Essay
日々の雑文


 29   20061021●雑感『さらば、オタク』
更新日時:
2006/11/04 

 
さらば、オタク
 
 
●ひとつの時代の終焉
 
ガイナックス『トップをねらえ!』の最初のOVAから
はや二十年……
ひとつの時代が始まって、
そして今、終わろうとしているのを感じます。
 
それは、“オタクの時代”。
 
1980年代、私の記憶の範囲では、
『超時空要塞マクロス』の初回スペシャルで、
主人公の少年が美少女ヒロインを「おたく」と呼んだときに始まった、
“オタクの時代”。
 
“オタク”は当初、
もちろん奇人変人として扱われましたが、
“宮崎アニメ”に牽引されたアニメブームの隆盛によって
マスコミに注目され、
1990年代には、アニメ、マンガ、ゲームと、
パソコンやネットが作り出したサブカルチャーの
トレンドの最先端を行く人々として、
社会的に前向きの評価を得るに至りました。
 
しかし21世紀の今……
“オタク”は間違いなく、
その社会的役割を終えようとしています。
 
そんなばかな、と一笑に伏す方も多いでしょう。
シーズン毎に続々登場するTVアニメ番組はもとより、
書店のライトノベルの棚も
ことごとく萌えキャラの媚態で席巻され、
コミック同人誌の祭典は数十万のオタクを集め、
アキハバラは不夜城の如く萌え立って、
メイドカフェや美少女フィギュアのお店には、
引きも切らずヲタク族が押し掛ける。
アニメ・マンガ・ゲームはオタク国家ニッポンの
有数の輸出文化ともてはやされ、
某文科省も某経産省も民間活用の音頭を取って、
“コンテンツ産業”などと得体の知れない
ジャンル名を冠しては、踊れ踊れの大合唱。
 
ニッポンはオタクの天下。
官民こぞって、いや軍も加わって
“萌えバブル”の様相すら見せています。
 
そう、だからこそ、そろそろ終わり。
これはまさしくバブル経済。
やがて泡とはじける運命なのです。
 
 
●何がはじけるのか
 
オタク市場がバブルだというのなら、
具体的に、何がどのように、はじけるのか。
 
一般に、ビジネスの市場(マーケット)を
構成する要素はだいたい、次の三つがあります。
@生産者 A流通者 B消費者
この三者のいずれかが経済的に行き詰まって
市場から姿を消すことによって、
全体の仕組みを破綻させてしまうのです。
 
では、オタク市場がはじけるとしたら……
私は断言します。
最初に破綻してはじけるのは、
@の生産者。
……すなわち、アニメやライトノベルといった作品を
これから作り出す若手クリエーターたちなのだと。
 
 
●作い捨てられる作品と作家
 
この二三年、レンタルビデオ店の棚では、
ビデオソフトが急速にDVDに置き換わっていき、
レンタル落ちしたビデオが一本百円で山積みされる時代になりました。
一本百円!
その昔は、壱万円以上もしていたソフトだというのに……。
これはアニメ作品でも同様です。
往年の名作アニメも「掃いて捨てる」が如し。
現在オンエア中の最新のTVアニメですら、
ワンクール13話でめまぐるしく入れ替わり、
それがどんな作品だったのか、思い出す暇もありません。
 
そして書店の棚にどっと出現し、ほとんどが一ヶ月で消えていく
大量のライトノベル。
その表紙はまず例外なく“萌え系”美少女キャラがポーズをとって、
萌えたがりのオタクたちに媚びを振りまいているかのようです。
ライトノベルの棚は、萌えキャラに完全占領されてしまいました。
 
大量生産され、即、大量消費される作品群。
 
この傾向がかくも激しくなったのは、そんなに昔のことではありません。
せいぜい2003年頃から……ここ三年くらいの範囲の出来事なのです。
(所謂メード喫茶の隆盛と同じ時期ですね)
景気の回復に歩調を合わせてやってきた、異常なまでの、
作品の飽和と膨張。
 
