Essay
日々の雑文


 20   20060107●雑感『謹賀新年2006』【追伸】
更新日時:
2006/01/08 
謹賀新年2006
【追伸】
 
 
 
 
崩壊の予感
 
 
 
 
 
 
 
国民健康保険の保険料が払えず、長期滞納になって、医療費を全額自己負担させられる“無保険者”が2004年度には全国で30万世帯以上に達したという(毎日新聞2006.01.04)。
月々の保険料すら支払えない状態なのに、医療費を全額支払えというのだから、事実上、医者にかかるなと言うに等しい。換言すれば、重病になったら死になさい、ということではないか。これは世帯単位であるから、子供も含まれるのだ。
30万世帯が、一世帯四人とすれば、120万人だ。立派な大都市に匹敵する人口が、医師も薬もない難民キャンプと同等の境遇に陥りつつあると思われる。どこの国の話でもない。私たちが日々生活し、通勤や通学している、この街や村で現実に起こっていることなのだ。
恐ろしいのは、この30万世帯という数字が、2000年度の三倍ということである。恐るべきスピードで増加した結果であることだ。
 
医療費は、国民健康保険に入っていても、基本的に三割負担だ。この数字にも、いささか恐さを覚える。ちょっとしたことで何万円という請求が発生する。保険料をどうにか払っていても、いざというときに三割負担の額を支払えない世帯があることも、十分に考えられる。三割負担は、健康保険を維持している人ですら、医者にかかるのをためらわせる額なのだ。
 
なにか、大切なものが、崩れ去っていこうとしている。
 
さらに、義務教育である公立の小中学校で、文房具代や給食費、修学旅行費用などの援助“就学援助”を受ける児童・生徒の数が、2004年度には全国で約133万7千人という(朝日新聞2006.01.03)。こちらも、立派な大都市に匹敵する人口が、まるでユニセフの援助を受ける難民キャンプと同等の境遇に陥りつつあるということではないのか。
これはどこの国の話でもない。私たちのこの国の、それも義務教育(ということは国民であって、外国人ではない)の話だ。街や村で普通に見かける小学校や中学校で、現実に起こっていることなのだ。
 
2004年度に“就学援助”を受ける児童・生徒の数は、四年前の2000年度に比べて、約37%増加した。受給率の全国平均は12.8%、ということは、1クラス40人のうちの5人に相当する。また大阪府は27.9%、東京都は24.8%と高率であり、クラスのなんと四人に一人ということになる。
これは、公立の小中学校の話だ。名門の私立ではない。高額の学費を支払える裕福な家庭の子女は、“就学援助”を必要としない。
 
医療と教育。治安に並んで国家の根幹をなす二つの領域でこれらの数字が示している意味に、改めてぞっとする。とりわけ恐ろしいのは、ここ数年にわたって、これらの数字が増え続けていることだ。私たちの国が文明国を称するなら、このような苦境に瀕する国民の数は減り続けていなくてはならないというのに。
 
健康保険金を払えないなら、医者にかかるな。税金で就学援助を受けているなら、ありがたいと思え……と割り切る考えもあるだろう。すべて、そうなった人たちの“自己責任”なのだ……と。
しかし、このまま無視して放置するのは、正しくないと思う。
今から何らかの救済策を講じて、社会の傷口を小さくしておく方が、放置して取り返しがつかなくなったときに社会全体が強いられる大きな出血よりも、リスクが小さくて済むのではないか。
 
医者にかかれなければ、自分の子供が病気になったら、薬は盗んで手に入れねばならなくなる。就学援助も、もし援助の手が行き渡らなくなったら、全く学校に出てこれない児童が増加する。生きるカネを得るために、犯罪に走る児童が街中を跳梁するだろう。大人たちも貧しければ、そんな児童を制止して叱ることもできない。
 
医療と教育からはじき出される人々が、着実に増えていくとしたら……
このまま10年も放置していたら、私たちの社会は富裕層と貧困層にくっきりと分かれてしまい、まるで別の国が同じ国土を共有するような状態が現出してくるのではないだろうか。
 
貧困層の社会では、お互いにわずかな財産を奪い合い、犯罪組織とアングラ・マネーが台頭し、治安も福祉も皆無の、まるでマンガのバイオレンス・ジャックそのままの無法状態が出現するだろう。明日の生活に絶望する人々がある割合以上になったら、国そのものが崩壊する危険をはらんでいる。
そのとき、私たちの一人一人に否応なく襲いかかるリスクは、あまりにも膨大で苛酷なものになるだろう。
思いだそう。20世紀の共産圏で、社会的貧困が蔓延した国家がどのように崩壊していったか。もはや他人事ではない。
 
私は競争によって格差が生まれる社会を、すべて否定するつもりはない。けれど、社会がその安定を保てる格差の範囲には、限度があると思う。
格差が広がりすぎると、社会に“絶望”という病が流行し始める。格差が許される限度は、その少し前までだ。この、“限度”を“節度”でもって解決しなくてはならない。
人間としての節度をもって、なんらかの救済策が必要になるはずだ。
私たちのこの国には、残念ながら、宗教的な観念も含めて、富める者が貧しき者を救う慣習が育っていないと思う。社会の崩壊を食い止める慈善事業の歴史が、あまりに貧弱だ。終戦直後のようにアメリカの援助におすがりできる無責任な時代ではない。格差があまりに広がって、その結果、暗黒の無法状態が蔓延してしまってからでは、手遅れだ。
 
特に“就学援助”の受給率が高い東京都足立区で、受給率が七割(!)にもなった小学校の六年生に、「将来の夢」を作文させたら、3分の1の子供が何も書けなかったという(同・朝日新聞)。
SF作家にとっては危急存亡の事態だ。SFは多かれ少なかれ、未来への夢と希望を創り出す行為なのだから。
いい歳の大人が、未来に匙を投げるのは、まだ仕方がないとしよう。
しかし、子供は、夢にあふれていてほしい。それが普通なのだ。自分が子供だったときを思い返してみればどうだろう。あのころ、未来がやってくるのは、とても楽しみだったのではないだろうか。
 
子供が絶望する社会に、未来はない。
 
このような現実をふまえて、SFやファンタジーは、どこへ向かって進めばいいのだろうか。
子供たちが未来に希望を持って生きられるとは、どういうことなのか。
SFやファンタジーを書く人に、なんらかの役割があると思う。
 
なにか不気味な、崩壊の予感がある。国際紛争であるとか、国家の財政破綻といった問題とは別に、じわじわと進行する、私たちの心の内側からの崩壊だ。法律を犯してもいないのにテロリストの人質となった被害者とその家族という、社会的に極めて弱い立場に陥った人々に対して「自己責任」の言葉を投げつけたあのころから始まった、私たちの心のひび割れ。寛容のかけらすら失った、私たちの心の土台の崩壊なのだろうか。
                                (2006.01.07)
 
 
※タイトルのカット写真は、琵琶湖の空。2006年元旦に撮影。この日は雲ひとつないピーカン晴れでした。
 
 


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