エホバの証人からの脱走


第9章 自由になる時間を楽しみなさい

 ここまでの章ではエホバの証人から脱会する決心をした者の身に降りかかる多くの難問を調べました。もう終盤に差しかかりました。前途に広がる旅路にはさらに確信を持てたでしょう。エホバの証人から簡単に脱走できる方法は無いのですが、確かに脱会を難しくしている習慣や慣行があります。これらを可能な限り避けて、過去の経験にふんぎりを付けるときです。
  おそらく、前途には苦難が待ちかまえているでしょう(おそらくは苦痛や悲嘆でしょう)。しかし手に負えないものではありません。ものみの塔が仕掛けた障害や落とし穴の地雷原を縫うように進むのです。そうして思うがままに自分の時間を楽しめます――それを忘れてはなりません。
  現役のエホバの証人の頃はハルマゲドンの時計の針が規則正しく時を刻んでいました。いつ終わりの日が来るかは知らされません。そしてイエスとそのみ使いが地上に滅びの業火をもたらすときには果たしてエホバへの奉仕が足りているか否かは決められていません。
  証人は完璧さと終わりの見えない仕事にとことん従事する目標を課されています。集会に出るだけでは不十分です。、抜かりなく予習しなければなりません。「良いたより」伝道に活発に参加するだけでは不十分です。事情が許すなら、出来る限りの時間を開拓の時間を入れなければなりません。証人はエホバとその組織のためにすべてを捧げなければなりません。自分の時間を過ごすとか、中途半端に奉仕するなんて、許されません。
  いったん、自らものみの塔のくびきから自由になる決断をすると、すべてが劇的に変わります。ストップウオッチを持っている人はいませんし、退場を急き立てる人もいません。迅速に、かつ上手に消滅しても、もっとも見事に断絶しても、立派なトロフィーを授けられるわけではありません。宗教を信じることはきわめて個人的なできごとであり、それは心の奥底で起きます。宗教団体に同調しない段階まで行き着くのです。結局は自分の時間の尺度に合わせ、自分の言葉に任せます。これは他人に漏らすことではありません。
  現実に、エホバの証人は本物の宗教ではないことに目ざめている人が中にはいるかもしれません。それでも消滅を図る立場に至っていないかもしれません。長老になっている人かもしれませんし、ベテリストになってるかもしれません。組織にどっぷり浸かっていて、すぐには自然消滅の計画を立てるだけで問題になるかもしれません。脱走計画に取りかかるまで何食わぬ顔を押し通すかは貴方次第です。
  あるいは長老の奥さんかもしれません。きわめて熱心な証人の配偶者の場合もあります。集会をパスしたり、奉仕の時間を減らして関係を悪くしなさいと求める人は一人もいません。置かれている状況を十分に勘案してどの決断をするかを決めます。エホバの証人からの脱会は動く標的ではありません。ゆっくりと脱会するか否かに関わりなく、標的は待機しています。可能な範囲で、必要を満足する方法で勝利に至れば、それは満足できるもの、心を満たすものです。
  ものみの塔の経験を考えないように出来て、自分の人生を正しく過ごし始められると分かるまでになると、安堵のため息を漏らしているのでしょう。第一章に書いた質問を見直してもよいでしょう。そうです。エホバの証人から脱会したのです。では次に何をしたらいいのですかと問うでしょう。自分の信条に基づいて、「だれのところに行ったらいいのでしょう」。クリスチャンのままでいるのでしょうか。あるいはキリスト教以外の宗教に入るのでしょうか。無神論者になるのでしょうか。それは貴方次第です。かくかくしかじかの考えをしなければならないと迫ってくる人は一人もいません。
  確かに、自ら証人から脱会する過程では、大いに満足したり、精神的な高揚感を感じたりはしないでしょう。信条や良心に関わりなく、質問したり、自分の結論を下したりできない、狭量な集団にたどり着いたとしたら、苦しい経験を卒業したとは言えません。
  私の場合は自由への旅路の最終的な落ち着き先は不可知論でした。無神論者は神はいないと言いますが、不可知論者はそうは言いません。神性を信じるとか、特定の宗教行為に従わなければならない理由はないというだけです。それでも立証責任にかなうなら、神の存在の証拠を吟味します。
  畏怖に値する宗教を選ぶための合理的な立場を求めますが、誰でも無神論を受け入れてその立場を選ぶべきではありません。宗教は定住しているこの社会生活の一部に過ぎないと認めるに至りました。宗教団体は出来る限り確実に被害を最小にしているかを問うだけです。人々が宗教を快く思い、心が慰められるなら、宗教は間違いと言える立場にはありません。
