Essay
日々の雑文


 13   19970600▼論考『悪役論』
更新日時:
2006/09/29 
970600
 
 
 
 
 
悪役論
 
 
 
 
 
 
 
●悪役、その生きる目的とは
 
 悪とは何か。
 この問題には触れておきたい。作品の中に正義の味方と悪役が登場する以上、ぜひとも飛び越しておきたいハードルである。
 世の中で、善悪の基準ほどあいまいなものはない。 おおむね「その社会の規範に照らして是認される行為は善であり、否定される行為は悪」なのだろう。善悪を仕切るボーダーラインは、その時代により、またその社会の構造によりまちまちである。善悪の間にはどちらともつかないグレイゾーンが大きく横たわっており、そもそも善と悪の絶対的な定義などありえないのが現実というところか。
 日本人は潔く、物事の白黒をつけたがるというが、その一方で「水清くして魚棲まず」とうそぶき、灰色高官の玉虫色の決着を平気で受け入れる。最近は減ったようだが、TVで活躍する正義の刑事は、毎回容疑者に殴る蹴るの暴行を加えるかと思えば、人情にかられて手錠をはずし、見逃したりもする。人権の平等にもとる正義の味方がじつに多かった。事実は小説よりも奇なり、なので、ドラマでこの程度なら、現実はもっと過激なのだろうか。
 善人がたちまち極悪人に仕立てられ、極悪人が正義の味方ともてはやされることも、じつは日常茶飯事なのかもしれない。松本サリン事件で、被害者なのに、自宅に農薬類があったばかりに事実上の嫌疑をかけられた普通の人。その対極に、まるで正義の味方みたいに崇められていた某教団の教組様がいた……という図式が象徴的だ。
 二十世紀を代表する悪役にアドルフ・ヒトラーを指名しても異論をとなえる人はいないだろう。その彼でさえ、当初は不況にあえぐ敗戦ドイツを復興する救世主としてもてはやされた。彼がきわめて合法的に政権の座についたことを看過してはならない。
 当時のドイツ国民は歓呼して独裁者を迎えた。
 巨悪は、常に善の仮面を被ってやってくるのだ。
 それに比べれば、SFアニメの悪役ほど純真なキャラクターはない。可愛いものである。
 まず、いかにも悪役でございますといわんばかりのコスチュームをまとっている。ナチスの幹部で最も派手派手しいゲーリング元帥のお召物も赤面しそうな、絢爛豪華さである。じつにわかりやすい。どこを歩いても、通行人に悪役だと識別してもらい、道を開けてもらえる。機能的には三下ヤクザの極彩色ファッションに通じるものがある。
 その悪役、何を志して生きているのだろうか。悪役の目的、生きがいとは?
 悪役はだれもがそろって「世界征服」をとなえる。いかにもSFの悪役らしい夢あふれる欲望である。しかし……ちょっと考えてみると、それが悪役にとってどんなメリットがあるのか、はなはだ疑問なのだ。
 世界を征服したとして、その結果、何を手に入れるのか、である。酒池肉林の贅沢三昧したければ、はるかに経済的で手のかからない手段がいくらでもある。大規模な詐欺がそれで、某オレンジ共済が典型的な実践例だ。
 世界の征服後どうするか、悪役が手下に示すビジョンの典型は「悪の帝国」の樹立である。美少女戦隊ものの悪役によれば、悪のエナジーに満ちた闇の帝国である。しかしそんなに息苦しくて陰気な世界では、いかに悪役でも、棲みづらいであろう。
 そもそも、悪のエナジーに満ちた闇の帝国など、すでにこの地上にいくらでもあるではないか。無力な少数民族を毒ガスで虐殺する国とか、私利私欲の政権の下で万単位の餓死者を出すような国である。まあ考えようによっては世界の大半が闇の帝国なのであろう。日本がたまたま平和なので、悪の帝国に希少価値があるように見えるだけなのだ。
 そうすると、どうやら悪役の存在意義(レーゾン・デートル)はいささか希薄になってしまう。どう考えても、悪役に撤することは、損なのである。たとえ世界を支配できても、そこにあるのが闇の帝国どまりでは、浮かばれようがないのだ。しかも現実に闇の帝国に君臨する先達がゴマンといる。その後塵を拝するだけではおもしろくない。いっそのこと物語の途中で善人に鞍替えして、慈善事業に名を残すほうが、むしろ報われるというものである。
 とすると……どうやら、悪役が掲げる「世界征服」の旗印は、それが成功したときの結果の虚しさを最初から承知した上で、あえてその目標を掲げているということになる。つまるところ、どうせ主人公である正義の味方に阻止されてしまうのだから、とりあえず「世界征服」にでもしておこうというのであろう。
 悪役は、最初から「世界征服」の結果を期待していない、と仮定しよう。とすると悪役は勝利なき戦いをただ戦っているだけであり、結果ではなく、ひたすら被虐的に、実りなきプロセスを楽しもうとしているのである。もちろん何をどう楽しもうが悪役の勝手だろうが、それしか生きがいがないのでは、競馬やパチンコのギャンブル中毒と同じ次元である。ともすれば作家も書く意欲が萎えてしまうだろう。悲しいことである。
 