ここまでくると、さすがにゾッとします。
無数の若手作家たちが、まるで足の無い妖怪みたいに、
目の前をひゅうと駆け抜けて、消えていくのです。
 
筆一本で身を立てようと決意した
専業作家の人にとっては、弱肉強食の
サバイバル戦争そのものでしょう。
百倍、二百倍という難関の
コンテストを突破して首尾よくデビューできても、
大量の作品を書き続けなければ、来年すらありません。
 
このような状況にしてしまった犯人は、誰なのか。
 
それは必ずしも、出版社やアニメ制作会社の陰謀ではありません。
ニッポンはまがりなりにも、資本主義経済の国。
市場に君臨する最強の神様は、消費者……
作品の大量生産を求め、しかも、その内容よりも
“萌えキャラ”の過激さでモノを買う消費者の大群なのです。
作家は、消費者のオタッキーな価値観によって、
熱狂的に受けたり、あっさり無視されたりして、まさに
百円ライターのように使い捨てられているのかもしれません。
 
オタク市場の首を絞めつつあるのは、
そのマーケットの王様である、
オタク自身なのです。
 
 
●かつて、オタクは超人だった
 
その昔、といってもせいぜい十五年ほど前のこと、
“オタク”は最先端の人々でした。
当時のオトナたちには理解不能なアニメを理解し、
巨大同人誌イベントを実現して、石頭の権威者たちの度肝を抜き、
宇宙人のように、最新のパソコンを操ることができました。
 
普通の一般人には手の届かない、
特殊な専門性を備えた人々だったのですね。
 
ですから、
自らを「オタク」とカミングアウトすることは、
“変な人”であると白状する反面、
“目立つ”こともできたわけです。
 
しかし二十一世紀の今日、
オタクは全国的に増殖しました。
 
おやじもおかんもアニメ世代。
お父ちゃんが仮面ライダーベルトを締めてガンプラ作れば、
お母ちゃんはキティグッズに埋もれながらネットゲームにブログざんまい。
じっちゃんばっちゃんもマウスでググる時代となって、
原初オタクの希少価値と優越性は、完全に失われました。
 
猫もしゃくしも、それなりにオタク。
犬も歩けばオタクに当たる。
石を投げてもオタクに当たる。
世間では、オタクなんて、ゴミよりもありふれてしまいました。
 
20世紀には『七人のおたく』(邦画・1992年)なる映画がありました。
およそ15年前ですね。
そこではオタクたちは、得体の知れない奇人ながらも、
一般人には真似のできない専門性を生かし、
互いに絶妙のチームワークも発揮して、
誘拐事件を解決するという、
社会正義に貢献する能力者として描かれていました。
“無冠のアマチュアなのに、プロより凄い”という
いわば“スーパー素人”として、
当時の社会はオタクたちを、
かなり前向きに評価していたようです。
 
かつて、オタクは超人でした。
 
しかし、21世紀のオタク代表選手は『電車男』。
昨年(2005年)公開のこの映画に登場した主人公は、
ヒロインを暴漢から守るという、勇気ある行動はしたものの、
普通の人々を驚愕させる知識や能力は持ち合わせず、
デートの食事の場所や作法まで、
他人の教えがなくては自信が持てない、
普通の人々よりも孤独で消極的な
“社会的弱者”として描かれています。
主人公を救う手段として、ネットが大きな役割を果たすものの、
それはメールを送る個々人の勝手な情報提供にすぎず、
単なる烏合の衆。
目的に適合したチームワークとは言い難いものでした。
 
“電車男”が世間から注目されたのは、
“電車男”君がなにかの点で優れていたり、
偉かったり尊敬されたというよりは、
ある種の覗き趣味や、プライバシー暴露的なおもしろさと、
ピエロのような滑稽さにあったと考えられないでしょうか。
 
