Essay
日々の雑文


 48   20080817●雑感『ジミ五輪のススメ2』
更新日時:
2008/08/17 
20080817
 
 
 
 
 
 
ジミ五輪のススメ2
 
 
 
 
 
 
 
 
写真は、8月8日当日恒例の、琵琶湖要塞における異星人邀撃戦の模様である。
 
 
 
ずいぶん人工的だなあ、というのが第一印象だった。
2008年8月8日、北京オリンピック開会式。
とにかく凄い凄い。絢爛豪華とはこのこと。
数百人単位の人民による、一糸乱れぬマスゲーム。
最近の中国製歴史アクション超大作映画でたいてい使われている、
統制された群衆や軍団の一人一人が、画素の一粒一粒みたいに動く、
CG合成のモブシーンを見るかの如しだった。
「おお、CGを人間がやっている」
 
ポーズも声も完璧に揃った太鼓連打。
一人一人が活字であり、それがドットになって作り出す活版の漢字。
櫂に見立てた巨大ウチワが寸分の狂いなく波打つウェーブ。
壮大華麗、見事としかいえないスペクタクル。しかし……
なぜだろう、おおらかな、たゆたうような感じとは、少し違う。
むしろストップウォッチを見つめるような、ハラハラ気分。
この、一寸の隙間のない緊張感は、どうしたことだろう。
映し出される演者たちの顔、顔……
みんな、同じ顔で笑い、けれど同じ顔で必死にも見える。
そりゃそうだ。うっかり間違えたら目立つ。猛烈に恥かいてしまう。
自分ひとりだけ、間違えることの恐怖におののいていても、
不思議はない。
その表情の、人工的な統制ぶり。その動きのコンピュータ的な精確さ。
見ていて思った。
うーんこれなら、最初から全部CGで作ったら? と。
 
そして。
空中を歩く巨人の足跡が打ち上げ花火で表現されていく、あの映像。
それを見たときは「まるでCGそっくり」と口に出してしまった。
たぶん、同じ感想を持った人も多かったのでは。
そして実際にCGだったことを知ったときの、あの奇妙な幻滅感。
 
さらに。
沃化銀弾頭のミサイルを一千発以上発射して、
会場に雨が降るのを防いだこと。
少女が朗々と唄った革命歌は、実は他人の歌声の口パクだったこと。
国旗を運ぶ少数民族衣裳の子供たちが、
実はほとんど多数民族だったこと。
それらすべてが、ショウとして適切な演出だと説明されたこと。
 
しかしねえ、やはり、どこか漂ってしまう。
奇妙な幻滅が。
 
開会式が単なるショウならば、
それでいいだろう。
入場する各国の選手団。
かれらが踏んで歩くのは、スポーツするグラウンドではなく、
ショウのためにつくられたステージの床だとしても。
けれど、これはオリムピックなのだ。
 
オリムピックが、他のスポーツ大会とは違う点が、ひとつある。
聖火を迎え、競技場に点火することだ。
それは、はるかオリンピアの地で採られ、
おそらく太古にプロメテウスが人類にもたらしたものと同じ火、
古代ギリシャの神々の宿った炎だ。
 
だから、オリムピックは、太古の神々のもとで行なう、
スポーツの神事なのだ。
 
今回の開会式で、選手宣誓があったかどうかは知らない。
ともあれ、選手宣誓といえば、決まり文句がある。
「スポーツマンシップに則り、正々堂々と戦うことを誓います」
これは本当に、人の心に響く、すばらしい言霊だと思う。
だれに対して誓うのか。
主催者や為政者や王侯貴族や国旗に対してではない。
聖火とともに燃えさかり、選手たちを照らす
スポーツの神々に対して誓うのだ。
「神様、私たちはウソつきません。ズルしません。
卑怯な戦いをしません」と。
ここに、オリムピックならではの、
崇高な精神性が宿るのではないだろうか。
 
