Essay
日々の雑文


 57   20090809★アニメ解題『NieA_7 ニアアンダーセブン』1
更新日時:
2009/08/10 
 
 
 
 
NieA_7
(ニア アンダーセブン)-1
 
 
 
……10年早すぎた
リアル貧乏SF
『ニア』の再評価
 
 
 
 
 
 
 
写真をクリックすると『ニア』のサイトへ。
 
 
 
 
●10年後の出会いは遅すぎた?
……やっと見た。
『ニア アンダーセブン』西暦2000年放映、全13話。
たまたま中古ボックスがお買い得だったので、一気に堪能してしまった。
いやはや、凄い作品があったものだ。
なんといっても、タイトル画面の下の、楚々とした英文キャッチが効いている。
「ドメスティック・プア・アニメーション」
ご当地貧乏漫画映画ってことか。なんとも貧相なサブタイトル。しかし……
その感動の濃厚なること、超豪華満漢全席を思わせる。わずか13話で、この美食感! 稀有の傑作ではないか。
しかし……そう、今や西暦2009年。
遅すぎたなあ。しまったなあ。どうして、もっと早く見なかったのだろう。
かつて私は『ニア』のコミックをかじり読みしたのだが、その印象はまぎれもなくギャグ漫画だった。世間の評判は「最後まで延々とヘタレなギャグが続き、そのまま終わる」というものだった。私はそれを真に受けてしまった。迂闊であった。
(コミックとアニメは相互補完している面もあるが、ストーリーは異なるので、本稿では原則としてアニメだけを取り扱うことにする)
そんなわけで、申し訳ないが、アニメの『ニア』に関しても、極めて印象が薄かった。
10年近く前の西暦2000年といえば『エヴァ』や『ビバップ』の劇場版でニッポンのアニメがSF的に盛り上がったところ。オタク文化がアキバに勃興して、「萌え」なる怪語がささやかれるようになった時分ではないか。当時、リアルタイムで『ニア』を見たとしても、今ほど感激できたかどうかは怪しい。おそらく、世をあげて怒涛のように押し寄せてきた美少女アニメの洪水に呑み込まれ、玉石混交の濁流に掻き消えていったことだろう。
事実、そうなったのではないか。『ニア』が大ヒットしたという記憶は残っていないのだ。
悲しいながら『ニア』は、なんといってもドメスティックである。プアである。
登場キャラをはじめ、作品の設定といい、ストーリーといい、ことごとく地味なのだ。酷評して申し訳ないが、一見しただけでは、個性的な作品とは言い難い。
なるほど、主人公は貧乏どころか相当な赤貧ぶりであり、それを作品の個性とみることもできる。しかしそれでも、ジブリアニメの『火垂るの墓』で描かれた、あの素寒貧地獄の底無しの惨めさにはかなわない。まゆ子たち主人公のキャラ設定や職業も非凡とはいえない。だれもがそれなりにヘタレであり、際立って美しくもなくセクシーでもなく、ほぼカッコ悪い部類に属し、“アンチ美少女”系として同年の劇場アニメ『アリーテ姫』に並ぶ貴重な作品である。銭湯という舞台設定は正直すばらしいと思うけれど、荏ノ花湯がじつは宇宙要塞だった! といったサプライズがあるわけでもない。終始、ただの銭湯しているところはやはり平凡の道を極めている。ニアのドタバタぶりは『カウボーイビバップ』のエドに似てもいるが、お下劣でもお構いなしだ。宇宙人たちが人類と生活をともにする風景もそう珍しいわけではなく、『超時空要塞マクロス』にたっぷり描かれていた。海に突き刺さった巨大母船云々という設定も、その視覚的驚愕は『プロジェクトA子』のそれを超えるほどではない。昭和30年代を思わせる荏の花の街並みも、ニアとまゆ子が繰り広げるギャグの数々も、どこかのアニメで見たような感じである。洋食店「かるちぇ」の隣にじゃりん子チエのホルモン屋があっても違和感はないだろう。日々のストーリーの淡々とした流れは、後年の『電脳コイル』に先んじたと言えるが、そのことが偉業といえるわけではない。
皮肉なことに『ニア』は、むしろその「個性なき平凡さ」において、あまたあるニッポンのアニメの筆頭に位置するのであろう。
しかし、にもかかわらず……!
『ニア』は魂を揺さぶる感動を残す。
だから、凄いのである。
「個性なき平凡」の集合体であるはずなのに、なんと個性たっぷりで非凡な傑作に仕上がっていることか!
ということは、『ニア』のこの徹底した個性のなさ、平凡さは、作者が意図して構築し、観客へ仕掛けた、巧みな演出ということなのだ。
 
