Essay
日々の雑文


 42   20080106●雑感『謹賀新年2008「疑うを知る」年』
更新日時:
2008/01/06 

20080104   お正月の空
 
謹賀新年2008  「疑うを知る」年
 
 
●ニセモノっぽいお正月
 
年始の三日間、旅に出ました。家族旅行。格安。
おせちを食べずに洋食屋でカレー、お屠蘇代わりにホテルの部屋でコンビニのウイスキー、初詣を後回しで遊園地へ行けば、さまざまな言葉を話すアジアの異人さんで一杯です。ニッポンのお正月は、もはやニッポンのお正月でなくなり、残るのは年賀状と福袋と帰省ラッシュくらいになりました。
 
昔のお正月は、なんだか精神的に静かで落ち着いた清々しさがあったようにも思いますが、昨今のお正月のお正月らしくなさ。ちょっと、これでいいのかいう気もします。ほんの四半世紀前あたりまで、正月の三が日は、お店はみんな休みで、初詣以外はやることがなかったんですから。
 
そう、本来、ニッポンのお正月は旧暦のはず。グレゴリオ暦の2月に相当していたものを、明治の文明開化で、お役所が無理矢理に西洋風の1月に改めたものだから、現代のお正月そのものが、これではニセモノのお正月ってことになってしまうのですな。
 
初詣で賑わう神社ですら、あの「商売繁盛笹持って来い」の福娘の皆さんは昔からの風習ではなくて、ある種のイベントとして戦後に誕生したものといいます。これはある意味コスプレ・サービスとも考えられますから、神社のテーマパーク化というか、アキバ化ともいうべき現象は、神社が自ら招いたものかもしれませんね。
 
そう考えると、いったい何がホンモノなのかニセモノなのか。
 
 
●ニセモノ暴露、その裏の不信感
 
去る2007年はニセモノが横行した年でした。一年を象徴する漢字が「偽」であったことからして、いかにニセモノ気分が吹き荒れたか、想像するに余りあります。
食品の成分表示の偽装、賞味・消費期限の改竄、ブランドの偽り、建築物の耐震性偽装、建築資材の強度偽装、いわゆる“消えた年金”の処理問題、海自のインド洋での給油量の錯誤だか隠蔽だかわからない問題、現役大臣の「ナントカ還元水」、療養中の横綱が故国でサッカーに興じる姿、某国製品の著作権問題や食品の安全性の問題……
 
しかしそれを「2007年はニセモノの年」と言い包めてしまったら、そこで思考停止してしまいます。見落としてはならない事実は、数多くの偽装問題が今に始まったことではなく、過去20〜30年という長期にわたって続けられてきたということ。それが昨年あたりに急に明るみになったのはなぜなのか。
 
ニセモノが暴露された、その現象の多くは外部ではなく“内部告発”によるものであろうと思われます。パートやアルバイトの人も含めて、企業の不正な偽装を知った内部者が社会に向けて告発する。その手段としてネットが多用されているらしいことも、二十世紀の内部告発とは違う、昨年の特色と言えるでしょう。
 
その背景に、次の二点があります。(1)終身雇用の崩壊によって非正規雇用が蔓延し、告発をためらう理由がなくなったこと。来月、クビを切られているのかわからない雇用状況で、企業の不正に加担して“共犯者”になるよりは、告発の道を選ぶ人が増えた。(2)企業や組合や役所の窓口が最初から信頼できず、匿名でネットを通じてマスコミへ告発する人が増えた。
 
言い換えれば、こういうことでしょう。企業の経営者が従業員から信頼されなくなり、そしてまた、正義の告発の受皿すらも信頼されなくなったこと。
 
ニセモノが横行する時代、それは、人が人を信じられなくなる時代であること。
 
2008年はまさに、“不信の時代”に本格的に突入する年だと思えるのです。
 
 
●正直者は“必ず”バカを見るなんて……
 
個人的な感想ですが、2007年を代表するニセモノを三つ撰ぶならば、(1)“消えた年金”を全部確認すると言った“公約”。(2)偽装ミンチ肉事件。(3)中国の“段ボール肉まん”騒動。でしょう。
 
問題はその結末です。
(1)できると信じたあなたが悪い。(2)従業員はあっさり解雇。(3)マスコミの捏造だったとか……
 
どれをとっても、責任の所在がうやむやになった感覚が残ります。被害者も加害者も、そもそも何がどのようにニセモノであり、その責任はどこの誰にあるのか特定されることのないままに終わっていきそうです。
 
