エホバの証人からの脱走


第7章 チーム結成

  エホバの証人は自分らの宗教には愛があると自画自賛します。明らかに愛があると確信しています。証人の間ではヨハネ13:34、35の聖句が働いていると繰り返し指摘します。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 エホバの証人から追放されると、この聖句がいかにうつろに響くかが分かります。また、まだものみの塔の境内にとどまっていたとしても、信者の間の愛は薄っぺらなベニア板よりも薄弱なものだと分かります。集会に出ないだけで「邪悪な交わり」として先回りして忌避されることがすぐに分かります。
 2010年に組織から距離を置き始めましたが、このときにはエホバの証人の「兄弟の愛」がいかに気まぐれなものなのか、肌にしみて感じました。集会に出るのを止める前までは王国会館の友人たちと毎週、日曜の午後にサッカーを楽しんでいました。たびたび集会を欠席していると分かるとすぐにこうしたレクリエーションからも締め出されたと感じました。毎週、特定の時間に特定の場所にいないと「邪悪な交わり」をしていると見なされました。グラウンドでボールを蹴っていないと過激主義の勢力が兄弟の「有益な習慣」を破壊していると見なされます。
 エホバの証人の間の愛がいかにはかないものであり、条件付きの愛であるかを悟ると落胆を覚えるでしょう。統治体の権威を了解し、そのすべてが正しいと口に出せば愛情ある目で見られるかもしれません。しかし必要なものが足りないと、たちまちの内に愛は消滅します。脱走の計画に着手するときあるいは正式に脱走する前であっても、必ず社会的な疎外を経験します。感情面での犠牲を強いられるかもしれません。
 我々、人類は社会的な生き物です。孤独と疎外を嫌います。「冷たい仕打ち」を受けると怒りといらだちを覚えます。そのため忌避の処置は効果的な手段として作用します。無視されたり、拒否される立場に立つなんて、なじみのない経験です。ですからエホバの証人から脱走するときには可能な限り、ものみの塔の塀の外に交わりを再構築する作業に取りかかることが大事になります。
「言うは易く行うは難し」――ひょっとして貴方はそう思うかもしれません。エホバの証人になって友人を作る段になると、本当のところそれほど困難はありませんでした。ものみの塔協会は信者間の強制的な交わりを強制します。各成員がどんな奇妙な人であろうと、どんなに不完全な性格の人であろうと、良い交わりをしていると見なされます。気ちがいであろうが、反社の人であろうと、犯罪者の疑いがかけられていない間なら、そしてエホバの証人になってすべての集会に出るなら、事実上、会衆の成員とは友人として一緒に交わるように要求できます。
 昔を思い出しますと、私は三つの会衆にいましたが、そのいずれの会衆でも、戸別伝道では奇妙な人たちや社会的に見て欠陥がある人たちとペアを組んで補佐役をさせられました。見知らぬ家の人に信仰を告白するという困難を覚えているというのに、驚いたことにその変な人たちは滅多に私のそばにいませんでした。友人を作るのが難しい人には強制を伴う友人関係は魅力があるらしい――私はそう思うしかありません。
 有り難いことにものみの塔の精神的なくびきから自由になると、もはや誰々と友人になりましょうとは言われません。個人的にあこがれる人たちの中からも友人として選べるのです。以前なら「世の恐ろしい人」と見下していた人と抱擁するとき、世的な人々はすばらしい人たちであり、道徳的な人たちであり、立派な人たちであると悟るでしょう。その人たちと友人になれるという特権を与えられます。そのような、円満な性格の人たち、希望がもてる人たちとタッグを組んで脱走の計画を始めます。ところでどこで見つけられるのでしょうか。
 まだ協会の境内にいたときでも、また消滅を実行する初期の段階でも地元で偵察を兼ねた下見を始めると、地元になじんでいく方法が分かるでしょう。手始めに未信者の親族からとりかかります。苦境に同情し、慎重に支援してくれる人で、頼れる人はいませんか。同様に、近所には頼りになる仕事の仲間や高校の同級生はいませんか。
 地元にはスポーツクラブはありませんか。ウォーキングのクラブはありませんか。地元の大学には登録できる授業はありませんか。料理教室やボランティアの児童クラブはありませんか。それに加入すると地元にとけ込み、社会活動の輪を広げるすばらしい活動ができます。周囲には「邪悪な交わり」や「世的な休日」と言っているものみの塔の壁が崩れます。仕事の仲間からクリスマス・パーティに誘われ、「はい、是非伺います」と言えないいらいらはもうありません。
 未信者の親族や近所の人や知人といった、新しい友人を作り始めるときに証人の経験をどの程度詳しく話せばいいか、決めなければならないでしょう。
 貴方の苦境に同情したり、心の支えとなって話に耳を傾ける人のクラスターを作ることは助けになります。協会から距離を置いているときに経験する、潜在的な不快感や敵意を経験するときは特にそうなります。しかし、近づく人が必ずしも貴方の窮地を理解するとは限りません。だからといって、同情されないと、変に落ち込んだり、不快に思ってはなりません。
