Essay
日々の雑文


 11   19960310▼論考『恐怖の頓服・ファンタジー』
更新日時:
2006/02/13 

960310
 
 
恐怖の頓服・ファンタジー
 
 
 「自分の体内になにか異質な、おぞましいものが潜んでいて、それが反乱を起こす」というのがホラーの基本パターンで、この原則は古今東西不変です。すべてのホラーは、この単純なパターンに還元されます。細菌や寄生虫や、もっと形のないものとして悪霊や怨念。そういった、人間の理性ではコントロールできない怪物が、人間の内側に入って暴れ出したとき、恐怖が生まれます。子供のころに幽霊の存在を信じていて、夜中のトイレが恐かったなんてのもそうでして、自分の心の片隅にあるやましさ≠ニか残酷さなどが、自分自身の心に襲いかかってくるのを、幽霊の幻影として見ていたのかもしれません。
 これを体内の遺伝子キャリアの反乱として、生物学的に処理したのが『パラサイト・イヴ』ですよね。でも、もっと恐いのはアニメの『火垂るの墓』でした。これはもう、自分自身の心に巣食っている原罪みたいなものを、おもいきり自覚させてくれる話でして、人間のちょっとした利己心が、より弱い人間をどれほど痛めつけ、犠牲にしていくかを、ありありと描いていました。主人公の二人の兄妹を死に追いやっていくのは、作品の中の、ごく普通の人々であり、そしてアニメを見ている自分自身も加害者のひとりであると感じさせます。二度と見たくないけれど、だれもが一度は見ておかなくてはならない名作だと思います。
 
 人間は最低限、自分の心と肉体だけは、自分の自由にコントロールしようとしています。そうしないと死ぬからです。原始時代の人間を想像すれば、わかりやすいですね。たとえ健康体であっても、苛酷な自然や、獰猛な動物たちが徘徊する世界の中で、常に死の危険に直面しているのですから。自分の身体の一部分でも不調になれば、たちまち殺されてしまいます。この本能的な不安は、現代の私達にも、遺伝的な種族の記憶として引き継がれているのでしょう。
 
 そして、自分に襲いかかったり、自分の身体をむしばんで死に追いやるものの正体が不明であればあるほど、不安や恐怖は倍加しますね。
 古代において、正体不明の恐怖とは、竜巻や落雷や日食などの自然現象であったり、また細菌やウイルスによる病気だったはずです。もちろん人間がいずれ死ぬこと……アポトーシス(遺伝子に定められた、細胞死のプログラム)……はもちろん正体不明の恐怖の、根源になるものでした。
 
 そこで人間は、これら正体不明の恐怖を少しでもとりのぞき、精神的な不安をいくらかでも軽くするために、宗教や信仰を生み出します。自然の猛威の裏に、神々の存在を仮定し、病気の原因に悪霊を、また、さけられない自然死を納得するために、輪廻転生や、前世や来世の因業や幸福を信じるようになっていきます……このようにして原始宗教が発生しました。人間は、なんとか安心して生きるために、神話というフィクションを共有することになったわけです。わけのわからない恐怖の原因に、現実にはありもしない解釈をこじつけたわけですが、ともあれそうやって恐怖の正体が明らかになれば、すこし安心できますね。
 
 自分の体内に悪霊が入ったり、また生命の精霊が逃げだしたりするのを防ぐおまじないは、現代の私たちの日常に生きています。衣服を纏うこと。衣服は、気候の寒暖などから人体を保護する実用性もありますが、呪術的な意味合いを含むこともあります。悪霊が侵入したり、生命の精霊が逃げてしまう出入口はもちろん、身体の穴のあいている部分だと信じられていました。その最たるものが性器とか口でして、たとえば性器を衣類で隠すのは、そこから悪霊や精霊が出入りしないよう、シールドする意味があります。相撲の力士が回しの前の、性器を隠す位置にすだれみたいなものをつけているのもそうです。あれは悪霊を防ぎ、精霊の逃亡を防ぐバリアです。また、古代エジプトでは死者の魂が死者の口から出入りすると考えていたのも、同じような発想ですね。
 象徴的には結ぶ≠ニいう行為がそうです。帯を結んだり、腰紐を結ぶのは、衣服を着脱する機能と同時に、その内側に生命の精霊を封じ込める意味があります。のし袋の結びもきっとそうですね。祈りと同時に、結びの内側に、良い霊を封じてあげる。たぶん、プレゼントの箱のリボンも。ギフトのリボンなんて過剰包装にすぎませんが、その中に自分の祈りと精霊を封じてあげるとすれば納得。結ぶ″s為とは、つまり即席の結界をつくることなんでしょう。
 では、サラリーマンのネクタイは……ま、あれは会社にとっては奴隷の首輪であり、家族にとっては鵜飼いの鵜の首紐かもしれませんが……でも、奥さんが愛をこめて結んであげれば、きっとそれは守護精霊の結界になるんでしょうね。
 
