Essay
日々の雑文


 35   20070817★アニメ解題『スクラップド・プリンセス』
更新日時:
2007/10/07 

20070805アニメ解題『スクラップド・プリンセス』
 
写真は英国・ヘンドンの王立空軍博物館。
写真をクリックすると、『スクラップド・プリンセス』オフィシャルサイトへ。
 
 
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『スクラップド・プリンセス』
 
 
●人が生きているアニメ
 
Anima は“生命”や“魂”のこと。アニメーションは、いわば生命を吹き込まれた動画のことですね。マンガ的な、現実離れした姿でありながら、まるで、そこに生きているが如くに、動き、想い、ドラマを演じる二次元のキャラクターたち。それこそがアニメ作品の原初的な姿でしょう。名優となれば、セリフがなくても態度で語ります。『未来少年コナン』あたり、その好例ではないでしょうか。
 
とはいえ現実は、なかなか“生きている”と実感できるほどタマシイのこもったキャラ描写には出会えないものです。昨今はCGに頼るためか、どこかサイボーグみたいな画一的な表情がはびこってしまった感がありますが、もう、それはやむをえないものと思っていました。
 
しかし、そんな諦観を卓袱台返しのごとく、見事にくつがえしてくれたのが……
 
『スクラップド・プリンセス』。愛称は『すてプリ』。
全24話が、2003年4月からWOWOWにて放映されました。
 
お話の前提はこうです。
文明が衰退して中世化した、未来の地球(第1話冒頭で、極東地域の海岸線が南北逆さまに映る)で、ある地域を占めるラインヴァン王国。
その王妃エルマイアがかわいい男女の双子、王子と王女を出産しました。
しかし同時に、この国の人心を支配するマウゼル教の神から、重大な託宣が下されます。
「王女は十六歳になったとき、この世界を滅ぼす“猛毒”となる。彼女は、この世に屍山血河を築くだろう。世界を救うため、王女はすみやかに殺すべし」……と。
 
神罰を恐れたラインヴァン王は、自分の娘である(ただし、真の嫡子であったかどうかは、なにやら疑問)王女の殺害を騎士団に命じます。
生まれたばかりの王女には名前すらつけられず、忌むべき“廃棄王女”として、辺境の谷底へ投げ落とされました。
 
それから十五年……。
王女は生き延びていました。心ある魔導士に救われ、善良な夫婦のもとでパシフィカと名付けられ、密かに育てられていたのです。
しかし数年前に育ての母は病死。そして父も、ここに廃棄王女がかくまわれていることを知って襲撃してきた王国軍によって、惨死させられます。
優しくて強い姉と兄に守られて、パシフィカは両親の村を脱出しました。そして十六の誕生日に自分がどうなるのか、底知れぬ不安を抱えながら、追手を逃れて旅を続けます。
 
しかし、行く先々で一行を迎えるのは、パシフィカの抹殺をもくろむ王国軍や教会の刺客、神を称する怪物たち、そして廃棄王女を忌み嫌う市民たちの、猜疑心と憎悪でした。
 
おお、なんというシリアスな設定!
 
各話のオープニングは、炎上する我が家の煙を脱出途上で望見するパシフィカと兄シャノン、姉ラクウェル。王国軍によって惨殺された父の遺体を自分の家に横たえ、火葬の火を放ったことが、後の回でわかります。
やがて夜明けとなり、昇る太陽に背を向けて、あてどない逃避行に出発する三人の表情が映ります。失ったものすべてをあきらめて、悲嘆を笑顔の裏に隠し、一縷の希望を探すため、先の見えない未来に向かって馬車を駆る三人の姿が、セピア色の思い出に溶けていきます。
 
ううむ、なんというか……
この手のファンタジー・アニメにしては、異様なほど暗いオープニング。
なんとなく雰囲気が、『家なき少女レミ』や『ペリーヌ物語』。そう、昔なつかしい世界名作劇場に似ています。とても民放とは思えない、いや某NHKでもここまでやれるかという、シリアスな地味路線。
 
しかしこのオープニングで、ほんの数秒間に見せる、三人の表情が秀逸。
横顔から、ちらりと姉を見やるパシフィカの不安と、すがる思い。
そっとため息をつき、視線を落として顔を振る姉ラクウェルの悲しみと覚悟。
正面を見つめ、かすかにうなずく兄シャノンの、静かな闘志と決意。
そしてきびすを返し、明るい未来を象徴する朝日に背を向ける三人。
逆光。自分自身の影に包まれた旅立ち。絶望の中にかすかな希望を求める思い。
わずかな動きだけで、深い感情が伝わってきます。
 
(蛇足ながら、画面に交差する色の帯と動く光の正方形は、視覚的に邪魔ですね。退屈しのぎにこっち見てといった感じで。むしろ余分なものはなしにして、人物の表情の微妙な変化を、じっくり見せていただければ十分だと思うのです)
 
エヴァ以来の機関銃的フラッシュバック炸裂の、めまぐるしいオープニングに慣れた目にとっては地味で退屈。しかし、この時間的ゆとりが、メインキャラ三人の思いを察し、想像するだけの“間”を与えてくれるのです。
 
主人公たちは、万能の超人ではありません。血の通った人間です。
オープニングは、しっかりと、そう伝えてくれるのです。
登場キャラが“生きている”からこそ、感動がある。
そして事実、この『すてプリ』には、世界名作劇場の作品群を凌ぐ、超ド級の感動がつまっていました。
 
原作の文庫は、たぶん、立ち読みしたことがあったのですが、ヲタクファンを意識されていたのか、そのイラストと、本文中のきゃぴきゃぴな感じの表現が、いかにも“美少女萌へ”であり、そういう傾向の作品だろうと先入観を持ってしまいました。ああ、不覚だった……
 
それから数年。
 
ようやく出会ったアニメ『スクラップド・プリンセス』は、“萌へ”でも“美少女”でもなく、人と人の“愛と絆と信頼”を正面から堂々と描いた、これまた希有の名作ファンタジーだったのです。
 
 
●最終巻の表紙画、その凄さ。
 
私と『すてプリ』の出会いは、例によって偶然でした。
とあるビデオ屋さんの特売ワゴンにガムテープでまとめられた全12巻。
レンタル落ちビデオとはいえ、一括1500円という破格のお値段に、立ち止まります。
失礼ながら、これでは捨て値の『すてプリ』ではないか……
 
ほんの二年ほど前までは高値の牙城だった国産アニメのDVDが、今や中古ものは定価の半分以下がざら。千円を切るものまで現われる始末。
ビデオどころかDVDですら、いまや値崩れ状態と言っていいでしょう。
ただ買うだけの立場なら嬉しい事態ですが、制作者のことを思うと、なんとも複雑な心境であります。
しかし、安さは在庫処分のしるし。店にあるうちに買っておかないと、いつのまにか品切れで、手に入らなくなってしまいます。まるで野菜や魚といった生鮮食品なみの扱いですが、いくら日本がコンテンツ大国でも、この惨状はいかがなものか。マイナーな作品でも、安心して末長く流通する仕組みがほしいものです。
 
さて、いくらお買い得でも、DVDでなく、ビデオ12本では、かさばることは事実。置場に困るなあ……と、思案してしまいました。
 
ガムテープでくくられた一連のビデオテープは、たまたま最終巻『帰還の章』の表紙画が表になっていました。
兄シャノンの腕にからみながら、その手を引いて走るパシフィカ。最愛の兄に甘える嬉しさと安心感、ささやかな幸福に満ちた時間の、にこやかな笑顔。
ふと目を留めて、釘づけになりました。
これは上手い。
キャラクターの表情が、抜群にいいのです。
ことさらに顎がとんがっていたり、個性的で鋭いギンギラした目ではなく、ちゃんとほっぺたの膨らみがあり、ほどよい大きさの瞳、そして鼻や唇や眉も、最小限の線で描かれていながら、じつに奥行のある感情を表現しています。
 