 脱獄してきた、カルトチックな世界はふつうの人たちにとっては全く不案内なところです。宗教を良く知らない人、あるいは宗教に興味を持たない人なら、きわめて個人的なことに意見を言うことに不慣れな人もいるかもしれません。
 新しい友人は宗教をタブー視するかもしれません。その件はしゃべれないし、やっかいで難解な話題であり、論争の種だと思っているかもしれません。もし話しても中立的に反応する人がいたら、必ずしもその人が悪友であるとか、友情に値しない友人だという意味ではありません。もし宗教の話をされるとしらける人なら、その人はいやな思いを忘れさせてくれ、励ましてくれる仲間だと分かります。
 そうであっても貴方の経験に興味を示し、少なくとも困難なときに頼りになる友人を周りに持つことが好ましいのです。忌避をして家族崩壊をさせるとか、性的児童虐待を隠蔽するのは道徳的でないとか、輸血を受けるよりも死んだほうがいいと言っている証人の宗教での経験は必要ありません。貴方の苦しみを共有しようという人が地元にいるかもしれません。見つけられるのは時間の問題です。やる気次第です。
 元証人以外には苦しみを理解してくれる人は少ないかもしれません。しかし、ネットで支援者を捜せます。Facebokk ExJW Recovery Groupには114千人のメンバーが加わっています。心強い味方です。ex-JW Reddit pageには20千人以上のメンバーがいます。元証人が匿名で投書ができ、助言を受けられます。
 オンラインでほかの元証人と会話する機会が増えるにつれ、出会いの機会やオフ会に出る機会があるでしょう。そこでは同じ経験を持つ人たちと個人的に交わりができるでしょう。今まで各地の何十ものこれらの会合に出ました。ふつう、出席者は冗談を言える人たちであり、気分が高揚する機会が持てるでしょう。証人の信条と文化を徹底して教え込まれることもないし、背教者仲間に囲まれると、とても心理的な励ましを受けられるでしょう。
 出会いの席に出て、オンラインでほかの元証人と知り合える機会が増えるほど、共通した宗教の経験以外に共通の関心事を持ってはいても一種独特な人たちと知り合いになる機会もあるでしょう。以前に同じ宗教を信じていたからといっても、世俗的な友人になるという意味にはなりません。証人としてもほかの人から疎まれたり、社会的でない人がいたら、その人は依然として同じ行為を継続します。
 元証人の中にはものみの塔から離れてすばらしい元証人のグループに入ったり、代わりの組織に入る人もいるでしょう。そこでは誰とでも友人になるはずですが、忌避に罪を感じて、元の信仰を切望する人もいるでしょう(現実にはそれほど多くはありません)。友人を探すことには共通の何かを持つ人たちを特定する意味があります。人々には異なる側面を持っていて、誰でも同席に値するわけでもありません。
 悪意を持っている人や思いやりが無い人や、乱暴に振る舞ったりする人がいたら、その人との付き合いを止めたり、ソーシャル・メディアから遮断してもかまいませんし、それが必要なときもあります。不幸にも、賛成してくれない人たち、誹謗中傷をする人、自ら物議を醸し出す人もいます。もはやタブレットPC上でそうした人たちと交わりをしなかったり、電話もしないからといっても、その人たちを忌避したり、その人たちを排斥しているわけではありません。誰が友人としてふさわしいかを決めているだけです。ソーシャル・メディアを選別する権利を持っているのです。ほかの誰かに苦痛や陰湿さをことさらに言い立てる人がいてもいたしかたないと思ってはなりません。
 敵意を持っている元証人が近づいてきたり、口論になってしまう元証人がいる現実からは避けられません。だからといって気落ちしないようにしましょう。友人の輪にそのような人を入れないようにしましょう。スカイペでチャットして夕食に誘ったりしてユーモアを感じさせられるかもしれません。親切にしてあげれば元証人のチームを育てるために完璧に適合できます。
 多少は試練を受けても、しくじりをしても、辛抱強く、粘り強く、希望を持ちましょう。失った共同体は完全に立て直され、何もかも以前よりは良くなったと自覚できます。条件付きの愛や強制的な友人関係よりも周囲にいる緊密な集合体の一員なのです。すばらしい人たちから成るすばらしく、かつ多様なグループです。考えも信条も経験も異なる人々です。直にカルトの経験を語り合える人もいるかもしれません。宗教に人生を指示されることの意味をつまびらかに知らない人もいるでしょう。しかし、愛と支援と団結を与えてくれます。元証人の友人ならできないやり方で与えてくれます。おしなべて愛があり、自我としての貴方を正しく理解します。こうするべきだと強要する協会とは雲泥の差です。
 しかし社会との付き合いをうまくやることはとても有意義だと分かったとしても、それでも何か物足りなさを感じるかもしれません。カルトの経験がありますから、友人や愛する人から支えられ、理解されても、不確実性や心配や憂鬱感にかられるかもしれません。精神衛生の専門家を探すことを強くお勧めします。必要な支援者を見つけるためのヒントを次の章に書きましょう。


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