Essay
日々の雑文


 15   20051219★アニメ解題『ノワール』『少女革命ウテナ』1
更新日時:
2008/01/06 
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051218【アニメ解題】
 
 
 
 
 
 
『ノワール』と
『少女革命ウテナ』、
その凄絶な魂の彷徨(1)
 
 
……この雑文は、主として
『ノワール』の謎解きを
試みるものです。
 
 
※写真をクリックすると
『ノワール』のオフィシャルサイトへ行きます。
 
 
 
 
ここでは、まず『ノワール』について、そのあとで『少女革命ウテナ』を語りたいと思います。といっても、私は『ノワール』のムック本は持っていませんし、『少女革命ウテナ』の解説書は3冊ばかりしか読んでいませんので、その範囲の知識でということで……たぶんファンの皆様からブーイングをいただくことになりそうですが、私の無知に免じて、お許しいただければありがたいです。
 
 
●『ノワール』、その登場
 
『ノワール』。全26話、放映期間は2001年4月5日から同年9月27日。あの9/11同時多発テロにまたがる時期です。
 
作品が始まった日と終わった日とでは、世界の様相が一変していました。作中で“ノワール”の発祥に関わる謎が解かれはじめ、“ノワール”を生み出した人間の原罪として、戦争や地域紛争が強く暗示されてきた矢先に、燃え盛るツインタワーが崩壊していく現実世界の映像が重なったことになります。視聴者にはショックだったろうなあ……
 
残念ながら私は『ノワール』をリアルタイムのオンエアで視聴することができず、2004年になってようやくDVDを買って見ることができました(にしても、お値段は相当なものでした。近所のレンタル店には一向に出てこないし。無料で見られた地域の方々が、本当にうらやましい……)。
なお、このエッセイは、あなたがすでに『ノワール』を全話ご覧になったことを前提に書いています。まだの方には、わかりにくい点が多々あることを、ご承知おき下さい。
 
※以下、( )内の数字と時間表示は、該当するDVDの巻数とタイムカウンターです。『ノワール』の場合は一枚のDVDに2話ずつ収録されていますので、カウンターの時間表示は2話分を通した経過時間になります。
 
 
●あまりにも地味な作風
 
少女が目を覚ます。見知らぬ天井、見知らぬベッド。身を起こすと、見たことのない家の中にいる自分。記憶をさぐる。何もない。自分の名前すら出てこない。自分がどこのだれなのか、全く覚えていない。何者かに記憶を封印されている。少女は自問し、最初に、あることを思い出す……
「私はだれ? ……私は、“ノワール”」(1巻13:58)
室内のハンガーに、高校の夏の制服。そのポケットに学生証。高校二年生。学生証にある自分の名前は……夕叢霧香(ゆうむら・きりか)。
しかし、その名前が偽物であることも、彼女にはわかる。
 
霧香という偽名の少女は、続いて、机の引き出しを開ける。そこには、一挺の拳銃と実弾が詰まった箱。そしてオルゴールつきの懐中時計が、ひとつ。
霧香の記憶の一部がよみがえる。これは私の拳銃。“ノワール”である私は、拳銃の扱いを熟知していて、これで人を殺せるように訓練されている。
「それだけじゃない。もっと恐ろしいことも知っている」(1巻15:15)
社会の裏に隠れた暗黒の犯罪業界について、一般人なら知るはずのないさまざまな知識が、何者かによって自分の頭の中に植え付けられている。
そして、おそらく、懐中時計とそのオルゴールの曲から、霧香は自分に関係があるだろうと思われる、一人の女性を思い出す。
……ミレイユ・ブーケ、最も信頼できる殺人代行業者。
 
霧香はEメールで、パリに住むミレイユ・ブーケを日本へ呼び出す。自分の素性を探り、真実をつかむための“過去への巡礼”に力を貸してもらうために。
ある種の交換条件でミレイユは引き受ける。二人はパリへ飛び立ち、“ノワール”の名前で殺人業を営むことになる。
しかしその一方で、正体不明の黒服の刺客たちが、霧香を襲う。霧香は超絶的な射撃テクニックで刺客たちを次々と打ち殺す。“ノワール”としての本能が命じるままに……
霧香は涙する。人を幾人殺しても、なにひとつ悲しむことのない自分に……
 