だから、替え玉出場したり、ドーピングしたり、審判がえこひいきしたり八百長したりするのはご法度です。神に誓って、誠心誠意、心からルールを守ります。
……そう、神様に対してみんなで約束するのだ。
約束を破ったら、神様が見ておられる。
神に恥じることになるのだと、確認する。
それが、開会式の本質であろうと思うし、
絶対に省略してはいけない手続きだと思う。
 
聖火を点火することで終わるのが
開会式ではなく、
点火した聖火に対して、何を誓うのかが、
本来の開会式ではないだろうか。
 
そんなことを、考えさせられた。
 
ショウの演出として、
実はCGでした、口パクでした、別人でした。雨も防ぎました。
21世紀のオリンピックは、そういうものかもしれない。
しかしそういった演出は、観客に対して、
どのような印象を残すだろうか。
 
小さなことだけど、演出は虚構をともなう。
「事実とは違う」ことを「事実であるかのように」見せる効果をともなう。
それはバレたときに、やはり小さな幻滅を生むことも事実。
なぜならば、これはオリムピックの開会式。
演出による虚構が些細なものだとしても、
そのことが、実際に行なわれる競技にまで、虚構的な印象を残してしまわないか?
 
競技の映像は簡単に差し替えできる。
決勝のときに予選の映像を流すとか。
巧みにCG操作すれば、失敗の演技を成功させたり、
選手を消してしまうこともできる。
やろうと思えば、ありえない結果で、
ありえない選手を表彰台に立たせて、
ありえない記録を現実のものであるかのように見せることも、
技術的に可能である。
もちろん、やってはならないことであろうが、
それが「技術的に可能」であることを、
開会式の演出は語ってくれたのだ。
 
TVの画面に映るものが、果たして真実なのか。
まるでCGのように動き演じる無数の人々。
天候まで操る、人工的なパワー。
そのイメージの果てには……
最初から最後まで、人工の映像で組み立てられた
虚構のオリンピックだって、作ることができるし、
もしも、そういうものを見せられても、
観客は、そう教えてもらうまではわからない……という、
ある意味、驚愕の現実が見えてくるのだ。
 
なんとまあ、これぞSFというべきか。
 
昨今の五輪がなにやら人工的な印象になってしまうのは、
おそらく、すべての映像が決まった時間に1秒いくらで
販売されているからだ。
だから、進行に不手際があってはならず、遅れや中断は許されない。
だから、自然現象と偶然を排し、
なにもかも人工的に組み立てられてしまう。
“行なわれていることを放映する”オリンピックではなく、
“放映するために行なう”オリンピックに、
いつのまにか、なってしまったからだろうか。
 
かつて44年前、原始的な演出の開会式があった。
1964年10月10日、東京五輪。
晴れの確率が高い日を選んだとはいえ、
その会場には屋根がなく、空模様は神頼み。
もしかすると、雨になるかもしれない。
開会式の途中で、雷雨に襲われたらどうしよう。
台風に当たったら、もはや世も末である。
そんな不安を、スタッフたちは抱え、悩んだはず。
 
しかし、悩みはしても、恐れることはなかっただろう。
雨が降れば、傘をさせばいい。
濡れてはいけない選手たちは、雨宿りすればいい。
濡れてもいいと思う選手たちは、行進すればいい。
そして、濡れても見たい観客は、濡れても見ればいい。
もっと風雨がひどければ、進行を中断し、天候がおさまってから、再開すればいい。
できることはできるだけやり、
できなくなったことは、とりやめて、あきらめる。
昔から、天気の神様のもとで行なわれるスポーツ大会は、そうしてきたし、オリンピックだって、そうやって不思議はないだろう。
それが実は一番、神様の意に沿った自然なことだと思う。
雨に打たれ風に翻弄されて、
ずぶぬれになっても厳粛に行なう開会宣言や、
豪雨にも雷鳴にも負けないファンファーレや選手宣誓が、
そして嵐をつく聖火入場と点火こそ、
むしろ最高の感動ではないだろうか。
 
