エホバの証人からの脱走


第4章 長老は味方ではない

 エホバの証人の信者はこのタイトルを理解できません。自己を犠牲にして管理している兄弟を侮辱しているのではないかと、疑います。長老は群れの必要の世話を主眼としていて、霊的な羊飼いだと思われています。「会衆を建て上げる」ためにエホバが備えてくださった「人的な賜物」ではないですか。なのになぜ長老は味方ではないのですかと。
 ハンドブック「エホバのご意志に組織される」を読んでください。そのP.30に次のようにあります。長老の取り決めの利益の一覧の後です。

悪行者のように安全を脅かす有害な要素から群れを守る努力

 言い換えるならば、ものみの塔から「有害な要素」と見なされるらような者から会衆を守ることが長老の大事な責任になってます。「エホバの組織」に戻った者もふくめ、「邪悪な者」と見なされる者は脅威であり、それなりに処遇します。
ある長老はまじめで優しいかも知れない。そうだとしても、長老はものみの塔に忠実です。到底、味方になるとは思えないことが理解できるでしょう。
「コーヒー一杯をおごり、私の疑問を話すなら」長老は理解と、組織から離れたいという私の願いを聞き入れてくれるかも知れない――その思いを口にするなら私の大局観に沿った話を伝えましょう。何に対しても動かず、何でもかんでも秘密を打ち明けられる長老がいたとします。真剣に霊的羊飼いのつとめを果たし、問題を抱えた会衆の一員が近づいた時には良き聞き手になろうとします。長老自身が疑いを持ったら信仰だ悩んでいた者に同情するでしょう。しかし、何はともあれ、「忠実な奴隷」に忠実なのです。
 長老に指名されてまもなく、ごく最近、離婚した姉妹の話のあらましを耳にしました。その姉妹は会衆に移動してきて、離婚が決定的になる前に地元の兄弟とプラトニックな関係になりました。姉妹の実の兄弟は長老団の調整者でもありました。結婚生活が破綻するとすぐにロマンスに陥らないように警告していました。明らかに罰にこだわっていました。その姉妹はボーイフレンドと共に「マークされて」訓練を受ける必要があると決断しました。
 「マーク」とは、名前ではなく、行為によって特定される人と交わりを制限する忌避とは異なり、それよりも寛容な処分です。「マーク」の対象がなくなり、その必要がなくなると思える理由があると解除されます。私はこの状況に深い懸念の念を持ちました。家族の問題にする意図があるように思いました。寛容さを求めた私の求めは無視されました。離婚の書類が通ったのに、その姉妹とその相手は会衆の交わりから切り捨てられなければならないとの決定が下りました。個人的には私には何の意味がないのに長老たちが決定し、それを認めたのですからそれに賛成する責任が私にはありました。
 ひとりの奉仕の僕が長老たちの決定に不満を感じていました。彼と席に座って話をしたことが忘れられません。この奉仕の僕はその二人とも親しい友人の間柄でした。会衆内では二人に対する処遇に反対していたことは知られてました。個人的な感情はともかく、決まったことに賛成の意を示すよう、私は頼まれました。僕としての資格が疑われたからです。言い換えるなら、「認めろ。さもないと降格だ」と言うのです。
 ルーキーではあったから、難問に当たっても成員に桃を傾け、頼りがいのある長老だと認められようとして苦い経験をしました。ほかの長老が後ろに座って見守るすちに、ひとるどほとんどの話をしましたが、奉仕の僕は困惑し、不満を感じているようでした。しかし、結局は圧力に屈しました。安心しました(彼が好きでしたし、彼を失うことは会衆にとって大きな損失だったからです)。
 納得のできる決断ができなかったと分かってはいても、満足のいかない行為をした過去には身震いがします。結局は実をひく前、長老として過ごした12カ月間、審理委員会を主宰する任務には就かなかったのですが、自分の信念に背いたのですからそれを深く恥じています。必要ならば長老はそうする用意をしますか――まったくその通りです。ものみの塔にとって、長老は現場のマネージャーです。協会やほかの長老の意見を異にするなら、意見をする資格はありません。なにはともあれ、長老は「忠実な奴隷」に忠実なのです。
 いくら親しい間柄であっても、会衆内の兄弟姉妹が疑いを持ったら、長老はその兄弟姉妹の霊性を回復できるかを心配し、「エホバを待つ」ように説得してその兄弟姉妹を救うことが長老の最大の任務です。さもないと「精神的に病んでいる」背教者として排除される背教者にしてしまうか、会衆の霊性を守るためにためらわず動きます。
長老の気質がのんびり屋で気が良くても、結局はほかの長老と同じ規則に拘束されています。例外はありません。それを念頭に「神の羊の群れを牧しなさい」のマニュアルに書いてある、背教者とする短いリストに載っている基準を読んでみます(そのマニュアルはずべての長老の行動を管理しています)。