この作品に描かれているのは、誰にでも体験可能であるように思わせながら、実はそうはいかない、“この上なく貴重にして素晴らしき日常”なのである。「路傍の石よりもありふれた日々の出来事に、ここまで純粋な宝石の輝きを描き込めた」という点において、『ニア』は珠玉の傑作に結実したと断言したいのだ。
 
●懐かしき芳醇
『ニア』は放映後10年近く過ぎた今だからこそ、傑作の輝きを放つ。なぜならば、オンエアされた時代においては、残念至極なことであるが、『ニア』は評価されえなかったからだ。あのころ、『ニア』のように平凡な日常にドラマチックを見出してきた日本アニメの『世界名作劇場』は視聴率がかなわず滅びた後だったし、海のかなたから『ハリー・ポッター』の異常なほど脳天気な衝撃が黒船の如く上陸して、SFを駆逐してしまった。それに加えて2001年には米国同時多発テロで、崩れゆくワールド・トレード・センターと炎上するペンタゴンが、私たちを一気に非現実・非日常の狂気へ引きずり込んでしまった。その一方で世界は富み、一攫千金に浮かれていた。ITバブルが膨らみ、ライブドアのホリエモンが一世を風靡する。
空想科学なんか何の役に立つのか、と現実がSFをコケにする。大金を右から左に動かすだけでボロ儲け。それが正義だとする、そんな時代だ。
ドメスティック・プアを標榜する『ニア』の作風は、今となっては幻のIT景気に踊っていた10年前の経済感覚では、到底受け入れられるセンスがなかったのだ。私たちは未来の豊かさを信じ、貧乏をボンビーと呼んでシャレの一部にあしらってしまった。今はボンビーでも、十年たてばホリエモンさ……と。
それから10年を経ようとする今……
私たちは、テロのニュースに慣れ、ハリポタにも慣れ、美少女アニメもすっかり見飽きてしまった。そうこうするうちに、身近な現実社会に蔓延したのは豊かさではなく、貧困だった。良くも悪くも、子ブッシュと忠犬コイズミの政権は、この10年で、豊かなはずの21世紀を19世紀並みの格差社会に貶めてしまった。見回せば周囲は非正規雇用者ばかりだ。ホームレスやネットカフェ難民は日常風景。年金は本質的に破綻してしまった。私たちの生活はここ数年でリアル債務奴隷、リアル女工哀史、リアル蟹工船に転落させられたのだ。良くてもせいぜいチャップリンの『モダン・タイムス』か、ミュージカル『オリバー!』に舞い戻ったというべきか。
したがって、ドメスティック・プアを標榜する『ニア』の作風は、もはやシャレではなくなった。それが、ここ10年の根本的な変化だ。主人公まゆ子の赤貧生活は、非現実ではなく、私たちが生きているリアルそのものに変貌してしまったのだ。
だから2009年の今になればこそ、『ニア』は単なるギャグアニメではなく、切々としたシリアスさで胸にせまってくる。ようやく、そのまったりとした深い味わいが、いぶし銀の輝きを放ちはじめたといえるだろう。
昨今耳にする『貝柱のうた』に滔々と歌いあげられる貝柱の具のように、ひたすら地味でひたむきな作風が、放映後10年近くを経た『ニア』に、まさにヴィンテージの古酒の如く、極上の感動を熟成してくれた。そう考えたいのだ。毎週のように大量生産される美少女アニメの味がファストフードや合成保存料をまぶしたスイーツならば、『ニア』の味わいは母の味噌汁であり、夏の盛り、裏の畑でもぎたての完熟トマトにさっと塩をふってかぶりつく、あの懐かしき芳醇ではないだろうか。
今こそ語り合おう。『ニア』の魅力の奥深さを。
 
