Essay
日々の雑文


 50   20081009★映画解題『ニッポンSF総理名鑑』
更新日時:
2008/10/11 

国会議事堂も小さくなったものです。真ん中の白いビルのてっぺんの右2センチあたりのビルの陰。
カーソルを置くと、某ホテルからの眺め。右の中ほどの日章旗の下のビルは、たぶん……
 
 
ニッポンSF総理名鑑
 
 
東京に『全国町村会館』なる公共の宿がある。
安いときには一泊素泊まり八千円となるので、筆者もときどき利用する。
こう書くと、施設のネーミングといい、お値段といい、なんだかローカルでチープな印象を持つご仁もおられるであろうが、それは見事な誤解である。
 
初めての人は行ってびっくり、このホテルはニッポンの国政のヘソ、永田町のど真ん中にそびえ立つ白亜のぴかぴかホテルなのだ。
そのロビーは、某国の人民宮殿(私は行ったことはないが)もかくありなんと思わせるほどゴージャスな大理石調の大吹き抜け。とってもお安く、独裁者気分を味わえる。
それに、なんといっても、このホテルは隣に自由M主党本部ビルを見下ろしているのだ。このホテルの部屋から帝都東京をながめれば、足下に巨大政党の総裁室を置いて、ニッポンの夜明けを睥睨できる。なんという贅沢、なんたる傲慢であろうか。
 
それはさておき、総理である。
日本の政治権力の頂点には、総理大臣という役職の人がいる。
昨今なにかと話題の、ニッポン国のトップ・オブ・ガバナンス。
その資質や品格が、ここしばらく厳しく問われている。
問われすぎて、ころころ変わるので、さっぱり目立たない。
アメリカの大統領は掃いて捨てるほどSF映画に出ているけれど、ニッポンの総理大臣はどうしたのだろうか。
いえいえ、ニッポンのSFだって、ソーリ大臣をたまには登場させているのだ。
 
とりあえず、SF映画(広義の)に注目して、これをクローズアップしてみたい。
題して「映画にみる、ニッポンSF総理名鑑」。
 
※以下はすべて、映画の一観客としての個人的感想です。失礼の段、どうかお許しを。
 
 
●『ゴジラ』(1984)……“小林桂樹”総理
 ゴジラ映画ときたら必ず総理が登場しそうで、意外とまれなことに驚きます。84年の『ゴジラ』は珍しく総理が正面からゴジラに立ち向かう、ガチンコ勝負の傑作。かたやゴジラを口実に東京への核攻撃をもくろむ超大国に対して、非核三原則を楯に、必死の説得で核の直撃を阻止する総理、偉いぞ! ゴジラよりも真に恐ろしいのは大国の横暴であることを教えてくれた小林総理。まことニッポンの良心ですね。
 
それにしても本家『日本沈没』の田所博士が十年後に総理の椅子に座っておられるとは……。日本国民もたまには、正しい選択をしたとみるべきでしょう。なんだかんだ言って、ニッポン民族のことをこれほど愛した人もいないのですから。
 
●『世界大戦争』(1962)……“山村聰”総理
 人類滅亡の第三次大戦へ突き進む世界情勢。病身に鞭打って、ラジオで各国に平和を説き続ける山村総理の姿は、たとえ非力でも未来の幸福を信じようとする当時のニッポンの現実を象徴していました。ちっぽけな国土でつつましく平和に生きる、それがどれほど心豊かなことであるかを語る至上の名作。核の灼熱に滅びた日本に、それでも帰っていく人々の心情。忘れてはならない、これが日本人の誇りなのでしょう。
 
●『日本沈没』(2006)……“石坂浩二”総理
 いい人なのです。国土を失って流浪する国民を案じて、政府専用ジャンボで飛び回り、激務に献身する姿。貴族的なまでに洗練されたふるまい。しかしニッポン沈没という荒ぶる大自然の前にはなすすべもなく、存在感の希薄さは否めません。国民のために苦悩しつつも庶民と共に戦えず、総理である以前に、ひとりの優しいパパであった石坂総理。ある意味、21世紀のニッポンを象徴する親馬鹿(ごめんね)総理像でありましょう。
 
●『皇帝のいない八月』(1978)……“滝沢修”総理
 ほんと、悪い人です。もちろん滝沢氏ではなく、彼が演じた総理のことですが。これぞ怪演。最初はやる気のないフニャ総理ぶりを見せながら、じわじわ現われる本性のドス黒いこと。自衛隊のクーデターも、クーデター潰す派も、クーデターやっぱり大好き派も、みんなまとめて利用して、最後に笑うワルの凄まじさ。政治に右も左もなく、あるのは私利か私欲のどちらかだけだ……と悟らせてくれる問題作なのです。
 
●『亡国のイージス』(2005)……“原田芳雄”総理
 冷たい人なんです、原田氏演じる総理は。イージス艦奪回のため戦って敵に捕われた若者を「どうぞご自由に(殺しちゃっていいよ)」と突き放す冷酷さ。イージス艦爆撃命令も、爆撃中止命令も、タイミングよく政治決裁しているようで、その実は徹底したリスクヘッジと自分の責任回避。ちゃっかり日本を救った顔をして、よく考えると事件の解決には何一つ役立っていないのですよ。おそるべし、亡国のソーリ大臣。
 
