Essay
日々の雑文


 33   20070513●雑感『グレンラガン』騒動と…
更新日時:
2007/05/14 
20070505
 
 
 
 
『グレンラガン』騒動と、
アニメオタク市場の落日
 
 
 
 
●ネットの奇妙な大騒ぎ
 
4月末、ネットのニュース欄を見て驚きました。
高名なアニメ制作会社であるG社の取締役A氏が、現在放映中の新作アニメ『天元突破グレンラガン』に関して、ミクシィの日記に書き込んだ発言の責任を取って辞任されたということです。
 
うーむしかし、たかがアニメですぞ。アニメやマンガやゲームは「基本的に子供のものであって、大人が熱狂するものではない」ですし、「人が生きるためにアニメがあるのであって、アニメのために人が生きているのではない」と考える立場としては、どうしてそんな大騒ぎになるのか、理解に苦しむものでした。
作品中に、よほど重大な版権問題か人権問題でも発生したのかと思ったのですが、関連するブログなどを読みますと、どうやら、個人的な失言が引き金になった、ネット上の“お祭り”騒ぎだったようです。
 
4月1日、G社の新作アニメ『天元突破グレンラガン』の第1話が放映されました。ネット上のアニメファンには概ね大好評だったとはいえ、一部には、こきおろし的な批判もあったようです。それに対して、4月4日、G社社員のK女史が、自分のミクシィ日記に「……死ね」「こんな奴らを相手に……」といった、反撃的な印象のメッセージを書き込まれました。そこへG社取締役のA氏が、その日記に対するコメントとして「(2ちゃんねるのその種のページを)まともに読むのは肛門に……」と付記されたということです。
 
さてしかし、どうも、それだけでは大きな騒ぎにはならなかったようです。騒動の最大の発端となったのは、4月22日に放映された『グレンラガン』第4話が、それまでの作風と比べて著しく異質であったこと。主として作画の荒っぽさが、熱情的なアニメファンにとって大変不満な内容であったらしく、批判と抗議の書き込みが公式ブログや作画監督のBBSに殺到。いわゆる“炎上”状態になったと伝えられます。
“騒動”になったのは4月22日以降のことなのです。
 
そこへ先のK女史が再びミクシィ日記で「素人が知ったような口きくな……」といった書き込みをしたことが、火に油を注ぐ結果になったとかで、ファンからの批判と抗議はK女史に、そして先に「肛門」発言でK女史を援護したA氏へと集中しました。
A氏・K女史とも、その後二三日でネット上に謝罪文を掲載。しかし騒ぎは静まらず、K女史は会社で“厳重注意”となり、とうとう4月27日に公式サイトにてA氏の役員辞任が発表されました。そのためか、4月29日の第5話は混乱なく放映されたということです。
 
……というのが、事の顛末のようです。あくまでネットニュースやブログを読んだ範囲の記述なので、不正確な点があるかもしれませんが、だいたい、かいつまんでまとめると、以上のようなことではないかと思います。
 
 
●問題の機敏なすり替えと、生贄の羊
 
しかし……
冷静に振り返ってみると、不可解なことが目につきます。
制作会社の役員が(辞職ではないにせよ)辞任までしなくてはならない問題が、どこにあったのだろうか……という疑問です。
 
いや、もう一歩突っ込めば、この騒動とその解決の、本当の目的はどこにあったのだろうか? ということですね。
 
4月1日の『グレンラガン』第1話に対してネット上で発生した批判に対して、K女史が「死ね」とかA氏が「肛門」発言をされたことは、道義上は好ましくない“失言”だったかもしれません。が、それがただちに、特定の個人や団体、国家や人種や宗教などに対する明らかな侮辱や損害を与えたかといえば、それほどではないように思えます。また“失言”後は短期間で発言を撤回し、お詫び文を同じサイトに掲載されたのですから、道義的な責任は果たされたとみることもできるでしょう。
 
