Essay
日々の雑文


 47   20080630●野田昌宏氏追悼
更新日時:
2008/06/30 

20080629
 
野田昌宏氏 追悼
 
 
宇宙は野田昌宏でいっぱい
               
 
 
 
●大元帥とスペオペの落日
 
野田昌宏宇宙軍大元帥閣下
 
西暦2008年6月6日、天上へと旅立った閣下を迎える天使たちのBGMは、やはり星涯星系軍軍楽隊が奏でる『星海企業社歌』だったのでしょうか。
 
ハイパーCDブックと銘打った『GALACTIC PAUPER CORPS 』(1992)を聴き直してみました。閣下の代表作『銀河○○軍団』(時節柄、○○の文字は伏す)のイメージ交響曲と、短いラジオドラマで構成されています。
 
聴くにつけ、思います。
閣下は、ニッポンSF界にスペースオペラのフロンティアを開拓され、そこに絢爛豪華な宇宙帝国を建国され、そしてまた、スペオペの限界を達観され、滅びゆく帝国の落日を静かに背中に受けとめられた、最初で最後の帝王であられたのではないか、と。
 
閣下の代表作『銀河○○軍団』の第一巻が刊行されたのは1982年。その十年後に発売されたこのCDのリーフレットには、正編14巻、外伝4巻を数える大河シリーズとなった『銀河○○軍団』の表紙写真がならびます。
CD所収のミニドラマ『銀河○○軍団対スペオペ宇宙海賊』は、ですから、閣下のスペオペ世界観のエッセンスが詰まっているのですね。
 
いわく「シャンブロウ」「イクストル」「生け捕りカーライル」「ドーントレス・コメット」「エドワード・ハミルトン」「エドモンド・スミス」……
ああ、感慨無量、といったところです。
そうですね、閣下、本当に残念なことに、もう、これらのキーワードの出典を知る若者は、絶滅したと言ってよいでしょう。
バローズの火星シリーズから、ハミルトンのキャプテン・フューチャー、スミスのスカイラークやレンズマンに至り、ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』や『太陽系帝国の危機(ダブル・スター)』『ポディの宇宙旅行』、そしてアシモフの『暗黒星雲のかなたへ』や『銀河帝国の興亡』シリーズへと枝を広げた、あの巨大な世界樹のような雄渾無比のスペオペ世界は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
 
閣下の歴史的な名著『SF英雄群像』の副題は「古き良きスペース・オペラ時代」。
その表現のとおり、スペオペの胸躍る魅力は、いまや古き良き時代の思い出にかすんでいくかのようです。
 
つくづく、思うのです。
大元帥閣下は、まさにニッポン・スペオペのパイオニアであり、同時にラストエンペラーの役まで務められたのだなあ……と。
 
 
●美少女の宇宙
 
野田大元帥閣下の『銀河○○軍団』が刊行されていたのとちょうど同じ時期に、全国的に一世を風靡したスペースオペラ大作がありました。
田中芳樹氏の『銀河英雄伝説』ですね。
 
あくまで個人的な趣味ですが、どちらが好きかというと、私はやはり『銀河○○軍団』を選んでしまいます。
大元帥閣下のスペオペは、なんのかんのといっても、腕白な男の子の、明るく元気なスペオペでした。天真爛漫、夢と希望、愛と正義、恋と冒険のスペクタクルです。そして勧善懲悪に判官びいき、弱きを助け強きをくじく、鞍馬天狗や月光仮面といった男の子ヒーローに根ざした、反権力の世直しドラマでもありました。主人公たちはあくまで庶民であり、社会の支配階級がさりげなく剥出しにする偏見と横暴に対して、知恵と体力を絞って対抗するバイタリティの持ち主だったのです。
 
現実に「世の中を良い方へ変えていく」のは、たぶん、そういった人たちであろう、と、閣下もきっとそうお考えであったことでしょう。
欧米のスペオペの源流にも、そういった物語が秘められていたはずです。快傑ゾロやロビン・フッド、スパルタカスのような、虐げられた人々を救う英雄の、誇り高き物語。
 