  無神論を隠さずに公言しますと、人々の希望を奪っているとか、霊性を脅かしていると言われるときがあります。有害なカルトを離れてからは何を信じたらいいかを伝えることが私の仕事ではありませんと言うことにしています。消防署員の仕事は火事になっている家から被害者を救出することであり、家を建て直すことではありません。それと同じです。個々の人が宗教をどう考えるかはとても個人的なものです。他人から授けられるものではありません。何を信じたらいいか、何を信じないかは自分で自由に決めます。時間をかけて、問いかけた結果を注意深く考え、自己吟味します。
  元証人が止めてからすぐにほかのカルトやカルトじみた宗教に巻き込まれたとは、寡聞にして聞きません。そんなことは信じられません。カルトから脱会するという激動を経験すると(特に家族からつまはじきにされる痛みがあるときは)共同体意識を提供し、もっともらしく人を引きつける宗教につけ込まれて操られる可能性は高く、攻撃を受けやすいのです。
  気弱になったと感じたり、押しつけられ易くなったと思ってはなりません。かといって、患者が重い外科手術から回復する間は、力まないで、気を楽にしている必要があります。ほかの宗教や考え方を取り入れる前には十分に休養を取り、回復するためには良い助言を受けましょう。特に確からしい独特の教義(ドグマ)を主張し、疑いを持たないようにさせる宗教には気を付けましょう。
  貴方にはさまざまな宗教の宗派、さまざまな哲学の学派をつまびらかに調べる時間があります。証人をやめたからといって新しい人生の見通しを決定するための締め切り時間があるわけではありません。エホバの証人から脱会したのですからハルマゲドンを告げる時計の秒針は止まりました。滅びを避けるために唯一の本当の、神に義認された信仰体制にすべての時間を捧げようなどとは、もう考えなくてもいいのです。
  本腰を入れて、違う考え方を学んだり、自ら情報を取り入れる過程を楽しみなさい。そうして人として成長するのです。特定の思想体系を嫌ったとしても、ほかの人たちがどのように考えているのか、またその動機は何なのが分かるなら、そのような思考に習熟したとしても、何ら害はありません。他者の論を聞くだけでも自分の考えを試せますし、吟味に耐えられかが分かります。
  様々な考えを許容し、知識の幅を広げ、ものの見方を変えると、敬意を持って接し、他者を裁かない態度になると自覚できます。それに満足でき、充実感を持てます。何と本物の、知的な自由が目の前にあることか。自分が確信したものを試せるし、証拠調べができるのです。
  ひとたび自由になれば、ほかのものも試し、世は共同体だという意識を作れるのです。全面的にエホバの証人の家族や友人からつまはじきにされるかもしれない恐怖におびえ、将来の人間関係を構築することに消極的になっている家族たちから見捨てられのではないかと落ち込むかもしれません。一方、友人関係を開始するとしても友人らしい人がそれに乗ってこないと、世の人との関係の再構築を切望しているのかもしれません。
  当面の課題がどれほど明確になっても、とにかくあきらめないで。辛抱強く過ごしなさい。証人を経験して燃え尽きたとしてもまだ時間はあります。ストレスを感じる理由はありません。
  不安定さを克服するためには時間がかかるかもしれません(専門家の支援が得られても)。精神的に他人と打ち解けようとしても試練もあるし、しくじるときもあります。当てがはずれるときもあるでしょう。友人関係が望んだとおりにいかなくてもあきらめないで。リスクがあるからとのんきに構えていると、残念ながら、本物の素晴らしい人間関係を自ら無くすかもしれません。
  逆に、地元の社会との付き合いを広げてもそれがなかなか進捗しないと不安を感じるときもあります。そのときは現実的になりなさい。良い友人関係を築くのは容易ではありません。有意義で理解してくれる友人を決めるまでには時間がかかるかもしれません。前の章に書いたように地元の人たちとつき合う機会を求めるなら、まじめで期待に反しない人たちと近しい付き合いをし、後ろから支えてくれるチームを作れる期待が高まるでしょう。
  たまには古巣に残った現役からストーカーをされるかもしれません。証人の友人や家族が羊の囲いに引き戻そうとして罪悪感に訴え、情緒的な手紙を送ってくるかもしれません。そんなときは食ってかかったり、いらいらしないように。人は他人の思っているほど他人に支配されたいとは思っていません。それを忘れないように。優しさと敬意を持って応えるなら、その人たちもある日、目ざめる可能性があります(間違いなく反応すると仮定して)。