以上が『ノワール』第1話の概略です。
かいつまんで言うと、心の奥底に黒い過去の秘密を閉じこめた少女が、拳銃を片手に、世界各地で人を殺しながら、真の自分探しの旅を続けるというお話です(ああ、なんたる残酷)。
その旅路は過去の運命がよどみ、冷たくぬかるんでいて、ただ人を殺戮することでしか前進できない、まさに死の彷徨なのです。
 
しかしこう書くと、一方で、「よくある話じゃないか」ということになってしまいます。旅するヒロインに魔物が襲いかかり、少女はさまざまなアイテムを使って敵を撃退する。やがて敵の黒幕に到達して、その正体を暴く。犠牲を払いながら黒幕を倒し、自分の素性を知って、パートナーのお友達と一緒にお家に帰る……
ファンタジーの、まさに定番ワンパターンじゃないか?
 
なんとなく、そういう筋立てが見えてしまいます。そして事実、そんな予想に近いストーリー展開になってしまったようです。それだけに、残念ながら、『ノワール』という作品は、第1話から先の回へと、視聴者の期待を引っ張っていく吸引力が、いま一歩、物足らなかったという印象は拭えません。
ここが、視聴者として心残りな点です。私は『ノワール』の放映を見られなかったので、終了後しばらくして、第1話だけをビデオで見たのですが、それだけでは、大枚叩いて続きのビデオを買おうという決心がなかなかつきませんでした。
 
つまるところ、物語のラストまでに、主人公の霧香は、自分が“ノワール”であることの真の意味を知ることになるのですが、それも視聴者が、あっと驚くほど劇的な解決……と言うわけではありません。この点がアニメ『ノワール』の、見た目の最大の弱点ではないかと思えます。
本当に残念ながら、視覚的な“意外性”に欠けるのです。
 
さらに、その演出上の特徴は……
“地味”の一語に尽きます。
他の多くのアニメでは、なにか超常的な戦闘能力を備えた主人公が、魔法的な怪物などを相手に巨大な刀をふるったり、手先から電撃を飛ばしたり、巨大ロボットを操って戦う……といった派手な設定が目白押しです。
そんな作品が大半の中で、『ノワール』はひとり、地味路線を黙々と歩んでいきます。
 
具体的に、どう地味かというと、
@ギャグがない……突如、主人公がSDキャラになってギャグをかますようなカットなど、全編どこにも見当りません。
AHがない……この種のアニメではわりと平気なパンチラシーンなど、色気をサービスするカットも一切なし。
B超能力がない……ライトノベルのファンタジーには定番と言える火炎や電撃が飛び交う戦いや、身長の数倍もの大刀を振り回して戦車をも叩き斬るような怪力は設定されていません。
霧香は超絶的な射撃テクニックを見せますが、ほぼ百発百中の腕前とはいえ、あくまで飛ばすのは拳銃の弾丸にとどまります。敵の弾が命中すれは血は流れ、瀕死の重傷を負うこともある、生身の人間として描かれています。神秘的な超現実のパワーを召喚して戦う錬金術師ではないのです。
 
どうですか、地味でしょう? @ギャグなし AHなし B超能力なし。
この三つの条件を満たすアニメ作品は、昨今、誠にめずらしいのです。『ルパン三世』でも『シティハンター』でも、『トライガン』や『グレネーダー』も『砂ぼうず』も、だいたいギャグとHは含んでいます。
 
しかし、一昔前を振りかえってみましょう。この、@ギャグなし AHなし B超能力なし の条件を満たすアニメシリーズが、前世紀の日本では大きな柱となって、アニメ界で重要な地位を占めていたことを。
そう“世界名作劇場”です。ネロとパトラッシュ、ハイジにマルコ、赤毛のアンにペリーヌ……。21世紀の現代のアニメで、この路線に近いのは『エマ』くらいでしょうか。
 
●“世界名作劇場”の、暗黒面への到達点
 
さて、改めて『ノワール』を見ると、“世界名作劇場”の雰囲気が色濃く漂っていることに驚きます。
舞台はおおむねヨーロッパ。その町並みや自然を描いた背景といい、主人公たちの地道な生真面目さといい、物語のゆったりしたテンポといい、なんだかやっぱりなつかしい“世界名作劇場”しているのです。
私の個人的な印象では、『ノワール』の五年前、1996年に放映された最後の“世界名作劇場”である『家なき子レミ』(レミを女の子に設定した作品)がダブって見えます。
まるで、あのレミがライフルを構えて、非道なガスパールおやじを、表情ひとつ変えずに撃ち殺すかの如し……なのです。
 