『銀河○○軍団』第一巻のあとがきに大元帥閣下が書かれた「私は子供の頃からアンデルセン童話というやつが大嫌いだった……」のくだりは、“言われなく不幸を背負わされる弱者を、それであきらめるのでなく、救いに駆け付ける”というカッコイイ物語として、閣下のオリジナル・スペオペがスタートしたことを物語っているのだと思います。
 
しかし、世間の大衆読者が支持したのは『銀河英雄伝説』の方でした。
ある意味、慚愧の念にたえません。
『銀河英雄伝説』は星間国家の支配階級同士の、いわば貴族的な戦いの絵巻であり、毎回の合戦ごとに戦死者数が万人単位で記されるお話です。そのことを非難するつもりは毛頭ありませんが、一読者として「戦争を上手にやって勝てばよい」で終わることはできないのではないか……という疑問が常につきまとっていました。
戦争をテーマにしたお話は「いかにして戦争を終わらせるか」という難問を抱えます。
その難問に、いかなる名解答を見いだしてくれるかが、そのお話のたいへん重要なポイントとなるのですが、しかし……そこまで書き尽くしたお話には、まだ出会うことができていないというも、事実なのです。
 
ともあれ閣下が『銀河○○軍団』で描こうとされていたスペオペのヒーロー像が、大衆読者に理解される前に、大衆読者の中身の方が変質してしまったとみることもできるでしょう。
 
80年代から90年代にかけては、じつは映像の世界こそスペオペ花盛りでした。『スター・ウォーズ』『スター・トレック』『エイリアン』、人々の目は宇宙を見上げ、『未知との遭遇』『E.T.』『スペースキャンプ』も強い印象を残しました。
 
しかしその一方で……
ニッポンのスペオペ映像は「実写でコケて、アニメでヒットする」という結果となりました。『ヤマト』『ガンダム』が基礎となり、その上に積み上がったのは『マクロス』『トップをねらえ!』に『無責任艦長タイラー』『機動戦艦ナデシコ』……
決して、悪いことではありません。
いずれの作品も戦争を扱いつつ、「いかにして戦争を終わらせるか」というテーマに、結構真剣に取り組んでいたのです。
また、スペオペではないにせよ、子供向けSFアニメとして『未来少年コナン』『ふしぎの海のナディア』など、正統的に「人間いかに生きるか」といったテーマをものした傑作も現れていました。
 
しかし、悲しいかな、それらの作品を受け入れていく視聴者の価値観が、意外な方向へと変質していったように思われてなりません。
あらゆるテーマもストーリーもブッ飛ばして、人気の頂点に立ったのは、美少女キャラクターでした。
オタクという名を冠されつつあった大衆の頭に残っていったのは、結局、「戦う美少女」のイメージだけだったのではありますまいか。
90年代を席巻した『美少女戦士セーラームーン』のイメージが重なったのも、功罪半ばするものがあることでしょう。
迎えた21世紀に生き残った、ニッポンのスペオペのキャラクターは、『銀河○○軍団』が描こうとしていた古典的スペオペのヒーローではなく……
「戦う美少女」だけだったのです。
 
原因はなにか。
おそらく、病気にも似た、“想像力の欠如”という現象……
 
西暦2008年の今、スペースオペラの主人公として、いや、およそすべてのSFアニメの主人公として活躍しているのは、アキバにあふれる、蠱惑的な美少女キャラです。
賢く、優しく、強く、そして苦しみながら誇り高く歩もうとする男の子の姿は、どこにもありません。
往年の宇宙アニメで「戦争をやめろ!」と宣言した遊星仮面や、宇宙少年ソランや、ワンダー・スリーの面々は、21世紀のアニメの主人公たちにDNAを残すことが、とうとうできなかったのでしょうか。
 
数年前にイラクで人質になり殺害された青年を「自己責任!」と糾弾して見捨てて以来、ニッポンの国民は、男の子に冒険などさせずに、この国の中に閉じこもり、仮想の美少女を相手にゲームをして過ごすことしか許さなくなってしまいました。
 
