20000708▼作品設定『シリー・ウォーへの道』(8)
『シリー・ウォー』の構成
【世界、それはエネルギーの移動】
小説は、何を描いているのか。
エネルギーの移動である。
「トンネルを抜けると雪国だった」
この一行だけで、トンネルを抜ける、という運動エネルギーが表現されている。
「我輩は猫である。名前はまだない」
この一行にはエネルギーの移動がないように見えるが、この猫が生きて読者に語りかけているからには、体内の新陳代謝があり、エネルギーの移動がある。
登場人物が喋っても殴っても、歩いても蹴っても、そこにエネルギーの移動がある。まあ多少の例外はあることだろうが、小説はすべて、エネルギーの移動を文章によって表現した伝達媒体だと断言してもいいだろう。すくなくとも、エネルギーの移動なくしてストーリーが進まないのは確かである。
なぜか。
小説は世界を描く。そして世界は神が最初に「光あれ」と言ってビッグバンを起こして以来、エネルギーの移動によって存在し続けてきたからである。
SFも世界を描く。
したがって、必ずエネルギーの移動を描く。
では世界のエネルギーの移動とは、どういうものなのか。
わかりやすい形として、エコロジーマップがある。
生物界の食物連鎖を表した図だ。単純にはこうである。
分解者
→ 微生物
消費者
動物・人類 ↓
← 生産者
植物
この三本の矢印は、栄養を摂取する行為によってエネルギーが生物界を循環する方向を示している。これだけで私たちの世界を概観する「世界図」とも言えるだろう。
つまり一言で言えば、SFがエネルギーの移動を描くからには、必ずこの世界図の一部を描いていることになる。
この世界図は、あたかもフラクタル図形を見ているように、マクロの世界からミクロの世界へと拡大縮小できる。たとえばこの「生産者↓消費者↓分解者」を「星間物質↓星々↓ブラックホール」と置き換えることや、細胞内の「DNA↓蛋白質↓分解酵素」の関係にたとえることができるかもしれない。
そしてもちろん、この世界図は、私たち人類の社会をひとまとめにして表現することができる。この社会はさまざまな役割や職業の人々によって構成されており、相互にエネルギーをやりとりすることによって社会を成立させているからだ。
図形はやや複雑になるが、こんな感じだと思う。
●収集者・保存者 ●再生者・分解者
学校、研究機関 救急、消防、医療
博物館、美術館 → 介護、葬儀、宗教
図書館、動物園 解体、廃棄物処理
芸術家、劇場 など リサイクル など
↑ ↓
●流通者・消費者 ●生産者・加工者
運送、交通、情報 農林水産、畜産
政治、警察、軍隊 ← 酪農、食品加工
王侯貴族、公務員 鉱工業、製造業
有閑階級 など バイオ産業 など
人間社会を舞台とするSFは、これらの職業・役割の人々が登場し、関係しあってストーリーを進めていく。すべてのキャラクターがこの四分類にはまるかどうかは断言できないし、一人で複数の役割を担うことも多いので、あまり厳密には考えないでいただきたい。
【主人公の職業選択】
しかし、なんとなくではあるが、SFの中でもヤングアダルト分野のSFとかファンタジー、とくにSFアニメでは、主人公がこの四枠の中の「消費者」にあたるケースが圧倒的に多いように感じないだろうか?
王侯貴族、魔導師、軍人、特殊な公務員、司直、探偵、かなり暇な経営者、かなり暇な研究者、かなり暇なマスコミ関係、無職の少年少女、武装したフリーターといった人々である。額に汗してなにかを作り出す人々ではなく、かといって生活に困窮するでもなく、時間と金を消費できる立場の人々だ。
そのことの善し悪しはさておいて、農業や漁業や、牧畜や食肉や、林業や酒造などに携わる人々が主人公となる作品が非常にまれであることは事実だろう。葬祭業や廃棄物処理に関わる人々ももちろんだ。
と、いうことは……
人間社会を舞台とするSFは、これまで意外と狭い分野しか描いてこなかったのではないか。言い換えれば、SFにはまだまだ広大な未到の沃野が残されているのではないか!
かなり以前から、秋山完はそう思っている。
このことを意識しながら、シリー・ウォーの物語構成に取り組んでいきたい。「流通・消費」だけでなく「収集・保存」「再生・分解」「生産・加工」のステージに立つ人々が重要な役割を果たすエピソードを盛り込むことになるはずだ。
ちょっと脇道にそれるが、SFとは何だろう?
秋山完は、あまり深く考えていない。SFとはサイエンス・フィクションであり、空想科学小説であると考えている。SFの中身は、科学を素材かテーマに使った架空の物語であって、「私たちにとって科学とはなにか」を考えさせる要素が含まれていれば、それはSFなんだろう……と思っている。
科学は私たちを幸福にしようとしているのか、それとも不幸へおとしめるのか。
これはSFに分類されている多くの物語に共通するテーマではないだろうか。
とくに二十世紀の百年、科学は戦争と表裏一体に語られてきた。科学の進歩と戦争技術の高度化は、まるで二人三脚のようにこの世紀を歩んできた。科学と戦争がこれほど強烈に関わりあった時代は、これまでなかったのではないか。
だから、戦争を語ることと科学を語ることは、SFのジャンルの中で、同時に扱える。
【個々のドラマの要素】
シリー・ウォーは戦争の物語だ。
もはや戦争を戦うのは「消費者」の軍人だけではない。社会のあらゆる分野が影響を受け、科学の産物である戦争によって破壊される危機に直面する。そこにSFとしての無数のドラマが発生する。
ドラマには、こんな場面がある。
何を受け入れ、何を排除するのか。何を信じ、何を疑うか。何を愛し、何を憎むか。何を守り、何を癒すのか。
このそれぞれの場面に「戦争」「冒険」「恋愛」「牧歌」の要素をあてはめ、個々のドラマを構成する。
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冒 険 ・ ・ ・ ・ 恋 愛
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・ シリー・ウォー ・
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戦 争 ・・・・・・・・・・・・ 牧 歌
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このようにして、四つのドラマの要素が噛み合いながら、四つのステージに立つ人々が、それぞれの善と悪とを背負って、中心の十字路で出会う。それがシリー・ウォーの物語だ。
【シリー・ウォーの結末】
最後に物語が、どんな結末を迎えるのか。
じつはそれは秋山完にも、よくわかっていない。
ただ、この物語の大きなテーマのひとつは「究極の悪」にせまることにある。私たちに不幸をもたらす悪の結晶。そのような史上最強の悪を克服するには、正義の英雄による、派手な一撃というものはない。粘り強い地道な解決しかないだろう。
もうひとつ、「科学と戦争」の関係も大きなテーマとなる。二十世紀にしっかりと手を結びあった科学と戦争。この両者の堅い握手をいかにして断ち切るか。それができれば、人類史における戦争の意味が変わるだろう。そのために、物語のひとつひとつのエピソードで登場人物が苦闘することになる。
では、シリー・ウォーの世界で、お会いしましょう。
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