“失言”そのものは致命的な問題ではなく、実際、4月22日の第4話放映までは、ネット上で“炎上”するほどの騒動には拡大しなかったようです。
 
では、22日に放映された第4話の内容が、どこかいけなかったのでしょうか? 
そんなことはありませんね。いくら作画が荒っぽくても、また、ファンの目からみてヘタクソに感じられても、それは作品の出来不出来の問題であって、制作会社のG社が社会的に悪いことをしたわけではないのです。また、第5話以降の内容が良ければ、いずれ解決される問題でもあります。責任を追求するほどの大騒ぎには値しないでしょう。
 
しかしそこで、奇妙なことが起こります。
「第4話の出来栄えがよくない」という制作会社の問題であったにもかかわらず、いつのまにか、ファンの非難が「A氏とK女史がいけない。許せない!」という個人の責任問題に、すり替わってしまったのです。
 
国や企業といった、ある組織の問題が、別の組織や個人の問題へ置換されてしまうことは、ネット上の議論ではよくあることでしょうし、マスコミの報道でもしばしば見られます。たとえば最近では、大手球団が有望な学生選手に不適切な“裏金”を渡していた問題が、いつのまにか高野連の特待生問題にすり替わり、「子供たちがかわいそうだ」という、全く別次元の、情緒的な言葉に言い包められてしまったことです。
 
にしても、『グレンラガン』騒動には、奇妙な不自然さを感じます。4月22日の第4話について、K女史がミクシィ日記で「素人が……」といった書き込みをしたことが引き金になったかのように見えますが、それにしても、“作品への不満”をどこかへ置き去りにして“個人の責任追求”へ矛先を変えるには、いささか強引すぎたのではないかという印象が拭えません。
 
すべてが自然のなりゆきでそうなったのかもしれませんが、もしかすると何者かが、ある意図をもって、故意に問題点をすり替えていった……という可能性も、皆無ではなかろうと思います。
そしてとうとう、役員辞任……
 
なんだか、不思議なのです。
放映作品の不評……それも、たった一話分の不評の責任を、取締役が一人で自ら背負ったのです。作品のプロデューサーとはいえ、一週間後の第5話が放映されるのを待つことなく、辞任。これでは問答無用の、あまりにも早急すぎる決断と言わざるをえません。
 
私の家のTVでは『グレンラガン』が映りませんので、なんとも判断がつかないのですが、第4話が、世間を騒がせるほどの人権問題でも起こしたのならともかく、そうでもないのに、なぜ? という素朴な疑問が湧いてきます。
 
なぜ、そうまでして、責任を取らなくてはならなかったのか?
そう、まるで罪なきスケープゴートの如し……なのです。
 
これには、なにか、理由があったのでしょう。
 
 
●騒動の解決、その本当の目的とは……
 
そこで押さえておきたいのは……
この騒動で最も利益を得たのは誰か、ということです。
金銭的な意味では、儲けたと言える者はいないでしょう。
ただ、情緒的な意味で、失点を得点に変えたケースがあるとしたら……
結局のところ、それは、おそらくG社ではないかと思います。
 
この騒動によって、G社のブランドと放映作品のイメージが落ちることはありませんでした。最悪の事態は阻止できたのです。会社に替わって騒動の矢面に立つ形となったA氏の役員辞任とK女史の厳重注意は、もう十分すぎる責任のとり方であり、公式ブログに掲載されたお詫び文の丁重さもあいまって、G社はむしろ騒動の被害者として同情される立場に転じたといえるでしょう。
 
しかも、この騒動が全国版のニュースになって、『グレンラガン』の作品名が、私のような無関心層にまで伝わったことは大きなメリットになったと察せられます。対抗番組の『プリキュア5』はさておき、まず『グレンラガン』を見ておかなくては……という気にさせる効果は、間違いなくあるでしょう。
 
A氏が生贄の羊を買って出て、一連の責任を個人で背負ったことで、G社のブランドと放映作品のイメージを守った……。そして同時に放映作品の知名度をアップし、おそらく視聴率の向上にもつながったのではないか……
そのような構図が浮かび上がってきます。
それが真実かどうかは証明できませんが、ひとつの仮説として考えることはできるでしょう。
結果としてそうなったことを、私は批判するつもりは一切ありません。むしろピンチをチャンスに、不運を幸運に転じたG社とA氏の勇断は、企業の危機管理戦略の手法として、前向きに評価されるものではないかと思います。
 
 
●G社の総力戦。『グレンラガン』第4話は絶対国防圏?
 