● ナンセンス・オブ・ワンダー
頭のアンテナと耳がスポックであることを除けば、フツーの人類となんら変わらない宇宙人たち。かれらが巨大UFO、通称「母船」でニッポンへやってきて、たちまち社会環境に適応して十数年……
気がつけば、押入れに一匹の宇宙人が住みついて、いつのまにか居候している。
「“変”で当たり前の世の中なのです」とまゆ子がぼやく現実である。
詳細は、『ニア』の公式サイトを見ていただくとして、まず観客の私たちは、第1話ののっけから、登場する宇宙人たちの平平凡凡ぶりにガックリさせられる。荏の花のクレーターの底、バラック集落に住むアンダー宇宙人の子供たちなど、現代の難民キャンプの地球人たちと、どこが違うというのだ? アンテナ無しをからかわれたニアが最終話で反撃する言葉は「この欠食児童が!」である。
『ニア』のしばらく後に大ブレイクする涼宮ハルヒ嬢がこの光景を見たら、あまりの幻滅に、本物宇宙人たちをしっしっと追い払ったりするのではないだろうか? 「この教室に宇宙人がいたら、私のところへ来なさい」なんて言ったら、ハーイとばかりに十人二十人がぞろぞろ寄ってくるという世界なのだ。え? もう、それだけで『ニア』の傑作ぶりに合点だね。そうでしょう?
学園のクラスメイトに潜んでいる(らしい)宇宙人や未来人や超能力者が引き起こすドタバタ超現象を描いて、いわば「日常の超常化」をテーマにしているのが『ハルヒ』なら、そのテーマを一足飛びにブッちぎり、「いかなる超常も日常の一部でしかない」と悟りすら開いて、「超常の日常化」をテーマにしてしまったのが『ニア』である。
『ハルヒ』の場合、フツーの人類に化けた宇宙人たちがしでかす超常現象に驚きがともなう。サプライズありきであって、びっくりどっきりのセンス・オブ・ワンダーがそこにはある。
しかし『ニア』の場合、変にしか見えない宇宙人がしでかすいかなる変な出来事も、ただひたすらフツーの日常の一部であり、驚く価値は微塵もないのである。そこにあるのはナンセンス・オブ・ワンダー。SFの代表格である宇宙人が、ちーっともSFにならないという、まことに凄っごい世界なのだ。
その意味で、『ニア』は、『ハルヒ』の次元をはるかに超えて、あらゆるSFをブッちぎった超SFアニメなのだと申し上げたいのである。
 