そう考えると、『ノワール』は、静かな品位をたたえながら、恐るべき残酷を表現した、暗黒面の“世界名作劇場”ととらえることができるのではないでしょうか。
まさに、“世界名作劇場”の善良で健気な主人公が、そのまま恐るべき殺人少女に置き換わったようなものです。真面目に黙々と働くペリーヌのような主人公が、『ノワール』では、真面目に黙々と人殺しに励んでいるわけです。
とりわけ淡々として、例えば植木に水を遣るときと同じ表情で、他人の生命をさくさくと刈り取ってゆく霧香は、倫理的には冷酷非道の殺人鬼であるにもかかわらず、その姿は、本当に真面目で健気な、よく働くお嬢さんなのです。
 
ここが、『ノワール』のノワールたる真骨頂でしょう。
パリの街角でパンを買い、髪を整え、お茶するありきたりな日常とほぼ同じ次元で、二人のお嬢さんは殺人の注文を取り、人を射殺していきます。
 
全26話で、話中に表現されているだけでも、霧香とミレイユは三桁に上る殺人スコアを誇ります。このあたりの数字や各話のエピソードの要約は、漫画家の“ぷろとん”さんのホームページに的確に叙述されています。
 
真面目で健気に、まさに日々の糧として人を殺める二人。
手に汗握るハラハラ感はほとんど湧いてこないのですが、これを数話続けて見ていくと、とても気になってきます。
殺して悲しむことなく、苦悩することも興奮することもなく、たとえば修道女が日々神に祈りを捧げるのと同じように、“殺し”を日常生活の一部とする二人にとって、物事の善悪とはなにか。そして“罪の意識”とは、どういうものなのだろうか? と。
 
“罪”とは何か。
これが、『ノワール』の最大のテーマなのでしょう。
だとすると、『ノワール』は、ドストエフスキイの『罪と罰』が、21世紀において、二人の殺人少女に姿を借りてよみがえったのだと思います。
とてつもなく大きく深く、人間の根源にせまるテーマ。“罪”とは何か……じつはこのテーマは、あくまで人の心の中で追求される問題であるため、目に見えるアニメの映像には、ほとんどと言っていいほど、表現されません。
ですから、『ノワール』をただ何も疑問に思うことなく、美少女スナイパーが犯罪組織を手玉に取る暗殺ゲームだろう、という程度の認識で見ていくと、それだけで、さらりと終わってしまうのです。
しかし、いくらか注意して、もう一度最初から見なおすと、この地味な主人公たちと地味なストーリーの行間に、ちらちらと、奥深いテーマにつながる暗示を見出すことができるでしょう。
それが、『ノワール』の傑作たるゆえんであると、私は思うのです。
 
説明がくどくなりましたが、あえて繰り返します。
『ノワール』は“世界名作劇場”の真面目さと誠実さをもって、“世界名作劇場”では描くことが不可能だった、“人間の暗黒面とその罪”について語った、前例を見ない、稀有の傑作なのです。
 
 
●時に、2010年7月(?)
 
ちょっと横道ですが、『ノワール』はいつの時代の話なのでしょうか。21世紀の初めだろうというムードさえつかめれば、お話を理解する上では、さほど重要なことではないのですが、画面に映る情報から、かなり明確に推定できるので、触れておくことにします。
 
第4話『波の音』で、霧香が見入るパソコンの画面に、検索されたロザリー・ハモンド嬢の個人情報が表示されています(2巻35:33)。生年月日は1994年8月2日。年令15歳とあり、そしてその少し前(同34:22)に、ロザリー自身が、「明後日は私の(16歳の)誕生日よ」と述べているので、この日が2010年7月31日であろうと推定できます。
 
なお、第1話(1巻13:00)で、ミレイユと話す霧香の背後に、7月のカレンダーがかかっています。第1話と第4話の間が一年以上離れているとは考えにくいので、おそらく、2010年7月の月初近くにミレイユと霧香は出会い、二人してパリへ飛んだのだろうと思います。
 
さてしかし、この少し後に背景に映る7月のカレンダー(1巻17:16)では1日が月曜、31日が水曜となっており、2010年には一致してくれないようです。2010年までになんらかの全地球的天変地異があって、一年の日数が三日ほど増えたか減ったかしたと考えるべきでしょうか。
 