そこで、次に気に掛かる問題は……
『グレンラガン』をそうまでして守らなくてはならなかった、その理由は何か、ということです。
 
数歩離れて、この騒動の結末をながめてみましょう。
結末をたった一言でまとめるならば……
 
『グレンラガン』の“第4話”への非難を防ぐために、プロデューサーA氏がその立場を犠牲にした、ということです。
 
A氏は役員辞任という方法で、身を挺して“第4話”を守ったことになるのです。シリーズ全体を守るため……というのではありません。なぜなら、シリーズ全体の評価は、第5話以降の放映で持ち直す可能性が高く、シリーズが終了するまでば、失敗作か成功作か断定することができないからです。
シリーズ全体の評判を守ることが目的ならば、役員辞任という強烈な手法をとるまでもなく、黙って第5話、第6話と放映していけばいいのです。
 
私は『グレンラガン』を全く見ていないので、あくまで推測の域を出ないのですが、この騒動の結末は、G社にとって、“第4話”だけが“そうまでして守る価値があった”ことを示しているように思えるのです。
 
さて、この騒動に関連するブログなどを見ると、G社が『グレンラガン』に物凄い思い入れを込めて、もはや“総力戦”と言ってもいいほどの決意で、作品価値を防衛しようとしている意志を読み取ることができます。
 
第1話放映時の、K女史の書き込みは『グレンラガン』の作品イメージ防衛のために、あえて敵対サイトに挑んだ玉砕的行為とも解釈できますし、また、『グレンラガン』と同時刻に放映されている対抗番組『プリキュア5』に対しては、3月の『東京国際アニメフェア』にて、強いライバル意識が示されたとか、また公式制作ブログにプリキュアのマスコットキャラを××する漫画が掲載されたとか、真偽のほどはよくわかりませんが、G社が『グレンラガン』のイメージ防衛と視聴率向上に、ナーバスなまでの闘志を燃やしておられることがうかがわれます。そこにはまるで、硫黄島に上陸してくる米軍を待ち受けた日本軍のような、ぴりぴりした、本土決戦的な緊張感を見てしまうのです。
 
G社にとって、『グレンラガン』は自社の将来をかけた、絶対防衛ラインなのではないか……
 
そのことを、私は批判するつもりは毛頭ありません。自社の作品価値について誇りとこだわりを持たれることは当然でありますし、もちろん敬意を払うものです。
 
ただ私がここで言いたいのは、一連の現象の影に、アニメ市場の厳しくも愚かしくもある現実が浮き彫りになってくるのではないか、ということです。
 
 
●オタクと子供、二つのファンに向けた二正面作戦
 
さて、そんなG社の作品を歴史的に支えてきたアニメファンは、エヴァ以来……というか、王立宇宙軍以来の熱狂的なファンでもありますし、その中にはオタクを自認するコアなファンも数多くおられるでしょう。
しかし、宇宙戦艦ヤマトのヒットからすでに30年、当時の高校生はいまや40代後半に達しています。年々高齢化が進むオタクたち。アキバのメイドカフェがいかに繁盛しようとも、その市場牽引力はもう限界を迎えているのではないでしょうか。30代や40代があたりまえになったオタクたちは、もう、欲しいものはあらかた手に入れ、このうえ何を……といった人も増えているはずです。
アニメオタクの市場は、飽和しきっているのです、たぶん。
 