●UFOに始まり、UFOに終わる謎
とはいいながらも、『ニア』の世界の宇宙人たちが、フツーの人類を超えた能力を披瀝し、私たちを大いに驚かせてくれる場面がある。言うまでも無くUFOの製作だ。
にしても、本物のUFOですら、まゆ子から見たらガラクタにすぎず、「邪魔」と蹴っ飛ばされるのが関の山……という第1話のシーン、大好きだなあ。この「邪魔」の一言で、貧乏金欠予備校生でしかない地球少女が、あの『謎の円盤UFO』や『宇宙戦争』『未知との遭遇』『E.T.』『インデペンデンス・デイ』といった歴史的UFO有名作を一発でスリッパの下のゴキブリみたいにぺっちゃんこにしてしまったのだ。
まゆ子たちの“日常”の超スケールぶり、ルーカスもスピルバーグも真っ青になるしかないのでは?
しかし悲しいことに、ニアたち宇宙人の中でも、UFOを手作りできる者は限られるようだ。ちあ紀の家ではガレージにUFOを何台か所有しているから、UFOを作れる宇宙人は複数いるのだが、少なくとも作中ではっきりと自作しているのはニアだけである。アンダーと蔑まれる上に、頭のアンテナなしというハンデを背負ったニアなのだが、ことUFOを作っているときのイキイキぶりは言うこと無しだ。
ということで、『ニア』の作品中では、UFOが独特の意味を持つギミックとして活躍することになる。そう、ただのおちゃらけメカではないのだ。その意味というのは……
自由への脱出装置である。
第1話で早速まゆ子の部屋の屋根をブチ抜いてしまったニアのUFO。以降、全編にわたってニアが迷惑者扱いされる最大の原因となるのだが、しかし注目したい。第1話で屋根をブチ抜いて飛びあがった瞬間の、あの場面のすばらしさ、屋根の上で回転するUFOに渦巻くオーラのパワフルなこと。得意満面のニア、その高笑いを。
貧乏でひもじい日々、プラス5からアンダー5まで差別化された階級社会で、さらにその下のアンダー7にはじき出されたニアにとって、自作のUFOで浮揚するそのときこそ、大空を飛ぶ鳥たちのように、のびのびとした自由を手に入れた瞬間ではないだろうか。
あえて、「屋根をブチ抜く」という演出が加えられていることも注意しておきたい。ニアの頭上にかぶさる抑圧の日常を屋根にたとえてUFOで穴をあけ、その結果「風通しがいい」とまゆ子に言わせている。すなわちUFOは、いわれなき差別からの自由を求めてやまないニアが、思いきり自由になれる大空もしくは大宇宙へとブッ飛んでいくための脱出メカとして、意味づけられているのだ。
そんなわけで、ニアが開けてしまった屋根の穴は、シートをかぶせて応急処置されたものの、ほぼ全編にわたって、まゆ子の部屋の天井に存在し続けてしまう。まゆ子はなんと一夏を、穴つきの屋根の下で過ごしてしまうのだ。寝るたびに見上げる天井は、ブルーシートの雨漏り屋根。
なぜだろう。ここは、そのような演出意図があると考えたい。
屋根に穴が開いていることは、ニアのUFOが飛び立った痕跡である。社会の抑圧から自由になろうと飛びあがる、ニアの挑戦的な意志を象徴している。したがって屋根の穴は、自由への希望を象徴する作品中のアイコンなのだ。それは自由を求めてもがくニアの戦いの証拠であり、いわば自己存在のマーキングである。だから部屋にニアがいなくても、ニアの存在を、まゆ子は「頭上の穴」によって感じ続けることになる。そしてこの「屋根の穴」こそ、ニアがこの世界に生きていることを示す唯一最大の痕跡なのだ。逆にいえば、役所の記録にすら残らぬニアの存在証明は、この穴ひとつしかないのである。
したがって、屋根の穴が修理され塞がれてしまうことは、ニアの存在証明が作品世界から失われてしまうことにつながる。穴がなくなったとき、ニアは荏ノ花湯にいたのかどうかすら、わからなくなってしまうのだ。第10話でニアが姿を消したとき、そのことを気にかけてくれたのは、まゆ子ひとりだけだったのだから。
しかし心配ご無用。ニアは最終回に再び飛び立って、まゆ子の部屋の屋根に再びしっかりと穴をあけてくれる。それが物語の最終シーンそのものであることにも注目したい。常に自由人であろうとするニアの挑戦、いや不屈の奇行に、終りはないのである。
UFOは、ただのフライングオブジェクトではない。社会の束縛を引きちぎり、ニアを心の自由、心の独立へといざなう脱出マシンなのだ。
 