ともあれ、7月のカレンダーがかかっている部屋の中で、ミレイユは、偽者の夕叢夫妻によって霧香の家が購入されたのは「半年前」だと語ります。
とすると、逆算して、霧香が女子高生としてここに暮らしている偽装がなされたのは2010年1月となります。
ただし、霧香が最初にこの家で目覚めた日はそれよりもかなり遅いのでしょう。目覚めた直後にハンガーにかかっていた夏用の制服のポケットから、“2年4組”と印字された学生証を出しているので、新学期が始まった4月以降であることは間違いなく、しかも夏服が出ていることから、おそらく6月に入っていただろうと思われます。
 
二人がパリで“ノワール”の商号を使って仕事を始めてから、第6話にて、北半球の国で冬を迎えているため、このあたりで年を越して2011年になったと思われます。
それ以降の回では、夏らしい情景描写はあるものの、冬は訪れてはいないようです。
以上のことから、『ノワール』の物語は、2010年7月から、2011年の晩秋までの出来事だろうと推定します。
 
年代を特定したからといって、物語の解釈上、なんら影響はないのですが、2010年7月になったら、霧香の学生証にあった、神奈川県立椿高等学校2年4組を訪ねてみるのも一興かもしれませんね。
 
●行間有情……“省略”の美学
 
人にとって、“罪”とは何か。
この大テーマはしかし、作品の中ではっきりと目に見える形で示されるわけではありません。
もちろん登場人物が微に入り細を穿って説明してくれるものでもありません。
そのため、いくつかの細かな暗示を作品中から拾い、あとは想像力で補う作業が必要です。
しかし『ノワール』が一筋縄でいかないところは、毎回、ミレイユの幼女時代の回想がしつこいほどに繰り返される反面、説明を大胆に省略した箇所もあって、場面の行間を読む想像力が、視聴者側にも求められることです。
 
たとえば、第1話で黒服集団に襲撃され、反撃するミレイユの前で、一人の黒服男が丸腰で両手を上げる。はっ、と銃口を向けながら、しばし、撃てずに凍り付くミレイユ(1巻9:35)。この一瞬の迷いで、次の瞬間大ピンチに陥ってしまうのですが……
このシーン。オタッキーな評価をすれば、「ミレイユ弱すぎる。どこが“いちばん信頼できる殺人代行業者”なんだよ。ダメぢゃんか。作者の設定ミスだね」と決め付けてしまうことになります。そして、この後はとくに作品中に説明がないので、「ミレイユ弱し。作者のミス」という結論だけで終わってしまいがちです。
 
しかし、あっさりと省略されている説明を、想像力で補おうと努力してみると、いくつかの“深読み”ができることに気付きます。
@ まず、ミレイユには、丸腰の敵を即座に射殺することをためらう、なんらかの理由があったのではないか。
A 黒服はそのことを知っていて、わざと丸腰で両手を上げ、ミレイユの弱点をついたのではないか。
B したがって、黒服たちは相手がミレイユであることを知って攻撃していた。 
……ということが推測できないでしょうか。
 
ミレイユが丸腰の人間を射殺することをためらったのは、反撃手段がなく丸腰で撃ち殺される者の惨めさを、ミレイユ自身がよく知っていたからなのでしょう。おそらく、幼児期に、両親と弟を襲った悲劇の体験がもとになっていたのかと思います。
そう考えると、“丸腰の敵は殺さない”という信念をミレイユが持ち、そのような生き方をしていることで、霧香との違いが際立ってきます。
一見、作者の設定ミスに思えてしまうシーンも、霧香とミレイユの“殺人哲学”に決定的な差異があることを示すための演出である、と解釈できるのです。
 
なんてことを言いながらも、その後第5話で、ミレイユは、傷ついて丸腰になった敵を、つい激昂して××してしまいますし(3巻18:52)、それを反省してか、続く第6話では、無力な老人が相手では自分が撃てないものだから、最後に仕事を霧香に任せてしまう、という要領の良さを見せます。
ここのところがミレイユの強み。霧香よりも弱いように見えて、そこはなかなか、要領の良さで乗りきっているようです。ミレイユ危うし! という瞬間、たいてい霧香の“お助け弾”が飛んでまいります。
 
“丸腰の相手は殺さない”……この、「状況によって殺すか、殺さないか」というぎりぎりの差異は、霧香とミレイユの二人の立場の違いとなって、最終回まで引きずられていきます。
なぜならば、いずれこの二人がなんらかの対決をしたとき、ミレイユは霧香に対してどう対処するか、という場面において、重要な伏線になるからです。
第21話『無明の朝』と25話『業火の淵』で、結果的に、この伏線が踏襲されています。前者は丸腰の霧香に対して、後者は銃を向ける霧香に対して……、さあ、ミレイユは撃つのか、それとも……
 
