エホバの証人からの脱走


第1章 だれのところに行けばいいのでしょう

  一人のエホバの証人としての時間を過ごした者にはこの章の題名はなじみのあることばでしょう。ヨハネ第6章の使徒のことばとしてそれが記されています。イエスの肉と血を民に施すとイエスが語られると民衆の怒りが起きたばかりでした。シナーゴーグでイエスのことばを聞いていた聴衆はぞっとする様子で口調で「これはひどいことばだ。そんなことを誰が聞いておられようか」と語り、尻込みしました。弟子たちでさえ、「多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」。
 イエスはもっとも忠実な追従者(12使徒)に向かい、お前たちも見捨てていくのかと尋ねられました。ペテロはすべての追従者の行動をもっともらしく言いました。「主よ。私たちはだれのところへ行きましょう」。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネ6:60〜69)。
 エホバの証人は頭の中にものみの塔の信仰が本物かどうか疑い始めたら、イエスとペテロのこのやり取りを考えるようにと言いくるめられます。ものみの塔誌には「エホバの霊と祝福が,神の用いておられる一つの兄弟関係と関連づけられています。会衆のだれかにいらいらさせられるとしても,ほかにどこに行くことができるでしょうか。永遠の命のことばを聞ける場所は,ほかにありません。―ヨハ 6:68」(「ものみの塔」2010/9/15 P.16)と論じられています。ほかにもものみの塔誌には次のように書かれています。

 キリストとその忠実な追随者との交わりをキリスト切り捨てることで(イエスを捨てた弟子たちは)霊性と楽しみを失った。クリスチャン会衆との交わりを止めた者はほかに豊富な霊的食物を備えた場所を見出せるだろうか。はっきりほかには無いと断言できる(「ものみの塔」1968/11/15 P.14)

 白か黒かのジレンマは二つの選択肢で示されます。クリスチャン会衆を奉じる者として本物の会衆と交わるか、失望と暗黒と無益さへの旅立ちか、です。
  エホバの証人は、「神が用いられる兄弟の交わり」であるとの前提を否定すると、証人の信条をまともにうたがってしまった者には上に書いた選択肢は意味が無くなります。あるいは次のような二つの論法が考えられます。クリスチャンの論法と無神論者の論法です。
 貴方がキリスト教の信徒であるならエホバの証人の信仰を否認してもキリストを否認した意味ではありません。ペテロはイエスご自身に背を向けたのでしょうか。唯一、義認されたと主張している、ニューヨークに本拠を置く指導者の級に背を向けたのではありません。マタイ7:21から23のみことばが思い起こされます。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』


  申命記18:20〜22のみことばを考えるべきです。神の名で偽りの予告をくり返すという観点から見ても悪名高い集団を不思議なほど予告しています。

ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。

 心配しようが、疑問を感じているかに関わりなく、ものみの塔にとどまれと操る力に押されていると感じても、それを恐れたり、不安になる必要はありません。協会は度重なるダブルスタンダード、無能力者しての行動、嘘の記録をごまかし、虐待を隠蔽し、一貫して失敗者としての悪評を高めてます。統治体に従いイエスの追随者にならいましょうと言いたいのなら、神の命令の根拠を示すことがものみの塔の義務です。もう少しすれば実現するような命令ではないはずです。
 ものみの塔であっても、キリスト教を告白する人たちと同じく、十分な数の成員が確信できる、唯一の神の信仰と希望を与える組織であると排他的に主張できます。しかし平易な真理はこうです――エホバの証人の信仰を否認できますし、自分はクリスチャンだと名乗れます。実際に大多数のクリスチャンはそのようにします。元統治体成員のレイモンド・フランズは次のように書いています。

私の場合、どこに行く必要も感じない。「永遠の命のことば」を持つ存在を知っているからである。直接の、あるいは手紙を通じての知人たちとの交流を嬉しく思っているし、教義や言葉の上だけではない、生き方としての真理を追い求める知り合いがこれからもさらに増えることを望んでいる(「良心の危機}P.446)。

