Essay
日々の雑文


 30   20061104●雑感『校長の罪と学校の死』
更新日時:
2006/11/05 
20061104
 
 
 
校長の罪と
学校の死
 
 
 
“履修漏れ(履修不足)”事件に寄せて……
 
 
 
●校長に責任はないのか?
 
2006年10月24日(火)、富山県立高岡南高校から発覚した、学習指導要領に定めた必修科目の「履修漏れ」問題はたちまち全国の高校に波及した。
 
25日付け朝日新聞朝刊では高岡南高校のこの事件を「学校勘違い、必修履修できず。全3年生197人卒業危うし?」と、いささか呑気な見出しで伝えていたが、問題はそのような単校レベルどころではないことが、たちどころに判明していく。28日朝日新聞朝刊では41都道府県の404高校にまで拡大した。まさに燎原の火のごとしである。
 
結局、履修漏れ高校は(たまたま事前に履修漏れが発覚して先に補習を済ませたらしい)熊本県を除く全都道府県におよぶこととなった。校数は全国の高校の一割あまりにも達し、それらはいわゆる、入試成績上位のエリート校である。来春に、単位不足で卒業を危ぶまれる高校生の数は十万人に達するかと言われるまでに至った。
 
履修漏れ(履修不足)となる必修科目は『世界史』『情報』『理科総合』といった、大学受験科目の埒外か、受験科目の選択から外れがちな科目であった。各校の校長先生は、生徒がそれらの科目を習っていないのに習ったことにして、成績をつけ、内申書や調査書を送付し、卒業証書まで発行していたという。そうやって浮かせたヤミの授業時間は、こっそりと、大学受験用の科目の学習強化に充てられたらしい。
 
問題が拡大し始めた当初のころTV取材に応じた、履修漏れ高校の校長先生のセリフがふるっている。
「生徒のためを思ってのことだ。なんらやましいところはない!」
 
いいのか、それで?
そう思ったのは私だけではありますまい。
 
問題は、今回の“履修漏れ”というのが、「学習指導要領に定めた必修科目」を「履修しなかった」ことである。
 
文部科学省の立場としては、「学習指導要領」は単なるマニュアルではなく“法的拘束力”があるとしている。裁判所の判例でも、「学習指導要領」に部分的ながら法的拘束力を認めているという。
 
ならば、学習指導要領の定めに反する校長先生の行為には、法律違反の可能性はないのだろうか? 履修したことにして、すなわちウソついて作られた成績表や内申書や調査書や卒業証書は、常識的に見て、まさしくニセモノである。それにそのまま、ホンモノの成績表や内申書や調査書や卒業証書と同じ社会的信用力を持たせてよいのだろうか。
校長先生の行為は、公文書偽造とか、有印私文書偽造に問われる疑いはないのだろうか?
そんな疑問が湧いてくる。
 
ウソついて偽装すると、この社会、おおむねタダではすまない。
あのマンション耐震強度偽装事件では逮捕者が出た。
あのライブドアの粉飾決算事件でも逮捕者が出た。
あの偽装結婚式をしたニセ有○川宮様も逮捕されてしまった。
ならば今回の、ウソの成績表や内申書や調査書や卒業証書は、それでいいのだろうか。
それでオッケーだというのなら、これからは校長先生にこっそり頼んで、ウソの成績表や内申書や調査書や卒業証書を書いてもらえば、あとでバレても合法で、堂々と本物として通用するということになるのだが……
 
校長先生に、罪はないのか。道義的な罪だけでなく、法律上の罪についてはどうなのか。
カリキュラムの決定につき権限を有し、卒業証書に署名押印する校長先生に……
 
 
●ラッキー、オッケー、ごちそうさま
 
続いて、このような言葉もよく聞いた。
履修漏れ高校の校長先生、生徒たちも保護者も口を揃えて言う。
「生徒に罪はない。救済策を講じてほしい」
 
もちろん生徒に罪はない。
だが、この場合の“救済策”とは、「やるべき補習の一部をやらなくていいようにしてあげること」である。その原因が天災とか戦争ならいざ知らず、校長先生が隠れてズルして「教えていない科目を教えたことにした」からなのだ。
不可抗力でもない原因なのに、なぜ救済しなくてはならないのだろう。
それでも救済するならば、それは“救済策”でなく“優遇策”と呼ぶ方が正しいのではないだろうか。
 
もうひとつ、“救済”というのは、だいたい損害を受けた人を救うことである。
常識的に、損害がすでに発生するか、損害の発生予測が百%確実になってから、そのことに対して、“救済”するものであろう。
しかるに、現在のところ、履修漏れ高校の生徒たちに、どのような損害が生じているというのだ? 病気か、ケガか、金銭でも奪われるとでもいうのか?
 
