Essay
日々の雑文


 53   20090102●雑感『謹賀新年2009』
更新日時:
2009/01/03 
 
 
 
 
謹賀新年2009
 
 
 
 
 
 
 
 
●よい年になりますように
 
今年の初詣は、元旦の0時すぎ。近所の神社へ家族みんなで出掛けました。
現在の家に越してきて初めての、定刻初詣でした。たいてい、元旦の午後か、でなければ旅行していて、行かなかったりしましたから。
詣って驚き。メジャーな大社でもない、ごく普通のお宮なのに、拝殿から数十メートルもの列ができていて、大繁盛。神頼みしたい人はそんなにいたのか……。
後ろに列が延びているので、のんびり考えて拝むわけにはいかず、願い事は四字熟語にまとめて「家内健康、出版成就」。そそくさと帰りましたが、いつもは二十分くらいで帰れたものが、混んでいたためか一時間以上かかりました。
 
この神社でひくおみくじが、毎年の私の運勢を左右すると勝手に信じています。
結果は大吉。やれやれ、今年こそは人生、攻勢に転じたいものです。思い返せばこの三年近く、カイシャ関係のつまらぬことが原因で無駄足を踏み、空転を余儀なくされてしまいました。さすがにこの一年はひとつひとつ障害を排除して積極的な戦いに転じ、ようやく公私ともに方向性が定まってきたところです。
 
具体的なことは避けますが、真珠湾で日本軍に不意打ちをくらって主力戦艦部隊を壊滅させられてしまった米国海軍が、そのため旧来の戦略を捨てて、空母中心の機動部隊へと発想を転換させたようなものです。ようやく、空母を効率的に守る輪型陣や、日本軍の零戦に対抗できる艦載機を備えて、反撃すべき戦場をガダルカナルに定めたといった、そんな気分ですね。
 
ひとつのテーマとして、「何を書きたいのか」という自問がありました。SFだろうがライトノベルだろうが、思いつくアイデアはすべて書き尽くされていて、書きたい思いはあっても途方に暮れる感があります。
しかし少し考えてみると、すでに巨匠の大作が発表されていて、「何をいまさら」とためらってしまう分野にも、意外にまだ書かれていない処女地が残されていることに気付かされます。
 
●たぶん、今年のテーマとなるもの三つ
 
まず、ガンダム。ファーストから三十周年を迎えた今年に至って、あの分野は何を書いても二番煎じに見えます。しかし、作品の大きな舞台となっているスペースコロニー、その内部で暴れまくるザクやガンダムの足下で逃げ惑っていた普通の人々の日常生活は、じつはほとんど描かれていないのです。例えば、建造後百年近くを経て老朽化しつつあるコロニーの人々の生活が、地球上の生活のそっくりコピーのままであるとは思えません。そこに、いまだ触れられていない冒険の世界があるはずなのです。
 
次に、ハリー・ポッター。いまさらどんな魔法物を書いても、あれにはかなわないと思われがちですが、しかしあの作品に描かれているのは、魔法の学園の中だけと言ってもよいでしょう。ハリーたちの世界の、諸外国の魔法使いたちや、国際情勢の渦中での魔法使いの在り方や、世界史の中での魔法使いの役割は描かれていません。あくまで「人間の社会に関与しない」範囲に限定して書かれているのです。裏返せば、人間たちの政治や歴史に積極的に干渉していく魔法使いや魔女たちの冒険と苦悩が、次なるテーマとして浮上することは明らかでしょう。
 
そして、いわゆる「宮崎アニメ」作品です。今にしてみれば大変奇妙なことなのですが、「未来少年コナン」から三十年、いや、「太陽の王子ホルスの大冒険」から四十年を越えたにもかかわらず、私自身、ファンとしていつかいつかと期待していた分野が手付かずのままになっています。それは、空を飛ぶ少女の物語。ナウシカのような戦闘機メカではなく、キキのような魔法によるものでもなく、おそらく宮崎監督が最も愛好されてきた大戦前のプロペラ機によって大空を駆ける少女の冒険物語です。「アリソン」や「スカイ・クロラ」にも飛行少女は登場しますが、それは戦争のプロ、軍人でした。そうではなく、民間の「戦わない」飛行機に乗客を乗せ、平和を祈って空を飛ぶごく普通の少女(「ラストエグザイル」はやや近いのですが)という王道の設定は未だに描かれていないのです。
 
当面、以上の三点が取り組むべきテーマになると思っています。
 
●図書館戦争は「図書館戦争」を守ること?
 