端整にして上品。
素直に描かれた、伝統的な日本のアニメの絵柄です。
 
何をもって“伝統的”かというと、ニッポンのキャラクターフィギュアの歴史的原点である“仏像”に、そこはかとなくルーツが通じるということですね。60年代東映動画の名作キャラには、素人目で見ても仏像由来の面影があります。余計なことですが、『すてPRIX』第三弾の『でかプリ』ラクウェルはその指先ポーズといい全体の大きさといい、さだめし21世紀の観音さまでありますな。ちなみに、欧米のアニメにおけるキャラ造形の原点は、たぶんキリスト教のイコン(聖画像)にあると思います。
 
『すてプリ』のキャラには、さらにリアリティがあります。登場人物の頭身です。
だいたいが七頭身から八頭身あたりで、現実の人間に近いプロポーションに設定されていて、演技の途中で突然に三頭身ギャグをかますこともありません。
長剣やその他の武器、王や王妃の城など、大きくデフォルメされたものはありますが、マンガとしての受けを狙える最小限の範囲に限っているようです。物語のかなりの部分が、実写映画でもできそうなほど、現実に近い組み立てがなされています。
だから、生きている人間が演じているかのような、錯覚すら楽しむことができます。
 
最終巻の表紙で、さらに気に入ったのは、色調でした。
構図が、朝日を背にした逆光なのです。したがって顔は影色になっており、パシフィカの表情が、ただ明るいだけの笑顔ではなく、気品とともに、“何かの思いが秘められた笑顔”に見えます。
光と希望にあふれた、能天気なお目々キラキラ顔とは、ちょっと違うのです。
そんなことが気になって、買うことにしたのですが、たしかに、この最終巻のパシフィカの笑顔は、普通の笑顔ではなかったのです。というのは……
 
後日、作品を終りまで見て知ったのですが、ストーリー上、この場面は、パシフィカが16歳の誕生日を迎える前日の朝。ならば、二人の背に昇っていく太陽は、彼女が世界を滅ぼす日を迎える前の、最後の暁。
つまりこのシーンでは、二人が生きて一緒に過ごせる最後の朝かもしれない……ということを、二人は自覚しているわけです。
二人の間には、約束があります。
「もしも私が本当に世界を滅ぼすなら、そのとき、お兄ちゃんの手で、私を殺して」と、パシフィカは第一話から兄に頼んでいるのですから。
明日、この朝日がまた昇るときには、私はお兄ちゃんのこの手で、人生を終わっているのかもしれない。神様の託宣の通りなら、きっと、そうなっているんだ。……という、壮絶な覚悟が、パシフィカの笑顔の裏にあります。
 
そして、願ってもかなわぬことだけど、明日という日が来なくて、永遠に今日のままであってほしい……という、悲嘆と切なさが、太陽の光に背を向けて、影色に染まって走る二人の姿に重なってきます。
あどけない笑顔の裏に、胸を締めつける現実が隠されている……という、実に物凄い場面だったのです。
 
いやはや……本当に、よくよく素晴らしい名作に遭遇したものです。
 
『すてプリ』には、このような意味深な設定と演技が、毎回のように登場します。
人物のセリフ、表情、ちょっとした仕草といったものに、どのような感情や思いが秘められているのか、伏線がきちんと積み上げられており、いちいち「ほおっ」と納得させてくれるのです。
 
セリフなしでも、態度と表情で語る登場人物たち。
改めて、気づかされます。そう、現実の私たちは、じつは言葉だけでなく、態度と表情で多くを伝えているではないか。むしろ、言葉に出せない本当の思いこそ、黙して語るしかないのではないか。
『すてプリ』は、それをやってくれるのです。
 
笑顔ひとつとっても、ただ喜ぶだけでなく、その場しのぎのあいそ笑いや、欺くための笑み、深い悲しみを隠した笑顔、相手を元気づけるために作る笑顔など、まるで、水のかわりに人間の感情をたたえた湖面のごとく、表情豊かに描き分けられているのです。
 
このあたり、同じ“逃亡ものファンタジー”であるNHKの『精霊の守り人』を一歩寄せ付けない、すぐれた視覚的ヒューマン・ドラマであると言ってよろしいでしょう。
 
完璧なまでの演出と脚本。
普通のファンタジーではすんなり避けて通る、人の死の恐ろしさと悲しさや、金がなくなれば飢え、腹が減ったら食事して、そして排泄もあるという人の生の営みを、決して無視せずに描き入れる誠実さ。
 
もちろん毎回、劇場でも通用するビジュアル・クオリティの高さ。
『カウボーイビバップ』以来の個性派キャラと、『風の谷のナウシカ』以来の感動。
そして『ノワール』以来の濃密な心理劇。
同じようなドラゴンが出てくるお話の中でも、『ゲド戦記』や『ブレイブ・ストーリー』では味わえないほど、温かい涙が、『スクラップド・プリンセス』には、ぎっしりと詰まっていました。
 
素晴らしすぎて、適切な言葉が見つかりませんが……
この作品にあるのは、本物の涙。
二話に一度は目頭が熱くなり、最終話はもらい泣きの連続。
本当に、いいお話です。
 
 
●二十世紀アニメの集大成?
 
質・量ともに世界一のアニメ大国、ニッポン。
一昔前と違い、人が一生かけても見きれないほど大量の作品が積み重なっています。
そんなわけで、新作アニメに、「どこかの作品で見たことがあるような」キャラや情景が散見されても不思議はありません。
 
『スクラップド・プリンセス』にも、想定の範囲内かどうかは不明ですが、過去のアニメ作品に似通った設定が見られます。
 
神の一種ピースメイカーの神罰執行形態は『ラーゼフォン』のムー側戦闘メカを彷彿とさせますし、セーネスたちが操縦する搭乗型兵器ギガスは、『エヴァンゲリオン』劇場版の、ダミープラグで動く量産型エヴァみたいな。
宙に浮くピースメイカーたちは『ああっ女神さまっ』、ゼフィルスとナタリィは『機動戦艦ナデシコ』のホシノルリか、『ゲートキーパーズ』の北条雪乃が浮いているといったところでしょうか。
 
今は失われた昔の科学文明の遺蹟を残している情景は、『未来少年コナン』。
超兵器メカ・ヴァンガード(スキッド)が堆積した土砂を払って起動する姿は、『ふしぎの海のナディア』の発掘戦艦N・ノーチラス郷の発進シーンを思わせます。
古代に人類滅亡の危機である戦いを経た歴史は、『風の谷のナウシカ』。
神々の世界支配に反乱を企てる設定は『もののけ姫』。エボシ御前にあたるのはペータシュタール将軍でしょうか。ドロドロ感覚の“中継点”はタタリ神のかたまりみたいに見えますね。
 
お話の骨格が比較的近いのは、『トライガン』でしょう。
過去の歴史に隠されたロストテクノロジー。
舞台となる星の環境を支配する、神々に等しいなんらかの存在。
その落し子であり、世界を破壊しかねないパワーを持って、一般市民に忌み嫌われる主人公。
その仇敵が用いる、人々を集団で心理制御し服従させる超能力。
平和を守り、正義を貫きながら必死で殺人を回避する主人公と、世界を破壊し文明をリセットするために、いかなる殺戮も平然として辞さない仇敵。
そして対決。仇敵を殺すべきか否か、ぎりぎりの選択が主人公に強いられます。
一緒に旅をするメインキャラが、女性二名プラス男性一名というのも、共通しますね。
メリルとパシフィカ。ミリーとラクウェル。そしてヴァッシュとシャノン。
ちょっと、似ているかも知れません。
 
知っていて似せたとか、そんな意味ではなく、それぞれの時代背景と、共通する因子を持った作品を比較してみると、また新たな楽しみが発見できるというものです。
 
 
●不運な放映タイミング
 
国産ファンタジーとして、ファンタジーの域をはるかに超えて、驚くべきシリアスなテーマを、深いリアリティで造形し尽くした『スクラップド・プリンセス』。
 
この作品が放映されたのは2003年。
 
しかしそれは、ある意味で不運なタイミングとも言えました。
2002年から2003年にかけて、個性的なTVアニメが続々と登場していたからです。
 
2002年は、同じWOWOWで上半期に『パタパタ飛行船の冒険』が(これも傑作でした!)、そして下半期には『オーバーマン キングゲイナー』がオンエアされていました。富野趣味が炸裂しまくった『キングゲイナー』の印象は強烈そのもの。第一話のお祭り感覚がそのまま「同じアホなら踊らにゃ損々」とばかりに盛り上がりっ放しで、最終回までシベリア超特急の如く突っ走る。こうも大陸的でおおらかなロボット作品が世に出たことには、大喝采です。余談ながら、全編が雪景色で、かき氷気分。真夏の熱帯夜に見るには最適の、暑気払いアニメとも言えるでしょう。
 