 ということで、人間は正体不明の恐怖に、原始宗教で理屈づけをしました。
 しかし、恐怖の正体がわかるだけでは不安の解消にはなりません。なんとかして、その恐怖の原因となる神々や霊をコントロールし、人間に対して死をもたらさないようにする……つまり安全な存在になってもらう……方法を考えなくてはなりません。恐怖に対処する方法がはっきりし、恐怖の根源となるものをコントロールできたとき、それは恐怖の対象ではなくなるのですから。そうなれば、今日を生きている自分が、明日も生きていけるだろうと信じることができます。
 
 その恐怖への対処法≠ェすなわち、神に祈って自然の脅威をやわらげてもらうことであり、シャーマニズムや呪術で悪霊を払うことによって、安全に生きることを保証してもらうこと。やがて祈りや悪霊払いの役割を特定の人間が担当することになり、神官や巫女や呪術師が、職業として成立することになります。
 
 前置きが長くなりましたが、つまりこのようにして、人間は、自分達をおびやかす正体不明の恐怖の原因を明らかにするため、架空の説明をつけるようになりました。すなわちホラーの誕生です。そしてホラーの恐怖を解消するために、架空の神々や精霊を設定して宗教を成立させ、神々に祈る、などの形で働きかけ、恐怖の根源をコントロールしようと試みはじめました。すなわちファンタジーの誕生です。
 一方、より現実的に、正体不明の恐怖を克服するために、人間は頭脳を発達させ、道具を使い、自分の周囲の環境を安心できるものに変え、そこに文明を築いてきました。
 その過程で、人間は科学を発見します。正体不明の恐怖の原因は、宗教でなく科学によって解明することができるのだ、と。人間が何百世代にもわたって知識を蓄積した結果、神々の仕業だった天体の運行に法則性が見いだされるようなことです。また、技術の蓄積によって完成された望遠鏡や顕微鏡が、見えない世界を見えるものに変えてくれたことで、宇宙の構造に糸口をつかみ、正体不明の恐怖の最たるものだった病原体の姿や性質が明らかになってきました。
 科学はそうして、ごく最近……おおむねニュートンの時代……以降に、宗教から分離して、正体不明の恐怖から人類を救う決め手として、時代のヒーローとなりました。もちろん人間は、これからの未来に、科学がさらに多くの恐怖を解決し、より人類を幸福にしてくれると期待します。科学こそ、宗教にかわって、人類をすべての恐怖から解き放ってくれる、というビジョンを想像するようになります。科学に対する信仰です。
 こうやってほぼ百年前、SFが誕生しました。
 
 てなわけで、ホラーもファンタジーもSFも、その発生理由のおおもとはつながっているわけです。いずれも正体不明の恐怖や不安への対処法≠ナあることは同じですし、いずれも人間の想像力が生み出した架空の産物≠ナあることが共通しています。ホラーもファンタジーもSFも、人間の現実の生活には、カスほどの役にも立ちません。それでも、人間にとって、この現実の世界に、正体不明の恐怖が存在する限り、その恐怖に対処するために生み出し続けられるものなのです。
 で、結論です。とりあえずファンタジーに絞って言いますと……
 
