Essay
日々の雑文


 25   20060430★映画解題『秘密の花園』(1993)
更新日時:
2006/09/30 
クリックするとエキサイトの『秘密の花園』へ。
 
 
 
 
春は『秘密の
花園』……
 
 
※写真をクリックするとエキサイトの『秘密の花園』へ行きます。
 
 
『ハリー・ポッター』の“あの先生”と、萌えるスーパーメイドに喝采!
 
 
●21世紀によみがえる不朽の名作
 
春は、『秘密の花園』。
1910年、英国人の作家フランシス・ホジソン・バーネット女史が米国で発表したこの作品は、世界的な名作中の名作。内容は、いまさら説明しなくてもいいですね。1949年にMGMでモノクロ映画化され、のちに日本でもアニメ化されました。
そして今回ご紹介するのは、1993年にワーナーブラザースによって再映画化された、20世紀の決定版と言ってもいい『秘密の花園』です。
 
今年になってようやくDVDを買って見ました。
絶句。
……美しい!!
以前、レンタルビデオで見たことはあったのですが、DVDになると、もう別世界。
春が訪れ、閉ざされていた廃園によみがえる草花の生命感、その背景に広がる荒地(ムーア)の暗くも神秘的な空虚感、そして登場人物たちの表情やコスチュームの上品さや可憐さが、ミレーやカンスタブルといった英国画壇の巨匠たちの精緻な筆使いを借りて描かれているかのようです。
 
とりあえず、色彩の奥行きの深さに驚かされます。草花の鮮やかさは当然のこととしても、決して派手さや華やかさに流れるのでなく、地面の茶、壁の灰色、蔦のくすんだ緑の色合いなどが絶妙に調和して、全編どのカットを取っても、渋いオトナの配色で、何分間も同じ画面を見ていても疲れないような、落ち着いた色調に統一されています。
 
それに衣装。今まで私が見たカラー映画の中で、衣装の色みやデザインの上品なことは、この作品が最高です。メアリーがメイドのマーサに着せてもらう、シックなコバルトブルーのセーターといい、えんじ色の毛糸の帽子といい、思わずはっと目をみはるほど似合っているのです。ディコンのラフなブラウンのジャケットや、コリンのフォーマルスーツもしかり。安っぽい派手さは徹底的に排除して、子供だからと舐めてはいない、センスのいい服ばかりなのです。
もちろん、マーサのメイド服であるエプロンドレスも、ただの女給さん風の実用的な制服だけでなく、ちょっとペイズリー風の花模様を愛らしくあしらったバージョンもあって、単なるメイドではなくて、夢あふれる女の子でもあることを感じさせます。
これも理屈抜き。断然DVDで、じっくりと鑑賞することをお薦めします。
 
もちろん、お話の中身も……
21世紀の今、改めて感動。
惜しむらくは、1時間42分という上映時間の短さ。
物語の後半はやはり駆け足すぎる印象です。
最初は陰気でいやみな高飛車娘だったメアリーが、秘密の花園で草花を育てて心洗われていく変貌ぶりや、ディコンやその家族と打ち解けていく様子や、わがままなコリンがメアリーたちに導かれて花園に至ってから、父親に呼び掛けるまで、そして、父親のクレイヴン卿自身が、心の中で閉ざしていた花園を再び復活させるまでの心境の変化……といった描写が、やや、はしょりすぎといった感じは否めません。
 
とはいえ、そこは原作を読んで補えばいいわけです。この映画さえ見ておけば、描かれなかった場面までありありと、映画の中のメアリーやディコンたちによって再現されることでしょう。
 
さて、ここで申し上げたいことがふたつ。
この映画作品『秘密の花園』の、21世紀ならではの楽しみ方です。
 
@“魔法使いの物語”として見る。
A“メイド萌え物語”として見る。
 
騙されたと思って、DVDを見てご覧なさい。
そう、1993年の『秘密の花園』は、公開後十数年を経て古くなるどころか、今世紀の『ハリー・ポッター』ブームと昨今の“メイド萌え”ブームによってさらに新しい意味が与えられ、ハリポタ・ファンとメイド・ファンには絶対必見の傑作映画として、不死鳥の如くよみがえってくるのです。
 