個々のシーンで、あれっ? と疑問に思うことができた場合、たいていあとで作者の側から説明を付け加えるところを、『ノワール』はすっぱり潔く省略しています。
そこは、視聴者が自分の洞察力で作品の意図を読み解くという、オトナの楽しみを残しておいてくれると考えてもよいでしょう。
こういった説明の省略は随所にみられます。そこを視聴者の感性に委ねるという、いわば“省略の美学”が、『ノワール』のちょっと渋い魅力でもあります。
 
●霧香の万引事件
 
些細なように見えて気になるシーンがこれ。第18話『私の闇』で、危機に陥るミレイユを助けるため路上を疾走する霧香が、なにを思ったか道端の古物商のテーブルから、ロンドンバスの玩具をわしづかみにして走り去る場面です(9巻43:32)。
 
「あ、霧香、万引!」
と注意してあげたくなる場面ですが、さて、霧香は本当に万引したのか。
人殺しが日常業務ですから、万引くらい今更たいしたことないや、と考えていたのでしょうか。
 
そうではないようです。というのは、ロンドンバスを持っていかれてしまった売り主のお爺さんが、一瞬驚くものの、さっと帽子を取って胸に当て、恐れ入った、申し訳ないという表情をしているからです。物を盗まれたときの怒りの表情とは違うようです。
どうやら、万引せずに、霧香はちゃんと代金を支払ったようです。
なぜなら、このシーンの直前で、タクシーから駆け出す霧香に向かって、運転手さんが「お嬢ちゃん、おつり!」と叫んでいるからで、これは、チップ込みでもらうにしても高額すぎる紙幣なんかを、投げ付けられるように渡されたからだと思われます。
 
と考えると、おそらく霧香はロンドンバスをつかんだ瞬間に、まるで手品のように、中古の玩具に支払うには高額すぎる紙幣をその場に残したのでしょう。
売り主のお爺さんは、ロンドンバスが消えたかわりに出現した紙幣にびっくりすると同時に、おつりを受け取ることなく走り去っていく奇妙な少女に、思わず恐れ入ったというのが、この場面の真実ではないでしょうか。
コマ送りにすると、霧香の手がロンドンバスをつかんだ背景にある熊のぬいぐるみに、紙幣らしいものが貼りついているようにも見えるのですが……
 
この場面で霧香が万引をしたかどうかは、些細なようで、見落とすことはできません。霧香の倫理感として「人を殺しているのだから、万引や無賃乗車なんかチョロいもの」という、誠に浅ましい価値判断があるかないか、これは彼女の人間性と“罪の意識”を考える上で、重要なファクターになるからです。
 
暗殺業者“ノワール”として日々殺人の重罪を犯していながら、それでも一人の女の子としては、露店の玩具を万引するといった、小さな罪でも絶対に手を染めたくない……。そこに、霧香にとって一縷の、魂の救いが残されているのではないでしょうか。
 
 
●でも、ふと笑ってしまう数少ないシーン
 
徹底的にギャグを排した『ノワール』ですが、数少ないながら、笑ってしまうシーンがあります。その筆頭となるのは、あの「おお、わがイントッカービレよ!」(4巻31:22)でしょう。
しかし私がつい吹き出してしまったのは、第6話『迷い猫』の、あのシーンです。
 
仕事で東欧らしい某国のホテルに泊まる霧香とミレイユ。
「散歩してくる」と出ていった霧香がやがてホテルの部屋へ帰ってくると、なにやら大きな紙袋を抱えている。ミレイユは訊ねる。
「なにそれ、夜食でも買ってきたの?」
すると袋の中には○○が!(3巻30:45)
うっ、と驚きあきれるミレイユ。「あんたね、なに考えてんのよ……」
このとき、たぶん瞬間的に、ミレイユはこう思ったことでしょう。
「この子、本当に○○を夜食にする気なんじゃ……。日本人は○○の皮をはいで楽器にするっちゅーから、当然、肉だって食うわな……」
まじまじと霧香を見て、未知のカルチャーギャップに汗ばむミレイユ……
ミレイユは、内心おだやかならぬまま、一夜を過ごしたことでしょう。ムイシュキン公爵くん、ご無事でなによりでした。
 
