Essay
日々の雑文


 14   20051218★アニメ解題『はじめに……』
更新日時:
2006/01/15 
20051218
アニメ解題
 
 
はじめに……
私が考える、
アニメの見方に
ついて
 
 
 
いつまでも語り継ぎたいアニメ作品があります。時代の節目に蜃気楼のように現れて、夕映えのように人の心を照らし、流れ星のように去って行った、幻めいた傑作。放映が終わって数年も経てば記憶の片隅にも残らない作品があまたある中で、どうしても忘れられない、いや、忘れさせたくない感動がずっと尾を引いて、輝き続ける作品。
 
大ヒットして何年も放映が続き、タイトルを知らない人がいないほどメジャーになった有名作品は、なぜか、かえって印象が薄まってしまいがちです。なるほど、キャラクターたちはすぐに思い浮かべることができる、けれど、手に汗を握り、心ゆさぶる感動を思い出すことは少なくなるのではないでしょうか。万人に受ける内容を求められる結果、感動のレシピがマニュアル化されて、いつのまにか、あたりさわりのない無難な味付けになってしまうからでしょう。ファストフードのハンバーガーやフライドチキンのように。
 
いつまでも強烈に心に残る傑作は、良くも悪くも個性的です。鮒鮨(フナズシ)か奈良漬か、キャビアかカラスミか、はたまたシュールストレミングのような、毒にも近い猛烈な味わい。それは、噛めば噛むほど旨味のエキスが染み出るような珍味の類でありますし、わからない人にはわからなくても構いません! と言わんばかりの、創り手側の頑固一徹さも漂います。
視聴者側の反応も好き嫌いが両極端になりがちで、ともすればヲタクな方々からもマイナー作品のレッテルを貼られて、「ああ、あれね。ふん」と鼻先であしらわれたり、「アウト・オブ・眼中」とばかりに評価の埒外に置かれてしまいがちです。
 
私自身も反省すべきことが多いのですが、とかく“ヲタッキー”な目でアニメ作品などを見ると、森も見ず木も見ずに、その花や実のひとつだけを取り出して評価し、あとは木も森も野山全体の生態系すらも、ばっさりと切り落としてしまう危険があります。ヲタクな方々は、ときに、美少女に“萌へる”か、ミリタリーやガンアクションのどこが間違っていて“ブー”なのか、どこにどんなパロディが仕込まれているのか、そういったウンチクを事細かに披瀝します。そして、他人がそのことを知らないと、「あ、そんなことも知らないのですか」と鼻高々になる人がいます。しかしいずれも、アニメ作品の創り手にとっては、微小なディテールでしかなく、作者が作品を通じて語りたい大きなテーマは、どこかへ置き去りにしていることに、気付いていないのかもしれないのです。
 
“ヲタク”的な視点の落し穴は、「私は何もかも知っている」といった高みに立ち、あまりにも高邁不遜な位置から作者を見下すことにあるのでしょう。“お客様は神様であり、私は神である”という意識があるのかもしれません。しかしそれでは、広大な森の樹冠を飾る花や実だけに目を奪われて終わります。その花や実を作り出している葉や幹や根は眼中に入りません。だから、ときには地面に降りて、幹や根や、土壌の具合を観察する必要があると、強く感じます。常に、“自分が知らないことは、普段見ていないところに横たわっている”からです。
 
20世紀から21世紀へ、この時代の節目に、すぐれたアニメ作品が怒涛のように現れ、そして記憶のかなたへ去っていこうとしています。
“TVシリーズ”に限れば、私にとって、世紀の節目の時期に最も衝撃的な傑作だったと感じているのは、『ノワール』と『少女革命ウテナ』、そして関連作品として『ガンスリンガーガール』です。
 
もちろん、アニメとして、キャラクターやストーリーなど多くの点においても、すぐれた(作者の熱意あふれる)作品は歴史的に多々あります。『未来少年コナン』『ふしぎの海のナディア』『無責任艦長タイラー』『カウボーイビバップ』『ゲートキーパーズ』&『(同)21』『ザ・ビッグオー』……。そしてもちろん、劇場用など長編アニメにおいても、いわゆる宮崎アニメは当然として、『天使のたまご』『アリーテ姫』『メトロポリス』『パルムの樹』など、見落とせない傑作が並びます。
 
しかしその後、アニメ作品は、なにか目に見えない壁に突き当たり、歩みを止めてしまったかのように見えます。
80年代以降、ここ四半世紀に、あまりにも多くの作品がTV画面に、スクリーンに現れ、いまさら何をやっても二番煎じということなのかもしれません。異世界ものだろうがスペオペだろうが、ミステリもラブコメもアクションも、考えつくストーリーは、雑草の一本までむしり取る如くに、使われきってしまい、しかもそれらに版権保護の制約をかけられている。……もう、自分が描いている物語が、どこのだれの著作権を侵しているのか、見当もつかず調べようもなくなってきたのでは……と。
 