そこへきて最近は、懐かしい20世紀のアニメ作品のリバイバルや実写リメイクが盛んです。(『トップをねらえ2!』や『エヴァンゲリヲン』もしかりでしょう)が、それらの作品が狙うのは、既存のオタク市場だけでは限界があるのです。すでにDVDの限定ボックスまで持っている人に、同じものを再版しても買ってくれません。
ここはどうしても、新しいアニメファンの獲得が必要になるはずです。それも、できれば小学生のうちからファンとして入信し、40代になってもファンのままでいてくれるような、安定した顧客が、一番ありがたいのです。
 
するとG社は、制作するTVアニメにおいて、必然的に二正面作戦を強いられることになってきます。
古くからの(40代まで含む)オタク的な高齢アニメファンに高く評価される作品でありながら、同時にオタク未体験の小学生をも釘づけにする魅力を、兼ね備えることが求められるのです。
 
ひとつの作品で、高齢オタクと低年齢の子供を同時攻略する。そんな、一見不可能にも思える二正面作戦です。
 
そこでG社が打ち出した回答が『グレンラガン』であろうかと思います。
私の家のTVでは映りませんので、DVDを楽しみにしたいと思いますが、きっと、物凄い、鬼気迫るほどの高水準な作品であることでしょう。また同時に『グレンラガン』が、子供心もぎゅっとつかむ、魅力的な作品であるだろうと期待しています。
 
ですから、G社が対抗番組である『プリキュア5』に闘志を燃やされることは十分に理解できます。こちらの視聴者はまさに子供そのもの。すなわちターゲットが明確に重複するのであり、結果的に限られた視聴者の“奪い合い”になってしまうことは避けられないからです。
 
ここからはあくまで私個人の憶測であり仮説ですが……
 
だから、『グレンラガン』の第4話は、G社にとって“特別に守るべき作品”だったのではないか、と思います。
 
『グレンラガン』はおそらく、オタクな高齢ファンに答える内容でありながら、同時に低年齢の小学生も意識して、『プリキュア5』から、その視聴者を奪い取る内容であることが、求められていたはずです。
 
しかし、シリーズの全話で、それぞれ興味の異なる視聴者を獲得する“二正面作戦”を展開するのは苦しいことですし、作品内容に混乱を招く恐れもあるでしょう。
 
そのために、特別に子供たちにターゲットを絞った“第4話”が用意されたのではないかと思うのです。
第1話以降の話題性の浸透と、関連グッズの発売とか、そういったタイミングを見計らった上で、“第4話”は作画もシナリオも完全に子供向きに設計され、グッズとの関連性も考慮して投入された、スペシャルな回ではなかったのか……。
だから当然、大人のオタクファンには不評を買う。けれど、小学生のそれも低学年に的を絞り、今回から初めて見る子供にもわかるようなデザインとストーリーで仕掛けた回だったのではないか。それが“第4話”の本質だったのではないかと、私は個人的に想像するのです。(あくまで私見ですよ)
 
しかし実際には一部の大人のオタクファンが過敏に反応し(大人とは思えぬほど激怒して)、ネットで大騒ぎになってしまった。そのまま“第4話”が徹底的に評価を落とし、その評価が子供たちや、またスポンサーにも波及することが懸念された。だから、あのように強烈な結末をもって、緊急避難的に、騒動の解決を図られたのではないか……と思います。
 
そしてたぶん、結果的には、この騒動はG社にとって天祐神助となり、『グレンラガン』の視聴率向上に貢献したのかもしれない、と……
そう思えてならないのです。
 
 
●オタク市場の落日を前にして
 
さて、ここから結論です。
『グレンラガン』騒動とその結末は、はからずも、G社のアニメ・マーケティング戦略の片鱗をかいま見せてくれました。
 
つまり、「オタクから、普通の子供へ」です。
 
『グレンラガン』が、G社の過去の作品と同じように、年配のオタク層をターゲットにしているのならば、低年齢の子供をターゲットにしている『プリキュア5』と競合することはなく、対抗意識を燃やす必要はないはずです。
 