あからさまなギャグはなくても、そこはかとなく行間を想像すると、つい笑いが漏れるシーンがちらちらとあります。
 
たとえば第1話では、“懐中時計の時制”ですね。
まずは、ミレイユが霧香の背後から、最初に声をかけたシーン。
このとき、霧香が開いた懐中時計の針が示しているのは、6時5分です(1巻04:43)。
しかし、一息おいてもう一度映った懐中時計(1巻04:46)を比べると、秒針が動いていません。
そして建築中のビルに走り込んでから、夕陽をバックにして鉄骨足場に腰掛けた霧香(1巻06:49)が重ねた手に開いた懐中時計は、その時刻がなぜか5時5分へと1時間戻っており、秒針が動いています。
 
どうもおかしい。
けれど、このまま単に作画ミスとかのせいにするのは、無粋というものです。
ここは『ノワール』を鑑賞するオトナとして、論理的に解釈してあげましょう。
すると、こうなります。
最初、ミレイユに声をかけられた直後に懐中時計を開いたとき、霧香は、時計が今朝の6時5分を指したまま止まっていることに気がついた。
この時計は発条(ぜんまい)駆動であり、ぼんやり者の霧香は、ねじを巻くのを忘れていたのだ。
で、ビル内に走り込んでから、大急ぎでねじを巻き、正確な時刻に合わせたと思われます。
ビルをあの高さまで駆け上がりながら。霧香、さすがの早業でした。
 
続いては、霧香の自宅で、再び懐中時計を開ける場面(1巻16:14)。
このときの表示時刻は7時3分あたりです。
が、直後にミレイユが瞬きしたあとに画面に出た時計(1巻16:16)の文字盤は9時3分あたりを指しています。
なんと、瞬きひとつで2時間も過ぎてしまったことになりますね。
霧香のマジックかタイムワープかと思案するよりも、ここはやはり、あっというまに2時間過ぎてしまったと解釈してあげたいところです。
時間を忘れて2時間も凍り付いてしまうほど、ミレイユはこの時計に魅入っていたというわけです。
それを身じろぎもせずに2時間待っていた霧香の忍耐力も、推して知るべしでしょう。
 
だからこそ「私は今まで一人でやってきた……」と、そっけなく帰りかけたミレイユを、霧香は強い口調で呼び止めたのだと思います。
2時間もじっと待たされて、こうもずぼらな回答じゃ、怒りますよね。
はた、と立ち止るミレイユ。内心、ぎくりとしたことでしょう。
このとき、霧香の拳銃は実装状態で霧香の手にある。自分は利き腕を負傷している上、拳銃を入れたポーチは持たず、丸腰状態。そう、霧香は丸腰相手でも射ち殺すのだ。
ここで、さんざんじらされた上に「お願い」を断られた霧香がキレたら、ミレイユの生命は玄関まで保たないところでした。結果的にミレイユは、賢明な選択をしたことになりそうです。
 
さて二人はフランスへ飛びますが、このときの場面カットがすばらしい。夜の空港、コンコースのガラスごしに見える旅客機。次に、明るい空にはためくフランス国旗。
このわずか2秒、それだけで、二人の最初の旅が表現されています。
必要最小限の要素だけをきちっと見せられたという、壮快感さえ漂うシーンです。
 
ここでまた謎。二人はどうやって拳銃を空輸したのでしょうか。いくら何でもそのままでは、出国のゲートで金属探知に引っ掛かりますね。おそらく、テロ対策として国際線には武装警官が必ず乗り込んでいて、そういった方々が買収に応じて、合法的な所持品として、霧香たちの拳銃も一緒に運んでくれたのでしょう。そういうことが可能な航空会社の便を、二人は選んでいたと思われます。
 
もっと極端な推測としては、怪しい航空会社が定期的に運航している犯罪組織専門のチャーター便があって、それが主要各国をネットしていて、その便の利用客は全員、怪しい刺青の人たちや一匹狼で、みんな堂々と手荷物で拳銃を持ち込めるというものです。対立組織のお客さまが呉越同舟することはしょっちゅうですが、墜落死したくなければおとなしくするしかありませんから、ビジネスとして、なんだか成立しそうですね。
 
 
●ストーリーの鍵を握る、二人の関係
 
ともあれ、『ノワール』の中に秘められたユーモアは、ある意味、霧香とミレイユの関係そのものであるかもしれません。
ミレイユは霧香に、「すべてが終わればあんたを殺す」と宣言し、霧香も同意しているのですが、二人三脚一蓮托生の暗殺稼業が続くうちに、二人の関係は微妙に暖かさを増してきます。
ちょっと偉そうな江戸っ子気質のお姉さんと、仔犬みたいに従順な妹のような関係です。
まあ、ミレイユの声が三石琴乃さんですから、エヴァの葛城さんが、凶暴化した綾波を調教しているような趣がなくもない……。霧香に「萌へ〜」を連発する人たちが多いのも、むべなるかなと思います。
 
