Essay
日々の雑文


 18   20051222★アニメ解題『ノワール』『少女革命ウテナ』4
更新日時:
2007/03/12 

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051222【アニメ解題】
 
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『ノワール』と『少女革命ウテナ』、
その凄絶な魂の彷徨(4)
 
 
●不条理な前衛劇、しかし……
 
『少女革命ウテナ』。数話でもご覧になった方には、この作品のユニークさは説明の必要はありませんね。1997年4月2日〜12月24日放映の全39話。こちらは『ノワール』と違って解説本が何冊も出ていますし、フィルムコミックも小説版もあって、さまざまな議論がなされています。
 
とはいえ私は、『ウテナ』をオンエアのリアルタイムで見たのは二、三話程度で、結局のところ通しで見たのは、2004年にやっとDVDの機械を買い、思い立ってウテナのDVDを買い揃えてから。
というのは、もちろん、最初に『ウテナ』を見た時点で、あっさりと誤解してしまったからです。
 
この作品は、宝塚をパロディした少女マンガ。ラブコメにすぎない。
それに、わけがわからない……と。
 
わけがわからないのは、しょせん、若い女の子の感性には縁が無いと、あきらめてしまったからでして、つまらぬ先入観を持ったがゆえの敗北ですね。
 
そのまま数年が過ぎ……
たまたま2004年に、超安売りで『ウテナ』のビデオを買いました。それで、第8話『カレーなるハイトリップ』を初めて見たわけで……
なんじゃこれは?
根っからのウテナファンの皆様には誠に申し訳ないのですが、まあ男性にとっては、その程度の印象だったのです。が……
気になる。結局どういう話だったのか、結末が気になる。
なにしろ徹頭徹尾、謎だらけの展開でしたので……
で、最終話の入ったDVDを買う。
なんじゃこれは?
で、劇場版『アドゥレセンス黙示録』を買って見る。だいたいこれに、39話全編が凝縮されていて、1時間半で全部見た気になれると思ったのです。が、えらい間違い……
なんじゃこれは?
と、首をひねっているうちに、気がついてみると、DVDを全部見て、CDも入手困難な『アドゥレセンス黙示録』サントラ以外はみんな聴いておりました。
 
要するに、ジャングルの奥の底無し沼のように、『ウテナ』には果てしなくミステリアスな吸引力があったということですね。
 
それでも、謎はひとつも解けません。
なぜあの人が“世界の果て”なのか。薔薇の花嫁をめぐる決闘は何のためなのか。世界を革命する力とは。根室記念館とは。そもそも主人公のウテナとアンシーの素性は。そしてウテナ自身が、結局、何だったのか。
 
しかし、全話を見終えて、思い知りました。
『ウテナ』の作品そのものが、「これはアニメであって現実にはあらず。現実を超えたものなり」という、きわめて常識的な前提のもとに創られているということを。
 
要するに、「アニメなんだから、現実に起こらない不条理なことがいくらでも、当然のように起こるもの。そうでしょ? どこか問題ある?」
という、至極あたりまえで論理的なメッセージが、冒頭からバーンと突き付けられているわけです。
第1話の最初のプロローグから、現実をすこんと突き崩し、ウテナや生徒会のメンバーのコスチュームひとつとっても、「これは現実ではござんせんよ」と視聴者に念押ししてくれているわけですね。あのタカラヅカ的コスチュームあたりは、現実にそういうものを着ていると考えるよりも、抽象的な意味合いで、心の中であのように見えていた……といった、心象風景の描写だと解釈してもいいわけです。
 
もともと「現実の物差しや枠組みを素っ飛ばしましたわよ」を出発点にしているのですから、いわばTV版『新世紀エヴァンゲリオン』のあの不条理な最終回からスタートするようなものです。その点、むしろ『エヴァ』よりも親切で、潔いと言ってさしつかえないでしょう。
 
