Essay
日々の雑文


 19   20060101●雑感『謹賀新年2006』
更新日時:
2006/01/03 
060101
 
 
 
 
 
 
謹賀新年
2006
 
 
 
 
昨年末もいろいろと作業が滞り……
御粗末ながら、年賀状の宛名を書いているうちに、一夜明ければ西暦2005年が去り、2006年になっていました。
いつのまにか寝てしまい、昼頃になって賀状を投函し、家族と一緒に、近くの神社へ初詣に行ってきたところです。
そこで気付いたのですが……
玄関に松飾りとか、注連飾りを掛けている家が、ほとんどない。
せいぜい十軒に一軒くらいです。
スーパーで簡単に買える、松ぼっくりと注連縄の、賀正の飾り物。
門松どころか、あの簡素な飾りすら、もう、街中では目にしません。
ということは、ほとんどの家庭で、買っていないということですね。
終わり無き世の目出度さを、松竹立てて門ごとに、祝う今日こそ楽しけれ……の、はずなのですが、なんとなく、めでたさも半分未満の年明けです。
少なくとも、この四半世紀で最も、将来に鬱々とする正月ではないかと。
年明けて、さあ新年、パーッと明るくいこう! という景気の良さはどこへやら……
明るいのは、TVに出ているお笑いタレントさんばかりのように見えます。
 
振り返れば、昨年は、異様なほど殺伐とした雰囲気に終始していました。
 
昨年の年頭は、牛肉の産地偽装事件が尾を引いていましたし、年末はもちろん、マンション等の耐震強度偽装事件。韓国ではES細胞の論文偽装事件。某超大国の大統領いわく「大量破壊兵器があるってのは、嘘だったけど、戦争やっちまっただ」。さらに、振込め詐欺に悪質リフォーム。スパイウェアでクレジット詐欺。大人はみんな、ずるくて嘘つきでした。いかなる商品もサービスも、まず疑わなくてはなりません。信じる者は馬鹿をみる。それが当然とでもいうかのようです。
 
さらに、顕在化したアスベスト禍。JR西日本と東日本の大規模な脱線事故。相次ぐ航空機トラブル。東証のコンピュータ・ダウン。石油ファンヒーターの回収問題といい、新聞の下段には企業のお詫びが連日羅列で、“不具合”という意味曖昧で珍奇な言葉を毎日聞くことになりました。
“万全”“安全第一”“大丈夫”なんて言葉が、信用できなくなりました。
 
昨年は、バブル期なみに株価が躍りました。IT企業や投資家集団が仕掛ける企業買収。コンピュータ入力ミスで生じた莫大な損失と、何者かが得た莫大な利益。宰相個人の人気で大勝利した巨大与党。史上最高額の万馬券。巨額の個人宇宙旅行にエントリーする富裕な人々。アフリカの戦災と飢餓。弱者を救済すべき国連の内部不祥事。国内では報道されることもなくなったホームレスと、イラク戦争も上回る、年間3万人以上もの自殺者。通りすがりの大人や青少年の手で、いとも簡単に殺される子供たち。
 
カネと権力を手にした“勝ち組”が正しくて、“負け組”の弱者は顧みられない。国民の全体が裕福になるのならともなく、87年には3.3%だった「貯蓄ゼロ」世帯が、03年には21.8%にまで急増しているという(毎日新聞)。戦慄する数字。一瞬にして数百億円の不労所得が生まれる一方で、生活手段を失って絶望する世帯が着実に増加しています。戦前のドイツSF『メトロポリス』そのものの、悪夢のような社会が、まさに現実化したかのようです。
 
真面目にこつこつと働けば、老後は年金をもらい、健康で文化的な最低限の生活は送れる……という、庶民のささやかなビジョンは崩れ去っていこうとしています。『プロジェクトX』の時代は終わりました。真面目に一生懸命働くやつは馬鹿をみる。一攫千金が偉くて、強い者が正しい。そんな空気が、ごく普通の一般庶民の社会を蝕んでいます。つましく暮らしてきた人々が、がつがつし、ぎすぎすし、奪い合うことに熱心になる。ミヒャエル・エンデの『モモ』にみる、時間を盗まれて心の余裕を失った人々の村のように。
 