しかし、二人の関係がクールな契約で割り切れるものではなくなっていくと同時に、そこに、暗殺業者“ノワール”とは全く別の人間関係が生まれていくことになります。
“ノワール”であるかどうかは関係なく、霧香とミレイユが、お互いに交換のきかない、かけがえのない人格として認めあうことになるわけです。
 
そのことが如実に表現されたのは、第18話『私の闇』でしょう。ラストシーンで、ミレイユは霧香に「ほら、忘れ物だよ」と、霧香の学生証を渡します。
霧香自身が、「私には名前がない。夕叢霧香という嘘があるだけ」と目をひそめる学生証ですが、これを霧香に渡すことで、ミレイユは、「あんたは、私にとってただひとりの霧香なんだよ」と告げているのです。
このとき、偽名である“夕叢霧香”は、ミレイユにとって、霧香の本物の名前以上に大事な名前になっています。こうして二人の人間関係は“ノワール”という商号の殺人ユニットであることを越えて、ともに同じ人生を歩む、大切な絆へと昇華していったと思われます。
 
この種のストーリーとして、よくあるなりゆきと言ってしまえばそれまでですが、互いをかけがえのない存在とする二人の関係は、「真のノワール復活」を企むアルテナにとって、どうやら想定外の異常事態だったということになりそうです。
 
そこにきっと、この作品『ノワール』のクライマックスに至る大きなターニングポイントが隠されているのでしょう。
 
 
●慈母アルテナの正体
 
第10話『真のノワール』でクロエが登場してから、いよいよ気に掛かってくるのは、クロエを優しく見守り育てている“慈母”アルテナの正体です。
アルテナは、いったい何者なのでしょうか。
 
「そは古(いにしえ)よりのさだめの名……」と称される“ノワール”が、じつは世界を裏から支配する巨大な暗黒組織ソルダと運命的な関係があり、一千年の昔から「死をつかさどる二人の乙女」として「みどりごの、安らかなるを守り給う」存在であったことは、第10話までに明らかになっています。
そしてアルテナは、発祥後一千年を経て、いまや世界に拡大した暗黒の組織ソルダに、その創設当時の、原初ソルダの理想を復活させ、正統なノワールの後継者を選び育てることを目指して活動しているらしい……
 
ただし、作品中できちんと説明されているのはその程度。
それ以上に詳しい、アルテナの裏事情は、物語の端々に見て取れる、さまざまな暗示から、私たちが勝手に想像していくしかありません。
 
そこで、私の個人的な解釈による、勝手な想像です。
 
結局、アルテナが行なおうとしていたことは、何だったのでしょうか。
最終回の第26話でアルテナ自身が「そう、ノワールが復活したとき……」(13巻35:02)とか、第20話『罪の中の罪』で間接的にソルダ幹部が「ノワールの復活が……」(10巻31:36)と述べているように、まず、ノワールの“復活”こそが、アルテナの大目標であり、真のノワールが復活することで、彼女自身が望む未来のすべてが始まると考えていたのでしょう。
 
ここでひとつ気になるのは、第20話『罪の中の罪』でクロエが「ノワール継承の儀式」(10巻43:54)と告げ、第22話『旅路の果て』で村人トリスタンが「ノワール継承の儀式の復活」(11巻40:23)と伝えているように、“継承”という概念が並立していることです。
この“復活”と“継承”は、どちらかが誤りというのではなく、両方とも正しいと考えるべきでしょう。
 
真のノワールは、“復活”するものであり、“継承”される。
しかし、この二つの言葉のニュアンスは微妙に異なります。
“復活”は、過去に滅びてしまったものを、よみがえらせることです。
しかし“継承”は、先代の何者かから、なにかを引き継ぐことです。
おそらく前者の“復活”は質的な意味なのでしょう。原初ソルダの時代に存在した、理想的な、あるべき姿のノワールを取り戻すこと。
そして後者の“継承”は形式的な意味なのでしょう。古来の“ノワール継承の儀式”に形式的にのっとって、きちんと先代ノワールから、ノワールの称号を継承すること。
 