食品偽装を例にとれば、ニセモノが明るみに出たのち、その企業の経営者が「パートがやった」「納入業者のせい」と言い訳し、あるいは「どこが悪い」「安い値段で品質にこだわる消費者も悪い」と開き直り、結局は事業を縮小するか会社を解散して、従業員が失職して路頭に迷う……という結末を迎えています。
 
ニセモノをホンモノと信じて高く買わされた消費者と、やむにやまれず告発して職を失う従業員、そして、真面目にホンモノの食品を作った結果、ニセモノとの価格競争に破れて去った良心的な経営者は、だれひとり救われていません。
 
正直者はバカを見る……という戯言がありますが、2008年は本当に「正直者は“必ず”バカを見る」年になるのかもしれませんね。ニセモノだらけの今日、確かな真実は「正直者は必ずバカを見る」ことだけというのは、あまりにも情けないのですが……
 
まだまだ暗さが続く2008年。しかし数少ない良いことは、あまりものニセモノ横行で、私たちが「疑うことを知る」ようになったことでしょうか。人を信じられないこの時代に唯一の望みは、私たちが「疑い方」を知って、「その結果、ホンモノを知る」ことに尽きるのではないかと。
 
 
●となると、やはりメタボも……
 
さて2008年に大きなニセモノ騒動になるかもしれない、と心配するのが、厚労省による「企業に対するメタボ対策の義務化」ですね。
念のためお断わりしますが、これはあくまで私の主観による個人的な見解であり、創作的妄想とご理解下さいね。
 
「腹囲85センチ以上の男性はメタボリック症候群である」という認識だけがひとり歩きした(本当は腹囲以外にも条件がある)状態で、厚労省が各企業に義務付ける「メタボ対策」。ご丁寧に、対策が一定の効果を上げられなかった企業の健保組合等からは、ある種の罰金に似たものを徴収するとか……
 
もちろん反論はしません。しかし、信じるに値するかどうかは、個人の見識の問題でしょう。
 
「腹囲85センチ以上の男性は……メタボである」
さて、あっさりと信じてよいものやら。
身長が150センチ台から180センチ台くらいまでの幅があるのに、一律の腹囲で、ナントカ症候群を宣言して、ビョーキ扱いしていいのか。
なんといっても厚労省。
いわゆるハンセン病に関わるあの悪法、薬害エイズ、薬害肝炎、タミフル疑惑といった数々の前科に、しかも年金問題まで傘下に抱える厚労省。
おっしゃることを鵜呑みに信じてよいのかどうか、むしろ疑わない人が不思議に見えてくるのがフツーではなかろうかと。
 
もちろん、健康であるために肥満を解消しましょうという提言に反論するつもりは全くありません。個人の判断でさまざまな肥満対策をするのは結構なことです。“メタボ侍”と称して、死者が出たりもしましたが……
 
しかしながら、「腹囲85センチ以上の男性は……メタボである」という断定が、科学的かつ客観的に立証された真実かどうか、私にはわかりません。肥満学会や、その他の医学的な学会で、どこまで国際的な信憑性が認められているのか、私にはわかりません。そもそも、メタボリック症候群という“病”がどのようなものであり、何がどのように危険であって、その対策にどのような緊急性があるのか、私には理解できかねるのです。
メタボ対策によって、どのような疾病にどの程度の予防効果があり、そしてもっと大事なことは、「どのような疾病に対しては予防効果がないのか」ということ。メタボ対策の限界を明確にしなければ、メタボ対策の意味がさっぱりわからなくなってしまうのです。
 
しかし誰からも親切な説明はなく、そもそも自分の健康というきわめて個人情報に近い分野であるにもかかわらず、疑問を提起することは歓迎されないようです。健康な社会ならば、法案を通す前にいや違う、それはおかしいといった議論があるはずなのに、それがないまま。ここは十分に注意して「疑うことを知る」べきではないかと感じるのです。
 
だって、腹囲85センチを境に、太くて健康な人もいるでしょうし、細くて不健康な人もいるはずですから。
 
第一、国技館で行なわれている伝統的なニッポンの国技はどうなるのか。
厚労省の基準ならば、あの人たちはみんなメタボでビョーキ?ということになりますね。それならば不健康なニッポンの国技にはウエスト制限を設けて、腹囲85センチ以上の関取は土俵に上がってはならないと、厚労省は指導なさるべきでは?
また「きょうの健康」を放映するNHKが、あんなメタボな不健康スポーツを放映していいのでしょうか? と、素朴に疑問を感じてもおかしくはないでしょう。
 