さて逆に、現代の作品で、過去の同分野の作品をどのように乗り越えているのか気になるものがあります。「図書館戦争」。アニメを少し見ただけなので理解不十分ではありますが、好きな本を守るために戦闘服で銃を振りかざす少女……という構図に、個人的には、なんとも形容しがたい息苦しさも感じるのです。
 
というのは、同じテーマでレイ・ブラッドベリ作の「華氏451」があるわけでして、その結末のなんと美しいこと。たとえ本が焼かれようとも、作者と読者のタマシイはこのように残り伝わるのだ……という永遠性すら漂って、切なくも幸せな気持ちにさせてくれます。本当に涙ぐむほどすばらしいエンディングなのです。
武器でもって芸術は守られるべきか……というテーマでは、バート・ランカスター主演の映画「大列車作戦」という、これも感涙ものの傑作があります。第二次大戦にて、負けが込んできたドイツ軍が、占領していたパリから美術館の高名な名画をごっそりとドイツへ奪っていこうとする。それを阻止するために生命の犠牲もいとわずに戦うレジスタンスの奮闘を描く……という筋ですが、そのラストシーンの凄いこと。名画を収めた木箱が延々も横たわる脇で、犠牲となった人々の遺体が累々と横たわる様子が映されていきます。フランスの誇る芸術を守るために戦ったレジスタンスの英雄的な姿とともに、「それでも、こうまでして守るべきだったのか?」という疑問符はきちんと押さえられている。決して英雄賛美だけに終始していないところに、この映画の重厚さがあります。かれらが守ったのは、巨匠のだれそれが描いた一枚の絵ではない。かれら自身の、生きる人間としてのプライドだったのではないか? というメッセージを感じさせられるのです。
 
すでに半世紀近くの昔にそのような傑作があるだけに、図書館戦争の「武力を行使してまで守らなくてはならない本」とはいったい何なのか、そう考えると、私にはどうにも理解できかねてしまうのです。実は、この疑問がそのまま「図書館戦争」という本そのものにかかってくるところに、皮肉の極致ともいうべき構図があり、それが心に引っ掛かるのだと思います。
そう、この世に本が何兆冊あれど、図書隊員たちが必死で守る最も大切な一冊の本があるとすれば、それは何でしょうか? ……作品の中には登場していないかもしれませんが、お話の性質上、それはこの「図書館戦争」という本に他ならないことになりますね。この本を守らなくては、図書隊の存在意義を否定することになってしまいますから。見方を変えれば、「図書館戦争」に描かれている戦いの本質は、図書館戦争を描いた「図書館戦争」という本を守るための図書館戦争なのではないか、ということです。
図書館戦争を戦う主人公たちの正義は、突き詰めると「図書館戦争」という本に起拠していることになり、それは言い換えると、戦争を正当化するために戦争をするような現象に重なってきます。手段であるはずの戦争の目的化ですね(子ブッシュ大統領のイラク侵攻も一例でしょう)。図書館戦争を賛美するための図書館戦争というものが成立するのかもしれません。善し悪しは別として、このような、ある種の「自己賛美の二重構造」を内包してしまうところに、この作品の矛盾と巧みさがあるといえるのでしょう。私個人としては、そこに素直にうなずけない不自然さを感じてしまうのを否めないのですが……
 