同じ2002年は、『最終兵器彼女』や『灰羽連盟』、さらに『ラーゼフォン』があり、いずれも独特の世界観をもって、大人の鑑賞にも耐える内容を誇りました。ただし、その世界の謎を解いてくれたかというと、さっぱりだったわけですが。
 
そして極めつけは、2002年秋から放映の『ガンダムSEED』。
2003年からの再放送も含めて大ヒットしましたね。
 
これが、どうも、まずかったような……
放映時期が重なった『スクラップド・プリンセス』は、本来浴びるべき脚光を、『SEED』に持っていかれてしまった感があります。
 
どうやら、『SEED』のド派手なロボットバトルと、キレまくり殺しまくる美形の少年少女キャラたちの方が、現代の視聴者の心をつかんだようです。戦争は“ありき”であり、結局、多くの人を殺すことでしか、物語の解決は訪れませんでした。
女性の主要キャラが、ためらわず人を殺戮していく場面にも、いささか戦慄させられました。物語のラスト近くで、恋人を殺された女性艦長が逆上して「ローエングリン、撃(て)ーっ!」と、敵どもを殲滅するに至っては、やはり肝に寒気が残ったものです。
 
もちろんアニメ作品としての歴史的な功績は確かですし、ファンの皆様に喧嘩を売るつもりもありませんが、私個人としては、ファーストガンダムに比べて、はるかに、結末に後味の悪さが残ったことも事実でした。
 
敵を殺す以外の方法で、解決することはできないのか。
これが、戦争を扱った幾多のアニメの、宿命的なテーマでした。
その問いに、『SEED』は逆説的かつ明確な回答を示してくれたようにも思えます。
「そう、殺す以外に解決はないんだよ」……と。
 
同じ時期、この国の現実社会では「キレまくる若者」が話題に上っていました。
 
『スクラップド・プリンセス』は、この問題に、最も真剣に取り組んだ作品と言ってよいかと思います。
主人公の少女パシフィカは、自分が殺されることでしか世のため人のために役立たない存在であることを自覚し、「私が世界を滅ぼすなら、お兄ちゃんの手で殺して」と頼んでいます。そこまで自己否定を強いられる、あまりにも儚い生を生きながら、それでもパシフィカは周囲の人々を変えていくのです。次々と自分を殺しに来た人々に復讐するどころか、まともな抵抗ひとつすることなく。
 
もちろん、その天真爛漫さで出会う人々に優しさをよみがえらせるパシフィカの存在は、それ自体が、現実にはありえない架空の存在。「単なるキレイゴト」と一言で片付けられれば、それまででしょう。
しかし、それだけで忘れ去ってはならない、何かがあるように思えてならないのです。
 
日本国憲法第九条のように、役に立たない理想論。
だけど、捨てて忘れたら、人間として、おしまいではないか。
そういうものが、『スクラップド・プリンセス』に秘められているようです。
「人は厳しくなくては生きていけない。しかし、優しくなければ、生きている資格がない」という格言の、“生きている資格”にあたる何かであると、思われてなりません。
 
 
●さらに現実との不幸な一致。対テロ戦争。
 
『スクラップド・プリンセス』。
この作品が放映された2003年は、米軍の対テロ戦争真っ只中。イラク侵攻が始まり、サダム・フセインが捕えられた時期にあたります。
国内外の世論も、為政者の思惑も、「大義だ国益だ同盟だ。自衛隊は軍隊だ」と、戦争推進で盛り上がっていました。戦争に反対する者はテロリスト支援者であるとばかりに糾弾されかねません。
 
そのような時期にオンエアされた『スクラップド・プリンセス』。
今にしてみれば、それは、誠に皮肉で、そして勇敢なアンチテーゼであったと思います。
というのは……
 
『スクラップド・プリンセス』は、ファンタジーの世界に置き換えられた、対テロ戦争そのものだったのですから。
 
物語の中核にある“廃棄王女”という設定を、現実社会にあてはめてみましょう。
 
「たったひとりの少女が、16歳になると世界を滅ぼす」という事象を、為政者の目から見ると、何になるでしょうか。
まったく、ぴったりの表現があるものです。
“大量破壊兵器”。
パシフィカ自身がいわば、マウゼル神が支配している世界を滅ぼしかねない“大量破壊兵器”そのものということになるのです。
この現代社会において、16歳の誕生日に爆発するようにタイマーを仕掛けた核爆弾を携帯した美少女テロリストが、街の中を歩いているようなものですね。
これはもう、美少女型巨大テロリズムとしか言いようがありません。
 
無垢の少女パシフィカに社会が与えた“廃棄王女”の烙印は、じつは、この現実社会にあてはめれば、「無実の少女に凶悪なテロリストの烙印を押す」ことにほかならないのです。
 
このような設定が現実だったなら、そんなテロリストを捕えて殺害するために、国家は軍隊の派遣も辞さないでしょう。(なにはともあれ、NYのツインタワーを崩壊させた首謀者ひとりを捕らえるために、アフガニスタン侵攻が始まり、そして五年が過ぎた今も、なぜかテロ首謀者は捕捉されず、対テロ戦争は“継続中”なのだそうですから)
 
『スクラップド・プリンセス』の中で、王国軍がパシフィカ殲滅のために使用する戦略魔法兵器“奈落”は、アフガンやイラクで使用された気化爆弾“デイジー・カッター”を彷彿とさせます。市民たちを呑み込む“中継点”のイメージは、劣化ウラン弾やクラスター爆弾でしょうか。
 
そして物語中で、シャノンやラクウェルが妹パシフィカを守るために殺した人の数よりも、桁違いに多くの人々を巻き添えにして殺しているのは、じつは正義をかかげる王国軍であり、教会であり、神々を称する勢力なのでありました。
(因みに、イラク戦争の一般市民も含めた死亡者数は、ウィキペディアによると2006年現在で65万人と推計されています。事実ならば東京大空襲にヒロシマ・ナガサキの直接犠牲者を加えた数に匹敵します)
 
ここで現実世界の対テロ戦争の是非を論じるつもりはありません。ただ、『スクラップド・プリンセス』が放映されているまさにその時、イラクで、“大量破壊兵器”の発見・奪取・破壊という(今となればフィクションだった)目的のために、途方もない軍事力が動き、一般市民を含めた多大な犠牲者を出していたという現実との一致は、大いなる皮肉と言うべきかもしれません。
 
『スクラップド・プリンセス』第2話のドイルの言葉。
「無力な人間をその手で殺せば、わかる。騎士道などというものはまやかしだ、この世に絶対たるべき正義なんて、ない」
 
そして第23話の、レオの言葉。
「だれもが信じられる正義はきっとあるって、ずっと思っていたんです。でも、もしかしたら、そんなものはないのかもしれないって、思うようになりました。もし僕が、王国やマウゼル教の正義を信じたら、それはパシフィカさんにとっての正義じゃなくなっちゃうんです」
 
第10話、マウゼル教の異教検察官ベルケンスの言葉。
「本当はな、マウゼルもブラウニンも、無くったっていいんだ。だが、何かを信じなきゃ生きていけないってのも、しょうがないと思う。でなきゃ、生きていくのはしんどすぎるからな。だが、自分の信じるものと違うものを信じているから潰す、ってのはおかしいだろ」
 
2003年3月20日からイラクへ攻め込んだ米軍が自由と正義を旗印に破竹の進撃を続けているまさにその時、4月8日から『スクラップド・プリンセス』の放映が始まりました。米軍がバグダッドを占領し、戦闘終結宣言を出したのが5月1日。イラクが長い内戦の泥沼に踏み込んだその時期に、それらのセリフが語られています。
 
