何十年いや何百年かけて、地球を結果的に征服する大作戦なのだ。しかも、地球人と終始仲良くしながら……そう、戦争という、最悪の共倒れリスクを回避しているのである!
なんて賢いのだろう。こんなの、初めてだ。
おそるべし、宇宙人たち。
『ニア』の宇宙人たちの真の目的は、それなのである。
やっぱり、地球征服だったのだ……
ここまでトホホな地球征服作戦があったとは、まったくセンス・オブ・ワンダーであるのだが……。
 
さて、ここで付記したいのは、まゆ子とニアの関係が、決して地球人と宇宙人との特殊な関係ではないということだ。
親とプータローの子、働いている子と恍惚の老親、しっかり奥さんとグータラ旦那、あるいはその逆、真面目な上司と脳天気な部下、ちょっと変な友人や恋人関係、あるいは人間とペット。そんな、私たちの身近にも、かなり似た関係がいくらでもある。
ならば「無抵抗居候作戦」で地球征服を企てる、というか、へらへらとなりゆき任せでちゃっかり侵略しちゃう宇宙人の人間関係ノウハウは、けっこう私たちの実生活に役立つかもしれない。
『ニア』のヘタレ宇宙人みたいに生きるのも、この格差社会における弱者である私たちにとって、案外、使える戦術ではないだろうか。そんな気がするのだ。
年間三万人を自殺に追いやるストレスフルな社会(これは内戦と変わらない)を生きる私たちに、『ニア』の最終話が残してくれた、見事なまでの宇宙的アドバイスが「気にしない」ことなのである。
「宇宙人、嘘つかない。宇宙人、気にしない」
いささかトホホな気分も漂うが、きっと、これでいいのだ。『ニア』はなんと、過去に例をみないハイレベルな地球侵略作戦をありありと見せつけてくれたのである。SF界に類を見ない、史上最も明るい地球征服を……。
地球人と宇宙人の関係に、かつてない斬新(?)なビジョンを提示してくれた『ニア』……。SF作品として、眉唾ついでに目からウロコの傑作であることをお約束したい。
 