●悪役の真の目的
 
 だが……
 断じて、悪役はそんなものではない。
 悪役にはじつは、もっと崇高にして究極的な目標があるのだ。いや、あらねばならない。
 それはなにか。
 「○○の復活」である。
 古今東西、SFやアニメの歴代名悪役の真の目的はこれであった。「世界征服」を標榜しながら、かれら悪役が脇目もふらず、ときには美女も金塊もそっちのけで取り組んでいた大事業こそ、これである。
 過去に存在し、今は失われた何か偉大なパワーとか権威の復活。これこそ、悪役が心の奥底から欲しがっていたものなのだ。
 (例示は省略する。きっとものすごい枚数になってしまうから)
 ○○の復活である。これはあくまで「復活」であって、新しく創造するものではない。また、残念ながら、それほど個性的で独創的なものを復活させるのでもない。せいぜい古代の亡霊とか、帝王の遺跡とか、究極のエネルギーとか、その程度で満足している。
 というのは、悪役にとって「何を復活するか」という対象物ではなく、「どうやって復活させるか」というノウハウの部分が肝心だからである。
 今は失われた重要なものを「復活」させること。これはじつは、人間には不可能な偉業である。新しいものがいずれ古くなり滅びるのは、人類がいかにしても防ぎようがない、不可逆の因果律的プロセスだからだ。
 これを可能にできたならば、その悪役はこの世のすべてに運命づけられている「死」を超越することになる。復活とは、「死んだものを生き返らせる」行為なのだから、その技術をものした悪役は、いいかえれば「永遠の生」を手中にすることになるのだ。
 これは、世界の正義の味方がタバになってもかなわない、オールマイティの、究極の切札である。これを持てば神々と同格なのだ。
 いかなる権力も財宝も美貌も色事も、自分がいずれ死ぬからには虚しいものがある。死んだら誰でも同じ一個の死体にすぎないからだ。
 死、それは究極の平等である。現在のところ、いかなる貧富の差、幸不幸の差があっても、行き着く先が同じ死であるからこそ、弱い立場の者も屈辱に耐えて生きるのではないか。
 しかし……傷つかず、死なず、いつまでも元気で若々しく、美しくあること。この「永遠の生」が手にあれば、悪役は永遠に元気に悪事に励むことができる。悪役冥利に尽きるというものである。そんなに何百年も悪事を続けて、退屈しないかという心配もあるが、さにあらず、真の悪役にはさらに高次元な目的が、その行手に輝いているのだ。
 「永遠の生」を得ることの結果は……つまり宇宙の終末まで、自分の目で確かめられるということだ。これは悪役というより、人間の根源的な探求心を満足できる、喜びの瞬間である。宇宙とは何か、人類はどこから来て、どこへ行くのか、何のために存在しているのか……そういった人類究極の謎を、この自分の目で見定めることができるのだ。このとてつもない欲望に比べれば、世界征服など小さい小さい、ごく瞬間的な一ステップにすぎないのである。
 
