Essay
日々の雑文


 49   20080824●雑感『人が海へ帰るとき』
更新日時:
2008/08/27 
20080824
 
 
 
 
 
 
人が海へ帰るとき
 
……海洋SFに寄せて
 
 
 
 
日本SF大会『DAICON7』の開催地は、大阪の南・岸和田でした。
自宅から会場まで、電車乗り継いで片道2時間半。
滋賀県住まいの私にとって、大阪の彼方、それもナンバの向こうとなると、その距離感は地球から14万8千光年離れた大マゼラン雲のガミラス星まで旅するに等しい。
夜、帰路に大津駅のトンネルをくぐると、なにもかもみななつかしい気分になります。
 
残念ながら今回は、家庭の事情で初日しか参加できませんでした。
2日目にも楽しい企画が目白押しで、野田昌宏先生の関連企画はぜひお聞きしたかったのですが……
ゲスト招待なのに申し訳なかったのですが、いつものように事務局様へ寸志のカンパをさせていただきましたので、それがせめてものお詫びです。スタッフの皆様、お疲れ様でした。
 
初日に「海洋SFを考える」セッションを聞けたのは、大きな収穫でした。
海洋SFをお書きになっておられる先生が、海の魅力や、極端に海面上昇した世界に適応して人類が進化するお話や、海洋を舞台にしたSFの将来のビジョンを熱く静かに語られました。深海のように、冷房の効いた会場でした。
 
さてセッションを聞く前に、海洋SFってどういうものなのか、考えてみました。
 
海洋SFは二つのパターンがあります。
ひとつは、船乗りや潜水艦乗りを主人公にするもの。
海は、克服し乗り越える脅威であり、サバイバルの場です。
映画『ウォーターワールド』はなんだかB級ですが、『海底二万里』というディズニー大作がありましたし、『原潜シービュー号』『スティングレイ』も。アニメの『青の6号』は、発想といいストーリーといい、かなりの傑作だと思います。
もちろん、小澤さとる先生の『サブマリン707』『冒険日本号』『Dライン』なども、忘れられない傑作海洋コミックです。SF海洋コミックとしては、今でも『ブルーシティ』が筆頭でしょう。
 
また、SFではないけれど、ヨットの船体設計や風の読みに科学的なアプローチを見せてくれる『ウインズ』(コッポラ監督。ビデオのみ。未DVD化)は、登場するヨットの美しさだけでも、見落とせないエレガントな映像作品です。
 
もうひとつは、泳ぐ人や海洋生物を主人公にするもの。
海は、心身を抱擁し育んでくれる故郷であり、新しい生命体との出会いの場です。
活字では『ソリトンの悪魔』が記憶に残っていますが、海の怪物が悪役になってしまうところに、一抹の寂しさが残ります。
SFというにはやや無理がありますが、映画では『フリー・ウィリー』『イルカの日』なんてのがありましたね。SFとして『アビス』や『スフィア』もありましたが、しかしそれは本当に“海洋”SFとしての特質があるのか、ちょっとわかりません。『ソラリス』の海は、もっとニュアンスが違うようですし……
 
むしろ、ジャック・マイヨールを描いた『グラン・ブルー』の方が、科学的な視点で素潜りの身体能力と精神力を見つめた傑作フィジカルSFと考えてもよいでしょう。
 
アニメでは『七つの海のティコ』が(いくら何でも無茶としかいいようがない潜水シーン続出とはいえ)、結構好きな作品です。
そしてじつは、アニメの『青の6号』はこちらの領域にもまたがる傑作だと断言したいのです。
 
そしてふと浮かんでくるのが『ミクロの決死圏』。
ミクロンのサイズに縮小されて、人体の血管へ潜航してゆく潜水艇プロテウス号。
この作品の設定の楽しさのひとつは、特殊なマシンでなく、既存の潜水艇と既製の潜水服をそのまま、体内潜航に使っていることです。
 
そこで改めて、気付かされます。
体内には、海洋と同じ世界があるのだと。
人体の体積の七割は、水。
その基本は生理食塩水……つまるところ、質的には、海水と同じではありませんか。
 