 エホバの証人が教えている聖書の真理に反する教えを故意に広めること(使徒21:21、ヨハネ第二7,9,10)。誠実な疑問を抱く人には援助を差し伸べる必要がある(テモテ第二2:16-19,23-26、ユダ22,23)。かたくなな態度で偽りの教えを語ったり、故意に広めるなら、それは背教と言える場合がある。あるいは背教に発展する可能性がある。一度、また一度訓戒してもこたえ応じないときは、審理委員会を設けるべきである(テトス3:10,11、「ものみの塔」89/10/1 P.19、「ものみの塔」86/4/1 P.30-31、「ものみの塔」86/3/15 P.15)。

同じ文書の断絶に関する項を考えてみよう。


排斥は、悔い改めない悪行者に対して審理委員会が取る行動ですが、断絶はエホバの証人としていたいとは思わくなった個人が自ら取る行動です。長老団は、事実を確認するため、三人の長老から成る委員会を設けるべきです。

 断絶を定義しているほかに「神の羊の群れを牧する」のマニュアルには「別の宗教に加入する」、「故意に血を取り入れて悔い改めない」(血を取入れての救命処置は罪だと明確に書いている)、「クリスチャン会衆の中立の立場に反する歩み」(例えば、政治的なキャリアアップのために政党に雇い入れられる)が書いてあります。このリストの最初の項目を次に示します。

  すでにエホバの証人として知られるほどに決意が固いことを明確にしている。当人が同意するなら、まずは当人に話し、霊的な援助を与えるように努める(ガラテア6:1)、本当に断絶を望んでいるのか。それとも会衆と活発に交わりたくないだけなのか。その意見を書面にして署名するよう伝える。当人がそうしないなら、その意向についての複数の証人と書面を準備する。それは秘密ファイルに保管する。