●「リアル三丁目の夕日」にハマった昨年
 
さて、昨年のDVDの収穫は、まずケネス・ブラナー監督主演の『ハムレット』。十年あまり待ちに待ったDVD化でした。ハムレットなんかSFに関係ないと思われるかもしれませんが、そもそもSFの神髄である「夢と現実」の接点を見事なレトリックで語ったのがシェイクスピアの偉業ですね。「この世はすべて舞台」といった名セリフにあるとおり、非現実の芝居と現実の出来事の境界に橋を渡すテーマばかりです。大体、「生きるべきか死ぬべきか」を問題にできる作品なんて、SFがぴったりではありませんか。
それからアニメでは『少女革命ウテナ』のリマスターBOXが発売されたこと。この名作の、発想の自由奔放さは、いまどきのチマチマしたCGアニメでは絶対にかなわないでしょう。
さらに、『カウボーイビバップ』のリマスターBOX。まだいいかとたかをくくっていると、たちまち品切れ。あわてて中古を購入したのですが、リマスターであろうがなかろうが、やっぱりいいものはいい……(TV最終話の「Session ××」が入ってなかったのは残念。あのビデオは宝物なのです)。この作品のキモは、出会いだけでなく、別れをきちんと描いていること。人生、得ることよりも失うことの方が多いのでは。何を、どのように失うのか。それでも人は生きなくてはならないのか。そんな「失う美学」を毎回切なく謳いあげてくれたところが、傑作たるゆえんでしょう。
 
で、かなりマイブームだったのは「昭和30年代を描いた、昭和30年代の日本映画」。「オールウェイズ三丁目の夕日」がヒットしたのは記憶に新しいところですが、それはいわば、21世紀に再現されたノスタルジーの世界であり、一種の映像テーマパークだったわけです。当時のいい思い出パビリオンってところですね。
そうではなく、本当に当時に作られた当時を描いた作品はどうだったのか。それが昨年の私の趣味的テーマになりました。
いわば「リアル三丁目の夕日」を探る旅。
これにしっかりハマってしまいました。見はじめると凄いのなんの。
なんのかんのいっても、やはりホンモノの迫力。登場する長屋も卓袱台も裸電球も本物だし、セーラー服もトレパンも牛乳壜ももちろん本物。これはもう、半世紀近くの昔にタイムトリップしたのと同じ気分。まるで異世界探険なのです。
携帯もゲームもパソコンもない世界。TVすら白黒で、置いてない家も多い。電話だってそう。人と人のやりとりは、直接に顔をつきあわせるか、手書きの手紙なのだ。こんなセカイの恋愛って、どうなるんだ?
筆頭はやはり吉永小百合の「キューポラのある街」(昭和37)
今見ても全然退屈しないことに驚き。貧しく暗い話のようで、主人公たちの生きるエネルギーのまっすぐなこと。不況の今こそ、この作品が再評価されるべきだと思います。「蟹工船」の次は「キューポラのある街」を見るべし。組合がちゃんと労働者を助けているぞ!
次に今村昌平監督の「豚と軍艦」(昭和36)
“重喜劇”と銘打たれた理由は、見ればわかるというもの。悪いことをしてでも人が生きることの愚かさ、その馬鹿馬鹿しさを笑い飛ばしながらも「人間って本当にどうしようもないけれど、どうにかしようとして生きていくんだなあ」と、微笑ましい感慨すら残してくれる傑作。若き丹波哲郎氏の怪演が超見もの。この人やっぱり大霊界なんだよなあ……と、改めて納得させられます。
三番目は山田洋次監督の「馬鹿が戦車でやって来る」(昭和39)
そのまま見たら、ただのタンクの暴走コメディかもしれませんが、ここは脳内で想像してみよう。この作品がそっくりジブリのアニメだったとしたら……と。なんとトトロの田舎を、ナウシカのトルメキア戦車が爆走するようなものなのだ。タンクを暴走させるオッサンは「未来少年コナン」のダイス船長がハマリ役。タンクとともに走り抜けていった、かなわぬ恋が残したものは……。どこか哀切ただよう結末が、21世紀のおじさんたちの胸も打つことは間違いなしです。
以上、必見の三作でした。
 