●天使と悪魔は紙一重
 
 さて、そうなるとまた素朴な疑問が湧く。
 真の悪役の目的が「永遠の生」にあり、宇宙の本質の解明にあるとすれば、これすなわち本当に悪役なのだろうか? まあ途中にあれこれと悪事を重ねるにしても、最終的にこの悪役がやろうとしていることは、偉大でこそあれ悪事とか善行といった概念を越えたものではないのか?
 しかりである。
 真の悪役は偉大なのだ。
 ここで、悪の根源にせまってみよう。
 そもそも「悪」とはどうやって生まれたのか。
 善悪のポピュラーなテキストである聖書では、悪の根源は悪魔サタンとして象徴化されている。悪魔の履歴について聖書は詳述していないが、ゲーテの『ファウスト』、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』……これら天国と地獄ガイドの三点セットによれば、「悪魔とはもともと天使であった」というのである。 天地創造の前、つまりこの世に天しかなかった頃、神の寵愛を受けていた、名前を明星……ルシファという天使がいた。その名前からして美貌才能運動神経すべてに恵まれたスーパースター、天界のアイドルであったと創造される。
 やがて神はまるで盆栽をつくるかのように天地を創造し、愛玩するペットのように人類を繁殖させる計画を発表する。そのさい、神が人類の指導天使兼管理天使として指名したのはルシファでなく「御子」であった。
 ルシファは猛烈に嫉妬する。「神に仕えても、御子に仕えるのはいやだ」とスネたのである。その抗議を神に無視されたので、ルシファは天界クーデターを決行する。なんと天使の三分の一がルシファ側についたのだから、そのカリスマ的人気は推して知るべしであろう。
 結局ルシファは敗北し、地獄へ落とされて悪魔となった。こうして「悪」の概念が誕生したのである。
 となると、妙なことがわかる。
 善と悪は、もともと同じ天使から生じたということだ。ルシファが神に反旗をひるがえして「悪」となったので、神の側は対立概念としての「善」となった。だが「悪」をなすものの、本来の正体は天使である。 そして天使も悪魔も、宇宙の根源に通じた、「永遠の生」を生きる不死身の生命体である。
 そうすると、アニメの有名悪役が抱いたであろう真の目的……「永遠の生」の取得は、自ら天使や神と対等の存在になりたいという願望の現れであって、悪魔ルシファの、神への対抗意識に通じるものである。そう考えられるのではないか。
 「悪」の本質とは、そういったものなのだ。
 真の悪役の志は、けっこう高いのである。
 アイドル天使ルシファは、世界の悪役たちの頂点に立つ、悪のお手本である。世の悪役たちは、潜在意識の中でこのルシファに同一化したいと願いつつ、日々悪業に励んでいるのだ。
 
 そこで、理想の悪役の条件が見えてくる。
 悪役は、アイドルでなくてはならないのだ。
 才色兼備、容姿端麗、頭脳明晰、精力絶倫、およそ魅力という魅力を兼ね備え、出会う男女をことごとく虜にするサイコパワーの持ち主。あまりにチャーミングなその姿の前に人々は平伏し、歓声をもって迎え、支配されることに無上の喜びを覚えるのだ。
 悪役とは、こうでなくてはならない。
 しかしこれでは、どうみても正義の味方である。
 それでいいのだ。正義の味方を装ってこそ真の悪役なのだから。「私が悪役です」とプラカードを掲げてやってくる悪役はナンセンスである。悪役でなく道化師である。なぜなら、自分を悪役と自覚するだけの良心を持ち合わせているようなら、その者はすでに悪役ではないからだ。悪役たるもの、いかに非道な悪業であれ、心底、善と信じ、嬉々として実行あるのみなのである。
 悪役は、言い換えれば、善の衣裳を華麗に着こなすベストドレッサーなのだ。
 となると……
 善と称して悪をなす、その点に限れば、この現実世界は、悪役がうじゃうじゃいることになる。某教団の尊師や、某国の某大佐とか、某産油国とか某軍事大国の某大統領とか……。わざわざ小説にしなくても、街角のコンビニなみにありふれているのではないか。
 しかし、現実世界の悪役が持ち合わせていないもの……それはやはり、天使のようなチャーミングであろう。にっこり笑ってウインクすれば、大衆は雪崩を打って悪の道へとひた走る……ファンタジーの世界の、悪役の真髄、悪の醍醐味は、そこにあるのだ。
 