さて、そういうわけで、数々の謎は謎のままおおらかに受け入れて、これは現実のようで現実でない、不可思議な世界の物語だと理解した次第です。
 
とはいっても、観賞にはルールがあります。
『ウテナ』の場合、それは、「アニメ化された前衛小劇場」ということでしょう。アニメによって表現された世界ではあるものの、その語り口や演出は、むしろ小劇場であると。舞台が回るように場面が変わり、突拍子もなく、影絵少女の寸劇も飛び込んでくる。登場人物のコスプレ的衣装も、小劇場のノリですし、決闘広場やプラネタリウムやアキオカーの扱いなど、シュールレアリズムの絵画みたいな、舞台装置の感覚です。
 
特に、“ありえない光景”として強い印象を残すのは、決闘のシーンで、薔薇の花嫁などのヒロイン役の胸に輝いて現れる剣。選ばれた決闘者は、その“つか”を握って、まるでヒロインの肉体が鞘であるかのように長剣を引き抜き、そして戦います。
 
この、剣は何なのでしょうか?
 
第15話『その梢が指す風景』の馬宮のセリフ「彼らの心なら……強い剣に結晶するかもしれない」「……むしろ彼らの心の剣を……」(第15話04:25)が、剣の正体を明瞭に説明していると思います。
 
これは抽象的な剣。人であれば誰もが心の中に秘めている刃のことなのだと。
人の心の悪意・敵意・殺意。あるいは嫉妬や猜疑・奸計や疑心暗鬼の数々……。きっとそれらが、人の心の鞘に収めている剣の形にイメージを結晶したものなのです。
 
ならば、最終回まで、しばしばアンシーを狙って襲いかかり、あるいはアンシーの肉体に突き刺さった形で現れる無数の剣の群れは、つかみどころのない多くの人々の悪意。一見、他愛もなさそうでいて、じつは残酷に人を傷つけ、ときには死へ追いやることすらある“大衆の悪意”を象徴しているのでしょう。
 
アンシーに突き刺さる無数の剣は、“薔薇の花嫁”として特別視される彼女へ向けて、周囲の人々が浴びせる嫉妬や中傷などの悪意であると同時に、アンシー自身が感じ取っている、周囲の人々からの、突き刺すような冷たい眼差しを視覚化したものではないかと思われます。
 
周囲の人々から突きつけられる、無数の心の剣におびえることによって、自分の意志を失い、そして周囲の人々が要求するままに“薔薇の花嫁”を演じさせられ、それゆえに嫉妬と中傷の対象となり、その内気な性格につけ込まれて、格好のいじめの標的とされ、このままでは永遠に“大衆が選んだ生贄”(=魔女)であり続けるしかないアンシー。
 
ならば、この物語は、自らをあきらめて、“生贄”としての役割の中に自分の本心を閉じこめてしまったアンシーという少女が、ウテナという友達の力によって、心の自由を取り戻していく旅路だった……と理解することもできるでしょう。
 
アンシーにとって、これはまさに、革命的なまでの、凄絶な心の彷徨だったのではないでしょうか。
 
このように、この作品中では、人の心の中に秘められていて、目に見えることのない感情が、さまざまなオブジェやキャラクターや舞台装置となって、シュールなスタイルで視覚化されています。
 
そうすると……
あの大がかりな決闘広場も、天上の城も、はたまた学園そのものも、実体を持ってそこにあるものというよりは、登場人物(と、そしてもちろん観客としてのあなた)が共有するイメージであり非現実の舞台装置なのだと解することができますね。
 
「そういうものか」と納得したら、一発で腑に落ちました。
 
劇場版『アドゥレセンス黙示録』も同じで、あれはTV版との整合性を考慮したものではなくて、一種の抽象演劇であり、超現実映像詩として楽しめばよいわけですね。ストーリー抜きで、絵の美しさだけとっても、二十世紀の最高峰じゃないだろうか。
 
しかしそう考えて振り返ると、『ウテナ』はいまさらに、凄い。
全編を通じて、これでもかこれでもかと抽象的非合理不条理の世界を繰り出しながらも、テーマは一貫しています。
百花繚乱エログロナンセンスの花束を、日本刀ですぱっと一刀両断するような清々しさで、たったひとつのテーマを、第1話から最終話まで、びしーっと決めているのです。
 