 ファンタジーとは、苛酷な現実に対処して、あるいは折り合って、より幸福に生きていくための想像力を共有する一手段であります。
 人間は常に現実≠ゥら、正体不明の恐怖という形で攻撃を受け、不安と恐怖感にさいなまれています。たとえば死の恐怖、失業の恐怖、失恋の恐怖など……。現代においては漠然と社会的不安≠ニ呼ばれるものが、それにあたるかもしれません。この不安と恐怖の正体に、自分なりの説明をつけて、それに対処する方法を考え、不安と恐怖の攻撃によって自分の心と身体が崩壊するのを防ぐためのシールドとして……つまり、自我を守るための盾として、想像力が機能しているわけです。
 その一部に、ファンタジーというものがあるわけでして、現実の生活には、なんの役にもたたないファンタジー小説が、それでもいまだに書かれ、読まれ続けている理由は、このあたりにあるのではないかと思います。
 
 たとえば、男女の恋愛なんて、たいがいが想像力の産物で成立していますね。しらけた現実にいる第三者からみれば、およそ不似合いな醜男と不美人のカップルであったとしても、二人がそれぞれ相手を、想像力のファンタジーのフィルターを通してみれば、互いに美男美女。アツアツの恋愛関係になるってもので、そういうことができるからこそ、人類は繁栄できるというものです。想像力の働かない……すなわち相手の現実しか見ることのできない……関係だったならば、結婚はおろかキスひとつだって気持ち悪い不潔な行為になってしまうものでしょう。第三者にはどう見えようと、相手の良い面が、想像力によって増幅されてこそ、より幸福になれるもの。夫婦関係など、それなくして長続きしないものです。
 
 というわけで、想像力あってこそ、人生がいくらか楽しくなり、不幸な出来事があっても、絶望から救われることもあるってものですね。だからファンタジーは大切なんだ! と勝手に思い込んでおります。
 
 ファンタジーなど、社会の一般通念からすれば、健全な少年少女によからぬ空想癖を吹き込み、現実逃避のオタクへと洗脳してしまう毒薬のように思われがちですが……私の親などその典型でした。ま、無理もないのですが……、しかし、ちょっと考えてみれば、現実にはなんの役にも立たない空想の産物が、現実の世の中にはいっぱいあって、しかも私達はそんなはかないものに、アホほどお金を投じていることがわかります。
 結婚披露宴やお葬式などの、宗教的な儀式の部分。何億円もの名画を購入する美術館。茶道・華道など教養的なお稽古ごとに月謝を払う何百万もの人々。遊園地へ行く人。TVゲームを買う人。競馬やパチンコなどギャンブルのすべて。その他、趣味といえる全領域……遊びにかかわるすべての産業が、想像力に基づく虚構の商品で成立しています。ブランド商品を買い集める人々。いわゆるファッション業界のすべて。NHKの視聴料金……TV番組が私達の実生活に、実利をもたらすケースはきわめて希である……。映画演劇、その他、芸術と呼ばれる活動のすべて。叙勲・表彰のすべて……叙勲・表彰される行為は現実でも、それを叙勲・表彰することは、想像の産物ですね。……およそ付加価値≠ニ呼ばれるもののすべてが、人間の勝手な想像の産物なのです。
 そういった、虚構の部分にお金をかける……そのことだけで何百兆円もの産業が成立する原因には、人間が、同じ機能のものに、なぜか高級≠ニ低級≠フ差異をつけることによります。30万円のグッチのバッグと、200円の紙バッグとの間に、機能的差異はほとんどありませんが、それでも人々は29万9千800円の余分なコストをかけてグッチを買う。そのコストはいわば、現実の実用とはかけはなれた、想像と虚構の部分に支払われていることになります。
 そこまで人間は、役に立たない部分に価値を認めている。ならば、役に立たないからといって、ファンタジーをバカにするのは間違っているし、子供たちの害毒扱いするならば、荒唐無稽なファンタジー文庫よりも、現実の覚醒剤の方がよほど実害があるってことですね。
 
 余談ついでに、とかく世間では、高尚な文学と低俗な大衆小説を区別しがちでありますが……しかし同じ一人の中学生が、ノーベル賞作家の傑作を読めば、その直後にSMまがいのポルノ小説も読むのですから、なにが高級とか低級とかいった議論ほど不毛の世界はないですね。ましてやなにがホラーかファンタジーかSFかといったジャンル分けなど、店頭での探しやすさ以外には、たいした意味がないのかも……。そう考えると結局、自分の書きたいものを書いて自己満足するのが一番! でしょうか。
96.3.10.             
 
 
 


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