 これから次のことが読み取れます。長老たちが組織にいちやもんを付ける者がいるときに意見を求められるなら、信じるに足るほどに決意が堅いときは、情け容赦の余地はないと明確にしています。もし長老が訪ねてきて疑いを耳にしたら、直ちに喜んで意見を撤回しない限り、極めて危険な立場に置かれていることがすぐに分かります。ひどく落ち込んでいると言うと、それが本当でも単に落ち込んでいるとか自信がないだけになります。
 絶対的で間違いの余地がないと言われている証人の真理の教えの物語に当たりさわりのお世辞を言っている限り、無傷で済んでしまう機会があります(なお、その真理というのは、宗教にうんざりしているなら受け入れるのが困難なだけの真理です)。長老が、もはや証人のままでいたくないなと検知したり、ほかの人に背教の考えを広めるのではないかと疑ったなら、それまでいくら親密な交わりをしていたとしても、たちまち、困難な状況はいっそう、さらに悪化するだろう。
 もちろん、ものみの塔からの脱走計画の考えをこねくり回せば、証人から完全に幸福な状態で断絶できます。知っている人がいても気にしなくていいのです。証人とのつきあいを切られるなら忌避する家族がいないのでしょう。家族や愛する人に証人がいないなら、ものみの塔からの脱走はふつう継続して起きる忌避を考える必要がないのだからとても快適です。
 もし、証人の世界から消えてしまいたくても、家族から不信の目で見られながらも、家族との絆を保ちたいなら、長老との仲を保つように助言されるでしょう。長老のものみの塔に対する忠節を甘く見てはならないでしょう。長老に疑問を明かすなら、特別な処遇をすると想定できます。集会に出るとか、家庭で長老とお茶しようと言い出す長老がいるかもしれません(女性なら長老がひとりで来ることはない。だれかひとりがそばにいる)。いちゃもんを付けてくる長老がひとりなら、背教の嫌疑をかけられていないでしょう。まだ黄色信号です。わびるのがいいでしょう。疑いを止めてしまうまで話し合いの場を延期するほうがいいでしょう。何を言わなくても招待されるでしょうから話し合いの場に出席しなければならないなら、できるだけ、短時間に済ませましょう。できるだけ個人的な情報は控えましょう。あからさまに信仰や霊性を尋ねられたら次のように答えましょう。「その件を話すのは気がひけます。友人としてあなたに一目置いています。しかし今は何の益もないでしょう。気が向いた時に 私の霊性を話したいのです。どうか察してください」。このように冷たくあしらっても長老がつきまとうなら、会話を終わらせる権利があります。
 二人の長老が訪問したいと言ってきたら、同じ助言をします。もし、その二人があきらめるまでできるだけ延期します。ふたりの長老がちょっかいを出してきたら、潜在的に深刻な状況になってきたなと知るべきです。これは赤信号です。ふたりの長老が関わっていると次の意味がふくまれます。@いつしか不活発になるらしい(牧羊の訪問を受けている)。Aまさしく「二人の長老」で、審理委員会を開く必要があるか決めるために接近している。牧羊訪問の場合、予告なしに訪問するなら同じ会話が当てはまります。できるだけ適当にドアの向こうに離れて話なさい。知られていない個人的な情報は話してはなりません。牧羊が避けられないとしたら、事実通りか彼らが知りたいことをまじめに答えてもそれを不快に思ってはなりません。「訪問してくれてありがとう。今は霊的に弱くなっていると思っているので集会を休んでました。エホバのために尽くしていないと不快に思うときに王国会館に行くのはふさわしくないでしょう。当てはまる聖句があれば、そのようにします」)
 嘘を嫌うべきだとか嘘をつくのは間違っているといると教えられても、長老が個人的な問題を間違って指導していることを理解すべきです。長老が関与する問題ではないのに間違っているか、くらべられません。深入りして疑うなら迷惑がかかります。情緒が許す限り、排斥は避けるべき処遇だと助言を受けるでしょう。この不道徳的な、聖書的でない処罰を忌避する必要があるか罪に感じる必要はありません。たとえ精神的な病気にかかっているふりをしたとしても(おそらく重い病にかかり治療する人を捜しているなどと言って)この種のうつは、残虐性に比べられません。不信仰の道に乗り出しているとか、罪深いと思われる何かをしていることが長老に見つかるとその乱暴さが跳ね返ってきます。正式なものみの塔の手付きに従い、何らなの有罪にする可能性のある問題に対し、審理のための二人の証人の要件は満たされます。
 もし二人の長老が訪問して来たなら、また、質問の性質によってことを審問の対象にする意図があるか明らかになります。牧羊の性格があるなら、あいまいで前向きな口調になります。「最近、王国会館に見えてませんね。ひょっと立ち寄って聖書から何か励ましになることを申し上げるのがよろしいかと思いました。私たちにもあなたの霊性が大事です。必要な助けが得られているか確かめたいのです」。この場合でも前に書いたあしらい方が当てはまります。目標は、短くあしらい、彼らの知らない個人情報を漏らしたり、霊性を漏らしてはなりません。
  長老の口調からあいまいさが薄れ、前向きでないなら、目的は牧羊ではないなと知るべきです。「最近、とても注意を引く、憂慮すべき事件が起きました。何が起きたかを正確に把握し、あなたに霊的な支援をして、確実に会衆を清く保ちたいのです」。こうなると事態は大いに深刻です。裁きの取調を受けているのです。赤信号を点灯させる必要があります。
 裁きの取調はその性格によっては、とても緊張しますし、問題が多いものです(背教の嫌疑なのか、あるいは何か背景があるのかを取調べているのか)、いやしくも誰か長老が関わっていないか。その二人は理性的なのか、共感を覚えるのか、リべラルな長老たちか。懲罰できる犯罪を摘発しようとするものみの塔のならず者なのか。脱走計画を計算し、エホバの証人としてとどまり、家族との関係を保ちたいと思うなら、審理の手続きを無傷にやり過ごす術を目にするでしょう。
 結婚に関する私の軽率さに彼らを巻き込もうと決めた時の軽い衝突を述べます。妻を中傷したかのように詳細に述べる手紙を調整者のドアに差し入れました。きわめて内密なできごとにでしゃばったまねをして取調べられる審理委員会になりました。思い返せば何のとりとめのない事件で彼らにしてみれば何の手も下せない個人的な事件にいらいらさせたと思います。「郵便配達人や店の店員以上に情報を何か知る権利が無かったのでした。
  郵便配達人と長老に何が違うかというと、長老たちは「霊的助け」を差し出すと言い訳をして、人々の個人的な生活を妨害する権威を持っていて、神の組織から指名されたと信じて。勘違いをしているのです。夫婦の性生活であろうが人の信仰であろうが、任意であってもとても個人的な事件を聴取する資格はないのです。信者に対する長老の権力はあなたが選択した権力です。長老は現場の管理者に過ぎないのです。その組織は歴史上、あてにならない者、失敗をやらかした者、有害な者と何度も何度も証明された組織です。だから長老はまったく何の権威も与えらていないのです。
 これは長老が審理の事件をあつかうときにどう対処するか心構えです。長老たちはもはや権力はないと長老たちに分からせることが大事ではありません。そうは思っていなくても、長老たちを尊敬し、面倒をかけたと思わせる必要はあります。穏和で親しみを覚える口調で語るのです。それに続くであろうシナリオを示します。経験するであろう非難をどうやり過ごすかを暗に示します。