 と、いうことで。
 ひとつの試みとして、悪に撤したファンタジーというのが考えられる。首尾一貫して、悪役を描くのである。物語の前半ではどうみても善そのもの、正義の味方なのだが、読者が気が付いてみると、極悪非道の悪約だった、という主人公である。どんなに悪いことをしても、人々はついつい感情的に許してしまう。正義のヒーローがいくら倒すチャンスを得ても、自らの良心にはばまれて、どうしてもどうしても倒すことができない……そんな悪役が登場する作品である。
 
 このように、悪役の奥は深い。じっさい『悪役論』だけで一冊の本ができるだろうし、SFアニメ歴代の悪役分析だけで、楽しい読み物になるだろう。数ある悪役の目的、その実現のための手段、その魅力と弱点などを比較検討し、悪の本質を愛でる書物を、いつか書きたい!
 アニメの人気が悪役のキャラで持っていることは今さら論をまたない。読者が思わずソソられノセられ、その数々の悪業に、良心そっちのけで心から喝采を送ってしまう悪役こそ、時代が渇望しているものなのであろう。それが道徳的に良いことであるか否かは、また別の議論であるが。
 
●正しい人格とは?
 
 ここで少し視点を変えてみる。
 ファンタジー作品の世界の多くは、善悪の二極対立で構成されている。いわば白黒の明快な世界だ。
 しかし、言うまでもなく、社会の大多数をなすのは「どっちでもないさ」の庶民である。
 『エヴァンゲリオン』の世界を考えてみよう。主人公たちがメシを食う限り、食糧生産に従事する普通の人々が同じ世界に同居しているはずである。あの世界において、東北地方の農民、日本海沿岸の漁民、北海道や九州の牧畜業者の立場はどうであろうか。
 それこそ「どっちでもいいから、いいかげんにしてくれ」なのである。使徒が勝とうがネルフが勝とうがどっちにしても田圃や海や草原を荒らし回る「迷惑のカタマリ」でしかないはずだ。善と悪の戦いがどんな結果になろうが、ちゃんと稲が実り、魚が取れ、牛や豚が病気なく育つことの方が重要である。
 思えば、こちらの方がノーマルな価値観であろう。 正義とか悪とかを大上段に振りかぶる社会のエリートよりも、なんだかずっとまともである。善玉だろうが悪玉だろうが、戦っている奴は、しょせん何ひとつ生産しない極道者である。それよりは丹精こめてカボチャのひとつでも育てる人の方が、よほど世界に貢献しているのではないか。
 そう、いかにかっこいい正義の味方でも、なにか良いものを汗水たらして創りだして、後世に残してくれるわけではないのだ。
 