 
●“魔法の物語”としての『秘密の花園』
 
ときに、1906年。
インドの大地震で両親を失い、英国はヨークシャーのクレイヴン家へ引き取られていく孤独な少女メアリー。ひとりリヴァプールの港で迎えを待つメアリーのもとへ現れたのは、クレイヴン家の家政婦長ミセス・メドロックです。
「メアリー・レノックス!」と少女の名を呼び、夕闇のとばりが降りた埠頭の暗がりから威風堂々と登場したメドロックさん。黒いワンピース・ドレスに黒いケープ、黒い羽根飾りを載せた黒い大きな帽子という、真っ黒な魔女ファッションです。
このとき「おお、プロフェッサー・マクゴナガル……」とつぶやいてしまうのは、私だけではありますまい。
メドロックさんを演じているのは、『ハリー・ポッター』のマクゴナガル先生でもあるマギー・スミスその人。だから当然といえば当然なのですが、ちょっと困ったことに、十年ほど前にビデオで見たときはメドロックさんだったこのお方、今となってはどうしてもマクゴナガル先生にしか見えません……。
『ハリー・ポッター』の公開は2001年。21世紀の現在、もはやこのメドロックさんは、魔女マクゴナガルのイメージをかぶらずして見ることはできなくなってしまったのです。
 
そもそもマクゴナガル先生にしてからが、“変身魔法”の権威です。
ここはクレイヴン家の家政婦長メドロックさんに化けているとしか見えない。
もう、どうにもならないのです。
なにしろ、あまりにそっくりなので……
 
さてこのメドロックさん、『ハリー・ポッター』以後の今になって見ると、やることなすことがいちいち魔女っぽいのであります。
ご主人クレイヴン卿のご子息、可憐な美少年であるコリン坊っちゃまの病を治すと称しては、怪しげなエレキテルの発電機を回して電気ショックでいたぶるわ、氷を浮かべた冷凍風呂にブチこむわ……。
深夜の馬車の中で骨付きチキン(みたいなもの)をむしゃむしゃ食う迫力や、メアリーをブスだ陰気だとけなしまくり、部屋に閉じこめたりする意地悪婆さんぶりも、なかなか魔女的でありました。
 
いやもう、理屈ではありません。マギー・スミスという大女優の存在感そのものというべきなのでしょうが、ミセス・メドロックさんが登場した瞬間、このお話は現実を離れ、魔法使いの世界へと変貌してしまうのです。
 
しかも、『ハリー・ポッター』を超えた魔法の物語に……
 
まずは、舞台設定。
美術を担当された方が、『ハリー・ポッター』と同じこともあってか、クレイヴン家の広大なお屋敷の内部から、どこか迷路を思わせる庭園、そして古い鍵を使って開かれる秘密の花園とその内部にいたるまで、ホグワーツ城にそっくり……というか、ホグワーツ城がクレイヴン家(ミスルスウェイトのお屋敷)に似ているというべきなのか……
 
どちらも、英国の歴史ある城館や学館や庭園をつぎはぎロケして合成していますから、おのずと似てくるものなのでしょう。
むしろ、館の内装については、重厚な木の造作や、壁をおおうばかりに吊された絨毯みたいなタペストリーといい、小山みたいにワイドなベッドといい、クレイヴン家の方が、いかにも由緒ある英国を感じさせます。
ここは、随所をCG合成したホグワーツ城がどうしても人工的なイメージを持つのに対して、小細工抜きの実写に撤した1993年の『秘密の花園』が、貫禄勝ちしているのかもしれませんね。
 