漁船を真っ二つに撃沈(事実上の衝角戦)して“盲目のイージス”と異名を取った海自艦〈あたご〉。浦賀水道へのその進入路が『亡国のイージス』と何だかそっくりなのが不気味です。何かに憑かれたように、ひたすら一直線に、そこのけそこのけイージスが通る。艦名も「当たった、GO!」と当て逃げな語感が、不吉……。秘密兵器グソーよりも、本当に恐いのは“軍人の前方不注意”ではないでしょうか。漁船だけでなく、ニッポンの行く末も、ちゃんと見つめていてほしいものです。危ないイージス、もうイージス。で、か弱い漁船を守る一番インスタントな方法は、大漁旗のかわりに某国の星条旗を掲げることでしょうね。きっと、イージスはどいてくれます。あ、ついでにタダで燃料も補給してくれると思いますよ。
 
●『日本以外全部沈没』(2006)……“村野武範”総理
 あえてコメントは控えましょう。設定がかくも荒唐無稽なのに、どうしてソーリはかくもリアルなのか。やっていることはヘッポコなのに、そのまま現実の国会に持ってきてもしっくりハマる村野総理って、どうして? 「人生いろいろ」の某総理以来、国会がお笑い劇場と化したことを物語るのでしょうか。何はともあれ、ニッポンSFが描いた、最も現実のソーリに近い総理大臣なのです、ね、たぶん。
 
●『日本沈没』(1974)……“丹波哲郎”総理
 ニッポンSFの総理大臣といえば、真打ちはこのお方。大震災で壊滅する首都東京。火災に追われて逃げ惑う市民を救うため、丹波総理は宮内庁へ命令します。「(宮城の)門を開けてください!」。国民の命を守るため、ついに皇居開門に踏み切る空前絶後のカッコよさ。しかも今にして思えば、丹波総理だからこそ、日本を脱出できなかった国民の行き先まで、ちゃんと用意されていたのですね。移住先はもちろん、大霊界!
 
大戦中の東京大空襲のときだったか、逃げ場を失い焼け死ぬ国民を前にして「ここには陛下の野菜畑がある」ことを理由に、開門を拒否した……といった逸話を聞いたことがある(真偽は不明)だけに、丹波総理のこの勇断、本家『日本沈没』屈指の名場面といえるでしょう。正直、ホロリとくるシーンなのです。
 
●『首都消失』(1987)……“丹波哲郎”元民主党幹事長【番外】
 ここまでくると、劇中の総理よりもはるかに強い、闇の総理としての貫禄爆発といったところです。首都が消失したニッポンの総元締めとして君臨する、元民主党幹事長の丹波氏。こうなると総理って何なんだという気もしますが、まあいいか、東京が無くっても、これだからニッポンはちゃんとやっていけるんです。『ラーゼフォン』で東京がジュピター化したって、ニッポンはムウの支配をはねつけてしまいますし。
 
●『大冒険』(1965)……“森繁久彌”総理
 クレージー・キャッツ総出演の大喜劇だけど、冒頭一分間だけ登場する森繁総理の存在感で後がみんなブッ飛んでしまいそうな演出が、大冒険。この頃から偉い人は「人間ドック」大好きだったことがわかるし、見ていくと、ははーん、これってきっと『カリオストロの城』の元ネタでは? と感心する場面が。「偽札を(輪転機でなく)カラーコピーで作る」発想の斬新さに驚愕しよう。40年以上昔の映画なのですよ。
 
●『さよならジュピター』(1984)…“森繁久彌”地球連邦大統領【番外】
 いったい誰が、木星をブラックホールにブッつけると決めたのか? なんと、森繁大統領がたった一人で決めちゃっているではないか! さらっと見過ごしそうなシーンだけど、これは恐いゾ。いくら非常大権があっても、太陽系を振り回す即断即決、この独裁と無責任とアバウトさ。結果オーライだからよかったものの……。人類の「大きな友達」木星を、だーれが壊したクックロビン。……嗚呼、アリベデルチ・ジュピター!
 
思えば「大きいお友達」という後年のオタク用語を公式に使った最初のSF作品ってことになるのかな? その他数々の先見性(スーツケース・パソコンとか)も、もっともっと高く評価されるべき意欲作だと思います。
まあしかし、森繁大統領の存在感の重さはブラックホールどころではなくて、久彌翁が登場されたとたん「さよならジュピター」の看板は「駅前ジュピター」になっちまったぞ、との指摘も。
それにしても。
あれで……よかったのだろうか? と、そろそろ人類は反省すべきときかもしれませんね。あんとき木星をブッ潰して、本当によかったのかなあ……。ぜひとも続編が見たいところです。
 
 
歴代のSF総理の皆様、失礼を何卒お許し下さい。
 
 


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