シナリオ1:あなたは組織に「小言を言っている」とか不遜にも組織に意見を言っていると、親しくしていた誰かが長老に密告します。
反応を提案:そのような会話をしたのは本当だ。しかしそれを正確には思い出せない。わたしのことばを誰か嫌なやつが誤解したとらしい。はっきり言って、わたしが言うことばでないからです。確かに最近、霊的に悩みがありました。しかしそれほどひどくはありません。それを長老にいいふらした嫌なやつにも感謝する。そうすると安心するでしょう。長老と話ができて援助を得られた機会ができて感謝する。

シナリオ2:インターネットの背教者の資料を読んでいるところを家族に見られ、長老に密告される。
反応を提案:だれか嫌なやつが密告したことに感謝する。誤解していたし、それを芽が出る前につみ取られないかと心配していたからだ。最近霊的に悩んでいて背教者が何を言っているかを見てそれを拒めるか確かめているのは本当だ。インターネットを見ていると、情報には納得がいかないし、忠実な奴隷から学んだこととは一致しないと分かった。どれほど嫌なやつなのか、分かったから今すぐにでも謝りたい。

  長老と胸襟を開いて語ったからといって上に書いた反応は人を騙したように見えるかも知れません。長老たちを騙してぞっとするかもしれないし、長老たちの教え込みから救出したいと望むかもしれません。そうする資格はあります。しかし、テーブルにカードをならべて火遊びをしているのです。不満に正直なのです。まな板に向かって直進している状況です。首尾良く消えてしまうか、自分の言葉で断絶するか、他日の闘いになります。
 ふたりの長老があなたの言い分に不満を感じるとそれを長老団に報告します。そして審理委員会を開くために三人の長老が選ばれます。審理委員会の聴聞の日時を知らせてきます。通常は王国会館でやります。このときには四つの選択肢があります。
選択肢1:断絶届けを書きます。審理委員会が開かれる時点までに脱走する気がないなら審理委員会の席上での断絶は望み薄です。運命を受け入れて、三人の長老の座っている場にしょっびかれる圧力から守られる良い機会です。組織と絶縁することはそれ自体厳しい試練です。しかし、どれほど激しい断絶の余波を受けても、ほかの大勢の人たちが経験したような、幸せで充実した生活が待っています。
前の章に断絶届けの見本を上げました。
選択肢2:ものみの塔の信仰を保ち、長老の努力に報いると説得する目的で審理委員会に出席します。排斥を避けるためには、真実かどうかにかかわらずあなたに対する非難に悔い改めを表す必要があります。非難がどれほど不誠実であろうと、もしも非難を否定すると長老たちが選択の余地があると感じても、審理委員会が開かれたのですから罪はすでに決定されました。長老たちが心配するのは悔い改めを立証することです。もし悔い改めいていると思われると、戒めを受けます(告知され、集会での注解が制限される意味です)。もし悔い改めいていないと思われると排斥されます。