そしてこの『秘密の花園』、今改めて見ると、魔法の要素がふんだんに盛り込まれていることに驚かされます。
 
まず、自然との対話。動物や植物が、まるで人と話ができるかのようにふるまいます。
メアリーを秘密の花園の入口へと案内してくれるコマドリ。そして肩にペットのカラスを載せて、鞍なしで馬を乗りこなす自然児ディコン。彼はメアリーと同年代の子供でありながら、すでに園芸のエキスパートでもあって、冬枯れしたように見える木々がまだ生きていることを見抜きます。
ディコンの薫陶よろしきもあってか、メアリーもいつしか、鳥や羊や馬たちとごく自然に対話(彼女が、勝手に意思が通じたと思い込んでいるだけかもしれませんが、そんな野暮は言いっこなしですね)するようになっていきます。
 
極め付けは、魔法の儀式。
秘密の花園に美しい花々を復活させることに成功したメアリー、ディコン、コリンの三人は、コリンの父親クレイヴン卿に還ってきてもらうために、魔法の儀式を執り行います。深夜、焚火を囲んだコリンとディコンが、松明を手にしたメアリーとともに呪文を唱え、シャーマンめいた奇声を上げ、火の周りで踊ります。
そして、霊験あらたかと言うべきか、本当にクレイヴン卿が戻ってくるのです。
 
少女マンガの典型的なストーリーのように、ハッピーエンドの大団円。その場面で、すっかり元気になったコリンを見て喜びに震え、涙を流すミセス・メドロックさん。
この演出の憎いこと。最後まで意地悪婆さんの役柄を貫き通すかのようだったメドロックさんが、本当は意外といい人だったことがわかります。ただ職務というか、いわゆるミッションにひたすら忠実だっただけで、コリンの幸せを願う心は人一倍だったんですね。
 
とはいうものの、電撃ショックに冷凍風呂といい、一歩間違えばコリンを殺していたかもしれないスリリングさが、メドロックさんみたいな人の、隠れた恐さとでもいうか……
まあ、なにはともあれ、最後はすべて良しで終わり、とても幸せな気分にさせてくれるところがこの映画の素晴らしさであり、じつはそれはみんな、メドロック=マクゴナガルさんがかけていた魔法だったような気がしないでもありません。
 
そう考えつつこの映画『秘密の花園』を見ると、まぎれもなく“魔法使いの物語”と解釈することができるでしょう。
そしてある意味、この作品は『ハリー・ポッター』を超えた魔法をありありと見せてくれるのです。
 
冬を越えて春が訪れ、枯れ果てていた花園に生命がよみがえり、緑が芽吹き、花が咲き誇る……
そんな、地球上で毎年、当然のように繰り返される生命の営み。しかしそれはふと考えれば、ハリー・ポッターが呪文ひとつで実現するインスタントな魔法よりも、ずっと神秘的で、歴史の厚みに裏打ちされた、人知を超えた偉大な魔法であるのかもしれません。
そして、そんな自然の神秘が、人の思いを変え、閉ざされた心を開き、朽ち果てていた人生に輝きを取り戻させることができるなら、これはハリーの魔法すら足元にも及ばない、素敵な現実の超魔法なのではないでしょうか。
 
くしくも、『秘密の花園』は、明らかに『ハリー・ポッター』とは決定的に異なる、もうひとつの魔法の世界を目のあたりにさせてくれました。
どう、違うのでしょうか。
ハリー・ポッターの魔法は、杖の一振りと早口の呪文ひとつで即座に実現します。
それはインスタントです、即席です。自動販売機にコインを入れてボタンひとつで商品が飛び出してくるような、すぐさま結果の見える魔法です。
『秘密の花園』では、あのようにハッピーな結果を生み出すために、メアリーたちは半年以上を要する時間をかけ、日々少しずつ、地道な手間をかけていきます。
廃園となっていた花園の再整備と復活は、ハリポタならおそらく杖の一振りと呪文一発で実現するでしょう。
しかし同じ結果を、ハリーのような魔法エリートではない普通のマグルの子供たちが、毎日少しずつ時間をかけて積み重ねることで実現していくわけです。
 