なにひとつないのである。
 
まず第一に、「卒業できない」ことが損害にあたるかどうか考えてみよう。
なるほど、このまま未履修となる科目や時間数をカウントすると「卒業できなくなる恐れ」は発生している。本人に落ち度がないのに卒業できないというのは、本人の名誉や社会的評価や経済的な面で大きな損害といえるだろう。
 
しかしまだ、「卒業不可能」が個々の生徒に確定したとはいえない。
「規定通りの補習さえ受ければ卒業できる」のであり、そうすれば「卒業できない」という損害は発生しないのである。
履修漏れ生徒の7割以上が該当するという「70時間(コマ)の補習」は、週7時限を工面すれば十週で完了する。卒業までに履修不能だとは言えないだろう。
 
どう工夫しても卒業できない生徒は、かなり少数に絞り込めるはずだ。その上で、「特例で卒業させるべき事情が認められるか。それとも、卒業できず、浪人を強いられることについて、金銭など別な手段で損害を賠償すべきか」を個別に判断するのが正しいやり方でははないか。
 
個々の生徒の「損害の有無」を確認することもなく、このまま安易に、履修漏れの生徒を何万人も一律に“救済”してよいのだろうか。
 
これでは、今回の“救済策”は、実体としての損害がいまだ確定していない人に対する、先回りの支援になってしまうではないか。
 
 
第二に、「そんな多量の時間をこれから補習すれば、履修漏れの生徒は入試に大きな負担になる」という「損害」があるかどうかを考えてみよう。
 
「入試の負担になる」という恐れは、漠然と生じているだろうが、これは果たして「損害」と言えるのだろうか。
「負担になる」ことが「損害」というのなら、具体的に、何に対して、何がどれだけ負担になり、その結果が「損害」と言うに値するかを説明できなくてはならない。
 
しかしここで損害が発生すると言えるのは、「入試に受かるはずなのに絶対確実に落とされる」という事実が生じてからではないか?
 
ならば「規定通りの全時間の補習をする」ことが原因で、「入試に受かるはずなのに、絶対確実に落ちてしまう」ことになるという因果関係があらかじめ立証されていなくてはならない。
 
「すでに済ませておくべき授業を遅れて補習した」ことが原因で、「入試に落ちる」と断定できる?
これは、受けなくてはならない授業を後回しにするのであり、授業の順序を変更したにすぎない。いわば、先にサボって楽した分を後から返済するようなものだ。
だから入試に落ちると言えるのか?
無理だと思う。
 
そういった損害の予測と立証が一切ないままに、このたびの“救済”が実行されるのである。
 
これでは、火災がまだ起こっていないのに、「明日、火事になるかも」という推測だけで、保険会社が今日のうちに火災保険金を支払ってくれるようなものではないか……
 
このたびの「救済策」が抱える問題は、
@「卒業できなくなってはかわいそう」と、
A「入試に不利になってはかわいそう」という、
二つの事情が最初から(意図的に?)混同されたことである。
 
@は確かに、補習という「救済策」が必要とされることがわかる。
しかしAについては、「本当に、入試に不利になるといえるのか」を検証しなくては、「救済策」が必要だと断言できないのではないか。
そこがあいまいなまま、@とAがごっちゃにされてしまったのである。
 
 
11月1日、文部科学省はその「救済策」を発表した。
「履修不足が70時間(コマ)なら、その補習は校長権限で50時間に減らせる。履修不足が70時間を超えるなら、70時間を超えた分はレポート提出に替えることができる」
 
中には350時間分もの履修不足者がいるのだが、これから履修すべき時間は、これで、上限70時間にまで短縮されてしまった。一日の授業を6時間とすると、約58日必要な補習が、約12日にまで軽減されたことになる。
 
しかも、履修不足漏れの生徒たちは7割あまりが“70時間”なので、救済策の解釈いかんによっては、ほとんどの生徒の補習を、50時間にまで短縮できる。
 
この約50時間の補習をただちに実施するのでなく、大学入試よりも後回しにして、入試が終わってから3月31日までの期間に実施すれば、実質的に、履修漏れ生徒の受験勉強に与える負担はゼロになる。
 
意図的に履修漏れを行い、こっそりとプラスしてきた受験勉強の時間は、こうして確保された。全国一割の履修漏れ高校の生徒たちは、受験勉強の時間に関して、真面目に必修科目を勉強するしかなかった全国九割の他校の生徒よりも圧倒的に有利な状態をキープしたまま、入試に臨めることになったのだ。
 
