Essay
日々の雑文


 44   20080503●雑感『オタクは終わった』
更新日時:
2008/05/04 

 
 
 
オタクは終わった
 
 
岡田斗司夫氏の新書『オタクはすでに死んでいる』が上梓されて、世のオタクたちは「はいこれまでよ」とばかりに死亡宣告されてしまった観があります。
 
オタクは滅びた。安らかに眠れ、オタクたちの屍よ。
 
ああ、すっきりした。
 
オタキング自らがオタク絶滅を宣言されたことで、なんとなく吹っ切れたような、さわやかな清浄感すら漂ってはきませんか?
 
世の中に、アニメやSFのファンを蔑視するが如く「オタク」の呼び名がはびこってから、はや四半世紀。もう25年くらいにもなるのですよ。
 
最初は、変り者だけど特殊な能力を秘めた“無名のエキスパート”として、いささか畏怖の念すら込めて呼ばれていた「オタク」でした。
しかし21世紀という言葉がすっかり新鮮さを失った昨今、「オタク」からイメージされるのは、アキバでメイドカフェに入り浸り、美少女フィギュアを愛玩して「萌へ、萌へ」とつぶやくことしかできない、社会に背を向けた自己チュー集団……ということになってしまいました。
 
すべてのオタクがそうとは言えませんが、もうこれだけ陰湿なイメージが固まってしまったならば、それでもなおかつオタクに固執して、オタク道に励む意味はなくなったと考えてもいいでしょう。
 
そこへきて、オタク王国の国王陛下から御聖断が下されたのです。
「オタクは死んだ。オタクの時代は終わった。オタクを捨てて、起てよ国民!」と。
1945年8月15日に悲惨な戦争を終わらせた、あの畏れ多い陛下のお言葉の如く。
 
見事なタイミングと言うべきでしょう。
今が潮時なのです。
空気を読むべきときなのです。
 
そう、発想の転換。
もういいかげん「オタク」なる概念を自ら脱皮して、違う何かにさっさとリセットすべきときが、やってきたのです。
「終身オタク」を決め込んできたあなた。
今すぐオタクを廃業しないと、時流に乗り遅れてしまいますよ。
 
2008年4月をもって、オタクは時代遅れの「ダサいオヤジ」と同義になったのです。
これまでオタクだったあなたに、多少とも人に先んずる意欲が残っているならば、ただちに「萌へ」を捨ててオタク人生をジ・エンドにしましょう。
こぞって「脱オタク」をカミングアウト。
そして生まれ変わるのです。
何に?
まあ、それはそれとして……
 
オタクが滅びた原因は、はっきりしています。
とても単純です。
古くはローマ帝国やヒトラーの第三帝国、あるいはニッポンの旧軍隊が滅びていったプロセスと同じです。いや「組織」と呼べるものは、すべてが直面しがちな、あまりにも単純な滅びのプロセス。
 
このことを、今一度、確認しておきましょう。大事なことだと思うのです。
オタクは、なぜ滅びたのか。
 
「手段が目的化してしまった」からなのです。
 
国家とは、国民がより良く生きるための手段です。国家が永続しても、国民が全滅したら、何の意味もありませんからね。
 
軍隊とは、国民の生命や財産を守るための手段です。軍隊が大きくなるために戦争して国民を死なせたら、何の意味もありませんね。
 
会社とは、つまるところ経営者と従業員が食べていくための手段です。会社を潰さないためといっても、従業員が給料をもらえなくなったら、会社から逃げてしまいますね。
 
そんなことはわかっているはずなのに、いつのまにか手段を目的化して、国が滅び軍隊が玉砕し、人々が職を失い路頭に迷う惨劇が繰り返されてきました。
 
そして、オタクも同じ道を歩んだのです。
 
もともと、オタクであることは、その人の趣味の領域でした。
私はSFが好きだ。アニメが好きだ。変人変態呼ばわりされても、悪いことをしているわけじゃない。同好の志と交わり、人生を豊かに生きよう。そしてできれば、好きな分野で認められたい。SF作家になろう。アニメ作家になろう。
 
昔、不本意ながら「オタク」呼ばわりされてしまった人々は、そんなココロザシをもっていたと思います。
オタクは、より良く生きるための手段の一部だった。
自分はSFやアニメが好きなだけ。オタクというレッテルを貼られるのは嫌いだ。
いつかSFやアニメで自己表現するんだ!
 