そこが『秘密の花園』の傑作たるゆえんだと思います。
現実は魔法的ですらある。しかして、現実は魔法を超越する。
たとえ普通の子供であっても、時間をかけて積み重ねれば、魔法に匹敵することができるということ。
そして、だからこそ、インスタントな魔法では感じ取ることのできない人生の喜びがそこにあるのだということを、『秘密の花園』は示してくれるのです。
 
私は『ハリー・ポッター』の作品としての価値を否定するつもりはありませんが、人間と魔法との関わりとか位置付けを、どちらがより美しく気高く描き上げているかといえば、やはり『秘密の花園』にかなうものはないと思うのです。
 
 
●進めマーサ! スーパーメイドの心意気。
 
さて、『秘密の花園』の時代設定は1906年。
ちょうど百年前ですね。
女性たちの生活や社会的立場は、21世紀の現代とはかなり異なります。
看護婦や家政婦といった職業が成立し、自転車に乗ったり、テニスや水泳などのスポーツをたしなんだりして、女性の自立と社会進出は少しずつ進み始めていました。しかし、下着はまだブラジャーというものが存在せず、コルセットでぎゅーぎゅーにウエストを締め付け、行動の自由を奪っています。
このころ、女性たちはまだまだ、男性の紳士に守られるべき飾り物でした。主人公メアリーのように男の子に平気で意見したり、ときには怒鳴り付けたりもする女の子は、“意地っ張り”として、仲間たちからうとまれたり、からかわれたりしたのが、なるほどと思われます。
 
ということで、まだ女性は男性にかしづくものとされていた男尊女卑の時代、(善し悪しは別として)まさにメイド全盛の黄金時代(?)だったと言えましょう。
 
そう、『秘密の花園』は、ちょっと主人公の立場を変えてみれば、クレイヴン卿のお屋敷を管理する優秀なメイド軍団と、陰気な高飛車少女メアリーの触れ合いの物語だと解することもできるのです。
 
そのメイド軍団の頂点に君臨するのがメドロック=マクゴナガルさん。
言うまでもなく、これ以上の適役は考えられない女帝メイドぶりです。
ご主人様のためなら、いたいけな美少年に電撃ショックや冷凍風呂。
正気の沙汰とは思えないブッ飛びぶりが、これまた魔女らしいというべきか……
 
かたや、メドロックさんにお仕えするうら若きメイド少女・マーサ。
ちょっとした巡り合わせで、メアリーの身辺の世話も兼務することになります。
このマーサが凄い。
これぞ決定版メイドの鏡。
清く明るく正しいメイド道まっしぐらの、スーパーメイドなのです。
 
どこがスーパーなのか。
 
その@、いつもにっこりスマイル防御。
高飛車少女メアリーから出会い頭に、「なんだ、それじゃ私のサーバントね!」と理不尽な見下しを受けて、ぴくっと頬を緊張させるマーサ。
初対面で奴隷呼ばわり。なんたる屈辱。女の怒り、爆発寸前です。
しかし、さすがマーサ。ここは自分を押さえて、にっこりスマイルを打ち返します。その笑顔、陰気なお屋敷に一輪だけ咲いた向日葵(ひまわり)の如しです。
この必殺スマイルで敵メアリーの傲慢を突き崩すと、マーサはあくまで朗らかにメアリーを諭します。優しい家庭教師のお姉さんみたいに。
……私はあなたの奴隷じゃありません。私の上司はミセス・メドロック、そのまた主人はクレイヴン卿とコリン坊っちゃま。たまたまインドからやってきたワガママ少女ではありませんの。でも、あなたがいい子になるならば、私も明るくお仕えしますわ……と。
 