なんて、潔い。
ここのところは、さすがの『エヴァ』もかなわないと思います。
主人公ウテナの性格そのままに、作品テーマは、超明快。
たった一言。
 
“友情”なのです。
 
『ウテナ』の、前衛劇のような派手な演出とパロディをいったん切り離して、登場人物同士の、人と人の関係に着目してみると、この作品は、男同士、女同士、そして男女の、兄妹の、あるいは大人と子供の、仲間としてや恋人としての愛や信頼の関係(と、その破綻)を、毎回手を変え品を替えて、徹底的に描き込まれていることがわかります。
 
友人としての爽やかな信頼関係もあり、一方でずぶずぶの愛憎劇もあり、策略あり奸計あり嫉妬あり裏切りありで、とても中高生の青春グラフィティとは言い難いのですが、ともあれ徹底的に、TVアニメの限界といえるところまで、“人間関係”にこだわったストーリーであることは、うなずいていただけるでしょう。
 
どの回を見ても、どこかでワンカット、人間性をグリッとえぐるような、ぞくっとするシーンに出くわします。
 
それら全部に、広い意味で共通するテーマを選ぶとしたら、おそらく“友情”なのです。
 
 
●鮮やかなるエンディング
 
『ウテナ』の、ゾクっとする場面。
第1話では、ラスト近くのアンシーのセリフ。「ごきげんよう。西園寺、センパイ」
第5話。ラスト近くの、梢の回想。「でもその子、勘違いしてたのね。あたしがピアノを弾けるって」
第9話。ラスト。「本当に友達がいると思っているヤツは……」
第10話。七実が濁流に流し去る箱。
第11話。アンシーのセリフ。「ごきげんよう。天上さん」
第20話のラスト。若葉の「ただいま……」
第29話。枝織「あなたも私を笑いにきたの……」。そのときの表情。
などなど……
 
ほかにもいろいろありますが、総じて、人間同士の関係に翻弄される人間の虚しさや悲しさを、容赦なくえぐり出すせりふであり場面なのです。
 
それゆえに『ウテナ』は、単なるスタイリッシュなパロディ少女マンガではなく、複雑かつ濃厚な人間ドラマとなっているのですね。それぞれのシーンの“凄さ”は、アニメだからこその心理描写もあいまって、TV作品としては空前絶後の凄まじさだと思います。
 
本当に、妥協なく、人間同士の信頼と不信を、描き重ねているのです。
 
あえて“空前絶後”と言いましたのは、全39話をかけて“友情”のテーマが次々と深まっていき、最終話の、怒涛のような急旋回へとなだれ込んでいくからです。
最終話のエンディング。
しっとりと、そしてしっかりと歩みゆくアンシーの後ろ姿。
このとき、背中から総毛立つような、深くたゆたうような感動を湧き起こして、『ウテナ』は全話を貫いた“友情”のテーマに、見事なまでの回答を残してくれるのです。
 
あの昔、アニメ『宝島』の最終話には男泣きさせられた。『無責任艦長タイラー』の最終話にはド肝を抜かれた。『未来少年コナン』や『ふしぎの海のナディア』のエンディングでは、みんな幸せにと願った。『ノワール』の最終話では「ああ、これで終りではない……」とつぶやいた……
その一方、『宇宙戦艦ヤマト』『ガンダム』『マクロス』『ラーゼフォン』『エヴァ』等々は、作品がヒットしすぎたゆえに、とうとう終わり方を見失ったのだと、嘆息するしかなかった……
 
それこそ星の数ほどあるTVアニメの最終話の中でも、『ウテナ』の最終話『いつか一緒に輝いて』は、まさに有終の美。歴史を超えた最高傑作と称賛されてしかるべきでありましょう。
 