恐ろしいことは、日々、道や駅で行き交う普通の人が、突如、凶悪な加害者になりうるということです。クルマに乗る人が平気で歩行者に突っ掛かり、ホームで列車を待つ人が、前にいる見知らぬ人を線路へ突き落とすかもしれない。そんな不安が徐々に蔓延していくのを感じずにおれません。
 
世界は日々、醜さを増していく。
 
真面目にこつこつと働けば、それなりに報われる。勤勉で一生懸命で、実直な日本人。そんなイメージが、ここ数年で幻と消え去ってしまおうとしています。
私たちが住むこの社会は、今、抜き差しならないモラルハザードの崖っ縁にあるのでしょうか。
 
もちろん私は「昔は良かった」で済ませたくはありません。『プロジェクトX』の成功の陰で、もっと報われなかった不幸な人々は数限りなくいたはずですし、『プロジェクトX』のリーダーたちが、すべて幸福になれたと断言することもできないでしょう。
 
カネと権力が至上。弱者は見なかったことにする。騙されるやつは馬鹿さ……そんな問題は、いつの時代にもありました。
 
しかし、現代の恐ろしいところは、それらのモラルハザードが、大人たちよりも、若者の方から進行していることではないかと、思います。
 
その昔……たとえば60年代や70年代には、ずるくて嘘つきで弱肉強食な大人たちに向かって、若者たちが反旗を翻しました。正義を、自由を、平等を、平和を、愛を。
当時の若者たちには、精神的なリーダーがいました。
マンガの主人公たちです。
手塚マンガのヒーローたちは、決して弱い者を見捨てませんでした。悪をなした者にはかならず報いがあり、もしくは真人間に更生するチャンスがありました。それが正義というものだったのです。
石森マンガのサイボーグたちは、死の商人たちと戦いました。戦争を商売することは、悪鬼にも劣る、人として最もおぞましい業だったのです。
そして遊星仮面は、「戦争をやめろ!」と叫び続けました。
学校の教育はさておき、子供たちの憧れの英雄は、常に「弱きを助け、強きを挫く」人間でした。弱者を守りながらも、人は殺さない、戦争はしない……そのために苦しみ葛藤し、のたうちまわり、その結果、むしろ困難な道を選ぶ……。それが理想の人間像であり、かっこよさでもありました。
 
今、恐るべきは、子供たちが日々触れているマンガやゲームの登場人物に、そのような生き方があるのかということです。子供や老人、負傷者や病人を抱えて、敵よりも劣る武器で戦い抜く(生き抜く)しかない旅路というのは、あまりお目にかからないのではないでしょうか。しかし、私たちの現実の生活は、まさにそういうものであり、ゲームの世界のような生き方で、何十年もやっていけるとは思えないのです。
 
2006年。けっして良い年になるとは思えません。昨年に噴出した不気味な心の膿から目をそらさずに、現代社会の私たちの、なにが、どこで、どのように間違っているのかを判断する、ほぼ最後のチャンスになるのではないかと思います。
それが何であるのかは、私にもさっぱりわかりません。おそらく自分が書く作品の主人公たちが、一生懸命に探してくれると思います。
確かなのは、“恐るべき間違い”の正体は、たとえば『ハリー・ポッター』の“あの人”のような、具体的な人物ではなくて、実体のない精神状態のような何者かでありましょう。社会に悲劇をもたらす恐ろしい何者かは、私自身も含めて、全世界の多数の人々の心の内側に隠れている怪物に違いないのですから。
                             (2006年元旦)
 
 
※タイトルのカット写真は、“琵琶湖の砲艦サンパブロ”とでも呼びたい、河用砲艦に似ているご近所のお船。2006年元旦に撮影。
 
  
 
 


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