そのA、スキンシップでくすぐり攻撃。
メアリーのワガママを笑って受け入れ、着替えを手伝ってあげるマーサ。瞬間、隙をねらってメアリーの脇腹をコチョコチョ! 他人の親愛スキンシップなど経験したことのないメアリーは驚きムカッとしますが、その後、マーサから縄跳びをもらったときに「キスしてほしいの?」と尋ね返すなど、だんだん、二人の距離が縮まっていくことが暗示されます。
とても仲のいい友達のように。
おそらく、物語がハッピーエンドを迎えてからは、二人は大の仲良しとなり、暇さえあればコチョコチョくすぐりあって遊んだであろうと想像されます。
 
そのB、パニックなんのその、さめざめ泣き落とし戦術。
ワガママ・メアリーが怒り狂ったからには、いかなる駆け引きも通用しません。
泣く子とクレイヴンにゃ勝てぬ。それがこのお屋敷の掟です。
ここは潔く、泣いて謝ってあげるマーサ。これがまた、業務用の嘘泣きでなく、心がこもっているのです。まるで、駄々をこねる子供をあやす母親のように。
その涙の清らかなこと。ここで心ほだされ、怒りを収めることができなければ、もう人間じゃありませんね。メアリーに良心が芽生え、マーサを許します。
 
といった具合で……
にこにこ笑い、くすぐったりさめざめ泣き落としで、メアリーの永久凍土のような心を、あたたかい春の陽となって溶かしていくマーサ。
ときには家庭教師のように、友達のように、また母親のように、優しくも断固としてご主人を導きさえするマーサ。これが高校生くらいの少女とは思えぬ巨大な包容力。
『秘密の花園』の中でのマーサの役割は絶大です。なんといっても、マーサが要領よくメアリーを言い包めて「お外で遊んでらっしゃい」と一人で庭園の方へ送り出さなければ、メアリーは秘密の花園に出会うことはなかったのですから。
 
しかも、ラスト近くでは、クレイヴン卿に激しく叱責されてどん底に落ち込み、「今日限りでお暇をいただきます……」と泣き崩れるミセス・メドロックの隣に寄り添い、「ほっといてよ!」と意地を張られてもそっと手をさしのべて慰める、この優しさ、この心癒やされる気持ちの余裕のものすごいこと。
 
これぞスーパーメイドの面目躍如といった名シーンでしょう。
 
そう、メイドとは単なる使用人にあらず、ましてやサーバントなどではありません。
上司との間に厚い親愛の絆を築き、信じて頼られ、仕えて任せられる、かけがえのない生活の伴侶でもあるのですね。
 
このようなメイドの王道を、真実一路とばかりに突き進むスーパーメイド・マーサ。
この心意気あってこそ、『秘密の花園』のメイド軍団たちが、キラリと光ります。
いやまったく、昨今の『エマ』さんや『シャーリー』さんもいいですが、世の“メイド萌え”の諸氏たちよ、『秘密の花園』のマーサを忘れてはなりませんぞ。この作品を見たら、一度でいいからマーサにお茶を煎れてもらいたいとか、一度でいいからマーサに膝枕してもらい、できればくすぐっていただきたいと願うこと、間違いありません。
 
さてはて、そこにいてくれるだけで、なぜかだれもが幸せになってしまうスーパーメイド。このキャラクターをとうとう実写で描き上げただけでも、映画『秘密の花園』は21世紀に高く再評価されるべきでしょう。
マーサ役を務めたローラ・クロスリー嬢に喝采!
 
 
と、いうことで……
ハリポタ・ファンと“メイド萌え”の皆さんにとって、1993年の『秘密の花園』は、この21世紀において必見のアイテムに進化した! ……と、私は断言します。
 
未見の方は、今すぐご覧あれ。
 
“あなたのどこかに、心を開く鍵がある”
“The timeless tale of a special place where
magic, hope and love grow.”
 
……パンフレットとポスターのキャッチコピーより。
 
 
 


prev. index next



HOME

akiyamakan@msn.comakiyamakan@msn.com