その理由は……
最後の最後、エンドロールとともに歩むアンシーの姿に、物語のすべてに貫通したテーマ“友情”への、明快な回答が語られているからです。
 
「友情は、形がない。形はなくても、それによって、人は変わる」と。
 
最終話まで、登場人物たちが追求してきた“友情”は、昨今の若者たちが、いつもケータイのメールでつながっていたがるように、そこに相手がいて、一緒になにかをして、物をやりとりし、与えることを約束し、支配し支配される、はっきりした“形”のある人間関係でした。
いわば現代的な、ある種の打算と期待に裏打ちされた、契約関係のような友情だったのではないかと感じます。
 
しかし物語の最後の最後になって提示された回答は、その逆でした。
対象となる人も物もなく、それでも相手に“大切にされた”という思いだけが残る。
たったそれだけのことが、どこまで人間を突き動かすか、それを鮮やかに描ききってくれたのだと思います。
 
この感動は、最終二話を見ただけでは湧いてこないでしょう。全39話を通して見ることで、はっきりと納得させられる結論だからです。それまでウテナが延々と迷い悩んでいた“友情”のテーマが、ついにブレイクスルーに達して、過去の作品ではかなわなかった彼岸へと達したのではないでしょうか。
その彼岸は、もはや理屈を超えた、人間関係の本質にせまるものではないかと思います。
すなわち……
 
「友は去っても、友情は残る」……ということなのです。
 
 
●『ノワール』との共通点、そして……
 
さて、『少女革命ウテナ』と『ノワール』には、一目瞭然の共通点が、ひとつあります。
それは、最終話。
どちらの作品も、主人公は二人。
ウテナとアンシー。ミレイユと霧香。
二人とも女性です。
そして最終話のクライマックスで、同じシーンが現れます。
奈落の底へ落ちてゆく一人の手を、もう一人がはっしと握る。
そしてしばし、転落をとどめようとするのです。
この場合、転落するとは、二人の別離を意味します。
 
まあ、アニメの中では、よくあるシーンといえば、そうなのですが。私は勝手に「ファイト一発な場面」と呼んでいますが、スタミナドリンクのCMそのままに、転落する一人の手を、もう一人がとっさに握って救おうとする構図ですね。
同様の場面は『未来少年コナン』やアニメの『メトロポリス』などにも見られます。探せば結構多くの作品にあるでしょう。
 
ともあれ、ウテナとアンシー、ミレイユと霧香、どちらもクライマックスで、落ち行く一人の手をもう一人が必死で握ります。
救いの手を差し伸べる一人。
その手に命を委ねる一人。
これまでの物語で培ってきた二人の関係が、ここに凝縮されます。
そして、どうなったか……
『少女革命ウテナ』と『ノワール』で、結果は微妙に異なります。
どちらが良いとか、感動するかどうかは、さておき……
 
手を結びあったときの、二人の関係は、同じなのです。
アンシーも霧香も、罪を背負っています。
ウテナとミレイユに対して、背負っている罪です。
アンシーに関して言えば、最終話の冒頭で、ウテナに対してやっていることだけでも、罪なことは明らかでしょう。
剣でどうこうしたということよりも、「……だって、女の子だから」の一言が、ウテナの人格のすべてを粉みじんに打ち砕いたことは明らかなのですから。
 
霧香ももちろん、ミレイユに対して、宿命的な罪を背負っています。
 
このように、アンシーも霧香も、罪を背負って、奈落へ落ちようとします。
そこへ差し伸べられる手。
ウテナの言葉。「だから、きみとボクの出会うこの世界を恐れないで」
ミレイユの言葉。「……お願いよ……」
差し伸べられた手はまた、赦しの手でもあったのです。
このとき、アンシーと霧香には、罪の救済がもたらされた。
そう考えたいのです。
 