そんな元気を感じられる人が、結構おられたように記憶しています。
 
しかしある時期から、オタクは決定的に変質していきます。
21世紀になってまもなく。
ニッポンのお役所が「コンテンツ産業」なる魔法の呪文で、オタクたちをもてはやし始めた頃からです。
いわくジャパニメーション。ニッポンのアニメやマンガやゲームは国際的に有望な利権分野である。国をあげてテコ入れするから、集まれオタクたち。きみたちが21世紀の最先端の消費者なんだ!
 
すっかり乗せられてしまったオタクたち。
なにしろ消費者は神様です。
オレサマたちが、ニッポンの先端文化を担っているのだ。
萌へよオタクたち! オレたちは偉いんだ! 永年待ち望んだオタクの天下がやってきたのだ。
このときすでにオタクの主要年齢層はおそらく40代になりかけだったでしょう。
オタクはいい年をしたオトナばかり。
すなわち票田。ということで、オタクに媚を売る議員さんまで現れたとか。
 
そんなことで、すっかり舞い上がって、気分はデスラーかギレン・ザビ。
みんな総統気取りになってしまった……のではありませんか?
 
おりしも、おたっきーなアニメイラストなんかが、超高額で美術館へ買い取られたり、展覧会が開かれたりで、オタクの権威はウナギ登り。
 
オタクはニッポン文化をリードする。
オタクは偉い!
 
これがいけなかった。
この慢心と蒙昧が。
 
このときオタクたちは思ったのです。
おれたちは一生、オタクでよいのだと。終身オタクでよいのだ。
オタクこそが絶頂の人生。永遠の快楽ではないか。
ならば人生の目的は、ナンバーワンのオタクになること。
自分の仕事も家庭も、オタク人生をレベルアップする目的の前には霞んでしまいます。
 
そう、これこそ、本来“手段”であったオタクの目的化。
哀れオタク。ここに底無しの落し穴が口を開いていたのでありました。
 
問題は、「オタク」という概念に、まともな定義すらなかったこと。
アニメ、マンガ、ゲーム、SF、ミリタリ、ファンタジー、やおいにサドマゾ、百合や薔薇、エログロスカトロ、綺麗なものから臭いものまで、何でもかんでもオタクでひとくくりにされていたのです。
 
そんなわけで、「めざせオタク・ナンバーワン」と決意しても、ナンバーワンになんか、なりようがありません。内容が体系化されていないのです。ごちゃまぜのゴミ箱状態。
そんなところでナンバーワンになったとしても、なにひとつ偉いわけではないのです。
 
なんとなれば……
「オタク」はしょせん「消費者」の一概念。
そのレーゾン・デートルは、懐の中のお金なのです。
ガンプラやDVDをせっせとオトナ買いしてくれて、メイドカフェに投資してくれることで何千億円の市場が創出されている。
そのことが、オタクの存在意義になってしまっているのですから。
「消費者」の中で偉い人は、より多くのお金を使ってくれる人、それだけなのです。
(ところで「賢い消費者」はまた別概念ですよ。念のため)
 
そんなわけで、オタク世界の中では、だれが偉いのか、そうでないのか、もともと区別のつけようがないのです。
ただ唯一の例外は、岡田氏。オタキングの存在です。
オタキングは別格。特別なオタク。
こればかりは厳然たる事実とされてしまいました。
しかし本当は、岡田氏は単なるオタクの世界から飛び離れた、雲上の存在なのですが。
そこを理解せず、とにかくオタクのナンバーワンが存在する! ってことになってしまいました。
ならばナンバー・ツーも存在できる!
この幻想に、オタクたちは踊らされてしまいました。
 