しかし実際は、激しく競合していることが明らかになりました。今回の騒動は、G社が、普通の子供のファン獲得戦略に、不退転とも言える強い意志で臨んでいることを示してくれたと思います。
 
そのことは、裏返せば、従来のオタク市場が限界に達してしまい、拡大が望めなくなってきたことを示しているのでしょう。
40代に達したオタクたちは、欲しいものをみな手に入れてしまった。実際、置き場に困るのが実情であろうと思います。
 
そして今、普通の子供たちを奪い合う時代がやってきました。
できる限り低年齢のうちに、アニメのファンとして自社作品に取り込んでしまおうというのです。
プリキュアのファンはもちろん、名探偵コナンやワンピース、ちびまる子やサザエさんの視聴者までも含めて、いかに多くの“普通の親子”をアニメファンとして定着させ、いかにして“卒業”させずに十年二十年と引っ張っていくかが競われる時代になったのではないでしょうか。
 
しかしこの状況は、また、国内の市場の、どうしようもない行き詰まりを物語ってもいます。
おそらくここ数年で、アニメ・マンガ・ゲームの国内市場は飽和して、消費者が見たり読んだりする作品よりも、作り出される作品の方がはるかに多いという、供給過剰の状態が現出してきたのでしょう。
実際、地上波の放映だけでも、アニメの新作を全部見ることができるでしょうか。最初は見ても、あとは録画がたまるばかりでありましょう。もう、見るだけでもおっくうになるほど、作品があふれているのです。
 
ネットの巨大掲示板などに見られる書き込みで、アニメ等の制作者に対して、ファンの方から「おれたちが買ってやってるんだぞ」「だれのおかげで食べていられるんだ」式の発言が見られるのも、市場が飽和して作品があふれかえっている現状を表しているのでしょう。
 
いったい、いつごろから、こんな状況になったのでしょうか。
作品の創り手の事情からすれば、2001年頃から、経済産業省が「アニメ・マンガ・ゲームは日本を代表するコンテンツ産業」と標榜して業界育成に乗り出したころからでしょう。
 
お役所のお墨付き。これは強い。水戸黄門様の印篭のようなもので、影響はアニメ界全体に波及します。
前世紀は人目をはばかるサブカルチャーであったアニメ・マンガ・ゲームが、そのころ急速に、ニッポンのメジャー産業の地位を獲得するに至りました。大手を振って公共の美術館に展示され、それらを扱う大学の講座や学部が新設されたのです。
 
それ自体は結構なことです。非難するつもりは毛頭ございません。
しかし、お役所仕事の中には、何のためかわからない新幹線新駅とか、目的不明のダムや高速道路とか、幽霊テーマパークとか、某グリーンピアのような閑古鳥施設がどーんと存在していることも、また事実ではあります。
 
似たようなことが、国内のアニメ・マンガ・ゲームの業界で起こらない……とは限りません。
そして、無駄を大量生産すると批判されるお役所仕事の典型的なパターンこそ、“供給過剰による閑古鳥化”なのです。モノを作らせる、施設を作らせる、莫大なカネとヒトを投入する。そしてマーケットを読み違えてどっとモノと施設が余り、だれも責任を取ってくれません。
 
それに似た現象が、国内で起こりつつあるようです。
アニメはもちろん、マンガ雑誌の発行部数も、ここしばらく減少に転じてきたと言います。中高年のおやじまでが通勤電車で『少年○○○○』を読む風景がありながら、一方で売れ残りが出ていることになります。
 
しかしさすがに、お役所は頭がいい。国内市場が飽和するならば海外へじゃんじゃん輸出しましょうと、「第1回コンテンツ産業国際戦略研究会」なるものが、2003年4月に開催されています。
 
