エホバの証人からの脱走


前書き

 この本は本来なら、必要なかったのです。21世紀には宗教は必要ないと決める自由があり、宗教から仕返しされないかと恐れずに適当に抜けられるはずです。それでも人間臭い権威が良心の自由に優先し、すべての文化や宗教信条以上に尊重される手段になっています。信者を抑圧する努力を怠らないで虐待をする宗教法人は少なくないのです。エホバの証人の指導者はその例外ではありません。
  エホバの証人の組織は実際に「囚われの組織」と言われてきました。エホバの証人としてバプテスマを受けると事実上、終身、協会の中に閉じこめられます。重大な浸礼の儀式をすると知識が欠けているとか十分に成長していないとは見なされません。
  8歳という若さでバプテスマを受けていいかは、問題ではないのです。ふつう、その年では不動産を売買できないし、雇用関係を結んだり、契約を結ぶなんて法的にできません。それでも宣教学校に出るには十分な年齢に達していると見なされ、エホバの証人の子どもが服している強制的な教え込みの集中砲火を受けようとも子どもは拒否できません。
  証人が子どもの頃は、書籍、ブロシャ、ビデオ、アニメ映画といった、人を操る資料に囲まれた中で育ちます。色とりどりの教本、聖歌合唱、夕方の家庭内崇拝、長時間にわたる集会や戸別伝道――これらの準備作業は人生を両親の宗教へ献身する行為です。これだからこそ宗教中心の生活は避けられません。後になって長老たちが宗教から逃れようとする人の運命を決めるとき、子どもの頃から植え付けられた強制的な力はその真価を発揮します。
  バプテスマのプールの水の中に水没させられると「思慮深い奴隷」は証人を永遠に奴隷の決定に縛り続けます。悪い予感がした通りです。浸礼の誓約を守らないと、家族から離反させられます。不信仰の証人は不活発な状態に移って、「消滅」することでしか逃れられません。不信仰の扉は決して開かれていないと警告されています。基本的に、証人の疑問と信者間のもめ事は墓に持っていくしかありません。
  もちろん、この本は、証人の信仰に長い時間をかけたものの、すでにものみの塔の神学は憶測した通り、正しくないという結論に達し、脱会しなければならないと心に決めた人向けに書かれたものです。
  たぶん、性的児童虐待事件に関する組織の恐ろしい方針や、排斥された人の忌避は冷酷で愛がないこと、ものみの塔の複雑で変幻自在の聖書解釈にはもはや肯定できないことなどがあるかもしれません。本物の宗教でなければ、どんなに慈悲深い部分や納得いく部分があっても、一瞬たりともその宗教に没入して疲労したくないという気になります。
  どんなに貴方が教え込みから目ざめたとしても自分なりの旅立ちをする段階に達しただけでも立派です。大きな犠牲を払って大事にしている信仰に闘いを挑むのには勇気を奮い立たせる必要があります。特に投下した年月が長ければそうです。手にしていながら知的な誠実さを奮い立たせられないで墓に入ったエホバの証人は数え切れません。
  虚構や実際に根拠のない話、嘘に基づく真理から真実を区別して、心ない、慈悲の心もない、私腹を肥やそうと、人を操る協会に包み込まれてきた人生から自由のために身を切る覚悟でいるのです。ものみの塔の支配力から精神的にも、かつ情緒面でも自由になって、価値ある勝利を得ました。この本を捜そうとするなら、やるべきことは山積していますがその可能性はあります。
  初めのうちはこの本の題名を「エホバの証人から抜ける方法」にしようと考えましたが、その題名は不適切だと知りました。目ざめた証人が直面している葛藤を適切に反映していないからです。エホバの証人から抜けようにも、意志に反するギャング団と縁を切るようなわけにはならないからです。エホバの証人から脱会する必要があります。抵抗するのも計算づくで行い、念には念を入れた計画が求められます。さもないと不利になるからです。
  1981年、ものみの塔は忌避の指針のほかに、断絶した者には以後、排斥者と同じ罰を加えると、ルールを変えました。バプテスマを受けた証人には良心的な理由から組織と縁を切るために正面から堂々と抜け出る方策はなくなりました。ものみの塔は何十年間もの間、脱会者は恐れの対象として、また嫌悪すべき者として絶対的な思考、白黒思考を強く植え込みました。「ためにならない者は、違反しているに違いない」のです。できるだけ厳かに、できるだけ不快な感じを持たせないで自分の道を進もうとしている者には脱走の計画を妨害するために入念に地雷原が敷設されました。
  良い知らせがあります。一人ではないのです。多くの人たちは目の前にあった苦境を切り抜けてきました。長い年月をかけて教えられたものはほどんど虚偽だったとはっきり分かると、めまいを覚え、吐き気を催し、二日酔いのような気分になりました。それを忘れられません。
  正式に断絶して完全に引退するか、「消滅」するかのジレンマに直面しました。私を罪に陥れようとした長老と闘ってきました。不幸な人、見て見ぬ振りをする罪人でない限り、脱会する者もいるだろうと思っているようでした。次の頁からはこれから進む道を踏みしめるガイドとしての私の責任となります。秘密を厳守し、障害物を避けて進む手伝いをします。
  直面するすべての人のすべての事例に口を差し挟むなんてとてもできません。各自の環境は一人一人、異なり、想像も付かない困難な状況に陥っている人もいるでしょう。協会は極端な統一性を要求し、明確に定められた方針に執着してます。目ざめた証人の目の前にはほとんどすべての人が言うように、障害物が待ち構えています。
  例えば私の場合、長老をしていましたから分かりますが、貴方の脱走を失敗させようとする長老からの働きかけがあるでしょう。「忠実で思慮深い奴隷」への忠誠を取り戻す企ては避けられませんし、「羊の群」に呼び戻そうとする企ても避けられません。それに備える手伝いをしましょう。もし長老が工作の妨害を始めると(おそらくは審理委員会を開始します)何を言ったらいいか、何を言うべきでないかのリハーサルをします。
  組織から距離を置いているなと家族が気が付くときに家族はどのように反応するか気になるでしょう。そのとき家族に対応する際のストレスや間の悪さを経験しましたから、学んだ成果の益を分け与えましょう(妻は私の信仰が消滅したと分かるとショックを受けました)。
  これから経験する過程は貴方だけに特有なものではなく、大勢の人に共通していて、大勢の人が目の前に広がる道を通ってきたのだと分かるでしょう。精神面で経験する激動や家族の離反など、過酷な障害が目の前にあると思えても、脱会者は幸せで有意義な人生を構築しました。疑う余地のない「奴隷」級の追従者であったとしても、またありえない望みを抱いてハムスターの回し車のような人生を一度は送ったとしても、愛してくれる人に囲まれ、ありのままの自分を受け入れてくれる人に囲まれ、その人となりの本物の人生を生きています。
  自由は目の前に広がる、現実の楽園です。果物がいっぱいの食卓や戯れているパンダや野獣を描いた空手形よりもはるかに有益です。次のページからはできるだけ痛みを感じないで、目的地にたどり着ける方法を試みます。それでは脱会の構想を練りましょう。


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