そして、現代のオタクたちの現状を描写したのが、
『げんしけん』や『NHKにようこそ!』。
たぶんあれは、オタクたちの自画像でありましょう。
 
そこには、前世紀のオタクたちのような、シャープな専門能力は、
もはや、影も形もありません。
 
なぜならば、
20世紀末に花開いたオタク文化は、
もう、オタクたちのものではなくなったからです。
 
手塚治虫や石ノ森章太郎といった大家はもとより、
宮崎アニメやガンダムでミュージアムが建ち、
公立の美術館すら、スター・ウォーズやアニメ系イラストで
展覧会を開催し、
NHKが『アニメ夜話』を放映してウンチクを傾ける。
アニメやマンガで紫綬褒章までもらえる時代となって、
オタクたちの文化は、オタクたちが創るものではなく、
雲の上の偉い神様たちから、
下界のオタクたちに与えられるものになってしまいました。
 
いささか過激な言い方ですが、
オタク文化の最もおいしい部分は、
雲の上の権威者に持っていかれ、
これから新たなオタク文化を創造しようとする
意欲的な人々は、往年のヒット作の“著作権”という
鉄条網によってがんじがらめにされていることに
気付くしかないのです。
 
 
●そして自滅してゆくオタクたち
 
そんな21世紀にあっても、
なおかつオタクであることを誇りとし、
自分をオタクとして目立たせたい人々に残された、
オタクである証明は、
せいぜいメード喫茶と美少女フィギュア。
そして輝くアキバの夜空に向かって「萌へ〜!」と
遠吠えでもするしかなくなったのです。
 
オタク文化が全国津々浦々にありふれてしまった結果、
もう、オタクであることはステイタスではなくなりました。
オタク自体が時代遅れであるどころか、
競争社会から落ちこぼれた“負け組”の代名詞として、
“ひきこもり”や“ニート”の温床のようなイメージを与えられ、
果ては“オタク狩り”“メード狩り”などと称する
ゆすり、たかりや猥褻行為の格好の標的にすら
されてしまったのです。
 
社会全体が、オタクをもてあそび、いじり、嘲笑っている。
 
これはまさしく、オタクが、滅びの道に入ったことを
物語ると思います。
 
(ここで、誤解されないように……
オタク文化が“ひきこもり”や“ニート”を生み出しているのか、
それとも逆に、社会的な、別な原因で“ひきこもり”や“ニート”に
なってしまった人々を、精神の崩壊から
たまたま救っているのがオタク文化なのか、
そのあたりの因果関係は、きちんと調査検証されていません。
したがって、“ひきこもり”や“ニート”は、イコール、オタクなのだと
短絡的に結びつけるのは、安易な偏見であるかも
しれないと、警戒しておいていいでしょう)
 
とはいえ……
 
もちろん、オタク市場が完全消滅するという意味ではありません。
おそらくこれからも、アキハバラは不夜城のごとく萌え立ち、
美少女フィギュアは店頭の一角を占め続けることでしょう。
 
しかし、それはそれだけのこと。
 
メード喫茶に入り浸り、セクシー美少女フィギュアを買い漁る。
オタクの中でも、そういった趣味の人々が、
その種のサービスや商品にお金を払うことによって、
その種の風俗ビジネスが成立しているという、
それだけのことなのです。
 
思えば、前世紀の終わり頃に
『新世紀エヴァンゲリオン』が全国的なブームとなり、
夜の妖しい性風俗店の看板に“綾波あります”と書かれるまでに至ったとき、
オタク文化の転落が始まったのかもしれません。
 
今世紀のオタク文化は、
すでに、ニッポンの巨大な風俗産業の中に
呑み込まれてしまったのでしょう。
 
世間はすでに、あからさまに、現代のオタク文化を
風俗産業の一部としか見ていないのです。
その善し悪しは別として、
そこには新たな発見も発展もなく、
ただ閉じたタコツボ型の市場しかないことも事実です。
 
一億二千万の国民総軽薄オタク時代にあって、
いまさら「萌へ〜」を連発し続けたところで、
社会が一目置く個性や知性が芽生えるはずもなく、
オタクではない普通の人々を引き付ける魅力なども鼻からなく、
ただ、やたら“キモい人たちのキモい空間”が出現しているに
すぎなくなってしまいました。
 