あるいは、原画から彩色、背景まで、フルCGで制作される環境も関わっているのかもしれません。画面の隅々まで細かなディテールがじつにクリアーに表現された状態は、一方で観賞する人にとっては、情報過多で、かえってストレスを感じてしまうことがあります。熱心に、場面を見落とすまいとして見入れば見入るほど、あまり重要でない細かな背景描写(特に、複雑極まるメカ描写)が否応なく目に飛び込んでくるからです。
 
その一方で、人間の皮膚表現は、手作業の彩色に比べると美しくのっぺりとして、どこか微妙に、その人物の存在感を薄めています。
 
背景も小道具も細かく正確に描写されているのに、人物キャラの皮膚感覚が、妙に“人間ではなくなっている”。
それが、作品をかえって退屈にさせているのかもしれません。
 
世紀の境目に滅んでいった手描きのセルアニメが、再びその価値を見なおされるかもしれません。
たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』のDVDは、1997年に出た最初の第1巻の方が、21世紀になってからデジタルでレタッチして再販された第1巻よりも、見ていてしっくりなじむのです。
 
このあたりの感覚は、文字ではなんとも説明しにくいのですが、レタッチされた方は、どうも“鮮やかすぎる”と感じるのです。“まぶしすぎる”とでもいうのか。
 
私たちが現実に見ている世界の多くは、太陽や電灯の光が反射されたものです。透過した光でも、全く減衰せずに百%透過することはまれであり、透過物内部の乱反射が含まれてきます。それだけ、目に入る光は均一でなく、微妙なむらやゆらぎがあり、そこに、深みとか味わいといった、個人差もある感覚的な印象が生まれるのでしょう。
 
しかし、あくまで素人のレベルで、アニメのCG背景を見るかぎり、その絵に描かれているものは、光を反射した結果というよりも、そのような色を自ら発しているように感じ取れてしまいます。そこに“鮮やかすぎる”“まぶしすぎる”といった、微妙な不快感が生じるのかもしれませんね。
 
『ハウルの動く城』の背景の空や雲と、1968年の『太陽の王子ホルスの大冒険』の空や雲と比べてみれば、どうでしょうか。もちろん個人差のある話なのですが、私にとっては、背景の深み・奥行き・味わいといった印象において、『ホルス』の方がはるかに“美しい”と感じるのです。
数秒間、見ているだけなら、『ハウルの動く城』の背景の方が綺麗なのかもしれません。しかし何分間もながめていたいと思わせるのは、絵の具で紙に描かれた、『ホルス』の背景の方なのです。
 
アニメ作品は今、その両隣にあるゲームや小説の世界も含めて、停滞のぬかるみに足を踏み入れているのでしょう。内容的にも技術的にも、スキルやノウハウは向上しているけれど、数年前までの作り手が持っていたソウルやスピリットの部分で、骨抜きになりかけているのでは、と。
あるいは、本当に描きくべきもの、伝えたいことははっきりとしているのに、それができるだけの“寛容性”がこの社会から失われていきつつあるのかもしれません。
 
少なくとも私の周辺のライトノベル(この軽薄で泡沫的な呼び方はいまひとつ好きになれません。“ペーパーバック”にすら入れてもらえないなら、“ジュニア小説”でいいじゃんかとも思ってしまうのですが。せめて、ライトの頭がLならば、“軽い”でなく“明るい”、Rならば“右翼的”でなく“正しい”と解したいものですなあ……)も、間違いなく今はぬかるみのど真ん中でしょう。
 
というのは、『この○○がすごい!』式のジャンル別ガイド本が二種三種と出るようになることは、発展よりも、成熟・飽和、もしくは衰退の兆候だと思うからです。
素朴に理解すると、読者の方に「商品はいっぱいあるけれど、私が買うのは少しだけなのだから、ガイドブックを見て選ぼう」という要望があるからガイドブックの需要ができるわけですね。ライトノベルはいっぱいあるけれど、買ってもらえるのはわずかになってきた……ということです。
1990年前後の、ライトノベルのバブル期を思えば、今は圧倒的に、書き手にとって苦しい時代です。
そのあたりについては、また別の機会に……
 
このまま、20世紀に置き忘れてしまうのはもったいないアニメ作品が、いくつかあります。だからこそ、語り残したい。そういった作品や作中のシーンを、このページでご紹介していきたいと思います。
                                   【つづく】
 
 


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