例えば坂本竜馬のように、大志を抱いて世界に雄飛し、世界平和のために革命的な行動を起こそうなどと理想に燃える男の子はたちまちテロリスト扱いされるご時勢になってしまいました。それどころか、海外旅行ひとつする前から、オトコとしてスポイルされてしまいかねない、それほど閉塞した社会に、私たちは生きているのかもしれません。
 
スペースオペラは、その物語スケールを追求すればするほど、人がいかに生き、社会をいかに変えていくべきか、そして人はどこから来て、どこへ行くのかという根源的な自己存在を問う作品になっていきます。
 
それこそが、スペオペの魅力であり、SFの魅力でした。
 
今の社会は、そのような想像力すら、奪い去っていきます。
他愛もないスペオペの存在すら、許す余裕を失いつつあるようです。
 
大元帥閣下……こんなニッポン・スペオペの未来を、いかがご照覧でしょうか?
 
 
●残された遺産……江戸前スペースオペラ
 
ニッポンのSFに、野田昌宏大元帥が残された遺産であると、はっきり言えるものがあります。
 
もともと米国パルプマガジンのスペオペの源流は、ホースオペラ……西部劇でした。
であるからして、大元帥は代表作『銀河○○軍団』を書かれるに際して、ニッポンのスペースオペラたるその作品の原点を、ニッポンの時代劇に求められたのでしょう。
 
第一巻から、宇宙の涯の星系なのに、奉行所や木賃宿といった表現がみられ、物語の設定も、強欲非道な悪代官に立ち向かう長屋の面々……といった具合で、大家さんのムックホッファを筆頭に、熊さん八つぁんにあたるのはロケ松や和尚でしょうか。
 
ニッポンの時代劇に根ざしたスペースオペラ。
まさに、江戸前のスペースオペラ。
それこそ、大元帥閣下が残された遺産というべきでしょう。
 
もちろん、里見八犬伝をモチーフにして『スター・ウォーズ』の向こうを張った国産スペオペ『宇宙からのメッセージ』がもたらした蹉跌の根深さはあるにせよ……です。歴史に残るあの滑稽なつまづきは、しかしもう三十年も昔のこと。そのトラウマは、もう克服されてもよさそうなものですね。
 
ただ、スペオペの下敷きとなるべき時代劇は、鎖国の江戸時代よりは、黒船来航に始まり、幕末から明治、大正へと続く、ニッポンの激動を素材にした方が、より面白くなるのかもしれません。
 
また、閣下が残された偉業には、キラ星のように輝く数々の翻訳があります。
私が初めて読んだハヤカワの“銀背”は、閣下が手懸けられたキャプテン・フューチャー『謎の宇宙船強奪団』でした。失礼ながら主人公よりも宇宙船乗りたちのべらんめえなやりとりが愉快で、手に汗握りつつ、一気に読み終えたものです。
 
この刷り込みはすばらしく、それから出会うスペオペは同じくハミルトンのスターウルフからチャンドラーの銀河辺境シリーズまで、端から端までずずずいと、江戸前のスペースオペラというイメージがしっかり確立してしまいました。
 
ロケット乗りはべらんめえ口調でなくてはならない。
理屈抜きで、そういう文化を、大元帥閣下は構築なさったわけです。
 
もちろんそれだけではなく、哀愁あふれる船乗りの唄も……
『謎の宇宙船強奪団』の88ページで知った「俺らは寂しいスペース・マン……」に始まる歌詞がそのまま後年のアニメで歌われたとき、スペースオペラが隠し持つ“叙情”を垣間見た思いがしました。
 
ひょっとすると、人の心をしんみりさせるスペースオペラというものが、誰かの手によって登場することがあるのではないか。
宇宙の浪花節。泣けるスペースオペラというものが……
そんな、スペオペの意外な可能性まで、閣下は示唆してくださったのです。
 
そして、明らかに名翻訳と言うべき、ボブ・ウォードの『宇宙はジョークでいっぱい』。これでとうとう、NASAの職員さんやアポロの飛行士さんたちまで、べらんめえの江戸っ子になってしまいました。
まあ、それも良きかなということで……
 