このほか、吉永小百合の「青い山脈」「泥だらけの純情」、大島渚監督の「愛と希望の街」、「青春残酷物語」、それから石原裕次郎の「太陽の季節」「狂った果実」、小林旭の「黒い傷あとのブルース」「俺にさわると危ないぜ(これは昭和42年)」とか、SFでは「海底軍艦」に「世界大戦争」。昭和40年になるけれど、クレージーキャッツの「大冒険」(これって、ルパン三世カリオストロの城の元ネタじゃん?!)も見逃せません。要するに理屈抜き、CGで気取った演出をすることなく、ナマの演技で魅せるエネルギーの凄さ。そして昭和30年代ワールドの特徴でもある、携帯なし、パソコンなし、TVもほとんどなしという環境は、じつは21世紀のファンタジーが描いている異世界そのものなのです。異世界ファンタジーととらえれば、新作映画を見るのと同じ感動! いやー本当に日本映画ってこんなに楽しいものだったんだと、目からウロコの昨年でした。先人の偉業にこそ学ぶべしですね。
 
●仕掛けられた経済危機
 
さて今年はどうなるのか。暗くて固い生活予想。
「アメリカに端を発した、未曾有の経済危機」なるものが、怒涛のごとく日本の私たちの生活を破壊していくことになりそうです。
「アメリカに端を発した、未曾有の……」は、もう、某国営放送からさんざん聞かされて耳タコになっていると思います。何者かに洗脳されたかのように、このフレーズが刷り込まれていくのを感じます。
だからこそ、ここで疑っておきたいものです。
この経済危機は、本当に「アメリカに端を発した」ものでしょうか?
この経済危機は、本当に「未曾有」なのでしょうか?
 
昨年9月にアメリカの大手証券会社リーマン・ブラザースが経営破綻した。その原因たるサブプライムローン問題を指して「端を発した」という言い方がされています。
もちろんこの問題に関しては、アメリカに端を発したのでしょう。しかし、そのことをもって、ニッポンの経営関係者が「アメリカが悪いのだから、我々にはどうしようもない」と言明するのは、本当にそうなのかと疑っておくべきでしょう。なぜなら、サブプライムローンの問題は一年以上前から指摘されていたのであり、いちはやく情報を得ることのできる経済界の有力者は、事前に現在の危機を予測して備えていたはずだからです。
 
だから、この経済危機が「未曾有」だと驚かれるのは、わざとらしく聞こえてきます。どうも、シナリオに折り込み済みの危機であるという感じがするのです。
なぜなら、リーマン・ショックから二ヵ月とたたないうちに、たちどころに「派遣切り」が発表され、有力企業が生き残るための、事実上の人員整理がスタートしたことです。決算の数字の変化や損失の読みといった重要な数字が「さっぱりわからない」とされるにもかかわらず……つまり、経営の見通しが不明瞭なのに……人員整理の計画だけは、大変明瞭な数字が示され、計画が発表されているように思えるからです。
あまりにも、タイミングが良すぎないかね、それって?
 
ということは、この経済危機を予定して、最初から人員整理のプログラムが準備されていたのかもしれませんね。「リーマンが倒れた、それっ」とばかりに着手されたのではないかと。当然、そうすることによって人件費を削減し、危機を脱して事業の利益を回復していくシナリオも準備済みであると考えてもよいでしょう。
この危機によって、多くの企業が赤字決算の見通しを発表するでしょう。しかしそれは、天変地異のごとく突発的な経済危機によって生じる損失ではなく、後日の回復が折り込まれた「想定内の赤字」である可能性も、潜んでいるかと思われます。
 
このあたりは、もちろん私個人の創作的妄想とお断わりしておきますが「アメリカに責任のある未曾有の経済危機」という錦の御旗をかかげることによって、大企業が下請け企業の切り捨て淘汰と、自社の人員整理を推し進める、格好の理由が提供された。そのこと自体がすでに一年以上前から予定され準備されてきたと考えられないでしょうか?
 