そしてまた、教会の託宣を疑うことなく、“廃棄王女”を抹殺すべし……と、群がってパシフィカを殺しにくる、あるいは、パシフィカの力を恐れて遠巻きにする一般市民たちの姿は、当時の現実の私たちと、よく似ていました。
 
そうです。思い出されますね。
2004年に、イラクで邦人の人質事件が相次いだときのことです。
このとき、なぜか「自己責任」という言葉が、人質とその家族に対して集中しました。
 
理由や背景はどうあれ、犯罪者ではない合法の市民です。それが、異国で不法に拉致され殺されかかっている。そんな、悲惨な立場の同胞に対する情けも容赦もなく、私たちは「自己責任だから仕方ないじゃん」……と、切り捨ててしまった。それ自体は事実として、認めないわけにはいきますまい。
 
いやはや、もしも人質になった人が、有力政治家とか高級公務員や富豪の血縁者とか、あるいは有名な美少年・美少女タレントだったりしたら、どう言ったことやら。
 
そのことを自問すらせず、「私たちは悪くない。あんたが悪いんだよ」とばかりに「自己責任」の言葉を大合唱したとき、この国の私たちは、戦後ずっと培ってきたかけがえのない大切な何かを、あっさりとドブに捨ててしまったのではないかと思います。
 
『スクラップド・プリンセス』では、のっけから、そんな現実の私たちと同じ人々が、さりげなく登場します。
そもそも第1話で、パシフィカを騙して教会へ引き渡したおばさんが、裏切られて悲しむパシフィカに投げ付けた言葉がそうです。
「あんたが悪いんだよ!」
 
一年後に「自己責任!」を合唱する現実の大衆の姿が、すでに『スクラップド・プリンセス』の中に映されていたのです。
 
苦しい立場に置かれた弱者に投げ付ける「自己責任」という言葉は、問題の解決に背を向けた、恐るべき現実逃避の呪文です。どうにかして救えないか、という救済への思考を元から断って、「死ね」と宣告するに等しいのですから。むしろ、救済のために何もしないで済ませる詭弁として、「自己責任」という呪文はとても便利だったというべきかもしれません。
 
『スクラップド・プリンセス』は、現実の対テロ戦争が巻きおこした数々の不幸を見事に予見していました。ある意味、予言の書と言えなくもありません。マウゼル神によるグレンデルの託宣は、現実のイラク戦争とその後の私たちに向けられていたかのようです。
 
おそらく、対テロ戦争との時期的一致は、『すてプリ』にとって不幸な巡り合わせだったに違いありません。
主人公パシフィカたちは、公権力から追われる立場。『すてプリ』は、最終話で王国軍のスレイによって「反逆者め!」と吐き捨てられる人々の側に立ったお話なのです。
社会から、最も危険なテロリストと目される少女が主人公。
お話の中で、冷酷にパシフィカを追い詰め、幾多の民間人を犠牲にしてためらうことのないペータシュタール将軍、ルーク・スターム少佐、スレイ伍長の姿を、現実の対テロ戦争に重ねてみると、なんとも複雑な気分になります。
加えて、パシフィカに憎悪と侮蔑を浴びせる一般市民たち。
 
視聴者にとって、自らのありようを問われる番組は、どこか居心地が良くないものです。本当に善い作品ほど良心の痛みをともなうものであり、消し去れない大切なものが心に残るのですが、そのような作品を苦手とする人もまた多いのです。
この種のアニメに、きゃぴきゃぴの楽しさやヲタク萌へだけを望む人々は、理解できないといった顔つきで、一歩引いてしまうことでしょう。
それが当時の『すてプリ』の、悲しい宿命だったのではないか。そう思います。
 
しかし、それでも、さすが! と思うのは……
『スクラップド・プリンセス』は、あの悲惨な対テロ戦争の現実を背景にしながら、誠実に、そして真面目に、回答を模索したということです。
 
 
●ああ捨てるまじ、『すてプリ』のスピリットを。
 
『スクラップド・プリンセス』は、あまりにも、その時代の私たちの姿を、ぴったりと言いあてていました。
しかも、それだけで終わるのでなく、時代の濁流に逆らうスピリットも示してくれたと思います。
 
24話にわたるパシフィカの旅は、いったい何のための旅だったのでしょうか。
物語はこの問いに、明快な回答を示しています。
「信頼できる友を得る旅」だったのだと。
 
逃避行を続けるパシフィカの前に現われる人間は、まず百%、「あんたが悪いんだよ!」と言って殺しにかかるか、官憲に通報する者たちです。
パシフィカが本当に世界を滅ぼす力を持っているのか否か、それを確かめることなく、「本人が悪いんだから殺されて当然」と、敵意をもって襲いかかる人々。
 
パシフィカを守って戦わざるをえないシャノンとラクウェルの人間不信は、さぞや強烈なものになったと想像されます。
 
シャノンとラクウェルは、第1話からそのような群衆を撃退します。当初は殺さずに。
しかし、人知を超えた敵ピースメイカーが登場し、火力を備えたドラグーンを駆る能力を身につけたシャノンの戦いは、直接間接に、人命を巻き込んでいったはずです。
 
襲いかかる力があまりにも強大になり、攻撃を跳ね返すだけで一般市民に犠牲を強いてしまう。
現実の戦争や地域紛争と同じ、恐怖のジレンマを、シャノンは抱えてしまいます。
 
このジレンマは、パシフィカも同じです。
自分が生きている、それだけのことで、多くの人が殺される。
人々が殺されることで、より多くの憎しみが生まれ、増幅して“廃棄王女”に襲いかかってくる……
出会うものすべてが敵。
そのような状況でありながら……
不思議なことが起こります。
 
パシフィカはその魅力と純真さで、友達を得ていくのです。
行きずりの少女が、一目惚れした少年が、付け狙ってきた暗殺者までもが……
ウィニアが、スィンが、エルフィティーネが、レオが、フューレが、ドイルが、ベルケンスが、キダーフが、そしてクリスやセーネスが……
パシフィカと出会い、別れ、あるいは再会する中で、敵すら味方になり、心許せる親友になっていく。ラクウェルの魔法でも不可能な、奇跡のような幸せを、パシフィカは行く先々で、大切にこしらえていくのです。
 
現実の社会でいじめに遭っている孤独な女の子が、そんなパシフィカを見たならば、心の傷がどこか癒され、苦痛が和らぐ思いがするのではないでしょうか。
そんな、救済の福音が、このお話にちりばめられています。
 
現実には起こりえないキレイゴト。
しかしそれでも、見た人のココロを少しでも洗ってくれるかもしれない、そんな小さな奇跡を、たしかにパシフィカはもたらしてくれるのです。
 
孤独だった女の子が、友達を作る物語。
こうした作品は、今に始まったものではありません。
『小公女』『秘密の花園』『赤毛のアン』『ペリーヌ物語』といった世界名作だけでなく、国産の『キャンディ・キャンディ』あたりは、その極みとも言えるでしょう。
かつて、1970年代に、日本の少女漫画がめざした王道を、『すてプリ』は21世紀に再び歩み直しているのです。
 
なぜ、パシフィカは友達を作ろうとするのでしょうか。
何もないところから、友情を紡ぎだす、魔法を超えたスピリットの源泉とは……
その答えは、パシフィカ自身が、第11話で、エイローテに語っています。
「世界中が敵に回ったって、たったひとりの味方がいるだけで、生きていこうって思えるもの」
 
このようなパシフィカに触れて、仲間たちは変わっていきます。
物語の始まりと終わりとでは、パシフィカ自身はもちろん、多くの大人たちまでもが、その生き方を変えていきます。
孤独から友情へ、無情から慈愛へ、絶望から希望へと。
それこそが、登場人物が「生きている」証でしょう。
 
ですから……
この作品はまた、私たちの、どうしようもない現実と戦うお話でもあるのです。
たとえ、キレイゴトとして終わったとしても……
殺伐とした21世紀にこそ、捨ててはならないと思います。
『すてプリ』のスピリットを。
 