 また、一人の主人公が四六時中、正義の味方として勤務するわけにもいかないだろう。
 アダムとイヴが禁断の木の実(善悪を知る木の実)を食べて以来、ひとりの人間に善悪の両方が同居するようになった。誰だって心の中にキリストとヒトラーが棲んでいるし、聖書に耽溺する人が同時に倒錯の性に耽溺しても不思議はない。
 それは、ある種の精神分裂や多重人格に見えなくもないだろうが、実際はそんなもので、それがノーマルなのだ。自己のアイデンティティなんて、あやふやなのが当然だし、善のつもりで悪をなしてしまう自分に気付いて、自己矛盾に葛藤する。それが正常な人間の自然な姿であろう。
 葛藤し悩む、この状態は疲れる。ともすれば自己嫌悪に陥る。エヴァンゲリオンの最終2話のように、本来なら矛盾なき正義の味方であったはずの主人公たち……使徒との戦いにはあれほど元気で使命感に燃えて取り組んだ主人公たちが、自己内面のほころびには、あれほど無力で弱く、自分以外のなにかに救いを求めているかに見えるのも、その一例ではないか。
 結局はそれがノーマルな人間の姿であり、最終的に主人公はそんな自己(自己の多様性)を肯定し、癒される、という結末にならざるをえない。
 自己嫌悪とは、自分と対照的な、理想の人格(百点満点の人格)を想定し、そのギャップを認識することで生起する。
 神のような、矛盾なく統合された正しい人格に対して、自分の欠けた部分を補完しようとするが、かなわない。それが自己嫌悪である。昨今の「癒し」ブームのひとつの原因だろう。しかし自己を否定しようが肯定しようが、それは自分を「採点する」行為である。どこかに百点満点の正答シートがあり、それと自分を照らし合わせる行為だ。だが致命的な問題は、どこにもそんな正答シートがないということだろう。神がつくったのではなく、不完全な人間の心理学者や教育者がつくった正答シートが完全なはずがない。
 矛盾なく統合された正しい人格とは、まさに神か、あるいはロボットのような、人間以外のなにかに求める性質のものだろう。
 それは、どんな人格だろうか。
 神とても、その行為はパーフェクトではない。ルシファの反乱を未然に防止することはできなかったし、自分が創造した人類の数々の悲劇を見過ごしたし、その修正のためにバベルの塔を崩したり、ソドムやゴモラやバビロンを滅ぼし、いずれは最後の審判で人類の大半を地獄送りにするというなど、なかなか残酷である。悪魔の所業を責める資格はない、神だって大量殺戮してるじゃないか、という反論も成り立つ。
 どうも、神と悪魔の差、善と悪の差は紙一重のようだ。だが、その違いは確かにある。
 「正直なこと」である。
 悪魔は人を欺く。イヴをだまして木の実を食べさせたときから、悪魔は人類をだますことで、人類の歴史に干渉してきた。悪魔が思っていることと、口に出して言うこと、その行動にはズレがあるのだ。
 一方、神は人を欺かない。思っていることをそのまま行動に移す。予告したことは守り、言行不一致がない。知らないことは、知ったかぶりをしていない。
 聖書などを読むかぎり、神と悪魔の差は、この一点にあるだけのようだ。たしかにそうだ、矛盾なく統合された正しい人格に許される特権とは「ウソをつかずに生活できる」ことである。
 ただそれだけのことが、どうしてこうも困難なのか……人類が神に至る道は、果てしなく遠い……。
 
●登場人物キャラクターについて
 
 そこで、作品の登場人物のキャラ設定である。
 以上の善悪論から抽出すると、登場しておもしろい人格は、次の三種だろう。
@どうみても善人にしか見えない悪役。
Aどうみても悪人にしか見えない正義の味方。
Bどっちでもない庶民。正義や悪など超越して、な  にかをひたすら愛することのできる人。
 
 さらに付け加えると、こんな人もおもしろい。
Cバカにしか見えない正直者。
 うれしいときは笑い、悲しいときは泣く、いまどきめずらしい表裏のない人。他人に騙されても、他人を騙しはしない。ただし素直なイエスマンではなく、他人を疑ったり、Noということもできる。自己の欲望に忠実であり、善悪の基準からブッ飛んだ動機で善行悪業なんでもこなす。そんなキャラの美女はHなファンタジーのヒロインに最適であろうか。殺人強盗風俗売春、なにやっても許せてしまうのである。
 
 そして第五のキャラとして……
D 以上の@ABCに適宜変身していく人物。
 これを主人公とする話も考えられるだろう。恐ろしく無責任なキャラになると想像できるが、理屈として、いてもおかしくないキャラである。が、そんな話が、はたして書けるのだろうか。これまた、神のみぞ知る……である。
 
※タイトルのカット写真は、ご近所の神社の狛犬。2006年元旦撮影。


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