●宇宙人社会と母船の謎
そうなると、否応も無く気にかかってくるのが、おそらく東京湾に突き刺さったまま「壊れている」とされるUFOの親玉、「母船」の存在である。
二十年近く前に、無数の宇宙人を乗せてきた、山のような巨大UFO。とはいえ、それだけ存在感があるにもかかわらず、ニッポンに暮らす宇宙人たちは、母船の存在をほとんど意識していない。
なんと、もったいない。母船が「壊れている」といっても、そのテクノロジーが一部でも使えれば、それだけで、こんなヘタレな地球など、たちどころに征服できるではないか。
しかし宇宙人たちはイラクへ攻め込んだアメリカ軍、もとい、チェチェンへ攻め込んだ○○○軍、チベットを占領した○○軍みたいにふるまうことなく、ただもう控えめにニッポン社会に恭順し、貧しきスローライフに甘んじて、ニッポンのお役所が勝手に決めたプラスからアンダーまでの差別基準にすら従っている。なかんずく、勝手に押し付けられた差別基準を信じて、宇宙人同士すら偏見や嫉妬に苦しむという始末だ。この順応ぶりの徹底していること。
なぜ、そんなに地球社会を尊重するのかわからない。宇宙人たちが民族自決を求めて反乱を起こせば、ニッポン政府など簡単に転覆できそうなのだが。
しかし、そうはならない。
宇宙人が、かれらを蔑視する人類社会になぜ反旗を翻さないのか、それはこの作品最大の謎である。おそらくそこに、この作品の最大のテーマが隠されていることも確かなのだが……。
かたや、ニッポンのお役所からみて、宇宙人たちは不気味そのものであろう。プラスからアンダーまでの階級を押し付けられても、文句ひとつ言わずに、唯々諾々と従う異星人たち。
しかも、かれらを連れてきた「母船」は未知のオーバーテクノロジーを秘めたまま、いかなる調査や探索も拒絶し、ただ大きな謎のまま存在している。この謎が正体を現して、人類にとって脅威となれば、まさに地球の破滅ではないか。
お役所は戦々恐々として、宇宙人の動向を見守り、そしてプラスからアンダーまでの階級制度を事実上強制することで、宇宙人たちの「管理」すなわち「無害化」をじわじわと進めていったのであろう。異民族の人口集団を手なづけて支配する手段として、その集団内に上下格差を生みださせて、内部で嫉妬と偏見のいがみあいが続くようにしむける政策はしばしば見られる。階級の上位に立った宇宙人を優遇し、階級の低い宇宙人を冷遇する。そうすれば宇宙人社会の内部抗争が継続し、宇宙人が意思を統一して人類に歯向かうことはなくなる。
このような支配テクニックは、企業内でも、経営層が従業員を支配するために、正社員と派遣やパート社員を対立させ、その意志を分断させて労使対立をなしくずしにする経営手法に見られる。歴史的には、かつて大国に軍事力で支配された植民地や少数民族の自治区域で多用されたと考えられる。宇宙人の中に、インドや中国のスタイルを模したキャラクターが登場していることは象徴的だ。インドにはカースト制があり、中国には、チベットやウイグル等少数民族自治の問題があり、両国とも、国内の深刻な貧富格差の問題を抱えている。それは、物語中で宇宙人が置かれている立場を、ある意味コミカルに逆転写したと考えることもできるのではないか。
また、インドも中国も人口大国ゆえ、他国への事実上の移民が多い。中国人は華僑、またインド人はIT関係の技術者や経営者として、もはや無国籍の世界人と化している人が多い。地球へ移民してきた宇宙人が、中国人やインド人に学んで模倣するのは自然ななりゆきだろう。
しかし、プラスやアンダーの階級格差を押し付けられる政策の過程で、お役所の管理に服さず、はみ出して自由に行動する宇宙人も出てくるはずだ。そういう反抗分子はまず「アンダー」に選別され、さらにそこからもはみ出して階級分類からはじき出された厄介者に、アンダーセブンのニアが含まれているのだろう。
そのような状況を踏まえると、作品では表面的にわかりにくいが、宇宙人にとって、母船の存在には、とても大きな意味があったはずだ。
母船が未知のパワーを秘めてそこにあり続けることは、宇宙人からすれば、人類が不当な迫害を加えてきたときに行使できる、軍事的報復力を担保していることになる。人類の側から、度を越した迫害を宇宙人に加えれば、ひょっとして謎の母船がとてつもない破壊力を剥きだして、人類に戦争を挑んでくるかもしれない。これは怖い。国が滅ぶリスクすら内包しているのだ。だから宇宙人たちは地球上陸後、人類から抑圧されても、絶滅を免れてきたといえる。
もうひとつ、「壊れている」とはいえ、母船がそこにあることは、修理して航行力を復旧できれば、地上に拡散した宇宙人たちを乗せて、再び宇宙へ帰っていく可能性が残されていることになる。したがってお役所としては、母船がある限り、宇宙人は「一時滞在者」であって、「永住者」として認めない方針を貫いてきたものと思われる。これは、海外紛争国からの亡命者に対する日本政府の対応に通じる面もあって、なかなか興味深い。
いずれ宇宙へ帰るかもしれない一時滞在者である以上、宇宙人はお役所にとって「お荷物だが、お客さん」なのである。そこで、宇宙人の職業選択や居住地の自由を制限し、地球人との婚姻を禁じたりするかわりに、税金を減免し、法の適用を緩やかにし、生活維持のための最低限の援助を施していたのだろう。
具体的には、宇宙人の居留地を荏の花クレーター地区周辺とか、その他特定の地域に限定する。宇宙人は原則的に税金の免除を認め、それゆえにかれらの居住地域には公的投資が行なわれず、都市開発から置き去りにされる。その証拠に、第8話冒頭で新聞配達の自転車に乗ったまゆ子が転んだ道の両側に、開発途中のまま放置された宅地が広がっているとか、第9話ではジャンク屋のすぐ近くまで高速道路の高架らしきものが伸びていて、工事が中止されたらしい形跡が見られる。そのかわり、やばい葉っぱを扱ったチャダが起訴猶予(たぶん)になって、罪を免じられることがある。また、貧しいアンダー宇宙人はバス代20円引きといった、なんだか形ばかりの“優遇”策が実施され、いちおう建前的に“人権”が尊重されているらしい。そういったことが作品の描写から推察される。
それらの状況は、宇宙人が政治的に「一時滞在者」とみなされていることを物語っているようだ。
しかし結局、母船は消えさることになる。
それには、物語上、どのような意味があったのだろう。
 