いや実質的にはもっと前、数年かけて入念に準備されてきたと考えることができます。
バブル経済が崩壊した1990年代、まるでリーマンのごとくニッポンの大手証券会社が経営破綻しました。経営トップの涙ながらの記者会見は、会社倒産が想定外の、青天の霹靂であることを物語っているようでした。
バブル崩壊でニッポンの大企業は戦慄しました。今回生き延びられても、もしもし再びこのような危機が襲いかかってきたらどうしようか、と。
それならば、と為政者が助け船を出します。人材派遣業を製造業にも適用できるよう範囲拡大する。いざ不況のおりには、これを、経営を守るための捨て石にすればよいのではないか……と。
そして今、予定された危機に対応して、まず最初に「派遣切り」から始まったのだとみることもできるでしょう。では路頭に迷う失業者をだれがどうやって救済するのか。そんなことは企業の責任ではない、行政が税金でなんとかしろ、ということですね。それでも救われない人は自殺しろといわんばかりです。そうでなければ、職を失い家を失い、いよいよ飢え死にに直面するとなったら、その人は生きるために犯罪に手を染めることでしょう。いくら厳罰化しても、目の前に餓死がやってきたら、だれだって犯罪の道を選んで不思議はありません。散発的な単独犯も恐いですが、その前に、犯罪組織に「就職」するケースが多々起こってくると思われます。
本当に、恐ろしいことが起こりつつあるのだと思います。
 
さて、それではいったいだれが、何のために、今回のような経済危機を引き起こしたのでしょうか? 答えはきっと単純で「この経済危機で大儲けできる」人がいるからですね。経済危機が起これば損をする……と、だれもが思っていれば、それを防ぐために、サブプライムローンの暴走をだれかが必死で止めたはずです。そうならなかったことは、どこかに「経済危機を起こせば莫大な利益を得られる人々」がいて、一番都合のよい時期に危機の引き金を引いたとみることもできるでしょう。
それは、どのような人々なのでしょうか。かつてニッポンのバブル崩壊では、だれもが損をしたかのように見えました。銀行すら大損して、公的資金に助けてもらいました。そこで、銀行が損したということは、貸したお金を返さずに踏み倒した人がずいぶんいたということです。中にはもともと予定して踏み倒した人も相当数いたはずですね。そういう人たちはバブル崩壊によって、結果的に莫大なお金を労せずしてフトコロに入れたことになります。そういったお金は公的資金にカバーされて、いずこかへ消えていってしまいました。おそらく、兆に達するお金がバブル崩壊による損失の名のもとに、国税局に捕捉されない闇のかなたへと消えていったのだろうと想像されるわけです。
ニッポンのバブル崩壊のときのこれは、いわばテストケースでした。この成功ですっかり味を占めた人々は、次なる本番を仕掛けていくことにしたのでしょう。その本番が、今度は全世界規模で起こされていると考えられないでしょうか。
 
このような想像をめぐらせたところで、何も得るものはないのですが、もしも私の想像が事実だったとしたら、今回の経済危機で、ニッポンの国家予算なんかはるかに越えるとてつもない資金が課税の網を逃れて闇のかなたへ消え、それがひょっとすると、テロや国際犯罪の資金に化ける可能性も、十分に案じられます。
その潤沢な資金は犯罪組織を支え、世界の失業者の一部を、着々と採用していくことでしょう。そうやって増加する犯罪から、だれかが身を守ってくれることはあまり期待できません。市民は日常的に自己防衛をはからねばならなくなります。コンビニ強盗がナイフを突き出したくらいで、店長がはいそうですかとお金を渡すどころか、金属バットで応戦してめった打ちにしてしまう……といった「正当防衛戦争」が日常の身近な光景となり、そっと黙って護身用の拳銃を携帯する人が増えていくのかもしれません。
犯罪組織に「就職」する人が増えることも確かでしょう。振込め詐欺の被害額が判明しているものだけでも大企業の年商なみに膨れ上がっていることは、この手の詐欺がもはやビジネスとして成立する規模に発展したことを思わせます。
深夜と早朝には、車道を渉るのが命懸けになります。いつ酔っ払いの車に轢かれ、そのまま車体の下で何キロメートルもひきずられて路面にこすられ、肉も骨もすりつぶされる、そんな残酷な殺され方をするかもしれません。良識ある市民は、町中を出歩く危険を避けて家にこもり、電話が鳴るたびに詐欺かと警戒し、宅配便が来るたびに刺されるのではないかとおびえなくてはなりません。
 