つまるところ、2003年の時点で、コンテンツ産業が国内では飽和することが、ほぼ確定していたと考えてよろしいのでしょう。それがはっきりと予測できたからこそ、予防線を張って、国際戦略が登場したとも考えられるのです。
 
しかし国際市場ですら、決して無限の広さはありません。
早晩、限界に行き着くことでしょう。ニッポンの国内には、手塚治虫以来半世紀あまり、蓄積を重ねたマンガやアニメのコンテンツが膨大な在庫となっています。しかしそれらのコンテンツを、海賊版でなく、正価で大人買いしてくれる若者たちは、世界を見渡して、どれくらい、いてくれるでしょうか。
 
この豊かな国ニッポンですら、もうお腹いっぱいというほどコンテンツがあふれ、急いで大人買いするよりも、新古書店に出るのを待つ人も多いという現実を踏まえなくてはなりません。ニッポンのオタク並みにお金を使ってくれるファンは、欧米先進国ですら、決して多いとはいえないでしょう。
 
 
●閉鎖空間の底から……
 
そこで、今回の『グレンラガン』騒動を見なおしてみましょう。作品の出来不出来について、ファンはネットで大騒ぎしました。しかしそれは、アニメのファンの世界の中だけの、いわば閉鎖空間の出来事です。
ファンの非難を受けて、アニメ制作会社の取締役が辞任しました。しかしそれも、業界内だけの、閉鎖空間の出来事です。
今回の騒動そのものが、限られたファンと、限られた制作者との間に形成された、出口のない閉鎖的な世界の出来事なのです。
外の実社会に与えた影響は、皆無に近いといえるでしょう。
 
このことが、市場の悲しき閉鎖性を物語っていると思います。
なにかが原因で、私たちはタコツボのような小さな世界に、膨大な作品群と一緒にぎゅうぎゅう詰めにされたまま、出口を見失い、行き詰まっているのではないでしょうか。
 
この、タコツボ的閉鎖空間というのは、物理的な空間ではありません。精神的な意味で、閉ざされた空間ということです。たとえば、アニメの世界にどっぷりと漬かった結果、アニメの世界がすべてになってしまい、現実の社会で起こる出来事はどうでもいいとばかりに無視してしまうような精神状態のことです。
 
本来、アニメもマンガも、人が良く生きるための、ひとつの糧であったはず。それがいつのまにか、アニメのための人生、マンガのための人生にすり替わってはいないか。見回せば、買ったけれど見てもいないDVD、録画しても見る間のないテープ、一度読んだかで、中身を忘れてしまったマンガたち、そういったものに押しつぶされて、途方に暮れてはいないでしょうか。
 
アニメ・マンガ・ゲームを購入し消費してきた私たちは、あまりにも長い間、非現実の虚構にどっぷりと漬かってしまった。その結果、自分たちの閉鎖空間の中でしか、物事の善し悪しを判断せず、お互い(ファン同士、オタク同士、業界人同士)を批判しあい、その騒ぎの中で自分が目立つことだけに熱中しているのではないでしょうか……。
まるで、ひとつの教室の中で起こるイジメ現象の如し、なのです。
あくまで私の個人的な、創作的妄想ではありますが……
 
自分たちの閉鎖空間に塩漬けになり、外の現実を見ようとしなくなれば、その文化には、かつての斬新さは失われたと言ってもよいでしょう。その市場にはもはや若者文化の新鮮さはなく、冷蔵庫の中でじわじわと腐っていく生魚のように、行き着く果ては生ゴミのペールボックスかもしれないのです。
 
オタク市場は、今、落日の光に赤く照らされようとしています。
 
人が良く生きるためのアニメ、良く生きるためのマンガ、それはどういうものなのか。そもそも、それらは自分の人生に必要なのか。不必要なら、捨てればいい。それとも……それでもやはり必要な何かがあるのだろうか。
 
パソコンを切って、空でもながめて、そんなことを静かに考える時期に来ているのかもしれませんね。
 


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