●嵐と母船の謎
第12話、母船は消滅する。このシーンこそ、『ニア』の物語のクライマックスであることは論を待たない。母船が消えたとみるか、飛び去ったとみるかは異論のあるところだろうが、最後にニアが「さよなら、またね」とつぶやくところから、破壊による消滅ではなく、「どこかへいってしまった(戻ってくる可能性を否定しない旅立ち)」と考えたい。猛烈な嵐の中、監視カメラの映像が乱れた隙に、母船は妖精の魔法でもかけられたように消えてしまう。もちろん、嵐が偶然やってきて、たまたまカメラが偶然トラブったのではないはずだ。母船が旅立っていく現象そのものに、嵐が付属していたと考えるべきだろう。第1話のラストで飛び立つ、ニアが作った一人乗りUFOですら、あれだけ激しい回転斥力を放っていたのである。母船が飛び立つとしたら、船体のエンジン始動にともなって生じた回転斥力が激しい低気圧を発生し、台風なみの暴風雨を出現させるのがむしろ当然であろう。この場合、母船は低気圧の中心にあって、台風の眼に位置することになる。
あれはただの嵐ではない。母船が消えるその瞬間を目撃するまゆ子たちは、巨大UFOがテイク・オフする際の発進爆風を身に受けていたのだ。だから母船消滅後、たちまち風雨がおさまったことに納得できるのである。
母船が消えるのは数秒間の出来事でも、そのための発進プロセスは数時間がかりであっても不思議はない。画面を見てわかる風向きは、雨が降り始めたころは母船を中心に左巻き、母船消滅寸前の最も風が強いときには右巻きに変わっている。これは、円盤を浮揚させるエンジンである回転盤(ソーサー)に起因する。回転盤が一枚だと、そのトルクによって母船本体が逆方向に回転してしまうため、回転盤を上下二枚重ねにし、二重反転プロペラのように逆回転させる仕組みになっているからだろう。円盤の上空に向けては重力を消しさるので低気圧となり、円盤の下、地面方向に向けては斥力を“噴射”する形になるので高気圧になる。その際、発生する気流の向きは逆になるというわけだ。それがあまりに巨大なシステムであるため台風同様の暴風を呼び、かつ、母船が飛び立つプロセスの途中で風向きが逆になるのである……と解釈したい。
これが母船発進の影響でなく、たまたま本物の台風が来ていたのだと想定しても、台風の進行によってと風向きが変わるので、起こる現象に矛盾はない。しかしやはり母船とて空飛ぶ円盤の一種である。ここは熱きファンなれば、母船の超巨大アダムスキー型シルエットに敬意を表して、発進爆風説をとろうではないか。
この母船発進は、ニッポンのお役所には事前に予想されていだのだろう。母船発進の爆風は、TVの「台風情報」で普通の台風に偽装されていた。何もかも隠したがるお役所体質というべきだろうが、発進爆風によって周辺家屋にも相当な被害が予想されたから、その責任を台風のせいにして回避する目的があったと思われる。
 