しかももっと手厚いことに、この救済策は、文部科学省の命令でも通達でもなく、“見解の通知”で終わったのである。本当にそれらの補習を、いつ、どうやって実施したのか報告する義務はあいまいになり、監視する手段も正式に講じられていないようだ。
 
さらに……
この救済策は、「補習70時間を50時間に軽減できる」ことの根拠として、「学習指導要領」の範囲内で、校長の裁量で「その科目の、履修すべき時間の三分の二程度の履修でも、全部を履修したとみなすことができる」という見解を認めたものになったという。
この見解は、恐るべき効果を持つ。
もしも今後、他の教科で履修漏れが発覚しても、この見解を適用すれば、履修すべき時間の三分の一までなら、もともと不問に伏されることが推測されるのだ。
 
早い話が、「履修すべき時間の三分の一までなら、最初から捨ててもOKよ」と、公言しちゃったのと同じことではないか。
 
履修漏れ高校の校長先生と生徒たちと保護者にとっては、「ラッキー、オッケー、ごちそうさま」という結果に終わりそうである。
 
今回の問題に関して、私が見聞きした報道の範囲では、履修漏れ高校の校長先生からも、保護者からも、そして生徒からも、「受験の負担にならないよう救済策を求める」声は盛んに聞かれたが、「日本の高校生として履修しておくべき科目なのだから、苦しくてもきちんと補習を受けよう」という声は、一度も聞くことがなかった。
 
どこか一校だけでもいい。本当に立派なエリート校なればこそ、「我々は高校生として履修すべき科目を、どんなに苦しくても全部履修してから、正々堂々と入試に臨む!」と誇り高く宣言すれば、全国の空気を変えられたのに、と思う。
 
去る夏の高校野球は、正々堂々としたプレーが続出し、人気も高まったという。しかし今回の“履修漏れ”事件は、ニッポンの受験戦争がフェアプレイのかけらもない、卑劣な泥仕合でしかないという、ずぶずぶのイメージだけを残して、後世に尾を引くことになるだろう。
 
悲しいことである。
 
 
●水面下で実行される? 真面目でバカみた高校の逆襲
 
今回の“履修漏れ”高校は、全国の高校のおよそ一割という。
では、残り九割の高校の校長先生と、百万人にもなる“真面目履修組”の生徒たちは、どうなれというのだ。
それが、このたびの問題の、最も大きな課題ではないか。
 
必修科目を真面目に履修してきた他高校の生徒たちにとっては、無念やるかたないことだろう。
履修漏れ高校の生徒に対して、真面目にやってきた自分たちの圧倒的不利が、これで確定したからである。
履修漏れ高校の生徒たちは、かりに履修不足が1単位70時間のみだとしても、一日6時限で約12日分。少なくみても、それだけトクしている。
受験を控えた高校三年生にとって、12日分といえば冬休みがもう一回あるようなものだ。この学習差は大きい。すでに11月の現在、この差に追い付くことはまず不可能とみていいだろう。
 
入試の敗北は、目に見えている。
 
来春の入試では、真面目な必修科目履修生徒たちが履修漏れ高校の生徒たちに蹴落とされる結果となって、志望校を変更したり浪人を強いられる者が続出するであろうと予測される。
いや、すでに“履修漏れ”が過去二年三年と行なわれていたのなら、フェアな競争ならば合格していたはずの実力の持ち主が、何百人何千人と“履修漏れ”学生に蹴落とされる結果となって、人生の一部を失っているのだろう。
 