ということで、オタク同士の競争が始まります。
「おれの方が、あんたよりも偉いオタクである」
そのことを、必死でアピールしたがるようになってしまいました。
オタクであることが、単なる手段ならば、そんな競争は起こるはずもないのですが、なにぶんオタクこそ一生の目標になってしまったものだから、当人は真剣です。
 
そのころでしょう。
オタクたちが、会話相手の知識不足を指摘しては「なんだ、そんなことも知らないんですか」と、あからさまに吹聴するようになったのは。
 
そもそも、オタクの中で、偉いも偉くないもありません。
しかし、それでも差をつけようとすると、相手の欠点をあげつらい、見下してバカにする方法しかなくなってしまうのです。
 
だいたい、ミリタリ好きとアニメ好きが会話したら、互いに相手の知らないことを知っているはず。それを発見しては、「なんだ、そんなことも知らないんですか」とやりあう姿を、ちらほら見るようになってしまいました。
 
そんな世界に、オタクは単なる手段と考えている人が入り込んだら、思いっきり疲れてしまいますね。自分は終身オタクになるつもりなんかないのに、「おれの方があんたよりも格上のオタクなんだ」みたいな言葉を聞き続けるはめになってしまうのです。
 
さらにもうひとつ。
「終身オタク」を決意したとたん、その人は、ある宿命にとらわれてしまいます。
オタクであり続ける限り、クリエーターにはなれないということ。
より偉いオタクになることを人生の目的にすることは、それでおしまいということ。たとえばアニメやマンガやゲームの作家になるという目的を放棄していることなのですから。
 
したがってそのオタク氏は、オタクである限り、クリエーターの下位にしか位置づけられないのです。なんとも冷たい現実ですが、クリエーターではなくオタクであることを目的にしてしまったら、そうなるしかないのです。
 
しかしそこでまた、困ったことが起こります。
クリエーターよりも偉くありたいオタク氏は、手近なクリエーターに対してやたらめったら「ツッコミ」を入れて、クリエーターよりもオタクの自分が偉いことを誇示しようとするのです。
それも個人の自由といえばそれまでですが、標的にされたクリエーターにとっては、迷惑そのものですよね。
 
哀れクリエーター氏、何も悪いことをしていないのに、ネットの上で匿名のオタク氏たちからあることないこと、上品とは言い難いウワサ話のネタにされてしまいます。
 
こうなると、さすがに付き合いきれないとばかり、オタク世界から脱出する人が続出してきます。本来、アニメやSFやらを自分が好きで楽しんでいるのに、オタク世界に身を置いたら、「そんなことも知らないんですか」とバカにされ、あるいは自分の好きな作家をクソミソにコキおろす声を聞くはめになってしまうのですから。
 
そしてもうひとつ。
若い人ほど、そんなオタク世界の雰囲気を敏感に察しています。
若者たち、むしろ本当にアニメやSFを愛する若者ほど、オタク世界への入門を避けて、もっと合目的的な人生を歩んでいることでしょう。
このまま、あと二十年もしたら、オタクたちは老人ホームの片隅の住人になり、社会からすっかり忘れられてしまうのではないかと思われます。
 
だから、賢いあなた、まだ間に合ううちに、さっさとオタクをやめてしまいましょう。
オタクとは、人生をより良くする「手段」にすぎないのです。
それも、数ある多くの手段のひとつでしかありません。
もっといいやり方も、いっぱいあるはずなのですから。
 
かなりキツイ書き方をしてしまいましたが、岡田氏の『オタクはすでに死んでいる』の背景には、オタク世界の外に目を向けず、互いをコキおろすことでしか自己実現できない終身オタクの悲しき世界が見え隠れしてくるのです。
 
この閉塞した状況を打破するには、どうすればいいのか。
岡田氏の回答は明白であるように思うのです。
 
オタクをやめよう。
 
きっと、すっきりしますよ。
 
では、次に、何になればいい?
 
それは、自分で見つけるしかありません。
でも、あまり迷うことはないでしょう。
この社会、自分の力でなんとかしたいことが、あまりにも多いはず。
そして、儲け抜きでやりたいことも、いくらでもあるはずなのですから。
 
 
 


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