もひとつ大きな問題は、逆に「腹囲85センチ未満の男性は……メタボでない」という断定がひとり歩きすることですね。
腹囲85センチ未満の男性であっても、いわゆる“生活習慣病”(この名称そのものも、大変不適切だと思います。本人の生活習慣がすべての原因であると断定できるのか。もしもかりに、薬害に起因する糖尿病や心臓病や高血圧があれば、それを隠蔽するために“生活習慣病”と名付ける戦術もあると疑ってかかるべきでしょう)にかかっている人と、これからかかるリスクはどうなのでしょう。ゼロではないはずです。
 
ある意味恐ろしいのは「腹囲85センチ未満の男性」が、メタボでないから健康とばかりに安心して、病気の早期発見のための検査から漏れ、結果的に疾病リスクが高まってしまうことですね。メタボ対策に成功したから、その人が健康になれるとは、だれも言っていないのですよ。
 
 
●忍び寄る、次なる恐怖
 
そしてもっと、忘れてはならないことは……
 
何のために、私たちは国民健康保険に入っていて、保険料をきちんと払っているのか、ということです。
当然、病気やケガをしたときに、適切な治療を受けるためですね。
病気やケガは、命に関わります。だから、その原因を問わず、まず治療してもらえる。そのために保険料を支払っているはずです。
 
だから、病気になった原因が自分自身にあったとしても、治療を受けることができなくてはなりません。タバコを吸っていてガンになったからとか、不注意で事故に遭ったからとか、登山で凍傷になったとか、自殺するつもりでクスリを服んだり手首を切ったからといって、「それはあなたの自己責任だから、保険はききません」とか「自己責任は追加料金をもらいます」とやられたら、たまったものではありませんね。命に関わる事態に立ち入っているのに「不可抗力か自己責任か」を確かめていられるはずがありません。
 
ですから、本人が「腹囲85センチ」以上であろうがなかろうか、保険料や治療代に差別があってはなりませんね。疾病リスクの高さを理由に差別するならば、まず喫煙者や老人が標的になるでしょうし、そんなことがあってはならないのです。ならば、健康な人は保険制度上優遇すべきということになるでしょうか。保険料を支払いながら、長期間医者にかかっていない人は、保険料が割引されてしかるべきという考え方になりそうですが、そんなことを言ったって、今健康な人が数分後に交通事故に遭って、重い後遺症に苦しむことになるかもしれません。そんなリスクが読めないからこそ、普段、医者にかかることがなくても、万が一を思って保険料を支払うのです。
 
今日は健康でも、明日は重病かもしれない。
その不安を国民が等しく分かち合うことで、国民健康保険は成り立っているはずです。
 
そこで、ひるがえって「メタボ対策」を眺めてみましょう。
企業がメタボ対策に一定の成果を上げられなかった場合に、一種の罰金を徴収する制度がこの四月から実施されると聞きます。
メタボの人はビョーキになりやすいから保険制度の負担になる、だから罰金を払いなさいという発想ならば……それは、事実上の、健康保険料の値上げではないのか?
 
事情が複雑すぎて私にはよくわかりませんが、将来、「疾病リスクの高い人はより多くの健康保険料を支払いなさい」という考え方に流れていきそうな予感がして、不気味な不安にとらわれてしまいます。
「リスクの高い人は多くの保険料を払う」というのは、一見、正しい考えに見えます。しかしそれなら、病気になりやすい子供や老人、あるいは遺伝因子を持った人の保険料を値上げしていいのか? また、長時間残業して疲れている人は疾病リスクが高くなるからより多く払うべきなのか? そんなはずはないと思うのですが……
 
もしも、ディストピアな未来のイフのひとつとして、「リスクの高い人は多くの保険料を払う」という考え方が国民健康保険を支配したら、確実に、子供や老人や貧困者といった社会的弱者ほど保険料が高くなり、そういった人々を結果的に健康保険制度から排除してしまうことになるでしょう。
 
あるいは逆に、「メタボな人は疾病リスクが高まるから、リスクを引き下げるために腹囲を85センチ未満にしなさい」というのなら……
なぜ、メタボの人だけが疾病リスクを引下げなくてはならないのか。
タバコ撲滅と、有害排ガス車の撲滅の方が先ではないのか。
アスベストの完全除去と、悪名高い薬害の防止の方が先ではないのか。
そもそも、疾病リスクがあるからこそ国民健康保険の保険料を支払っているのであって、腹囲を85センチ未満にしてリスク軽減したら、保険料を割り引くべきではないのか。
 
なんだか、変。
こうなれば、メタボの大合唱が仕掛けられている陰には、なにかもっと重要な大問題がカモフラージュされていると疑ってみたくもなるというものです。
国民健康保険の意義そのものが変質しかねない、なにか大きな問題が、そこに隠されているのではないか?
もしも、あくまで仮定ですが、そのような問題があるとしたら……
それは、国民健康保険の、事実上の無機能化というべき姿なのかもしれない……
 