社会はひしひしと、恐ろしくなっていきます。外見だけは平静にふるまい、仲間たちと明るく騒いでいるようで、その内心は常におびえ、疑いをかけ続けるという、疑心暗鬼な生活が普通になってくるのでしょうか……
 
●現実と戦うために
 
新年早々、暗い話ばかりになりましたが、実際、暗い現実を見据えておかないと年も明けてくれないようです。
今年はさらに社会の格差が開いていきます。富める者はより豊かに、貧する者はより貧しく。世帯年収一千万円あたりをその境にすると、だいたい全国の世帯の四分の一くらいが恵まれた層で、四分の三がそうでない層になります。そしておそらく、生きているうちに社会的な脚光を浴びたり、賞をもらって名誉を得られるのは四分の一の恵まれた層に限られていくでしょう。学者も政治家も、スポーツ選手からお笑い芸人すら、世襲的に恵まれた家庭環境がなくては、一生なれないのです。そうでない人にとっては、この世界は(犯罪的な手段でもなければ)絶対に成功しえない、生きるに値しない世界になっていくことと思われます。
 
年間自殺者数が三万人という、戦争なみの数字を出しているこの国では、現実の社会に絶望して、ただ現実逃避することに楽しみを見いだす人が増えているはずです。未婚率の激増も、それを後押しします。結婚しない、すなわち子供をもうけないことは、生きがいのひとつを放棄することになるのですが、それでも現在、三十代男性のじつに半数が未婚者という統計がそれを物語っています。貧しくても結婚して父や母になれば生きる喜びが得られるというのなら、みんなそうしているはずなのですから。その昔、子供は家計を助ける労働力になりました。しかし今は、非正規労働者として自分一人がかつかつでやっていけるか、さもなくばニートとなって、いつまでも家計の負担になり続けるかもしれないのです。いまや親にとって子供は生きがいとなる前に、ローン以上の「長期負債」になりかねない。この現状のままでは、いつまでも独身のままで、不幸な現実からはなるべく逃避し続けたいと願っても無理はありません。コミケに集う延べ50万人という異常な数字は、若者に広がる現実逃避欲求のあらわれかもしれないのです。
 
さてそうすると、この国の社会は、生活が安定して自由にやりたいことをして暮らせる四分の一ほどの人々と、明日の糧にも苦労する四分の三の層に分かれてしまいます。大切なことは、そんな社会でよしとするかどうかです。無気力に現状に甘んじて、貧しいなら萌えグッズやアニメやギャンブルなど、現実逃避して一生をやり過ごせばいいというのも一つの選択でしょうが、それではいけない、なんとかしようと決意して行動する人々も、中には現れてくるでしょう。そう信じたいものです。
社会の富と貧困の狭間にあって、この絶対的な格差の不幸をなんとかして改善しようとする人々の行動は、しかし非常に注意深いものとなるでしょう。この国では、格差を是正する行動は、富める者からはうとまれ、貧しい者からは利用される恐れがあるからです。それは静かに水面下に潜って、まるで大戦中のレジスタンスのように、こつこつと地道に続けられていくのではないかと思われます。
 
富を手にし支配する人々、貧しいまま支配されるに任せる人々、その格差は一生つきまとい、人生の質に天地の開きをもたらします。そしてこのいずれの層にとっても、じつはSFやファンタジーにたいした価値を認めてもらえないのです。富める層の人にとっては、SFなどという非現実的な読み物よりも、現実のビジネスや趣味の方がよほどおもしろいはずですから。そして貧しい層の人にとっては、PCゲームやギャンブルの方が簡単に現実逃避できるので、SFよりもそちらの方に走るはずなのです。
そうなると、SFを読んで楽しめるのは、いずれの層にも属さない、第三の人々……格差是正をめざす層の人々でしょう。現実社会の非道を認識し、正義を貫き実現するために、黙々と行動する人々です。現実を肯定するでもなく逃避するでもなく、社会を変革するために、現実と戦う人々。数が少なくても、心に理想を抱いたそういう人々は存在すると信じたいし、そういった人々のためにSFは書かれていくと思うのです。
だって、そうでなくてはおもしろくないではありませんか。
 
 
 


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