東京五輪は、晴れた。
人工的に晴れさせたのではなく、天の恵みとして晴れたことに、
スポーツの神事としての、幸せがあったのかもしれない。
きっとスタッフは天を仰いで感謝しただろう。
「神様ありがとう。ボクに青空をくれて」
 
オリムピックはその昔、「参加することに意義がある」と謳われた。
メダルの栄誉は別として、最高の勝者は選手たちの敢闘精神であり、
困難を乗り越えて参加し、勝ち負けを超えて正々堂々と戦う心こそが、讃えられた。
21世紀のオリンピックは、どうなのだろう。
 
昨今の五輪の最大の勝者は選手ではなく、某社の水着であろう。
それと、科学的なトレーニング、コントロールされた食事と肉体錬成。
そして科学的な競技ウェア。全天候の理想的な訓練施設。
オリンピックの勝者は、そういった人工的なもので作られているのではないか。
自然というものを排除し、あるいは支配して、
人工的に作られる肉体と精神。
それが、21世紀の勝者なのだろうか。
 
富と科学を注ぎ込んでアスリートを人工的に製造するようになってしまったら、そこに、けっこう根本的な矛盾もはらんでくるだろう。
恵まれた立場の人たちしか、参加のチャンスをつかめなくなることだ。
スーパーアスリートを人工的に製造する、という発想は、
間違いなくDNAにまで、科学的管理の手を延ばすことになる。
遺伝子操作によって生み出され、選別されたスーパーアスリートが、
すでに、表彰台に立っているのかもしれない。
 
恵まれたエリートとその関係者だけの聖域に、
オリンピックはなりつつあるのかも。
しかしそうなれば、こういう皮肉なことも起こってくるだろう。
たまたま(恵まれていないから)参加するチャンスを得られないだけで、
実はスーパーアスリートよりもすぐれた
(忍者ハットリくんや未来少年コナンみたいな)
スポーツの神様の申し子がいて、
まったく無名のその自然児は、
華やかな五輪開催中も、
どこかの草原や難民キャンプやスラムな街角で、
五輪メダリストよりも速く、強くて、高く、遠くへと、
すっ飛ばしていたりするかもしれないのだ。
もしもそうなったら、メダルの栄誉って、どんな意味があるのだろう。
 
肉体が自然と出会うことのない、
そして精神が神々と出会うこともないオリンピックに、
これからも、なっていくのだろうか……
 
人工の五輪。
これは、SFのテーマになりうる素材だ。
ここまで人間が、自分たちに都合よく、人工的に作り上げる五輪を、
古代オリムピックの神様たちは、
聖火とともに、いかにご照覧になるであろうか?
 
 
それにしても……
北京五輪の開会式で、ホッと和んだシーン。
人工活字のマスゲームで、最初に「和」の漢字が浮かんだとき。
その漢字のすぐ左側に、
ひとつだけ、何を間違ってか、
ぴょんと跳び出て、一瞬で引っ込んだ活字があった。
 
これがCG映像なら、バグみたいなもの。
見苦しいから、きっと公式の記録映像ではCG消去されてしまうのでは、と心配してしまうのだが。
できれば、消さないでほしいなあ。
 
というのは、このバグみたいな、小さなミスは語ってくれるのだ。
人工活字の中に入っているのは、まぎれもなく人間だということを。
オールCGで作られた人工映像ではなく、本物の映像であることを、
はからずも、この小さなミスが証明してくれたのだから。
 
だから、見たとき、ふっと笑えて、そして和んだ。
どこか可愛い、愛嬌のあるミスである。
それだけで、開会式のショウが、とても親しみを帯びてきた。
「一つの世界、一つの夢」というけれど……
でもね、世界はいくつもあっていいし、夢も人の数だけあっていい。
SFは、そう思考する。
一人だけの異端もあっていい。
それを許せるおおらかさが、
むしろ自然の法理にかなうのではないだろうか。
 
一個だけバグったあの人工活字に入っていたのは、
どんな人だったのだろう。
気を落とさず、元気にしていてくれればいいのだが……。
 
 
 


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