「罪がある」と主張しても考慮されません。もし長老らが取り下げようとするなら、審理委員会を開く根拠がありません。ものみの塔がそうであるように、長老たちは間違いを認めるほどには偉くありません。
審理委員会に出る前に「神の羊の群れを牧する」をダウンロードすることが大事です。Googleで検索すれば見つかります。「審理委員会の手続き場の書いてあるP.89からP.94をご覧ください。悔い改めを決める長老たちの要件にどう答えればいいか心構えができます。何が期待できるか、内部情報が得られます(例えば゜悔い改めが見られるとそれはエホバに祈り、エホバの許しと慈悲を願っているのです。ですから深入りしていないし、エホバに許 しを祈っていると長老たちに伝えられるでしょう)。
 十分、確信しているなら、長老には選択の余地はありません。叱責処分を言い渡します。排斥を回避し、脱会を計画し、実行する為の時間稼ぎをする意味があります。排斥される決定が下されても、落胆しないように。一人の人間としての扱いを何も告げていないし、どれほど組織が操っているか、規則に取り憑かれているか、裁きたがるのか如実に示しています。あなたは今や組織から自由なのです。

選択肢3:審理委員会出席を断る。欠席で排斥になります。審理の取り決めに協力的でない証拠だと解釈されます。
選択肢4:審理委員会の手続きを遅らせるために精神衛生の専門家か法律家の署名した手紙を入手する。深刻なストレスを感じていて長老が取調を止めないなら自殺するかも知れないと書かれた手紙を受け取ると長老たちは調査を止めるか延期します。法的手続きをほのめかす手紙だったら、同じ結果になります。

告発された人が自殺をほのめかす場合は、当人がバランスを取り戻せるよう助けることを優先して、聴聞会を保留にするのが最善でしょう。……疑問があるなら、支部事務所と連絡を取るべきです。……告発された人が、長老たちを法的に訴える、と述べるなら、長老たちは扱いを保留にし、直ちに支部事務所に電話すべきです(「神の群れを牧する」P.86)。

 忘れてはなりません。選択肢4は長老の注意をほかに向ける保証はありません。支部委員と相談した後、審理の動きを継続するかもしれません。時間稼ぎに成功するだけです。法的手段をちらつかせる場合にはしんらつさと病気の兆候はさらなる質問を呼ぶでしょう。おそらく、不安定な状態をますます深くするでしょう。それでも状況次第では審理委員会に対してどれだけ必至に抵抗をしているかで展望が開けるでしょう。
 もちろんどの手段を取るか、決めるのはあなたです。その決断で影響を受ける家族や親友の恐れと心配を考慮しても結局はあなたの生活です。脱会に抵抗する矛先はあなたに向けられているのです。どの道を進むかは、自分が最善を尽くしたと後で満足できる選択肢を慎重に考えた上でです。
 ものみの塔は人を牢の中に閉じ込める組織です。しかもこうした立場に立たせる恐ろしい組織です。何があっても闘っているのは一人ではないと分かるといくらか慰められます。インターネットを見れば、自発的な自由と家族の絆を天秤にかける機会を経験しているは一人だけではないと分かります。
 信仰している親族に衝撃を与えたけれども、本当の生活を生きる道を選んで悔いはないと言えます。何はともあれ、もうすぐ組織とは別れるのです。間接的な断絶の余波が影響するなら、エホバの証人の家族からの反発に涙を流しても、最初の爆撃の間に経験した苦しい生活から、より優れた、本当の生活を生きる者には、それを現実だと感じる喜びと満足があります。エホバの証人からの脱会は妊娠にくらべられるかもしれません。しばしば痛みは酷く、いつまでも続くと思えるかも知れません。しまいにはすべてやりがいのある立派な経験になります。
 脱会をブロックしようとする長老が何をするかを知ると、インターネットの活用など、必要な他の分野に目を転じられます。
(訳者注:「神の羊の群を牧する」の日本語版は現在ダウンロードできない)


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