●宇宙人社会の激動
その一方、じつは、母船の消滅に前後して、宇宙人社会と地球人社会の関係に、微妙な変化が現れている。
まず、第12話と最終話にかけて、荏の花クレーター地区にみられる、宇宙人の子供たちが増えている。第1話でニアをからかう宇宙人の子供たちに比べると、かなり賑やかになった印象であり、また、荏の花の町中にも宇宙人の子供たちが入り込んできた様子が、第12話でアイスを買って帰る「かるちぇ」の父娘が振り向いたときの表情から見て取れる。
最終話で、荏ノ花湯の言実さんは銭湯の営業収支がとんとんになったことを喜んでいるが、それは企画風呂がヒットしたからではないだろう。第5話で図らずもまゆ子が答えた「家にお風呂がないから……」という、銭湯の存在意義が数字に表れたのだ。宇宙人の子供が増えたことは、宇宙人の世帯数が増加したこと。すなわち荏ノ花地区に住む、お風呂のない貧しい宇宙人が数的に増加し、銭湯に通う宇宙人が増えたのであろうと推測される。
そう、宇宙人は着々と繁殖し、地球移民後の第二世代が育っているのだ。
この事実に直面したお役所は、宇宙人たちに問い詰めたはずである。
「いい加減にして、宇宙へ帰る気はないのか?」と。
どのような形で、誰が宇宙人の将来について回答したのか、それはわからないが、お役所が得た回答は、「宇宙人は永住を望む。その証拠に、まもなく母船は飛び去っていく」ということだったのだろう。
その回答は、母船そのものから発信されたのかもしれない。「サヨナラ」のメッセージは、人類側にも受信され、解読されて、お役所に伝えられた可能性もある。
にしても、行政にとっては大変なことだ。
宇宙人はこの国に永住し、しかも繁殖を続けていく。母船が去ることで、宇宙人の軍事的脅威はなくなるが、だからといって、無力化した宇宙人たちを、いまさら虐殺し、絶滅させるようなことはできない。
そう覚悟するしかなくなったお役所が取りうる施策は、限られている。
「人類との同化政策」だ。宇宙人が人類社会に浸透し、日常風景に溶け込んでいくことを奨励(事実上の強制)する一方で、宇宙人に対する保護政策を撤廃する。宇宙人に投票権を与えるかわりに納税義務のほか法律の適用を強化したであろうし、貧しいアンダー宇宙人に対するスズメの涙型援助として実施していた「バス代20円引き」が9月から廃止されるのも、この同化政策の結果だろう。
このような政策変更が生じたもうひとつの要因は、総選挙だ。第9話でまゆ子が「かるちぇ」の主人に渡した毎朝新聞の見出しはこうなっている。
「又、総選挙へ 景気対策争点 13日公示25日投票」
8月のことと思われる。なんだかこの2009年夏の衆院選とそっくりだ。不況に明け暮れる今年を予言したかのような作品である。ともあれ毎朝新聞で争点とされている景気対策の中に、宇宙人居留地である荏の花において現在ストップしている都市開発の再開が公約(あるいは政治的密約)されていたのではないだろうか。何しろここ十数年、開発がストップし、したがって地価が下落したまま、首都圏のすぐそばに塩漬け状態で横たわる広大な未開発地域である。開発を始めれば確実に莫大な利益を生み、雇用推進もまかなえる公共事業の目玉となっていたに違いない。
8月25日の総選挙後、誕生した新政権は、まもなく宇宙人居留地の開発制限の撤廃に踏み切るはずだ。そうなると一夜にして荏の花地区全域の地価が跳ね上がると見込まれる。すでに荏の花地区は地上げの対象となった。値上がり確実な土地を買い占めるために動き始めた地上げ屋の触手が、荏ノ花湯にも及んできたと考えられる。荏ノ花湯の買収話は唐突に発生したのでなく、宇宙人すらバブル経済に利用する人間たちの欲望が、背景に影を落としているのだ。
その一方、宇宙人たちの間にも、カーナのように宇宙人の地位向上をめざすグループがあり、はからずも地上げに加担する結果となることだろう。
おそらく数ヵ月後、荏の花地区は、開発推進派と環境保護派に分かれて、人類同士、宇宙人同士が対立することになるはずだ。
そのような時代のうねりが、平和な荏の花を翻弄しようとしている。
どのような理由かわからないが、嵐を巻いて母船は去った。残された宇宙人、とりわけアンダーのニアたちに残されたのは、ひたすら地球人にすがって生きるしかない、いばらの道であろうか。
母船が消えてしまっても、誰もうろたえず、変化らしいものは目に見えてこないものの、宇宙人の政治的立場は激動の時代を迎えつつあるのだ。
そこまで考えさせてくれる『ニア』、まったく凄い作品である。
 