そこに存在するのは、
社会にポジティブな影響を与える意志を放棄して、
自らをオタクと呼ぶことで現実に背を向け、
ただオタクであり続けることに慰めを見いだすオタクたちの世界。
お互いを「○○ヲタ」などとレッテル付けして、
オタク度の深さを仲間内で誇示し合うだけの、
どんづまりのタコツボ文化。
 
そう、『涼宮ハルヒ』の登場人物たちの
オタッキーなドタバタが、
結局はハルヒ自身の“閉鎖空間”の出来事でしか
ないように……
オタクたちの世界は、
いまや、現実世界にはなにひとつ
プラスの影響を与えることはないのです。
 
そのようなオタクたちのご期待に添って
萌え系美少女のお話ばかりを書き続けようとしても、
クリエーターとして、たちまち限界に突き当たることに、
才能ある若手作家は気付いていることでしょう。
 
いくら何でも、萌え萌えのお話ばかりを
一生涯、書き続けるわけにはいかないですからね。
 
そんな作家たちの前で、
オタクたちは滅びようとしています。
正確には、滅び去るのではなく、
その文化的存在価値を失う、と言うべきでしょうか。
 
ですから……
 
オタクたちが作家を見捨てる……よりも先に、おそらく今は、
作家たちの方が、オタクを見捨てようとしているのです。
 
 
●創作者の幻滅。そして、一人でも歩いていくこと。
 
さらば、オタク。
ガイナックスの『トップをねらえ2!』の最終話は、
どこか物悲しい別離の思いが漂っていました。
前作『トップをねらえ!』の、お祭りのような熱い風に、
寂しく別れを告げるかのように……
 
1980年代、主としてアニメのファンとして集まり、
ひとつの社会集団へと育っていったオタクたち。
そこには、同じ趣味やココロザシを持つ人と人との、
未来への希望に満ちあふれた、
お祭りのような出会いがあったと思います。
 
それからおよそ20年。
21世紀の今、オタクたちの世界には、
絶望と幻滅と、そして別れの寒風が吹き荒んでいます。
30代も後半から40代という年齢になってまで、
アキバの美少女アイドルを追っ掛けて「萌へ〜!」と吠え、
美少女アニメを見ては「痛い痛い」と悶え、
「○○タン、ハアハア……」と発情するオッサンたち。
 
辛辣な言い方になって申し訳ありませんが、
もう、いいトシなんだから、人前での奇態は
ぼちぼち卒業してはいかがかと……。
 
世の中、不況であるうちは、
メード喫茶や美少女キャラにお金を落とすオタクたちを
世間は歓迎していました。
ただしオタクの人たちではなく、そのサイフの中身をですよ。
しかし、時代は容赦なく進んでいきます。
そろそろ、世間がオタクを必要としなくなり、
したがって、オタクたちを相手にしなくなり、
果ては邪魔になったオタクたちを
駆除し撲滅しようとするかもしれません。
 
そんなわけで、前世紀に集まったオタクたちの群れは、
ここへきて、ばらばらになり、消えていこうとしているようです。
 
そんな様子を観察しながら、
作家たちは、次に来るものを、一人で考え、歩まなくてはなりません。
 
“宮崎アニメ”の次に来るものは何か。
“ハリー・ポッター”の次に来るものは何か。
“東京タワー”(リリー・フランキー)の次に来るものは何か。
 
そして“オタク”の次に来るものは何か。
 
一時的な現象ではなく、
時代を超えて変わらないものは何か。
 
マスコミにあおられて、どっとブームになり、
そして消滅するものではなく、
小さくても、地方で着実に顧客を維持する頑固な老舗のように、
地道に、じっくりと生き延びていくものは何か。
 
作家たちは、今、それぞれが一人で考えているはずです。
 
これからのSFやファンタジーを創り、支えていく人々は、
たぶん、オタクではない。
別な種類の人々ではないか。
そのように思われてならないのです。
 


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