 
●そして、世界を滅ぼす猛毒の正体
 
回を追うごとに、パシフィカの置かれた環境は厳しくなっていきますが、一方で、危険を冒してでも彼女を守ろうとする味方も数を増していきます。
とくに、クリスやセーネスの一派がパシフィカを中心としてまとまり、第22話で山中に立てこもるに至っては、豪傑が集う梁山泊の様相を呈してきます。
しかもそれは、れっきとしたゲリラ軍であり、抵抗勢力。
昨今に言うテロリスト集団に他なりません。
その存在を放置すると、国家の権威がゆらぎます。
 
ペータシュタール将軍、ルーク・スターム大佐、スレイ伍長の悪役トリオは、陸上戦艦コロッサスの大群を差し向けて、パシフィカたちの殲滅に取り掛かります。
将軍は「一刻も早く廃棄王女を殺して、その命を神に差し出すのだ」といったことを命じますが、物事はもう、それで済む段階を超えてしまったことは明らかです。
 
たとえ十六歳の誕生日前にパシフィカを殺すことができたとしても、悪役トリオがクリスやセーネスたちを許して無罪放免するとは思えません。
悪役トリオの腹の中では、最初から、国家に反逆するクリスたちを一人として生きて帰すつもりはないでしょう。果ては、ギアット帝国との全面戦争というシナリオです。
 
廃棄王女が死んでも、殺戮の地獄は続くのです。
 
これまでパシフィカが口癖のように述懐してきた「私さえ死んだら、すべて終わるのに」は、もはや通用しません。事実、最終話では、王国軍がパシフィカの生死を問題にせず、クリスの仲間たちやエイローテたちに襲いかかっていくのですから。
 
戦いの本来の目的はどこかへ消し飛び、ただ憎しみゆえの殺戮が支配する戦場へと、状況が急展開してしまうのです。
パシフィカにとっては、およそ想定外の事態だったはずです。
 
ここで考えてみましょう。
パシフィカは、十六歳になったら“世界を滅ぼす猛毒”となるとされていました。
しかし、彼女が猛毒になる前に……
戦略魔法の“奈落”が使われ、神罰執行形態となったピースメイカーが王都を焼き、そしてコロッサスの砲撃が始まって……と、殺戮の嵐が巻き起こっているのです。
 
“廃棄王女”のお世話にならなくても、世界はすでにどっぷりと、滅びの猛毒に侵されてしまったと言って差し支えないでしょう。
 
猛毒とは何か。
『スクラップド・プリンセス』の最大の謎が、そこに凝縮していると思います。
 
パシフィカが世界を滅ぼす猛毒であるかどうか、じつはそれは、問題ではなかった。
本当の猛毒は、別なところにあったことを、物語は明らかにしてくれました。
 
ただの少女が世界を滅ぼす猛毒であるという託宣を、疑いもせず信じて殺戮に走る、愚かしい人の心。……それこそ、世界を何度でも滅ぼせる、真の猛毒であったのだと。
 
自らの意志で考えようとせず、何者かに操られて喜び、弱き者に群がって叩きのめすことが正義だと錯覚する心こそが、世界を滅ぼす猛毒なのです。
 
さて、そう考えると……
パシフィカの宿敵を演じたペータシュタール将軍、ルーク・スターム大佐、スレイ伍長の悪役トリオこそ、このお話の全編を通じて、“猛毒”の代表選手であったといえるでしょう。
 
そこで、さすが! と拍手したくなるのは……
普通のお話だと、途中で死んで成敗されても仕方がなさそうな悪役トリオが、とうとう最後まで生き残ってしまうことです。
新入局員だったころのレプカ(未来少年コナン)みたいな風貌のスレイなんか、視聴者の立場からみればフューレの仇、お話の途中で殺されてもよさそうですね。またスターム大佐も、配下のクリスたちがみんなまとめて軍を脱走したときに、ばっさりクビを切られていても不思議はありません。それに、王様を見捨てて自分だけ軍を掌握したペータシュタール将軍だって、クーデターの首謀者そのもの。戦後は絞首刑ものですね。
 
にもかかわらず、悪役トリオはしたたかに、かつ幸運にも生き残ってしまいます。
なぜでしょう?
“猛毒”は人の心の問題。罪を憎んで人を憎まず。そういう考え方もありますね。
あるいは、「悪は滅びない」という意味だったのかもしれません。こういう悪党は殺しても無駄。次々に現れるよ、ということなのかもしれません。
 
あるいは、第23話でシャノンが言う「生きることが我侭だなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるか」に、パシフィカが問い掛ける「それがどんな犯罪者でも?」に通じることなのかもしれませんね。
最終話で、花の種を渡すスターム大佐、受け取る将軍の心に、ひとすじの悔悛が生まれた……と信じよう、と作者は語っているかのようです。
 
ともあれ悪役は死なず、かといって心を入れ替えたとも限らない状態で、お話は終わります。これもなかなか希有なる結末。いろいろと考えさせられますね。
 
 
●マウゼルの真意とは? その迷いと決断
 
さて、ここからはお話の内幕に関わることですので、アニメを最終話までご覧になっていない人は、お読みにならない方がいいかもしれません。
 
それでは、パシフィカ自身は、世界を滅ぼす猛毒ではなかったのでしょうか。
猛毒であるからこそ抹殺すべし、というのが、15年前のマウゼル神の託宣でした。
しかし、第22話・24話で登場したマウゼル神(シリア)は、パシフィカに天罰を下そうとはしません。
 
むしろ逆に、パシフィカを対等な立場に置いて、相談すら持ち掛けます。
あなたは、この世界と人類を、どうしたいと思うのか……と。
 
パシフィカを敵視するどころか、頼りにし、未来の選択を委ねようとするのです。
 
これは、少しおかしなことですね。つじつまが合わない。
だって、シリア・マウゼルは部下のピースメイカーたちには「人類を操ってパシフィカを滅ぼすべし」といったことを命じているのです。ピースメイカーは、予備役状態だったシーズまで動員して、総力戦でパシフィカ殲滅に乗り出しました。
なのに、シリア本人は、最終話でパシフィカをやさしく迎え、むしろ頼りにすらするのです。シリア・マウゼルは最初から、パシフィカを積極的に殺す意志はなかったと考えてよさそうですね。
 
原作の文庫では、きっと説明されていることなのでしょう。が、残念ながら私は読んでいないものですから、勝手に憶測することにします。
 
シリア・マウゼルにとって、パシフィカは何だったのでしょうか。
二人は外見がよく似ており、またそれぞれの弟妹と兄姉もそっくりの遺伝形質を持っているようです。
マウゼルは、閉ざされた世界に“封棄”された人類の上に神として君臨し、その託宣をもって人類の行動を管理する役割を担っていました。
そして、パシフィカたちの訪れを待っていました。
五千年の時を経て再び現れる、世界管理者と同じ遺伝形質の者たちを。
 
シリア・マウゼルは神として、封棄世界の人類を管理するシステムでした。
しかし、いかなるシステムもそうであるように、永遠不変の支配というものは、不可能です。形あるものは、いずれ壊れる。壊れたときに、物事をより悪くする。
ですから、封棄世界のシステムは、最初から永遠不変の支配を目的としたものではありませんでした。
いずれ、システムは見直され、リニューアルされるものだ。
そう定められていたのです。じつに合理的な考え方でした。
 
おそらくパシフィカたちは、世界管理の中核システムであるマウゼル自身の、代替品ではなかったかと思われます。
“封棄世界”のシステムは、永遠に同じやり方で人類を管理し続けるのではなく、五千年をひとつの区切りとして、システムの更新を予定していたのでしょう。
人類の管理に致命的な問題があるか、あるいは管理システムに大きな変更が必要となったら、人類を滅ぼして世界を終了するもよし、あるいは、人類を封棄世界から解放して、無限の自由を与えてもよし……といったところでしょう。
 
また、そのときにマウゼル自身になにか問題があって、正しい決断を下せないような場合に備えて、マウゼルに代わって決定を下すことのできる代替システムが用意されることになっていたとしても、不思議はありません。
 