 無神論者は次のような理屈を述べます――まず第一にペテロとの会話があったとは証明されない。だからその問題に深入りする必要性は少ない(もし、独占的に聖書を正しく解釈できると主張する多数のクリスチャンならそう主張するであろうとの意味について語るとしたら)。
  聖書には元気が出る話がふんだんに書かれています。しかしそれらの話を微に入り、細に入って調べるとそれらの性格は首尾一貫していないと分かります。信頼できる、歴史上の説話で成立していると言うよりも作者不詳の創作の作品集らしいのです。実際、世界中の歴史上で2000年間の間にかなりの影響を及ぼしましたが、熟慮するとその由来についてどれほど知らないことが多すぎるのか分かるでしょう。サイモン・ラブディはその名著、「成人のための聖書」の中で次のように述べてます。

矛盾しているようではあるが、新訳聖書の書士よりも旧約聖書の書士のほうがよく知られている。
四人の福音書書士(イエスの死後にその報告を書き残した者)についてはほとんど何も知らない。その作者の名前を知らない。福音書原本は作者の名前を明らかにしていない。マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネはすべて初版が書かれ、流通されてから原本に付け加えられたと推測されるに過ぎない。福音書士がどこで生活していたのか知らない(ユダヤの域外であるらしい)。 福音書書士の性別すら知らない。女性は含まれていなかったらしい。特にルカ福音書ではそうだが、四つの福音書のいずれもが女性が重要な役目を果たしている。書士がユダヤ人なのか、異邦人なのかすら定かではない。

 信者であろうが未信者であろうが、できるだけ素直にし、現実のありままの論理をまゆつばものの話や間違った理屈へ当てはめようとはしません。永遠の命の約束を無視したり、イエスを否認すると分かると一種の快感を覚えるかもしれません。しかし、ヨハネ六章のみことばを長年教え込まれたら(例え年少のころからでも)「仮説」によって説き伏せられるのではと心配になるでしょう。しかし、何か見落としていませんか。自分の先入見に頼りすぎていないでしょうか。そうして大事なもの、永遠のものから目をそらしていないでしょうか。
 決してカルトの教え込みを過小評価してはいけません。ひどくこっけいな話や突飛な考えでもそれが執拗に繰り返されるとそれを拒否した後でも心の中からそれらはなかなか消えません(特に情緒的な思いこみや恐怖を利用した場合はそうです。未信者もハルマゲドンで滅びる人たちの範囲に含まれます)。そのため自由を得る努力をするときに疑念が起きたり過去のひどい苦しみを思い出さないかと心配になったとしてもそれは想定内です。
 この本を最後まで読んだとしても、またエホバの証人から決別してもまだ恐れや不安やパニックに悩まされても落ち込まないように。組織の嘘を確信してからそのような苦しみと闘ったとしても全く正常です。
 今まで長い間、ものみの塔の信仰を表沙汰にし、書いてきました。その私でさえ、ほんの一瞬といえども不安を感じますし、自責の念にかられます。もっとも2013年に脱会してから年が経つにつれ、これらの出来事は少なくなりました。それでも私がゆらぎのある嘘について書き始めなければならないとしたら、また貴方が脱会の計画にとりかかっただけの段階なら、同じような苦痛と闘う事態は避けられないのです。
 そのような事態に陥ったなら気持ちを落ち着かせ、頭にこびりついた疑問を解くためには裏打ちされた、簡単な精神的鍛錬をするほうがいいと分かりました。これは、次の章の土台となり、間違いなくものみの塔の教義から抜け出す訓練のためのツールです。それは「もっとよく調べろ」です。
 第2章に詳しく述べますが、何であれ、熱中するような理論、事実に基づく情報らしいのに、欠陥のある理論や根の深い嘘を抽出できるものはありません。もし心の中に疑問やフラッシュバックが起きるなら心の中は戦場になります。戦場で嘘と闘い、嘘を処理しなければなりません。
 特別に不確かさをテーマにしている本やビデオやブログのコンテンツはなかば「氾濫」しています。時にはそれに寄り道をすると、正しい王道を歩いていて、エホバの証人から脱会する決意は正しく、正当だと確信を持てるし、安心できます。ものみの塔は 心を乱し、動揺させる考えを心の中に深く注入させていますから、十分に除去できないかもしれません。しかし少なくともどのようにして操られたのか、どのようにして誤った情報を与えられたかを思い起こすことで心配や不安を抑えられます。
 ところで貴方は一人のエホバの証人としてどのように疑問に対処していたかどころではないかもしれません。ものみの塔の書籍によれば、証人が疑いと格闘するときには三通りの解決策を実行するようにと論じています。第一は祈りをすること。第二はものみの塔の出版物だけを用いて疑問を研究すること。もしそれでも解決できないなら「エホバを待たなければならない」のです(エホバの「忠実な奴隷」級がもっともよく知っていると信じて頭を砂の中に突っ込んでいる)。1996年の「ものみの塔」誌は次のように助言を与えています。