そうならないことを祈るのみです。
 
格差社会の“格差”が明確に現れるのは、「医療・教育・安全」の三分野。
社会的に貧しい層は、豊かな人々に比べて、まともな医療が受けられず、より高い教育の機会を失い、犯罪や民事介入暴力から守ってもらえなくなります。その最も恐るべき局面は、人の生死に関わる医療の格差でしょう。
 
すでにそれは、身の毛もよだつ形で、現実のものになりつつあります。
救急車で運ばれている妊婦や老人が、いくつもの病院で受け入れを拒否されて、ついに死亡という結果になる……という事件です。
いったい、どこの国のことなのか。これが先進国なのかと目を覆う事態です。
 
この事件を医療保険の側からみると、どうでしょうか。
国民健康保険の保険料を支払っているにもかかわらず、治療を受けることなく、本人が死亡する。これは、あまりにも非情かつ皮肉なことに、国民健康保険制度にとっては、財政的にプラスであると言わざるをえないでしょう。
保険料を支払い、かつ保険の権利を行使しないことなのですから。
 
「メタボ、メタボ」の合唱の陰に、国民健康保険の意義そのものに関わる、なんとも不気味な、恐るべき未来が静かに忍び寄ってくるかのようです。
 
そんなことはSFと何の関係もないと思われるでしょうか?
いや、おおありでしょう。
着々と現実になりつつある、恐るべき医療・教育・安全の格差。
それが私たちの未来社会だとしたら、SFはその恐ろしさを警告し、そのような現実と戦う使命があるのではないかと思うのです。
 
 
●KYで行こう
 
2007年は「空気を読めない」人が槍玉に上がった年でもありました。その場の雰囲気から浮き上がった人は「KY」と呼ばれて、野次られ、笑い者になりました。
その代表的な人物が、総理の座を突然に投げ出したA首相であるとされます。
 
しかしながら……
私は疑います。
周りの空気が読めなくて、どこがいけないのか。
悪いことをしていなければ、別に、いいではないか。
 
そもそも一生懸命に周りの“空気”を読んで、それで、どうするというのか。
周りの人々の得体の知れない“空気”を読むことに汲々として、無難に大勢につき、強い側に回って損しないようにして、周りきれなくて恥かいた人を「KY」と指差し嘲笑うだけでおしまいというのなら、そんな生き方に、何の喜びがあるというのだろうか。
 
「KY」の代表とされるA元首相。しかし彼の突然の辞任は、あとからみれば、この国の将来のために最も賢明な良い選択だったということになるのかもしれません。どのようなことでも、その場限りの“空気”なんかで、その後の結果の善し悪しを決められるはずがないのですから。
 
やたら“空気”を読みたがる人々は、ある意味、自ら自由を放棄した人々だとも言えそうです。本当に大切なことについては「見ざる、言わざる、聞かざる」で、あたりの様子をただ必死にうかがうことを優先し、そしてハミダシ者を見つけたら、それっとばかりに攻撃する。
これでは単なるイジメの構図にすぎないのでは。
 
そこに、自分自身の判断とか、自分の力による信念は皆無であり、新しく生み出されるものは何ひとつありません。
ただ、強いもの、多数のものに従うだけで、正しいかどうかもわからずに操られる、レミングのような烏合の衆がいるだけでしょう。
 
じつは私たちが「暗黙の了解」とか「空気」などと呼んでいるものは実体がなくて、ただ何者かによって操られているだけというケースが多いと思われます。
 
空気に振り回されてはならない。空気などに支配されてたまるものか。
KYでいいじゃないか、KYで行こう。
そう考えた方が、より自由でおおらかに生きられると思うのです。
 
歴史の中で本当の偉業を残した人々は、まず例外なく、KYな人たちでした。
おそらく、ゴッホもエジソンもアインシュタインも、シュリーマンも。
ナイチンゲールもキュリー夫人もマザー・テレサも。
野口英世も宮澤賢治も坂本竜馬も。
空気を読み、空気に従うのでなく、空気を作った人たち。
だから……
正しいと信じることならば、「KY」と笑われても、やった人たち。
たとえ百回笑われても、その中で一回成功できれば、それが人生の喜びとなるはず。
私たちが学ぶべきは、そういった人たちにでしょう。
 
 
●私たちを支配する3C
 
現代ニッポンの民主主義社会に生きる私たちが、まさか何者かによって操られていると実感する人は少ないでしょう。しかしこの社会の大衆は、少なくとも三つのCによって、がんじがらめに行動を制約されていると考えます。
 