●そして巨大な謎、クレーター
ということで、最後にして最大の謎、七不思議の七は、ご存知「荏の花クレーター」である。
「ファーストコンタクトの名残り」とちあ紀が言うクレーターだが、その言葉以外に、これといって正体は語られていない。
しかし、これこそ未解決の巨大な謎として残されているのだ。
ロケット燃料に使えそうな、高エネルギーな油が湧いて出る。妙ちきりんな泡状洗剤(第5話)も湧き、肉食系らしき巨大植物(第2話)が繁茂し、生きのいいキノコ(最終話)も産している。その巨大クレーターの底には、アンダー宇宙人の伝統的な(?)バラック村がある。
ちょっと異様な雰囲気と危険な匂いが、ここを宇宙番外地にしているようだ。
クレーターとその周辺一帯は、事実上、宇宙人専用居住区になっている。
これは偶然ではない。なりゆき上そうなったのではなく、宇宙人が意図して、そのようにしたと考えてみたい。
宇宙から地球へ移民するとしたら、まず、なんといっても、降り立った後しばらくの居留地を確保しなくてはならない。人類という知的生命体によって文明化された惑星である。降りたからといって、はいどうぞと土地を開けてはくれないのが普通である。
では、どうするのか。
いささか汚い手だが、人為的に地価を下げるやり方がある。住みたいと思うマンションの隣に廃棄物処理場を建設し、あるいはゴミの不法投棄を行って、マンション住民がたまらず逃げ出した後を、格安で買い取る方法だ。あくどい地上げ屋がやりそうな手である。
同じことが、地球のこの場所に対して行われた。
ファーストコンタクトだかセカンドインパクトだか知らないが、宇宙人と地球人の最初の接触において、なんらかの天変地異が起こって、巨大なクレーターが出現してしまったのだ。
おそらく爆弾ではなく、隕石のように、何かが撃ち込まれたものと考えられる。
だから核爆発はなく、有害性は低かったことだろう。しかし、潜在的な核アレルギーと、これまで欧米型地球侵略SFで刷り込まれていた宇宙人恐怖症が重なる。クレーター出現の一発で、ただでさえ開発の遅れていた荏の花地区の地価は大暴落し、たとえ住宅地を分譲しても、買い手がつかなくなったと思われる。お金のある人はみんな逃げ出してしまった。人が住まなければ空き地になる。
ということで、クレーターとその周辺は、宇宙人に明け渡されてしまった。宇宙人たちはやすやすと、労せずして移民コロニーの建設地を手に入れてしまったのである。
おそるべし、宇宙人。
ヘタレどころか、なんとしたたかなことか。
さておそらく、何か隕石のようなものが落下してできたクレーターだとしたら……
クレーターの底の、そのまた地下には、何か大きなものが埋まっているはずである。宇宙人とって、それは大切なものなのだろう。その証拠に、生活の不便に甘んじながらも、クレーターの底にバラック村を築いている。その下にある何かを守ろうとするかのようだ。
それは何だろうか。
正体はわからないが、その機能はある程度推測できる。
人類が他の惑星、たとえば火星に移民したとすれば、どうするだろうか。まず住める土地を確保する。その次には……
テラフォーミングだ。時間をかけてでも、地球人にとって住みよい環境に、周囲を変えていこうとする。
荏の花クレーターの底に眠っているのは、そのための装置なのだ。
巨大な環境改変システム。
それはゆっくりと時間をかけて、クレーターを中心に、その周囲の地球環境に影響を与えていく。
その証拠に、ロケット燃料に使えそうな、高エネルギーな油が湧いている。妙ちきりんな泡状洗剤(第5話)も湧き、肉食系らしき巨大植物(第2話)が繁茂し、生きのいいキノコ(最終話)も産している。いずれも地球でなく宇宙産物であろう。
そう、クレーターを中心に、少しずつ環境が変えられているのだ。その変化が少しずつなのと、周辺住民が宇宙人の変な産物に慣れてしまった結果、さほど問題視されてはいないだけのだ。
おそるべし、宇宙人。
母船が去ってなおも、クレーターの底にある何かは、着々と「宇宙フォーミング」を続けているのだ。そう、そのために母船は、ここにクレーターを残していったのである。
いずれ、荏の花地区全体が、そして東京が、ニッポンが、変な宇宙環境に毒されてしまうのであろうか。
いや、どうも、そればかりというのではなさそうだ。
というのは……
最終話の季節は秋、カレンダーは9月になっている。
すでに紅葉、涼しげな風。
ちょっとまてよ?
昨今の地球温暖化、北極からもキリマンジャロからも氷が溶けてなくなるこのご時世に、『ニア』の世界の、秋の訪れは早すぎないだろうか。9月なら、まだ残暑厳しくても不思議はないはずだ。いささか唐突に、秋めいてしまった感がある。
地球の実情に合わない……というよりは、逆に、より地球らしい季節のメリハリが生まれているのである。
これも、クレーターの底に隠された「宇宙フォーミング」装置の影響でないだろうか。
その装置の機能は、「環境を宇宙人ナイズする」だけではなく、「人類が毒した地球環境を、もとに戻して本来の姿にする」ことも含まれているのだろう。
思えば、それは環境改変システムの二大要素である。「壊れた環境を修復(解毒)する」ことと、「好みの環境に作り替える」ことはセットになっているはずだ。
その結果、秋が秋らしくなり、涼しくなってきたのだ。
そしてもうひとつ、宇宙人たち自身も……
第12話で、夏の終わりの抒情歌をバックに描かれる、宇宙人の子供たちの様子に注目しよう。現代の都会の子供たちが忘れてしまった、なつかしいほど無邪気な遊びに興じる子供たちを。
かれら宇宙人の方が、よほど地球人らしいではないか!
地球に順応して生きていくために、地球のことを真摯に学び実践する宇宙人は、地球人よりもずっと地球人的なのである。
それならば……
これからずっと、未来永劫、地球に暮らしていくべき知的生命体として、ひょっとして地球人よりも、かれら宇宙人の方が、よほどふさわしいのではないのだろうか? 
『ニア』が私たちに示してくれる、最後の最大のテーマが、それである。
過去のSFアニメでは、まずお目にかかれなかった、目もくらむような壮大なテーマを、『ニア』はこともなげに呈示してくれるのだ。
第9話で不法投棄されたゴミの集積所に見るように、地球を汚し続け、いずれは地球を破滅させるであろう地球人よりも、環境にやさしいスローライフを実践している宇宙人の方を、神様は未来の地球の主人に選ぶのではないか……と。
あなたが神様なら、どっちを選ぶ?
おそらく、未来の地球に君臨すべきなのは、ヘタレな宇宙人たちであろう。
どうせ支配者に迎えるならアドルフ・ヒトラーよりも植木等ではないか。
しかし、まゆ子や、その周囲の、荏の花の人たちのように、ヘタレな宇宙人たちと折り合い、笑って許していける包容力を持ち続けることができれば……
なあに、地球人も、あながち捨てたものじゃありませんぜ……
と、この作品は語っているのだ。
 