それが。パシフィカだった、と考えられます。
 
しかし、世界の行く末をパシフィカに任せるとしても、本当にそうしてよいのか……
ここで客観的に、人類の行く末を判断するための基準がなくては困りますね。
 
その基準とは、「人類自身が、自分たちの未来を、自分たちの力で考え、判断できること」でした。
みずから自立して、みずからの責任で判断し、将来を選択できる能力が人類に備わっていたならば、封棄世界から解放するもよしとしよう。
そうマウゼルは考えたのでしょう。
 
さて、それでは、人類がその基準を満たしているのかを計測する“試金石”が必要になります。
そうですね。パシフィカは、その“試金石”としても使われたのです。
 
マウゼルは託宣を下しました。
人類よ、廃棄王女パシフィカを抹殺せよと。
じつは猛毒などではないのに、廃棄すべき猛毒としたのです。
 
なんともはや、じつに効率的なやり方でした。
ここでまず、二つのケースが想定されます。
 
(1)神の託宣を鵜呑みにした人類は、期限の十六歳になるまでに、パシフィカを抹殺してしまった。これは、人類がまだ、神の託宣に依存しきっているしるしであり、自らの責任で判断する力が備わっていないからだと考えられる。
この場合、人類を管理するマウゼルのシステムは、旧来のまま継続。
 
(2)人類の一部が神の託宣に反しても、自分自身で判断し、パシフィカを救った。パシフィカを期限の十六歳になるまで守り抜いたとき、人類には、みずからの責任で決意し、未来へと歩んでいく能力が備わったと判断することができる。
この場合、マウゼルは引退消滅し、パシフィカの意志に未来が委ねられる。人類を解放してもよし、あるいは滅ぼしてもよし。
 
“試金石”としてのパシフィカの役割は、そういうことだったのでしょう。
 
しかし、想定されるのは(1)と(2)だけではありませんね。少し考えると、第3のケースがあることに気付かされます。
 
(3)人類の一部がパシフィカを守った。しかし、期限の十六歳を迎えるまさにそのときに、パシフィカは殺され絶命した。定められた期限の前とも後ともいえない。
 
という、ボーダーラインぎりぎりのケースです。
さあ困った、というところでしょう。
普通、これは判断に迷います。マウゼルは引退してよいのやら、それとも続投すべきなのか。選挙の結果、与野党が伯仲したどこかの国の総理みたいに、進退きわまることになりかねません。
 
しかしそこはさすがに、神なるマウゼル。
ちゃんと事態を想定して、手を打っております。
 
判断に困るボーダーライン上でパシフィカが絶命した場合、時間の進行を止めて、パシフィカの絶命をいったん棚上げにする。
そのうえで、対等な関係で、パシフィカに真意をただす。
ただし、最終決定権はパシフィカでなく自分にある。
(たとえ、最終決定権をパシフィカに与えたとしても、それは神たる私・マウゼル自身の決断である)
 
マウゼルは、そのように考え、手はずを整えていたのでしょう。
そして事前準備として、第22話で、ボーダーラインの時間帯に入ったパシフィカに、あらかじめ、自分の姿を見せ、話しかけたのではないか。
 
ぎりぎりの時間帯で絶命した場合、いったん救うべき価値のある少女であるか否か、それを自分の目で確認しておくために……。
 
確認しておいてよかったというものです。
はからずも、(3)のケースに該当してしまったのですから。
 
余談ながら、最終話でマウゼルはパシフィカの肉体を、「140150時間使われた」と説明しますが、これは、16歳になるまであと10時間足りなかったという、同じマウゼルの言葉と一致します。
ただし、一年は365日で換算されていて、四年に一度のうるう年による日数の増加を計算していません。つまり、マウゼルが管理するこの世界は、うるう年が発生しない、人工的な暦で時が経過する世界であることが推測されますね。
さてそれでは、日が替わる十時間前、すなわち午後二時に、戦闘の現場では「日没」を迎えて陸上戦艦が砲撃を始めたことになります。
午後二時で日没。
北極圏に近いフィンランドの真冬なみの日没時間ということになります。パシフィカたちの世界は、かなりの高緯度地帯に位置していたことが察せられますね。
 
 
さて、パシフィカの死をいったん棚上げしたマウゼルは、自ら判断してパシフィカの肉体を再生し、パシフィカの意志を確かめて、人類自身に、再び人類の未来を委ねることにしました。
五千年の重荷を降ろすことができて、さぞやマウゼルは、ほっとしたことでしょう。
やれやれ、お疲れ様でした……と申し上げたいものです。
 
さてそれでは、フォルシスまで、ついでみたいに助かったのはなぜでしょう。
こう申しては失礼ですが、“ついで”としか見えません。
勝手にああなってしまったフォルシスまで救命する義理は、マウゼルにはないのです。
まあしかし、そこはそれ、例によってパシフィカは得意のワガママを通したものと思われます。きっとマウゼルに、「あの人も助けてくれなきゃやだ!」とただをこねたのでありましょう。
「はいはい、困った人ですねえ」とマウゼルが言ったか、言わなかったか……
 
ややご都合主義の感がなきにしもあらずですが、だとしても、見事な結末でした。
なんといっても、封棄世界から人類を解放する条件とは「人類がみずからの責任で考え決定すること」。
それこそが『スクラップド・プリンセス』のテーマだったのですから。
 
自分の責任で、自分の人生を考え、自分で決めて進んでいますか?
 
各話で毎回のごとく、このテーマが語られています。
とくに、パシフィカの友達になることを選んだ人たちは、みんな、自分の意志でそうすることを決めていますね。街の人々がみなパシフィカを嫌悪する中で、ウィニアひとりが馬車のパシフィカへ走り寄る、第4話のあの場面なんか、絶対にそうです。
 
『スクラップド・プリンセス』のお話が、主人公パシフィカやその他の登場人物に問い、そして視聴者の私たちに問い掛けていた、最終的なテーマが、それでした。
 
わかりやすいテーマですが、当時、対テロ戦争の嵐に翻弄されていた私たちは、果たしてどうだったでしょうか。少なくとも、イラク戦争の「大義」の要であり、多くの人が「ある」と信じていた大量破壊兵器は、なかったのですよ。パシフィカが結局のところ、世間が言う「猛毒」ではなかったのと同じように。まことに皮肉なことです。
 
『スクラップド・プリンセス』は、このテーマをきちんと、結末まで貫きました。
なにしろ、なんと世界最強のマウゼル自身が最後に、パシフィカに相談することで、「みずからの責任で考え決定する」ことを、率先垂範で実行させられるはめになってしまった……というわけなのですから。
 
いや、とにかくよかった。めでたしめでたし。予定調和もなんのその、です。
 
 
●対比の美学。シニカルなシンメトリー。
 
さて、いささか余談ですが、『スクラップド・プリンセス』の演出のおもしろさは、「似たもの同士の対比」を巧みに織り込んでいることです。
相似する事象をふたつ、並べたときの美しさ。シンメトリー。そしてそれらは、ちょっと切なさの混じった、人生の皮肉といったニュアンスが漂っていたりします。
目立つ例を拾ってみましょう。
 
印象に残っているパシフィカのセリフ。
「およこしっ!」
これは第1話で兄シャノンの団子を奪おうとして、そして第18話でフューレから煮卵を奪おうとして手を出すシーンに共通していますね。シャノンとフューレに、同じレベルで甘えているパシフィカの感情を、微笑ましく伝えてくれました。
 
次に、最終話の予定調和な大団円で姿を見せるウィニア。馬車の中でクリスに寄り添って編み物をする様子は、どうやらおめでたのようです。
で、直後の場面でパシフィカがどたばたしているのは、愛馬ドラグノフのおめでた。
その相手が、第2話で言い寄っていたレオの馬であることは疑いもありませんが……
そこへさらに、パシフィカに対する、レオの出直しプロポーズも重なります。
愛する者、愛される者。
人と馬、どっちもそれなりに、幸せな結末。新しい生命の誕生を予感させて、明るい幕引きと相成りました。よかったね。
 