第一のCは「クルマ(Car)」。個人所有の自家用車のことです。これがあれば移動手段が広がり、行動の自由が拡大したかのように感じます。しかし実態は、週に二日の休日しか使用せず、それもクルマがなければ自転車や徒歩で済ませることのできるケースも相当あるのでは。単なる移動手段として割り切るならまだしも、なんだか愛着すら感じてきれいに洗い、好みのアクセサリーを追加し、動くリビングルームと化した上、本当に必要として使うのは年に数回とか、毎日通勤に使っているとしても一日一時間以内とか。なのに燃料代や整備費用、税金、ガレージ、それに車体の買い替えなど、少なからぬ時間と空間とお金を費やしている。……実は持たなくてもそれほど困らないのに、所有することに喜びを感じている状態になってしまったら、その人はクルマを養い続けるために生きているようなもの。逆に言えば、クルマに支配されているのです。
 
第二のCは「クレジットカード」。借金が可能なカードのことです。ご利用が計画的でなくなったら最後、生活のすべて、ともすれば人生すらカード一枚に左右されかねません。現金を持たなくていい便利さは、裏返せば、自分の財布の中にいくら残っているのか、視覚的に見えなくなるということ。しかもカードをなくしたり、奪われたりすれば、預金のすべてを失う危険に直面します。一枚のカードを守るために生きているような状態になったとしたら、その人はカードに支配されていると言えるでしょう。
 
第三のCは「ケータイ(Celluler phone)」。言うまでもなく、他人に何かを指示命令するにはとっても便利な道具ですが、他人から何か指示命令されるならば、これほど人を束縛するツールはないでしょう。電車の中で暇を惜しんでメールをチェックし返信する人々の姿は、傍目に見て、決して自由を満喫しているようには思えません。誰かとつながり続けることで安心する。それが手紙や、直接会うことでなく、ケータイによるものでなくては満足できないというのなら、その人はケータイに支配され、ケータイに依存して生きていることになるのでしょう。
「ケータイなくして生きていられない」といったことを発言する子供たちのように……
 
 
●信じられる友は、いずこに
 
これが正しい、当たり前だと信じてきたことを、あえて疑わなくてはならない時代。
悲しいながら、それが私たちの現実なのでしょう。
 
たとえば環境問題。地球の温暖化対策。
もちろん、疑いもなく大切なことですね。
20世紀の京都議定書以来、ニッポンのお役所は「チーム・マイナス6%」と称して、温暖化ガスの6%削減を旗印にしてきました。
そこで徹底された、ゴミの分別収集。
家庭ゴミを何種類にも分けて、いちいち決められた日の決められた時間に出す。
リサイクル家電は、リサイクル料を支払って、引き取ってもらう。
そんな、細かな努力をだれもが続けてはや何年……
 
で、今、結果を聞けば、どうやらマイナス6%は夢のまた夢。結果はプラスだとか。
それどころか他国からCO2の排出権を買おうという始末。
 
はいそうですか、と納得していいのか。
だからこそ、「おかしい」と疑わなくてはならないのではないか。
 
一般市民として続けたゴミ分別。町内の資源回収や、ボランティアの清掃活動。
あるいは会社でせっせと続けた省エネの努力。
それらに、本当に効果があったのか。
結果を見る限り、効果はなかったことになるのです。
骨折り損のくたびれもうけだったとは。
 
ゴミの分別方法だけで一冊のマニュアルが各戸へ配布される時代。
そこまで徹底して、結果としてCO2削減効果がなかったということは……
 
何がどういけなかったのか、今のやり方をどう変えるべきか、検証しなくてはなりませんね。
ゴミを分別しても、そのあと、ゴミたちは最終的にどうなったのか。私たちはだれからも報告を受けていないからです。
本気で「地球にやさしく」あろうとするならば、今のやり方のままでいいのか、真剣に考え直さなくてはならないでしょう。
私たちの日々のゴミ分別の努力が、徒労に終わったというのですから……
ムダとわかったのなら、それを続けることがおかしいと気付くもの。
ムダの上にムダを重ねていないのか。ならば、どうすればいいのか。
 
そう、当たり前に繰り返していることを、疑ってかかるべき時代なのです。
 
それならば、逆に、本当に信じられることとは何なのか。
本当に信じるべき友は、誰なのか。
 
この素朴な問い掛けこそ、古くて新しい、この時代のテーマなのでしょう。
 
もちろん、SFにとっても、永遠のテーマであるはずです。
科学は、信じるに足る友情をもたらしてくれるのか、という……
 
 


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