7 もし自分個人として,ある教えが理解しにくい,あるいは受け入れにくいと思えるなら,どうでしょうか。そういう場合は,知恵を祈り求め,聖書やキリスト教の出版物を調べてみるべきです。(箴言 2:4,5。ヤコブ 1:5-8)長老と話し合うのも助けになるかもしれません。それでもまだ理解できない場合は,問題を保留しておくのが一番良いでしょう。もしかしたら,その論題に関するさらに多くの情報が発表されるかもしれません。その時にはわたしたちの理解も深まるでしょう。しかし,自分の違う見解を会衆内の他の人たちに受け入れさせようとするのは間違ったことです。それは不一致の種をまくことになり,一致を保たせる働きをしません。それよりも,「真理のうちを歩みつづけ」,他の人たちにもそうするよう励ますほうがどれほど良いでしょう。―ヨハネ第三 4。(|ものみの塔」1996/7/15 P.16)

 エホバの証人の心の中に疑いが芽生えるときには、唯一、神が監督している組織とみなしているものみの塔はその教義や神学的な主張に間違いをするはずがないと推測して解決されるらしい。世的な議論には耳を傾けず、組織に対する批判はなんであろうとシャットアウトしなければなりません。以前確立された独善的な教義が蒔いた論に反する論を見つけてもエホバの証人はそれを自己検閲しなければなりませんし、不確実なものを信じるためならあやしげなものには近づかないようにと繰り返し言います。
 しかし一度、ものみの塔の恐怖から解放され、脱会の決断をしようかと考えるとそれ自体が満足できる解決策になります。そうすると有意な調査や客観的な調査を通して、また発見したものを恐れないで問題を賛否両方の視点からしらべる自由を手にします。「私を惑わす特有の教えとか信条は何でしょうか」と尋ねるかもしれませんね。それを特定しても次のように聞くかもしれません。「確信するようにと組織から信仰させられたものは何でしょうか。この件に関してものみの塔の出版物はどのように述べてますか。ほかの学者らはこの件では何を語ってますか。その教義は明確な、論理的な意味がありますか。客観的に真理として受け入れられるものですか」。
 エホバの証人は疑うことを恐れ、それが顕在化する前に根絶やしにするように教えられています。すべてが正しい答えはないのだし、これからも断じてありえないと分かると、証人は懐疑論を甘受するのだと自分に言い聞かせられます。強制力に基づいてか、または間違った情報に基づいて行ったり、罪の感覚や価値が無いものと感じさせられて行うなら、疑うことは快いものにはなりません。しかし、一度、討論したり論理により適切なものを手にすると、それがどれほど進歩的なものか、成熟しているもので価値があるものかが見えてきて世が目新しくなるでしょう。
 時には疑問が噴出するかもしれませんが、適切な調査・理詰め・筋の通った理論で培った知識と理屈を身に付けると、悩みは減り、半信半疑の思いは減ります。疑問が無い状態やなんでも知り尽くしているという思いをするならそれはおそらくパニックに陥っています。ものみの塔に限らず、カルトに支配されるでしょう。
 ものみの塔の影響から抜け出す過程で大事な道具としての調査手法を確認すると、嘘を寄せ付けない助けとなる情報源を試せるでしょう。調査手法をできるだけ効果的に活動的な道具として使えるでしょう。エホバの証人から脱会した後にどんな宗教にするかまでは言及しませんが、ものみの塔から脱会したのだから「永遠の命」を破棄したんですねと言われないようにしましょう。
 宗教を信じるか否かに関わらず、人生は貴重な賜物であり、きわめて稀少な賜物です。邪悪な考えを信じたり、詳細な説明に時間を費やすほどの余裕はありません。「主よ。だれのところに行けばいいのでしょう」と問われれば、私は「どこにも行きません。嘘と邪悪な見かけ倒しのものを取りのぞいています。もうそんなものに惑わされませんし、幸福に生きています」。


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