とにかくこの本は全編、閣下の野田節が炸裂しまくりで、史実こそスペオペより痛快というべきか、実際はシリアスだったのでしょうが、閣下のおかげですべからく吉本もびっくりのお笑いエンタテイメントに仕上がってしまった観があります。
 
ええ、ですから私にとって「宇宙は野田昌宏でいっぱい」なのです。
 
特に印象に残っているのは、117ページ。
月面に探査機が軟着陸を試みるに際して、記者会見でこんな質問が。
「月面に厚い塵が積もっていて、降りた探査機が埋まってしまったら、どういうことになるのですか?」
NASAの責任者はこともなく答えます。
「月の表面が塵に覆われているという事実を学ぶわけです」
 
ああ、これだなあ。サイエンティストってこうなのだと、妙に納得させられる一言でありました。ジョークだけど、真実を突いている。つまるところ、未知の世界を探険するとは、こういうことなのだと。
 
 
●大元帥閣下の後塵を拝しつつ
 
野田昌宏宇宙軍大元帥閣下。
SFの世界に宇宙があるかぎり、爾後のSF作家は、誰もが閣下の歩まれた道をたずね、閣下が歩んでいこうとされた道を探って、歩み続けていくことでしょう。
 
閣下の名著『SF英雄群像』が上梓された1971年、ニッポンSFの未来は超新星のようにまばゆく輝いて見えていました。
 
それから十年あまりして上梓された『銀河○○軍団』のあとがきで、閣下はすでにこう述べておられます。
「いつの間にやら、宇宙……というものが、なにかひどく手垢のついた、ありふれた感じになってしまって(略)ワクワクするような興奮が、どうにも湧いてこないのである」
 
それから十年もすぎた90年代。
SFの宇宙は美少女に占領されてしまいました。
美少女を問題にするつもりはありません。
しかし……
宇宙に限らず、美少女しか思い描くことのできない“想像力の欠如”という恐るべき事態に、私たちは陥ってしまったのではないか。
そのことを危惧するのです。
 
そして21世紀。
SFの宇宙はもう、手垢どころか、納戸の奥でほこりをかぶったまま放置されている長持ちのようなものに堕ちてしまったのかもしれません。
長持ちの中には、いまさら使いようもない、昔のガラクタがいっぱい……
 
しかしそれでも。
 
『SF英雄群像』を再びひもといて思うのです。
SFの宇宙には、きっとまだ、未来は失われていないのだと。
 
長持ちの中に残る、いまさら使いようもない、昔のガラクタとはいえ、それにはひとつ、大きな価値が残されています。
おそらく現代の若者たちは、『SF英雄群像』に語られているヒーロー、ヒロインのことを、ほとんどだれも知らなくなったことでしょう。
20世紀のスペオペのルーツを知る人自身、すでに希少な存在であるはずです。
 
だからこそ、価値が生まれる。
だれからも忘れさられたときこそ、それは貴重な価値を再び、取り戻します。
 
なんとなれば、
ルーツがあればこそ、未来を紡げるということ。
 
大元帥閣下が残された足跡は、そのことを示されていると思うのです。
 
スミスの『スカイラーク』シリーズが初めて掲載されたアメージング・ストーリーズ誌は1928年8月号。
それから80年。
人類は進歩したでしょうか?
科学は進歩したとしても、そのことで幸福になれたのでしょうか。
銀河○○軍団の面々といった、強きをくじき弱きを助ける、鞍馬天狗や月光仮面のような正義の味方は、その仕事を完全にやり終えて、社会からお払い箱になったというのでしょうか。
 
否、むしろ現代こそ、この閉塞感を破る正義の味方を必要としているのではないか。
 
だからこそ。
スカイラーク号が宇宙へ飛び立った80年の過去をふまえつつ……
21世紀のスカイラーク号が、あるいはドーントレス号が、コメット号が、そして〈クロパン大王〉が、新たな宇宙へと船出する日が、かならずやってくると信じてやまないのです。
 
 
 
 
 
 


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