Essay
日々の雑文


 22   20060211●雑感『百円ビデオと感動探し』
更新日時:
2006/02/16 
 
 
 
百円ビデオと
感動探し。
 
 
 
十本、これで千円分。
安い! という喜びの後から、
安すぎ……という喪失感がついてくる。
中古ビデオとはいえ、それぞれの作品には、原作者も監督もいる。
一生懸命、感動や幸福感を、作品に込めているはずだ。
付いた値札が、百円。
値段の低さとは別に、どこか申し訳ないような、奇妙な感じもする。
 
「カネで買えないものはない」と豪語した、若きIT金満家が
粉飾決算や脱税の罪で告発され、逮捕されてから、
それみたことかと私たちは、
「カネで買えないものがあるのさ」と、嘯(うそぶ)いたりする。
 
しかしIT金満家は、鉄格子の中から、こう言い返せる。
「カネで買えないものがあると言うなら、見せてみろ」
私たちは、たぶんこんなことを答えるだろう。
「信じられる友達、愛し合う結婚、親子の情、社会に役立つ仕事、
そして感動や幸福感」と。
たしかにそうだろう。
 
だからIT金満家は、鉄格子の中から、こう笑うだろう。
「だけどあんたは、友達を裏切ったことがあるよね。
相手の収入や容貌を計算して結婚したよね。
親を憎んだり、子供をうとましく思ったこともあるよね。
賄賂をもらう役人が、うらやましかったよね。
なによりも、このボクのように、なりたいと思ったよね。
今のあんたは幸福なのか? そうじゃないだろ?
この世のどこに愛がある? 情がある? さあ見せてみろ、やってみろ」
 
私たちはきっと、答えを失う。
 
だって、ほら、このビデオ。
感動と幸福、一本百円の御時勢だ。
中身からっぽの生テープと同じ値段だから、
作品は無料同然。そう、われらが資本主義社会では
感動と幸福すら、タダにまで買い叩かれてしまうのだ。
 
なるほど、カネで買えないものがある。
タダでも手に入るものだからね。
 
一本百円が悪いというのではない。
ただ、一本百円で買ったそのあとで、
作品をじっくり見て、
カネでは買えない感動と幸福を得られるだけの、
感性とか、品格が、自分にあるのか。
作品が安価な分、自分の心の姿勢も安易になってはいないのか、
そんなふうに、試されているような気もする。
 
映像作品はここ数年で、驚くほど低価格になった。
DVDという高画質ながら、往年の名作映画が千円とか五百円。
新作だって、三千円台。ロードショー料金の二人分くらいだ。
それすら、たちまちTV放映されてしまう。
高いアニメ作品でも、たいてい発売と同時にレンタルに出る。
レンタルビデオ店は、作品の洪水だ。
買うのも借りるのも簡単だが、あまりに多すぎて、
見たい作品を探すこと自体、面倒になってくる。
 
そういえば、書籍も同じだ。
多すぎる。そしてすぐ絶版になる。
とりわけマンガとライトノベル。
「掃いて捨てるほど」と言われそうなほど、氾濫している。
読みたい作品を探すこと自体、面倒になってくる。
 
だから、だれかに代わって探してもらい、
「この本がすごい、このビデオがすごい」と選んでほしくなるのだろう。
そのようなわけで、
『この文庫がすごい』『このライトノベルがすごい』的な
ランキングブックが花盛りだ。
そのランキングブックすら何種類も出てきたので、
そのうち、『この“この○○がすごい”がすごい』といった
ランキングブックのランキングブックも出ることであろう。
 
ちょっと不思議に感じる。
多くの人が、感動とか幸福感を求めて、本やビデオを探そうとし、
結局、誰かに探してもらい、広告宣伝やネットの情報とか、
ランキングブックに頼って、買い求めているのではないだろうか。
 
しかし、“自分が”心から感動できるような作品って、
やっぱり“自分で探し、自分で発見する”ものだと思う。
 
昔むかし、この世界に家庭用ビデオデッキが普及しておらず、
もちろんレンタルビデオ店も、インターネットもなかった時代。
BS放送もなく、TVは地上波だけだった。
CDもなく、音楽はテープかレコード盤。
映画はまず欧米で公開され、一年ほども過ぎてから、
ようやく国内の映画館へやってきた。
四半世紀、25年ほど前のことだ。
 
当時、公開が終わった映画を見るためには、
二番館での再上映や、名画座の三本立てを探すか、
三四年後のTVの洋画劇場を待つか、だった。
それでもどうしても見たいときは、
16ミリフィルムと映写機を借りてきて、
会場を設営して上映するしかない。
もちろん一人でできることではない。
ミニコミ誌で同志を募り、お金を出しあって、
その日、その場所へ集まって見るのだ。
私もそうした。
 
好きな作品に再会するためには、
好きな異性と再会するにも似た、
忍耐と幸運と努力が必要だった。
 
だから、感動もひとしおだった。
 
感動する作品に最初に出会うときも、
たいてい事前情報やランキングなんかなかった。
たまたま手にした映画館のチラシ、新聞のTV欄。
本の場合は、書店や図書館で、たまたま手にとって。
運命の恋人と出会うような、偶然の出来事だった。
 
感動との出会いは、きっと、そういうものなのだ。
最初から予定された感動など、ありはしないのだから。
 
そのことは現在でも、同じだと思う。
大きく変わった点は、事前情報が多すぎて、
偶然の出会いが、かえって難しくなってしまったことだろう。
毎日のように、大ヒットを約束された超大作が、
新聞やTVに、ネットに大々的に広告されて、
「さあ、これで感動しなさい」と命令してくるかのようだ。
 
感動はいつのまにか“与えられる”ものになってしまった。
ひょっとすると、そのことを多くの人が、疑うことなく信じ、
誰かが感動をくれるものと、期待しているのかもしれない。
ランキングブックを繰って、無難確実な、感動のレシピを探しながら。
 
感動は自分がするもの。
感動は自分の心の奥底から“湧き上がって”くるもの。
感動は本来、思いがけない出会いであること。
ぼんやり待っていても、向こうから来てはくれない。
これは、物理的に、あちこち探しに行けという意味ではなく、
自分の心の扉を開けて、作品世界へ出向こうということだ。
 
その作品の登場人物が実在であれ架空であれ、
自分が作品中の一人だったらと想像し、
苦しみ悩み、考え行動し、喜び泣いて、
「なぜ」そうしているのかを思いやったとき、
人間として、理屈抜きの情動が湧いてきて、
思わず胸が熱くなったら、
それが感動なのだと思う。
 
百円で山積みされた中古ビデオに出会って、
「安い!」と買ってしまうとき、心の中で、
感動の名作が百円で買えて、しめしめと計算してはいないだろうか。
はからずもそこには、感動を百円という金額に換算する、自分がいる。
感動をカネで買おうとしている、たわけた自分が。
だから、申し訳ない気持ちがする。
 
感動や幸福感は、もちろんカネでは買えない。カネと引き替えに他人から買うなど、できない相談だ。
感動や幸福感、そのものは、無料。
ただ、感動や幸福感を感じられる自分でいるかどうか、なんだね。
 
 
 


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