このあと、どうなるかはともかく、この瞬間、アンシーと霧香の心は救われたのだと。
その救済は手遅れではなく、間に合ったのだと考えたいのです。
 
 
『少女革命ウテナ』と『ノワール』。どちらの作品とも、奇しくも、最大のクライマックスで、“友による心の救済”を、同じスタイルで描きました。
社会的に許される行為かどうかは別として、二人の友の間で、赦し赦されるとは、どういうことなのか……と。
これはたいへん重要な場面だと思います。
ここまでやった作品は、まず、お目にかからないからです。
単なる旅の友という関係ではなく、二人の間には物語全体にかかわる、深い罪が横たわっていて、それを超えるためには、口先だけではない、もっと大切なものが必要だと感じるからです。
 
さてここで『ノワール』に関連して、ひとつの作品に触れておきます。
『ガンスリンガー・ガール』。全13話。2002年放映。
両親を失ったり、両親に捨てられた少女たちが、人体を改造され薬物漬けにされて、国家の秘密暗殺機関のスナイパーとして、次々と人を殺してゆく話です。殺しっぷりでは歴代アニメの最高峰ではないでしょうか。
話の中で重要なのは、少女たちの指導員であり保護者として付き添う男性パートナーの存在です。天涯孤独の少女たちは、ただ、そのパートナーを肉親以上に信頼し溺愛し、それゆえに、男たちに命じられるまま、いかに苛酷な殺戮作業にも淡々として従います。
 
『ガンスリンガー・ガール』で際立つのは、男性パートナーとの人間関係を保つためならば、人殺しだろうが何でもやろうとする少女たちの純粋さでしょう。
かくも残酷だというのに、至高の愛の姿が、そこにあります。
ある意味、この物語は、そういった人間の純粋さを骨の髄まで利用しまくる話ということもできます。しかし物語の主眼は、あくまで、このような人間関係に一生懸命にすがりつく少女たちの、愛の儚さにあるのではないでしょうか。
 
純粋で誠実で、愛に飢えるがゆえに、ひたすら愛し、利用され、殺戮する少女たち。
天使と悪魔は表裏一体というべきか、人間の罪深さを象徴的に描きあげていますが、残念なのは全13話という枠組みの中では、きちんと終わりきれなかったという印象が残ることです。
 
しかしそれでも、『ガンスリンガー・ガール』には、よくぞここまでやったなあと、拍手を送りたい。これも徹底してギャグを廃し、視聴者に媚びることなく、独自のテーマを追求しています。
単なるガンアクションものを超えて、人間の美しくも醜い本質をえぐり出している点で、傑作と言えるのではないでしょうか。
 
●世界名作の系譜
 
それにしても、中高生に設定された登場人物が大人顔負けの愛憎劇を繰り広げたり、女子高生が暗殺業者を営んだり、ローティーンの少女たちが大人を虫けらのように殺しまくったり……、作品の表層を見る限りでは、誠に世も末と嘆きたくなります。
 
さてしかし、この論考のしめくくりとして、いわゆる『世界名作劇場』のアニメ作品に目を向けてみましょう。最後の『世界名作劇場』である『家なき子レミ』が放映されたのは1996年。視聴率の関係か、全26話がその途中で3話もカットされるという悲運に見舞われながら、ひとつの時代の掉尾を飾った作品です。
 
男の子だった主人公を、明るく前向きな女の子にすげ替えるという大胆な換骨奪胎に挑戦した意欲作でした。クオリティは非常に高かったのに、問題は主題歌。あまりにも暗すぎました。お話は悲しくとも、歌は明るくあってほしかったものです。「……希望それから挫折」と聞くと、もうオープニングから気が重くなって、チャンネルを変えてしまいました。
 
とはいえ、さすがに頑張った作品だったと思います。『母をたずねて三千里』と『ペリーヌ物語』の良いとこ取りと言いますか(ヴィタリス座長はピカイチだぞ)。しかし、『世界名作劇場』の人気を取り戻すには至りませんでした。
私が思うに、おそらく、主要な視聴者であった女性の生き方が80年代末のバブル経済で、大きく価値観を変えたのが一因ではないでしょうか。
もう、この国の女性にとって「貧しくても真面目に一生懸命働けば、必ず報われる」といった生き方は顧みられなくなってきたのでしょう。レミの生き方に共感する女性は、あまりにも少なくなってしまい、楽して儲けるノウハウにだれもが血眼になってしまった。晩婚化と離婚率の高まりによって、家族というものが変質してしまった。親子の絆というものに、リアリティがなくなってしまった。そういったことも遠因にあったのでしょう。親はパチンコ、子供はTVゲーム。TVアニメはセーラームーン。そこに、名作劇場ならではの、しっとりとして暖かく、そして現実的な家族の絆はありません。
 