巨大な謎、荏の花クレーター。
その下に何が埋まっているのか、筆者には知るよしもない。
謎の、巨大環境改変システム。
しかし、その名前は何となく推測できる。
「宇宙大王」であろう。
印度風宇宙人のチャダが崇めているらしい、超常の神様である(たぶん)。
さあ愚かな人類よ。どうするかね? すでに宇宙大王はご降臨あそばされた。
大王さまはこれから地球を、宇宙人の王道楽土に変えてくださる。
どうあがこうと、自然の摂理は不可逆なのだ。
そんな宇宙人の声が聞こえてこないだろうか。
と、いうことで……
そう、まぎれもなく『ニア』はエスエフなのである。
それも超弩級の、ヒトを食ったSFなのだ。
「なんちゃってSF」なんてものがあるとしたら『ニア』がまさにそうであろう。
ここまでくると、もう笑うしかあるまい。
ヘタレな宇宙人たちを馬鹿にしている間に、地球の環境は宇宙大王に支配されてしまうであろう。なまじ、人類などに任せておくよりは、その方がよほど地球にやさしい結果になるだろうが。
さあ、笑え。そして屈服しよう。
もろ手を挙げて讃えるのだ。宇宙大王を。
 
 
 
【参考】
前世紀から今世紀にかけて、特に強く心に残ったアニメを振り返ってみたい。
下にあげたのは、一度見ただけでは理解できる範囲が限られ、二度三度と繰り返し見ることで作品の背景や意図がいろいろと想像され、「空想の翼が広がる」「見えなかったものが見えてくる」「三度目で、本当の感動に胸を打たれた」という体験をさせてくれた作品だ。
 
『太陽の王子ホルスの大冒険』
手塚・虫プロ・アニメラマ三部作『千夜一夜物語、クレオパトラ、悲しみのベラドンナ』
『風の谷のナウシカ』
『無責任艦長タイラー』(特にその最終6話分)
『少女革命ウテナ』
『ニア アンダーセブン』
『アリーテ姫』
『ノワール』
『スクラップド・プリンセス』(原作でなくアニメの方)
『シムーン』
(ただし最後の二作は、絵の技術的には、少し物足りなさが残る)
 
いずれの作品も、未見の方がおられたら、ぜひお勧めしたい。ただし、わかりにくくても、あるいは、わかった気になっても我慢して、三回は繰り返しご覧になること。そういう種類の作品だと思う。
 


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