われらのなかの海。
海洋は、体内にもあるのです。
 
さてSF大会のセッションで、そのことを思い出したのは、講師の先生が、ダイビング体験を語られたからです。
「水中で感じる、あの無重量感。目を閉じると、上も下もわからなくなる浮遊感」
 
それは、人体の比重が、海水に近いから。
体内の七割が海と同じものであることを、私たちの精神が感じ取る偉大な瞬間、かもしれませんね。
 
そこで会場を見渡してみます。
この場所は、陸の上。しかしこの部屋の数十人の体内に、合わせて何トンかの海水が存在していることも、まぎれもない事実。
人間が生きているところ、そこは陸地の上でも、フィジカルには、じつは、海洋の一部だと考えることもできるでしょう。
 
私たちの脳も内蔵も、乾いた陸地の上に活動していながら、じつは、体内の海に浮かんで、揺られつつ生きている。
 
そんな、不思議な感覚にとらわれるセッションでした。
 
思えば、人類の歴史をはるかにさかのぼると、ご先祖が哺乳類として地上にうごめくようになる前は、水中に生きる生物だったはず。
その進化のプロセスは、私たちが生まれる前、母の胎内で細胞分裂とともにリロードされ、魚から人の形へと、劇的なメタモルフォーゼを遂げていきます。
そして、はるかな昔のその記憶は、私たちの手、親指と人差し指の間をつなぐ膜のような鰭(ひれ)状の形態に残されているわけです。
 
昔、私たちは魚だったのだと。
 
手の甲を光にかざし、かすかに血管の透けて見える、太古の鰭の名残りを見つめると、そのことがまぎれもない現実として感じられます。
私たちは昔、海を泳ぐ魚であったことがあり、海を体内にたたえながら、陸へ上がってきたのだと。
 
そう考えると、私たちの進化の記憶から、太古の自分への郷愁が湧き起こってくることにもうなずけます。
……お魚に還りたい、自由に大洋を泳ぎたい!
 
そんな生物的郷愁が物語られ、形をなしたのが『人魚姫』の伝説だったのではありますまいか。
陸上の人間としての自分と、太古の魚としての自分をつなぐ、郷愁の伝説として。
ヒット中のアニメ『崖の上のポニョ』も、きっとそうですね。
 
さてそうすると、将来の海面上昇による環境破壊に適応して、人類も水中呼吸型生物へ人工進化しよう! という発想にも、納得できるものがあります。
 
ただしそれは、新たな進化ではなく、人工の先祖返りとして。
こう考えることもできるかもしれません。
私たちの先祖が、陸へ上がったのは間違いだった。再び私たちははるかな太古の祖先へと立ち返り、正しい進化のプロセスをやり直すべきときが来たのだと。
 
もしかすると、本当にそうかもしれません。
環境破壊、地球温暖化、海面上昇……それらのプロセスは、もとはといえば、われらの先祖が海から陸へ、生活の場を移したことによるのですから。
私たちがずっと海の中で生活していたら、基本的に火を使わない文明になったはず。
それは、発展のスピードがはるかに遅い文明でしょうが、そのかわり、種として長続きできる、長期生存への選択となったかもしれません。
ならば、それを、まだ間に合ううちに、やり直せばいいのではないか。
 
そこで思い出されるのが、安部公房先生の『第四間氷期』です。
きたるべき時代に人類文明を継承するために出現する、水中呼吸人類たち。
B級SFで散々“半魚人”と蔑視されてきた存在ですが、そういう身体形態は、再び『第四間氷期』に立ち戻って、真面目に思考されてもいいのかもしれません。
 
みなが半魚人となれば、少し生活習慣を変えるだけで、水没したビルの中でも営々と、これまで通りの生活を続けられるのですから。
 
それもまた、人類の進化のひとつの選択肢として考慮されるべきでしょうし、なんら不思議なことではないはずです。
いまだに私たちの体内の七割は海。
海という、なつかしい故郷へ帰るだけのことですから。
ですから『ブルーシティ』や『青の6号』で、悪役の科学者が無理矢理に作り出したとされる半魚人の皆さんも、必ずしも悪魔の申し子として蔑まれるべきではないのです。
 