と、いうことは……
ノワールを“継承”する儀式を行なうためには、そこに、先代のノワールがいて、次代のノワールにその使命と精神を継承させなくてはなりませんね。
先代のノワール。
それは誰なのか。
 
ソルダ幹部が、第20話『罪の中の罪』で、「かつて、“死をつかさどる”と恐れられた、慈母アルテナ……」(10巻38:52)と語っています。
“死をつかさどる”乙女……それこそが、ノワール。
そうです。慈母アルテナ自身が、先代のノワールであることは、たぶん疑いもないでしょう。
そして今は、現役のノワールを引退して、後継者を育成する“慈母”の立場に隠居の身であるのだと思います。
 
アルテナが、現役のノワールであった時代は、いつのことなのでしょうか?
第2話『日々の糧』でルグランが語った「過去に我々も、フランス国家公安局も、ノワールに仕事を依頼したことがある。だがあれは70年代のことだ……ノワールが活動を再開したというのか」(1巻41:57)が回答になるのでは、と思います。
 
つまり……
アルテナは1970年代に、ノワールであったのです。
そして、おそらく数年から十年ほど活動したのちに、姿を潜めた……
 
なるほど、ノワールは“黒き手の処女”であり、穢れなき乙女ですから、現役として活躍できる年齢は、十代から二十代まで、体力的にもその範囲と考えられるでしょう。だいたい数年から十年くらい。
業務の性質上、現役の間は恋愛も結婚もご法度のはずですから、務めを果たせる期間は、やはり若い間に限られるとみて間違いありません。
 
とすると、もしも、アルテナが先代ノワールで、1970年代に十代で現役ノワールを務めていたとすると……、作品上の“現在”は2010年頃ですから、現在年齢は50歳代ということになります。
うーむ、見た目せいぜい三十代のアルテナなのですが……
しかし、これは十分にありうることです。
アルテナが暮らしている“荘園”は、なにしろ“時に忘れられた場所”ですし、なぜか年中季節を問わずに、どの回でもたわわに実っている葡萄なんか、どれほど生命力の高い品種なのかわかりません。加えて、中世そのままのスローライフ。店屋物やピザの配達をこっそり頼んで食べていたりしなければ、歳のわりには若さを維持できるヘルシーな生活環境にあると言えます。外見も含め、肉体年齢が三十代に保たれていても、不思議ではないのですよ。
 
また、第20話『罪の中の罪』にみられる、アルテナ自身の幼少時代の回想シーンに着目してみましょう。
このとき、戦災孤児となったらしい少女アルテナが歩く戦場の街に、破損した自走砲ががばっと映ります(10巻33:20)。
その形状は、旧ソ連製2S1〜3あたりに似ていると思いますが、そうだと仮定すると、この自走砲の配備は1970年代ですので、このときアルテナがローティーンで、数年内にノワールとして活動するようになったと考えれば、さほど矛盾はしないように思えます。
 
ついでながら、その直後に映る、貫通弾痕のあるソ連風の鉄カブトと小銃は、たぶん兵士に凌辱されたアルテナ(13巻37:37)が、銃を奪って加害者を射殺したことを暗示しているのではないかと思います。
これが、アルテナのノワールへの歩みの第一歩だったのでしょう。
 
そうだとすると、ノワールをこの世へ生み出すものは、神の愛ではなく、虐げられた者の憎しみなのです。
「愛で人を殺せるならば、憎しみで人を救えるだろう」というアルテナの言葉が、ずしりと重みを増してきます。
この、アルテナの過去の回想シーンあるがゆえに、歴史的にノワールは、単なる殺し屋ではなく、虐げられた者の憎しみを具現化し、弱き者を守って敵に死をもたらす正義の戦乙女であったことと想像されます。
 
アルテナの回想は、非常に重要な演出だと思います。
このことによって、『ノワール』は、一個人の罪を背負うだけでなく、人類全体の歴史的な非道の罪を背負う存在を描くことに成功したといえるでしょう。
 
『ノワール』の物語構成上の巧みさには、ただ驚くばかりです。
この物語は、表面的には主人公である霧香とミレイユの、“過去への巡礼”の旅でした。
しかしその裏には、もうひとりの主人公であるアルテナの、“その罪は深く、消えることはない”という、罪人(つみびと)ノワールを育てる過程が横たわっていました。
表と裏、ふたつの主人公の、それぞれの目的は、最終話、業火の淵の地下祭壇で、見事な一致をみることになります。
 
                             【つづく】
 


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