1247年に下向し1248年にやってきた渋谷氏5兄弟の拠点の城を巡った動画です。
小田急江ノ島線 高座渋谷駅の綾瀬市城山公園である早川城の御家人であった渋谷氏。
源頼朝は、薩摩・大隅・日向の守護として惟宗(島津)忠久、この薩摩川内市周辺の地頭に千葉常胤を任命した。千葉氏の統治に問題があり、姓武光氏、大前氏、大蔵氏、宮里氏と軋轢が生じ混乱した。この対策として、1247年に新任の地頭に任免された渋谷光重は次男以下を下向させた。
次男・実重(東郷氏 鶴ヶ岡城)、三男・重保(祁答院氏 虎居城)、四男・重諸(鶴田氏 鶴田城)、五男・定心(入来院氏 清色城)、六男・重貞(高城氏 妹背城)

再生リストは以下の動画で構成しています。

①建昌城付近~清色城サイクリング
②清色城ウォーキング
③清色城~虎居城サイクリング
④虎居城~鶴田城サイクリング
⑤鶴田城西部ウォーキング
⑥鶴田城中央部ウォーキング
⑦虎居城~鶴ヶ丘城サイクリング
⑧鶴ヶ丘城の山崎城・国見城ウォーキング/サイクリング
⑨鶴ヶ丘城本丸ウォーキング
⑩鶴ヶ丘城の本丸南側と東側サイクリング/ウォーキング
⑪鶴ヶ丘城~西前寺跡~妹背城サイクリング
⑫妹背城ウォーキンク

 虎居城は歴史公園計画ののち行って見ます。
 このサイトのサムネイルをクリックすると資料を掲示します。尚、鶴田城は探しています。
 サイクリング/散策の参考の資料は、鹿児島県歴史資料センター・黒川氏、薩摩川内市光森氏、県立図書館の司書のみなさんに助けて頂きました。

 鶴田城では、地元軽トラの男性に、河川改修の採土を城址から行ったことや、おそらく千葉氏であろう、女性を略奪して子供を作ったのちに返したといったお話しを伺いました。゙お名前が伺わず。
 清色城下の船瀬橋から入来川、薩摩川内市の京泊から備前片上津で美作国河合郷の年貢や人員を含めて海路の年貢米船が往来した。京都までの交通の一部。さらにその先には伊勢国箕田大功田があり、鎌倉や綾瀬との交通の中間点となる大和市史研究11 「鎌倉御家人渋谷氏の所領」を訪ねて 河部征寛 9~10頁
1258年9月に定心次男の重経が塔之原の地頭請所となっている。大和市史研究11 6頁。その重経は1277年4月には相模の国に居る。綾瀬市史6 195頁。鎌倉武士は本貫地・所領を居所としながら、鎌倉や京都他での役目もあり、交通は盛んだった。

再生リストは以下の動画で構成しています。

①平塚市立中原小学校の西、渋田川の竪堀橋から早川城址までのサイクリング映像。゙
②早川城址である綾瀬市城山公園のウォーキンク映像゙
③経堂駅からリコー総合グラウンドのサイクリング(補完映像)
④リコー総合グラウンドから河崎館であった稲毛神社サイクリング
⑤河崎館であった稲毛神社ウォーキング

 11世紀に秩父から小山田保(町田市)毛稲毛保(川崎市中原区)、榛谷御厨(保土ヶ谷区・旭区)、師岡保(神奈川区)へ移動した一族から、河崎と小机の一族が中山(港北区)~小机と移動後、綾瀬に拠点を持った。河崎重国→渋谷重国は藤沢市の長後天満宮の位置に居住していた。綾瀬市史6 第1編 綾瀬の中世 第1章渋谷荘の成立と渋谷氏50~51、105頁 
金王八幡から経堂への映像を追加する予定です。渋谷~川崎が繋がる予定です。
 約350年後、徳川家康の駿府~江戸移動の休憩場所、鷹狩り場所の中原御殿である現・中原小学校は、旧・大野村にあり、その大野村は渋谷重津経の領地であった。平塚市民族文化報告書6 -大野- 平塚市博物館 大野地区の概要 今泉義廣 22頁

川床城
位置はこの地図をはみ出す絵南側、鹿児島県道42号線沿い朝陽sh小学校周辺。
1569年に島津義久へ降伏した入来院重嗣が築く、おそらく渋谷氏最後の城。
鶴ヶ岡城
妹背城
鶴田城
清色城
虎居城