●ニアと母船の謎
さて、忘れてはならないのは、ニアと母船の関係である。
ニアは母船から呼ばれていたようだ。早くも第3話から、レディオノイズの形で母船の呼び声らしきものを受信している。『ニア』の物語の大半に「母船の存在とその消滅」という、巨大な伏線が敷かれていると考えていいだろう。
まず、第10話で姿を消したニアは、どうやって母船へ行ったのだろうか。
第1話でニアは自作のUFOを評して、「これで母船までひとっ飛び」などと言う。
手作りUFOはまた、母船へダイレクトに到達することのできる、おそらく唯一の交通手段であると思われる。人類のさまざまな調査や探索をはねのけるバリアを抜けて、母船本体へ至る能力を、おそらく手作りUFOは持っているはずだ。
考えてみれば、ニアがスクラップで組み立てるUFOは、ただのフライングオブジェクトではない。すごいのだ。動力源はヒミツであるが、第1話のUFOは百ボルトの家庭用電源で飛び、最終話のUFOは、ネズミにトレッドミルを回させて自家発電している。せいぜい1.5ボルトの乾電池なみの電源で飛揚しているのだ。飛躍的に改良されているのである。
おそらく電源そのもののエネルギーではなく、超わずかな電力でもって、異次元の並行世界から、次元の落差でも利用して巨大エネルギーを導いているのだろう。と、まあ、深く考えるのはよすとして、ニアが飄々と操っているオーバーテクノロジーの凄さに注目したい。
この技術があれば、壊れている母船を修理できるではないか!
だから、ニアはそのために、母船に呼ばれたのではないか、そう思うのだ。
他のアンテナつきの宇宙人には母船への召喚メッセージが受信できず、ニア、そしておそらく他にも何人かのニアと同種の宇宙人だけに受信できたのだろう。それには理由があったはずだ。
おそらくそれは、ニアがもともと、システム的に母船そのものの一部だったからではないだろうか。船の乗客ではなく、船を操縦する側の一員だったのだと。普通の宇宙人たちは一般船客で、ニアは機関士だった。そう解釈すれば、わかりやすいと思う。だから……
消えゆく母船を見送るニアの言葉、「さよなら、またね」には、限りない哀切が漂う。
船乗りは、その家であり母でもある愛すべき船に、永遠の別れを告げたのだ。
ボン・ボワイヤージュ……と。
 


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