すべて、“高校生として真面目に勉強した”がゆえの悲劇である。
 
本当に救済策を講じてあげるべきなのは、こういった人々だろう。
しかし、どこからも暖かい手は差し伸べられないのだ。
 
真面目に必修科目を履修させた、全国の九割の高校の校長先生は、どうすべきだろう。
 
以下は私の創作的妄想の世界なのだが……
 
全国九割の「真面目でバカみる高校」の対抗手段ははっきりしている。「生徒のためを思えばこそ!」この期に及んで自校救済のためにとれる作戦はひとつしかあるまい。
 
今からでも遅くはない。
現時点をもって三年生の受験外科目をすべてストップし、学習の全時間を受験対象科目に集中させることである。
 
その結果、捨てた必修科目に百時間二百時間の履修不足が生じたとしてもいいではないか。すでに、履修漏れの高校に対して文部科学省様が、「事実上、50時間の補習だけで済みますよ」だけでなく、「履修すべき時間の三分の一までなら、最初から捨ててもOKよ!」とまで決めてくれたではないか?
全国九割の真面目な高校が、このお達しに従わない法はあるまい。
とにかく入試までは、学習指導要領を無視して、入試外の他の科目は完全に捨て去ってしまうのだ。何をやましいことがあろう。文部科学省のご通知のとおり、入試が終わってから50時間だけ補習すればいいのである。
それ以外に、残り九割の“真面目な高校”に残された手段はない。
なによりも自校の生徒を救うためである。真面目な高校の真面目な生徒たちを、このまま無策で捨て置くなどしては、校長失格ではないか。学習指導要領を守り、校則を守り、校歌にかかげた理想をめざして真面目にやってきたおかげで、ここでバカをみて、なかんずく生徒たちにまでバカを見させ、入試で蹴落とされて一生を棒に振らせるなんて、許されるはずがあろうか!
だいたい、もともとこっそりズルをして試験勉強の時間を捻出し、ウソの成績をつけ、ウソの卒業証書を発行したりしている、その校長先生が高笑いするという結果なのだ。
同じことを、こちらもやって何が悪い!
 
……以上は、私個人の悪夢のような推論だが、真面目な校長先生であればあるほど、そう考えるしかないのではないか。さもなくば“真面目なヤツほどバカをみる”を地でいくピエロになってしまうのである。
 
今回の“救済策”は、全国の高校の先生と生徒に対して、物凄い教育効果を発揮することになるだろう。もちろん、
「世の中、ズルはやり得だよ。真面目にやったらバカをみるだけさ」
という現実を心の底まで叩き込む、恐るべき教育効果である。
 
それにしても、このままでは、世界史を全く習ったことのない若者たちが、そのまま外交官になったり、自衛隊の幹部になっても大丈夫なのか。世界史を知らずして、世界を相手にする外交や軍事がまともにできるというのだろうか?
 
 
●ウソはウソ、ニセモノはニセモノ
 
では、どうすればよかったのか。
単純だと思う。
 
高校卒業のために履修すべき科目と時間を定めた「学習指導要領」に“法的拘束力”があるというならば、ウソの履修結果に基づいた成績表や内申書や調査書や卒業証書は、発行日にさかのぼって無効である。
ウソの履修結果であることを知って各種証明証書を発行した校長先生ほか関係者には、法的責任の有無が検証されるべきである。
 
だって、普通、「卒業に必要な履修科目を履修せずに、卒業したと称する」ならば、そればいわゆる学歴詐称になってしまうからね。ウソの学歴を称して議員を辞職した政治家さんもおられる。それくらい、学歴詐称に関するこの国の道義的規範は厳しいはずである。
 
だから、ウソの履修結果はウソであり、ニセモノの卒業証書はニセモノと正直に認めた上で、どうすれば問題を解決できるか、考えるべきだろう。
「生徒には罪がない!」という直観的で一方的な叫びに惑わされてはならない。
もちろん生徒に罪なんかない。
罪を問われるならば、自分のことは棚に上げて「生徒には罪がない!」と叫んでごまかしている校長先生の方ではないか?
 
しかし、それでは履修漏れの生徒たちが卒業できないという。
本当にそうだろうか? 生徒たちの履修不足の大半は、補習70時間程度である。
70時間、補習すればいいではないか。
100時間でも200時間でも、補習すればいいではないか。
「学習指導要領」に“法的拘束力”があるというならば、そうしなくてはおかしい。
それでも本当に卒業できない生徒は、残念ながら卒業できない。
そのことによる責任は法廷で争われるべきであり、被害をこうむった生徒に対して、学校側から、金銭による賠償がなされるべきである。多くは示談が成立するだろう。
すでに卒業した生徒については、後追いでも履修させるべきだろう。
その上で、改めて、ホンモノの卒業証書を交付すべきである。
履修漏れ生徒によって蹴落とされる結果になって、大学を不合格になった他校の生徒たちに対しては、履修漏れ高校から、金銭による賠償がなされるべきである。こちらも多くはそれなりの金額で、示談が成立するだろう。
 
たった、それだけのことではないのか……
問題は、トラブルの舞台が学校であるということである。学校であるからこそ、ウソはウソと認め、ニセモノはニセモノと認め、ウソついた責任を取り、ニセモノを作った責任を取って、校長先生は「ウソついて、ごめんなさい」と正直に謝る勇気を示すこと。それだけではないだろうか。
小学生だって、わかる理屈であろう。
 