私の記憶に残る、海洋SFとして最高の感動シーンは、アニメ『青の6号』のラスト近くにあります。
敵の半魚人のボスが、人類側の戦士である青年を殴り飛ばします。駆け寄り、泣きながら彼を守ろうとする恋人の少女。その人類の少女の涙を、ふと、ひとしずく指に受け、それを舐めた半魚人は塩辛さに驚き、「塩水だ!」と絶句します。
敵同士で憎しみ合う人類と半魚人。しかし、どちらも、同じ塩水を共有する身体。もとは同じ種類の生きものなのだという事実を、半魚人のボスは突き付けられてしまったわけです。
だからといって、すぐさま両者が和解できるはずはなく、半魚人はその場を去るのですが、しかし敵を殺すことなく悲しんで去る姿に、未来への一縷の希望が滲み出てくるのです。
 
半魚人たちが支配し、愛する故郷でもある海。しかしその一部分を、敵である人類も体内に持っている。
「和解せよ。わかりあえるはずだから」と進化の記憶が告げる、素晴らしい場面です。
 
小澤さとる先生原作のアニメ『青の6号』は、1998年の作品。
いまや10年前の古きよき名作となった『青の6号』ですが、このストーリーの劇的な展開を、以後の海洋SFが超えることができたのか……どうでしょうか?
いまだにこの作品は、SF作家にとって大きなハードルとして屹立しているように思えるのです。
 
だからこそ……
真水ではなく、海水で泳ぐことに、人は心を安らげるのではないか。
体内に海洋をたたえている人間にとって、海水の中で泳ぐことは、母の胎内の記憶をよみがえらせると同時に、太古の進化の記憶と対話できる、神秘的な体験なのかもしれません。
それならば……
今夜、閉会式を迎える北京オリンピックで行なわれた数々の水泳種目を、海水のプールで行なったらどうなるのか。
物理的な比重の違いだけではなく、どこか、人間の脳の奥深いスピリットの部分で、なにかが変わるのではないか。
そんな気もするのです。
 
それから。
さらに別の未来、人類が他の天体へ移住していく時代……
異星へと渡ってゆく人類は、人間であると同時に、その体内の七割は地球の海と同じ。
地球、という大きな星からみると、人類の異星への移住は、地球の海洋の一部分が異星へと旅立ってゆくことでもあるのです。
異星をテラフォーミングして作られる海は、どのような水になるのでしょうか。
 
おそらく人類は異星に移住して都市を築くようになってからも、プールで泳ぐことは忘れないでしょう。
そのとき、プールを満たしているのは、きっと真水でなく、塩水。
地球の大洋で自由に泳いでいた太古の記憶を、人類はそこまで、携えてゆくに違いありません。
自分たちがどこから来たのか、思い出し続けるために……
 
そして、現在においても未来においても、男と女が出会い、結婚し、子を産み、育てるならば……。
それはまた、この乾いた地上をさまよっていた小さな海と小さな海が出会い、その海をひとつにつないで生命を育むことでもあります。
 
私たちの体内の海は、現在の地球の海と、濃度が違います。
それは、私たちの祖先が海中から陸へ上がったときの、その時代の海と同じ海水を、そのまま残しているからだというのです。
 
だから……
恋する二人の抱擁は、互いの中の太古の海を確かめ合うこと。
二人のひそやかな接吻は、互いの水の浸透圧を確かめ合うこと。
二人が愛し合うことは、二つの海が共振し、一緒に波打つこと。
 
女性の胎内、月の潮汐力に支配されて、満ちては引く子宮の海。
そこに出会う、卵子と精子。
やがて新しく生まれた生命は、父と母から受け継いだ海を身体にたたえながら、次なる世代の海との出会いを求めて、地上をさまよっていくことでしょう。
 
何万年、何百万年を超えた、はるかな昔。
それまで魚だったご先祖様が、体内に海をとどめたまま陸へと揚がった日から、それ以来……
生命の連鎖とともに、果てしない細胞のリレーによって引き継がれてきた体の中の海洋が、今、私たちの体にたゆたい、月の満ち欠けに共振して潮が満ち、潮が引き、ときには逆巻き、ときには凪いで、そうやって私たちはずっと、未来に向かって、海を運び続けていく……
 
体内に波打つ、太古の海原。
 
地球の海には、深い深い深淵があります。
そしておそらく、私たちの体内の海にもまた、古い古い歴史の深淵が、横たわっているのです。
 
 


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