「対比」の美学で、ほろりとさせられるのは、パシフィカがスィンにあげた左耳の耳飾りと、パシフィカがフューレから預かった銭湯の下足札
いずれも、幸せだった過去の記憶がこもった品として、切ないけれど心憎いまでの、素敵な演出がなされていました。耳飾りは、冷酷なシーズによみがえった、シャノンへの感謝を。下足札は、パシフィカが仲むつまじく連れ添ったフューレへの儚い思慕を象徴していましたね。
耳飾りはともかく、一枚の下足札に、ここまで美しい意味をこめられたのは、天才の演出ではないかと。ある意味、奇蹟を見る思いがしました。
 
ほろりとさせられる対比のもうひとつは、シーズとゼフィリスです。
シャノンをめぐる二人の関係。これは悲恋以外のなにものでもありません。
 
まず、第7話でシャノンについていくスィンの姿と、第17話あたりでシャノンについていくシーズの姿。どちらも雨のシーンで、二人の間をとりもつ絆の品は、傘です。
同じひとつの傘に入るほど二人の距離は近いのに、シャノンとシーズの心の距離は大きく開いています。しかしそれでも、何かを思い出そうとするかのように、シーズはシャノンにつきまといます。シャノンを監視するという理由は建前で、本心(無意識かもしれませんが)は、シャノンとデートしたいのですね。
ピースメイカーのシーズは、シャノンを意のままに操る力があります。なのに、その力をあえて使うことなく、シャノンに嫌われても、黙ってついていくのです。シーズ自身は認めないでしょうが、心の奥底ではシャノンにめろめろ。
本心はいっそ、『うる星やつら』のラムみたいに「ダーリンだっちゃ!」と抱きつきたいところでしょうが、立場がそれを許しません。かわって出た言葉が……
 
「濡れて体熱が低下しているぞ……」と、シャノンの体調を気遣うシーズ。
ここでシーズに対比してイメージされるのは、ゼフィリスですね。
疲れ切ったシャノンに「せめて睡眠をとってくれ」と案じるゼフィリス。
その前、第16話で、「私は望んであなたのそばにいる。義務でも使命でもない」というのは、完全にプロポーズですね。そっけないですが、けっこうオトナの愛情表現。お互いの立場が邪魔して、なれなれなしいタメ口というわけにはいきません。しかし内心は、それぞれなりに、シャノンを純愛しているのです。
 
こう考えると、シーズとゼフィリスの関係が、シャノンをめぐる三角関係であることが、明らかになります。
思えば、第7話のラストで、「スィンを殺せ」と、ゼフィリスがパシフィカに渡すナイフ。
あれは、スィンがピースメイカーになるという恐れもありますが、その心の内側には、ゼフィリスなりの、激しい嫉妬心が隠されていたとみることもできるでしょう。
なんといっても、五千年ぶりにようやくめぐりあった“主”の心を、あろうことかハナ垂れガキのピースメイカー(しかも五千年前の裏切り者という宿敵)に奪われたのですから。その嫉妬はパシフィカに劣らぬものがあるはずです。
ゼフィリスのことですから、感情は表に出しませんが、スィンへの殺意をあらわにするあたり、その嫉妬心は冷たくもメラメラと、将来のシーズに向けられていたのですね。
 
一方、シャノンを愛するシーズ。しかし、いざ戦いとなると、神罰執行形態になったシーズは恋心などなんのその、ドラグーンとなったシャノンに、情け容赦のない攻撃を仕掛けます。
どうして?
と、疑問に思うべきでしょう。が、シャノンを攻撃するシーズの思いを推し量ると、本当に無理からぬ事情が……。
 
だって、ドラグーンはシャノンとゼフィリスが“合体”したものですから。愛する“主”と肉体も精神も合一して、一緒に命をかけて戦う。生きる武器たるゼフィリスにとって、これこそ生の絶頂なのです。死んでも幸せ!
そんな状態を見せつけられるシーズにとって、ここで嫉妬に燃えずにおれましょうか。
身も心も狂わせても、二人を引き剥がしたい!
いたいけな子供だった私を殺すために、パシフィカにナイフを渡したあのキョンシー風の短足背後霊、ブッ殺しちゃる! それくらい怒っても不思議はありません。
王都上空で、そして聖都上空で、シーズはドラグーンに嫉妬の殺意をぶつけます。
 
しかし、悲しいことに……
シーズはシャノンを殺すことができせん。それに、シャノンはゼフィリスの方を、戦いの伴侶として選んでいるのですから、たとえゼフィリスだけを殺すことができたとしても、シャノンを悲しませ、憎まれるだけ……
絶望の淵に立ったシーズの最期の選択は、シャノンが放った一撃の前に、みずからの身をさらすことでした。
シーズの悲恋は、このお話のサイドストーリーの中でも、とりわけ心に染みるエピソードになったことでしょう。
 
このように、名優乱舞する『スクラップド・プリンセス』ですが、全編でピカイチの、魅惑のキャラクターは、どうやらゼフィリスであると言えそうです。
なんといっても、五千年の時を超えた純愛を貫き通したのですから。第20話で、ついに“主”シャノンの信頼をかちえたとき、目をうるませてシャノンの額にキスする彼女の清らかさは、尋常ではありませんぞ!
 
そして、最終話でチラリと見せる割烹着姿。もう、これだけで、他の全部のキャラクターを食ってしまった感があります。
そう、割烹着を着たゼフィリスの気分は主婦。もちろんご主人はシャノンですね。
人間と同じ夫婦関係は無理でも、ゼフィリスはもうシャノンを放しはしないでしょう。
とはいえ……
セーネスもシャノンに対して所有欲を燃やしていますし、シャノン自身は妹パシフィカへの愛を残しています。
少なくともシャノンに関しては、もろもろの問題は解決されたとは言えず、これからも悩み多き茨の道が待っていることでしょう。
 
敵ボドルザーをようやく殲滅しても、男女の三角関係だけはしっかり残ってしまった『超時空要塞マクロス』のように……
 
 
さて話題を戻して、全編を通じて最も重厚な対比をなしていたのは……
 
ふたつの家族です。
 
パシフィカたちカスール一家の、あたたかさ。亡くなった父と母が、三人の兄姉妹をこよなく愛していた、懐かしい記憶。里子であるパシフィカも、わけへだてなく育てられたことが、時折の回想シーンから察せられます。
 
そしてパシフィカと兄シャノン、姉ラクウェルの固い固い絆。互いを思いやる心と、かけがえのなさ。最終話で瀕死のパシフィカを抱くラクウェルが、敵であるマウゼル神のシンボルを仰ぎ見て「マウゼルの神様、パシフィカをお許し下さい!」と絶叫する姿は、もう、涙なくして見られません。
 
対して、悲惨なのがラインヴァン王の一家。家族への信頼を捨ててマウゼルの託宣を信じきったために、娘の殺害を命じ、妻たる王妃も、そして息子までも悲劇の渦中へ追いやり、パシフィカへの恐怖のままに国民を殺戮し、そして自らも果ててゆく狂王の悲劇が、余すことなく描かれています。
とくに、臣民を救うためと信じて、実の妹に凶刃をふるう兄フォルシスは、このとき、パシフィカと同じ善意に立ちながら、パシフィカと正反対の人生を選択するという、すさまじい対比をなしているのです。
もしも自分が本当に猛毒だとしても、それでも生きたい……と願い、その上で、フォルシスに会う決意をしたパシフィカ。対して、自らを殺しても、正義に殉じたいと願ったフォルシス。シェイクスピアの悲劇を思わせる、悲しくも格調高いクライマックスです。
 
どちらの家族も、現実世界に似たようなケースが実在しても不思議ではありません。
この二つの家族の対比こそ、「愛と絆と信頼」を正面から描き上げた『スクラップド・プリンセス』の真骨頂ではないでしょうか。
ただただ見事、と申し上げるしかありません。
 
蛇足ですが、パシフィカ、兄シャノン、姉ラクウェルの三人と、シリア・マウゼルとその弟・妹の三人も、五千年の歴史をはさんで、美しいシンメトリーを見せていました。
なんとこの三人、声優さんも一緒なんですね。最終話でのパシフィカとシリアのやりとりなど、まさに声の妙技。
また、スィンとシーズも同じ声優さんですし、回を追うごとに早口化してゆく予告編など、声のアクロバットという感じ。聞き所満載の『すてプリ』です。
 