 
●学校の死と、真面目な生徒たちの屈辱
 
来年度以降、履修漏れ高校は、水面下で爆発的に拡大するだろう。
一割が十割に増えてもおかしくない。
ただし、隠し方はもっと巧妙になるであろうが。
おそらく、校長の権限において、受験外科目の“減単”やレポート化、履修必要時間の三分の一までは最初からカットする、あるいは遠足や修学旅行で世界史の単位を取らせてしまう(たとえば古代エジプト展をやっている博物館へマラソンして行けば、遠足と世界史と体育を一度に済ませることができよう)といった裏技テクニックが駆使されるはずである。
 
(もしくは、学習指導要領の内容の方が、受験に合わせて、余分な科目を“合法的に”捨てられるように改訂もしくは“解釈を変更”されるだろう)
 
本年に履修漏れが発覚した高校は、中学からの入学志望者が殺到するだろう。学習指導要領を踏みにじってでも、塾なみに受験対策をしてくれるというPRを、マスコミが全国的にやってくれたようなものである。
 
そして、誰からも顧みられない、救われない若者たちがいる。
履修漏れが横行したここ二三年で、受験勉強で優位に立つ履修漏れ高校の生徒たちに蹴落とされる形になって、志望校をあきらめ、浪人を余儀なくされた、“真面目に必修科目を履修した若者たち”である。
高校生として学ぶべきことを真面目にやり、ズルをしなかったからこそ、進路を奪われる憂き目に逢った若者たちだ。
 
この屈辱。
 
屈辱は、与えた者が忘れるのは簡単だが、与えられた者は一生忘れることはない。その恨みは自分の子供たちにも必ず伝えていくだろう。
 
「ルールは破れ。真面目にやれば、必ずバカを見る」と。
 
骨身に沁みてそう思うのは、ズルをしなかった全国の九割の高校の生徒たちである。
それは、百万人とも言われる。
とんでもない数の人たちである。
持っていきようのない悔しさと無念が、十八から二十歳くらいという、これからこの国の未来を担って大人になる若者たちの間に鬱積し、大量の怨念と無気力が蔓延していく。
 
だれもが「誠実に生きる」ことをやめてしまうはずだ。
 
だって「ズルはやったもの勝ち!」と、校長先生と文部科学大臣が教えてくれたようなものだから!
 
2006年11月1日。
履修漏れの“救済策”が決まった日。
この日、この国の学校は、死んでしまったのだと、私は思う。
 
 
●そして、世界史は語る
 
大人になるための、人格形成の仕上げともいえる年代の高校生たちに対して、校長先生たちが自ら率先して「ズルしてオッケー!」と教える時代。
 
そんな若者たちに向かって、「誠実に正直に生きよう。いつかいいことがある」といったテーマのお話を書いても、受け入れてはもらえないだろう。
 
主人公が、「愛と正義。夢と希望」を信じようとしても、読者から鼻でふんと笑われて、おしまいになるだろう。
 
とある流行歌の「夢は時間を裏切らない。時間も夢を裏切ってはならない」といったフレーズが、なんだか虚しく聞こえてしまう、この世相。
ウソついて、裏切るヒトが、時間と夢を手に入れるのだ。
 
たとえ一人だけでもいい。本当に立派な人間をめざすからこそ、「私は高校生として履修すべき科目を、どんなに苦しくても全部履修してから、正々堂々と入試に臨む!」と誇り高く宣言する若者がいれば、社会の空気は変わったことだろう。
たとえホラでもいい、そう叫ぶ勇気のある大物は、どこにもいないのだろうか。
 
オトナもコドモも、けちくさく小粒になっていくしかない、そんな国である。
 
書きたいことはいくらでもある、けれど、なんと救いのないことか。
校長先生たちがゴミのように捨てた世界史にひっそりと登場する人々こそ、私たちが現在と未来を生きるために最も大切なことを、その生命をかけて教えてくれているというのに。
 
フロレンス・ナイチンゲールが、
マリア・スクロドフスカ(キュリー夫人)が、
アグネス・ゴンジャ・ボワジュ(マザー・テレサ)が、
アルベルト・シュヴァイツァーが、
フェリックス・フォン・ルックナーが、
そしてラウル・ワレンバーグが……
死ぬまでを、いかに生きたか。
 
かれらは人類の歴史を貫く、シンプルな真実を残している。
 
人は、ただ生きるだけでは、幸せになれない。
正しく生きることができてこそ、幸せがあるのだと。
 


prev. index next



HOME

akiyamakan@msn.comakiyamakan@msn.com