作品のお話の中の貧困よりも、TVを見る視聴者の心の貧困が、『世界名作劇場』の首を絞めてしまったのではないかと思います。
 
しかし、『世界名作劇場』の系譜が死に絶えたわけではありません。
それは、明と暗に別れました。
 
明るい路線では、『白鯨伝説』(1999年)や『パタパタ飛行船の冒険』(2002年)、また『宇宙のステルヴィア』や『灰羽連盟』『エマ』が近いのかもしれません。
特に『パタパタ飛行船の冒険』は、過去の世界名作劇場ではとかく盛り上がりに足りなかった最終話に気合いを入れて「悪役が改心し責任を取る」という、かなり意表を突く、しかも困難な展開に挑戦し、作品全体はいささか目立たなかったものの、最終話は「上出来だ!」とうならせる余韻を残してくれました。
 
暗い路線では、いわば過去の『世界名作劇場』ではタブーと言ってよかった、大人並みの愛憎劇と、人を殺せる子供たちが描かれました。
『少女革命ウテナ』『ノワール』『ガンスリンガー・ガール』など……。主人公か、その脇役が“良い子”であることをやめて、赤裸々に人間の本質をさらけ出したとも言えるでしょう。そこにはまた、背景として「崩壊したファミリー」の影が色濃く漂っています。
 
しかしそれでも……
同じ殺戮でも、最近の『ガンダムSEED』のような、ヒステリックにブチ切れた殺人とは、やや質が異なるように思います。ストーリーの進め方に絶妙の“間”が用意されていて、登場人物の“善と悪”について、考えながらともに歩むゆとりが残されていると思うのです。
 
●描くべきは、人間。そして魂の彷徨
 
ところで……
アニメーションは、本来、非現実の世界を描くものです。
現実の世界を描くならば、実写でやればいいのですから。
 
アニメはあくまで、物事を抽象化するプロセスです。登場する人物は最初からデフォルメされていて、現実離れしています。ですから、現実以上に美しさや醜さを強調できるという長所があります。
ときおりオタッキーな目でアニメ作品を評価して、あのガンアクションは不可能だとか、メカの動きがおかしいとか、実物とこう違うとか、あの手この手でツッコミを入れて重箱の隅をほじくる楽しみがありますが、それはほとんど意味のないことです。目に見える部分のリアリティにこだわるなら、最初から実写にすればいいだけのことですから。
 
アニメの特性は、抽象化にあります。
デフォルメされ、人間の手で描き直された世界であるからこそ、観客に最も伝えたいことを、最も適した手法で表現できることにあるはずです。
実写で俳優を使えば、その人が著名であればあるほど、キムタクはキムタクでしかなく、ヨン様はヨン様でしかなくなります。俳優個人の個性が、役を食ってしまうことが多々あります。
その点、アニメは、最初からその役に撤したキャラ造形が可能なわけで、その目的に最も適した、人物像の抽象化が行なえるわけです。
そこが、実写にはない、アニメの強みであり、魅力なのでしょう。
現実世界のルールに拘泥されない、アニメ独特の世界を、その世界なりのリアリティで表現できる。
その長所を生かして、感動を伝えるのが、アニメの王道、だと思うのです。
 