 
●とはいえ、この謎はなんとかしてほしい。積み残された託宣。
 
ということで、手放し絶賛の『スクラップド・プリンセス』ですが、気になることがひとつあります。
 
グレンデルの託宣ですね。
 
第3話でクリスがウィニアに告げたように、託宣は年一回あるのです。
ならば、パシフィカを“廃棄王女”と断じた託宣の後も、年に一度の託宣が続いてきたはず。
パシフィカは15歳。ということは、以降15回もの託宣がなされてきたはずです。
いったい、どのような託宣をマウゼル神は下してきたのでしょうか。
 
これは問題です。託宣のおかげで国王をはじめ国をあげて廃棄王女の抹殺に動いているのですから、その後の託宣の内容いかんによって、政治も大きく変化するはずです。グレンデルの託宣はそれだけの権威があって、その権威あればこそ、教会が存続しているのですから。
 
そう考えると、作品中では空白になっている15回の託宣は、たいしたことのない、語るに足らぬ内容であるはずがありません。
それなりに、重要なことが語られているはずなのです。
 
ですから、ついに“奈落”を使って王都が損害を受けるとか、ピースメイカーによって大変な数の死者が出るような事件は、ある程度、託宣で予言されていてもいいはずなのです。なのに、ペータシュタール将軍たちは話題にしません。
 
また、作品中で、神の使いピースメイカーと枢機卿はわりと頻繁に接触しているのに、そのときに“最近の託宣”について話題にされていないのは、いささか不自然。
「この前にも託宣で言われたであろう……」みたいな話が、ピースメイカーから出てもいいはずです。
パシフィカたちが置かれる環境に大きく影響するだけに、15回の託宣の空白は、なんらかの形でフォローしてほしかったものです。
原作の文庫では語られているのかもしれませんが……
 
一つの仮説としては、パシフィカを廃棄王女とした託宣のあと、グレンデルの託宣がストップし、マウゼル神の御本尊がうんともすんとも言わなくなった……という事態が考えられます。
託宣なし。不安にあおられる枢機卿と国王。
グレンデルの託宣がないと、国政が混乱するだけでなく、教会の権威が失墜します。
もともと、託宣があっても、自分たちの欲望のままに曲解して伝えることで、教会の権力拡大をはかる傾向のあった枢機卿たちですから、託宣がなくなってしまうのは、個人的にも具合の悪いことになります。
そこで、毎年の託宣を聖職者に演じさせ、託宣があったことにしているのかもしれませんね。……昨今はやりの“捏造”ですな。
これが、ペータシュタール将軍なんかにばれたら、それを口実に、どんな攻撃を受けることになるのかわかりません。
そんな状況なものだから、教会の権威を持続するためには、ひたすら廃棄王女の抹殺を叫び、世の中に起こる不幸な出来事や、教会に都合の悪い出来事はみな廃棄王女のせいにしてしまうことになったのではないか……
 
そういう設定も、あり得ると思うのですが。
 
 
●いつか、劇場で……
 
繰り返し見れば見るほどに、深みを増す名作『スクラップド・プリンセス』。
放映後四年、このまま忘れ去られるのは、忍びないものがあります。
 
今からでも遅くないから、アニメのムック本を出していただきたい。
今からでも遅くないから、劇場版にお会いしたい。
今からでも遅くないから……
 
カムバック、スクラップド・プリンセス!
 
 
【ここから20070915追加】
 
●すり替えて通りすぎた危機。そして『メトロポリス』の悲劇。
 
とはいえ……
『スクラップド・プリンセス』には、それでもやはり、何か物足りないという印象が拭えません。
物語の結末のつけ方そのものが、どこかしっくりいかず、納得できないのです。
繰り返し作品を見直してみて、わかりました。
 
そもそも、主人公のパシフィカが物語のラストに直面すべき問題は、第1話から、はっきりと呈示されていましたね。
「私は十六歳になったとき、世界を滅ぼす猛毒なんだ……」と。
 
ならば、パシフィカが十六歳になって、“世界を滅ぼす猛毒”となったとき、世界はどうなるのでしょうか。シャノンやラクウェルはどうするのか、そしてパシフィカ自身は、どうなってしまうのか……
視聴者である私たちは、そのことをずっと気に掛けて、心配しながら、主人公たちとともに旅を続けてきました。
 
しかし、ラストで明らかになったのは……
「パシフィカは実は、世界を滅ぼす猛毒ではなかった」という結論でした。
まあ、たしかに世界を滅ぼすほどの力と決定権がパシフィカに与えられていたことは事実ですが、結果的に、世界を滅ぼさずにすむ方法を選択することが、パシフィカには簡単にできてしまったのです。
 
言葉はよくないけれど、ちょっと、ずるい。
 
そんな印象も、ちらりとしないでもありません。
 
「パシフィカは世界を滅ぼす猛毒」だったはずの設定が、「じつは、猛毒ではなかったのです」という結論に終わったのですから。
 
ここがどうしても、残念なところです。
パシフィカはとうとう、というか、運のいいことに、「本物の猛毒である自分」と直面することなく、問題を解決することができました。
めでたし、めでたし……
 
……という結論は、しかし視聴者にとっては、最も重要な問題をすりかえて、肩透かしを食わされたようなものでしょう。
 
やっとの思いで、生きて十六歳を迎えたのに、その自分が、世界を滅ぼす猛毒になってしまう……
そのとき、シャノンやラクウェルはどうするのか。
そしてパシフィカ自身はどうするのか。
世界を救うためとはいえ、あえて我が身を滅ぼさなくてはならないのか!
 
これが、パシフィカが最後に直面すべき最大の難関であり、視聴者が固唾を呑んで、ハラハラしながら待っていたラストシーンなのです。
 
しかし、最終回になって、そのようなラストシーンを迎えることなく、世界は救われてしまいました。
現状でも十分に感動的な結末でしたから、それ以上にぜいたくを言うのは申し訳ないのですが、しかし、やはり、とことんやってほしかったという思いも残るのです。
 
じつは「世界を滅ぼす猛毒」になってしまった少女を描いた作品が、すでにあります。
 
2001年に公開された劇場アニメ『メトロポリス』。
そのヒロインであるロボット少女・ティマがそうです。
ティマはロボットでありながら、自分を人間だと思い込みます。
しかしながら、じつはティマは、世界を滅ぼす最終兵器を起動する、機械部品のひとつでもあったのでした。
 
自分がロボットであるという自覚を持てないまま、主人公のケンイチ少年を好きになり、その一方で、世界を滅ぼす最終兵器のスイッチである自分自身に直面するティマ。
 
ついに最終兵器と合体して、人類の絶滅を宣言し、カウントダウンを始める自分。
かたや、ケンイチと一緒に、ささやかな幸せを求めたいと願う自分。
ロボットとして人類を滅ぼす自分と、人間として人を好きになった自分、その二つの心がせめぎあい、身も心も引き裂かれてゆくティマ。
 
自己のアイデンティティを失って錯乱するティマ。しかし、そのようにしてティマが犠牲になることによって、最終兵器の完全発動が避けられるのです。
 
ロボットと人間の狭間に放り出されて、「ワタシハ、ダレ?」と苦悶しつつ、自己崩壊するしかなかったティマの悲劇は、まことに壮絶なものでした。
 
パシフィカが最後に「世界を滅ぼす猛毒」になるのなら、そのとき、『スクラップド・プリンセス』は、あの『メトロポリス』の悲劇を乗り越える、新たな境地を開いてくれるのではないか……
 
その期待が、かなえられなかったのは残念ですが、『スクラップド・プリンセス』が公共的なTV番組として、悲惨極まりない結末を避けて、たとえ予定調和と言われようと、ハッピーエンドを持ってこなくてはならなかったという事情も察せられるのです。
 
“たった一人で世界を滅ぼせる少女は、そのとき、どうするのか”
この、ものすごく魅力的な設定と、その解決は、未来の誰かに託されたと考えていいのかもしれません。
 
 


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