  一度ならずも「真理」を深く信じていた、脱会する人を見下しているに違いない現役の証人への最善の反応は、憤りもなく、苦しみのない幸福で充実した人生を送ることです。宗教の中で育てられた二世の親の場合、特にそれが言えます。サタンに操られていると思われている背教者のステレオタイプの生き方をしながらも、現役の証人を脱会者の輪に入れようとするよりも、今ではものみの塔から操られていない生活がどれほど充実していて、満足できているのかを見せつけなさい。
  証人の親は箸の上げ下ろしに至るまで子どもの考え方や行動をものみの塔の鋳型にはめようとして生活の中では圧倒的な影響力を持っています。しかし、貴方はその逆を見せられます。がんこな裁きの態度や頑固な性格の信仰からの一時的な避難所だと見せつけられるかもしれません。そこは平和の聖域です。知的な自由があります。ときには貴方が自分で決められる自由を示せるなら、二世は希望の見えない息苦しさや若者の精神的な欲求や進歩の願望が満たされない人生に閉じこめられるよりも貴方の生き方に追従しようと思うかもしれません。
  おそらくエホバの証人から脱会するときに直面する最大の難問は、問題を抱えることが許せるかです。脱会するときには精査に耐えられないような、明らかにばかげた話を信じて騙されていましたから、ひどく腹立たしい思いをしがちです。おそらくこう思うでしょう。「数百万の人々がものみの塔を信じないから死ぬはずだとどうして真剣に信じていたのだろう。どうして毎日、そうなりますようになんて祈っていられたのだろう」。
  このように自己嫌悪に陥って落ち込まないように。心から喜んで、あるいは知ったかぶりをして滑稽な宗教組織に呑み込まれていたのではありません。つまらなかったのに、騙されやすかったからなのです。嘘をつかれて呑み込まれたのです。とても立派ななりをした人たちが子どものように教え込まされたり、大人なのに巧みに罠にはめられ、騙されたとしたら、意味が無いのにそれを信じようとするかもしれません。経験上、情報収集しようとすればできるのに罠にかかってしまって組織の中で時間を浪費した自分を許せる段階までたどり着くことが大事です。
  私の場合、経験があったからこそ、ふつうの人たちよりも熟知する立場に立っていました。カルト集団の犠牲者に連帯感と思いやりを示したり、積極的な活動をしたことが人の苦難に関心を高める動機になりました。証人にすっかりはまりこんでいたからこそ今の妻との出会いがありました。このおかげで幸福な結婚生活を送れたし、美しい娘に恵まれました。証人の過去があって良い成果が得られました。それを否定しませんし、それを恥とは思いません。
  もちろん、ものみの塔によってなされた数えきれないほどの数の虐待はいたしません。間違いなく、証人の教義を真理にしません。かつてはエホバの証人でしたから今の私があります。前進するために過去に責任を取り、過去と和解することは極めて有益だと分かりました。
  カルトにいた期間にわたる長い精神的な損失や心理的な損害をことごとく除去することは難しいかもしれません。不可能かもしれません。過去の経験を甘受し、証人の経験があってこそ、より強くなり、より賢くなり、より思いやりがあるという事実を甘受することは可能ですし、極めて充実した人生になります。貴方の自由を求める努力が首尾良く成功すると、もし虹の果てに巨万の富があるなら、心の状態は罪と自己嫌悪が消え失せる域に達します。力の限り、投棄された人生に対処する今をとことん愛せる域に達します。
  そうです。人生において邪悪な選択をしてしまったのです。まだ分かりませんか。おそらく何年もの間、虐待をする組織を応援し、推し進めるために時間と精力を浪費してきたのです。数百人の人々がアメリカの男どもの奇妙な集団に奉仕するために人に語りかけるとき、果敢にも、誠実さを命じていました。大切な宗教と何よりも代え難い真理を重んじる流れに抗していました。それを忘れてはなりません。
  どんな難問が待ち構えていようとも鏡の中の自分を見られるようになりました。半端ないものを克服し、不幸に打ち克ったと分かります。本物の人生を奪取したのです。
  すべてに答えを持っていないかもしれません。しかし、今や、無限に価値のあるものを手にしました。自分で考える自由です。無条件で愛され、正当な評価を受ける自由です。貴方らしくある自由です。

 


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