さて、『ノワール』も『少女革命ウテナ』も、一見してカルトでユニークなアニメという表層を持ちながら、その奥底では、人間の原初的な“罪と罰”や“友情”といった、世界名作で扱うような、古典的なテーマに、真剣に取り組んでいました。
これは逆にみると、古典的なテーマを、アニメに適した形に抽象化する行為を徹底して追求した結果、二人の美少女による殺人ユニットや、タカラヅカ・パロディのような超現実学園が生み出されたということなのかもしれません。
つまり、いまどきの実写のTVドラマでは描くことをやめてしまった、あるいは描こうとしても滑稽なものになってしまう“罪と罰”や“友情”といった“古典的テーマ”を、アニメならではの特殊なリアリティで描き切ることに成功した、希有な事例ということなのでしょう。
 
そのことに、これからのアニメが忘れてはならない原点というか、アニメ本来の可能性というものを感じるのです。
 
半世紀近く前に登場した『鉄腕アトム』以来、国産のアニメは、“子供向け”という建前にくるまれながら、実写映画では恥ずかしくて見るに耐えなくなる古典的なテーマ……“正義”“平和”“友情”“家族”“根性”“愛”“勇気”“献身”といったものを描いてきました。
 
それがアニメだったから、実写だと赤面するような内容でも、ごく自然に受け入れて見ることができました。感動すら、そこにはありました。
この長所は、1980年代以降、大人たちがアニメの観賞者に加わってからも、生かされ続けました。
『未来少年コナン』『機動戦士ガンダム』『ルパン三世カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『銀河鉄道の夜』……その他のアニメ作品も、かなり多くが、現在でもさほど古さを感じずに観賞することができます。
それは、アニメであるがゆえに、時代を経れば古くなって観賞に耐えなくなる要素を。あらかじめ薄めることができ、伝えたいテーマを絞って、効果的に抽象化することに成功しているのでしょう
 
たとえば“家族”……、親と子の絆といった、いまどき実写ではどのように描いても嘘臭くなってしまうテーマも、アニメならば、観客が感涙できる傑作を生み出せるかもしれません。
 
さて一方、実写映画に目を転じてみましょう。半世紀も昔の作品なのに、なぜか古さを感じず、いまだに感動を禁じえない名作というものがあります。『ローマの休日』『市民ケーン』『カサブランカ』『風と共に去りぬ』『(チャップリンの)独裁者』『哀愁』『第三の男』『シャレード』『素晴しき哉、人生』……そして『七人の侍』や『東京物語』……
いずれも、背景に映る町並みやセットは、昔のものです。道にはクラシックカーが走り、ジェット旅客機はなく、ケータイもパソコンも、テレビもありません。
しかし、その古さはむしろ、ファンタジックな異世界です。かといって、奇妙なほど、リアリティがあります。明らかに、当時の、本物の世界だからです。そして登場するスターたちは、昔のスターです。すでに亡くなられた人も多い。実在しない人々。にもかかわらず、現代のハリウッド・スターよりもリアリティがある……
 
その、リアリティの源泉は何でしょうか。背景ではない。衣装などの小道具でもない。あくまで、そこに登場し行動する“人間”なのでしょう。21世紀の現代に生きる私たちが、いまなお共感し感動でき、その魂(スピリット)を含めて、あのようにやっていきたいと願わせる“生き方”が、そこにあるからだと思うのです。
 
やたら古いものを懐かしんでいる……と言ってしまえばそれまでですが、現代のアニメであれ、映画であれ、SFやファンタジーの活字作品もそうですが、その中で“人間の生き方”にせまり、身震いするほど感動させてくれる作品はどれほどあるのか。ここ十年ばかりのCGだらけの映画作品が、半世紀昔のオーソン・ウェルズやチャップリンやハンフリー・ボガート、ヴィヴィアン・リーやイングリット・バーグマン、オードリー・ヘップバーンを超えているのか。ときには振り返ってみたいものです。
 
時代がどのように変わっても、描くべきは“人間”であり、その魂の彷徨なのでしょう。
『ノワール』と『少女革命ウテナ』はそのことを示唆してくれていると思うのです。21世紀に生まれるべき作品に向けて。
 
                          (2006.01.07)
 
 
 
⇒「32★アニメ解題『少女革命ウテナ』解説・私の最終黙示録」へ続きます。
 


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