きっと彼は俺達の救い方が分からなかった。そして俺達は贖罪の方法を知らない。 俺達はあの日以来、夢を喰って生きている。夢とは網膜に焼きついた残像を指す。桂がどの程度侵食されているのか知りたいとは思わないが、常に夜のような闇に閉ざされた俺の場合、夢とは今のことだ。 俺の二度と光を映さなくなった目にはきつく包帯が巻かれている。万斉は傷ついた眼球が膿んで命に関わるとぐだぐだ言っていたが、俺と桂は聞く耳を持たなかった。 白夜叉を愛したことのない奴には決して分かるまい。白夜叉の神のような剣筋が永久に瞳に閉じ込められていることの幸福さも、彼の残滓で死ぬなんてこの世で最高の死に方であることも。 「高杉、出来たぞ」 襖が開き、桂の声と夕餉の匂いが入ってきた。桂は卓袱台に恐らく大皿を一つ置き、また台所へ消える。夕餉が全て台に揃うまでに彼は十回ほど台所と居間を往復しなければならない。 「今日は肉じゃがと鮭焼きだ」 そう言って奴は俺の隣に座った。そうして大皿から肉じゃがを小鉢に盛り直し、俺の分の鮭の骨を取り始めたようだ。残された彼の右腕はもはや刀の腕ではなく、もっぱら俺の世話に使われている。 他のものは何も見えないのに桂の気配だけは何故か克明に映し出されるのが可笑しい。 「先に茶ァくれねェか」 昔なら文句の一つも出てくるだろうが、桂の優しい手が俺の手を湯のみに誘導した。湯飲みを引きずっても何もひっくり返らない。ご丁寧に俺と湯のみの間の道を片付けたらしい。 茶をすする。温かった。その可もなく不可もない液体を飲み下した時に顎を掴まれる。「鮭だ、よく噛めよ」と不気味な言葉が聞こえ、箸でそれが口に入れられた。 「美味いか?今日のは自信作だ」 俺が答えるより先に、次の欠片が口に侵入した。正直に言って不味い。ただ焼くだけの魚をどういじくったらこんなに不味い味になるのだろう。こういう要らない部分だけ桂は変わらない。しかし一切れにつき三十回は噛んだ。まるで寺子屋の生徒みたいだ。 「次は肉じゃがだ。食事はいろんな皿に交互に箸を付けなくてはならんからな」 肉じゃがは手が込む分、更に不思議な味がした。甘く饐えて、しかし健康的な芋の味。 じゃがいも、肉、人参、玉葱を順番通りに食べさせられる。桂に食わせてもらっているという退廃的な心情が胸に満ちて、俺は昔なら残した量の食事を完食する。最近の一番の健康法は自虐食事法かもしれない。 俺の食事が終わると、夢語りの時間が始まる。俺の長ったらしい妄想なのか夢なのか曖昧な話を聞きながら桂はようやく食事を始める。大抵一口二口で全て残してしまっているようだ。その証拠に、日に日に桂の肩から肉がなくなり、俺がそれに体重を掛けると苦しそうに息を乱すようになっていく。桂も俺も病人だ。でも、俺の世話を出来なくなる寸前で桂は食事を詰め込み体重を戻しているのだ。 そんな無茶をしても彼は何も吐き出せない。食事でも吐き出せれば、失った言葉も流した幻想に浸れるかもしれないのに。 桂は中途半端に不幸だった。そんな彼に語る夢はいつでも中途半端に幸福だった。 刀を研ぐ音がする。 戦時中は刀を研ぎに出せるはずもなく、全員が研ぎ石を共用して刀の手入れをしていた。 ふわふわした銀色の髪が、刀と石が触れ合う音に合わせて揺れる。馬鹿みたいに姿勢を正した俺達と違い、彼の背は曲がっている。それでいて上半身はリズム良く動き、刀が望む通りにそれを磨いていた。 彼は一度刀を空に翳して輝きを見た。気に入らないらしく舌打ちをして研ぎ石に向き直る。 鬼が刀に血を塗りこむ。研ぐほどに彼の刀が薄紅色に染まり、それを持つ彼は人から鬼へ強制的に移行する。 ふわふわの天然パーマが太陽に反射して綿飴のようだった。白夜叉が振り返ってくすりと笑う。凄絶だった。いつもは濃い赤目が薄紅色に染まったような気さえした。 「俺で試し斬りしねえの?」 揶揄でも挑発でもない、単なる疑問を問いただす声が聞こえた。自分の声が懐かしい。 俺達はいつから自分を懐かしむなんて気味の悪い行為に耽溺するようになってしまったのだろう。 「しねえよ。というか出来ないじゃん」 「なんでだよ。俺は逃げない。刀も抜かない。白夜叉の刀の一部になって生き物を斬る。もしかしたらお前がヅラも斬ったら血になって交じり合って、白夜叉の戦績に貢献する。何がおかしいんだ?」 白夜叉は俺を憐れみの目で見つめて、その白を脱ぎ捨てて青い着流しになった。 ああ、青など着ないでくれ。お前に青は嫌なんだ。 「銀時」 裾に許しを請うかのように跪いて、流れた血の涙を拭く。彼は優しかった。 一瞬で白夜叉を捨てた男は俺を殺すこともなく優しく拒絶した。ああ、お前の優しさは嫌いだ。優しさなんて俺達に向ける必要はなかった、ただ抉るだけ抉って捨て去れば少なくとも終末は。 「だって、俺を斬るのはお前らじゃん。幸福なのか不幸なのか分からないくらい、必然的にさ」 高杉がゆっくりと俺の肩に頭を乗せてきた。 「………最後に銀時と背中を合わせて戦った日を思い出したんだ」 その日のことを彼は語ろうとはしなかった。だが、それだけの言葉で俺も思い出してしまった。 多分高杉は泣いている。自分で語っておいて勝手に泣き出すとはなんて奴だ。 ―――俺達は三年たった今でもそんな馬鹿らしい行為を繰り返している。 一体終わるかもしれないとほざいた愚か者は誰だ。 一体白夜叉を殺せば解放されるという浅はかなことを本気になってしまった俺達は誰だ。 一体何故銀時はこんな馬鹿者達を許してしまったのか! 「あの日………お前の鬼兵隊が数にして十倍ほどの天人軍に斬りこんだ。ほとんど交渉がまとまりかけていた幕府側に攘夷派の力を見せるためだったな」 「白夜叉とお前も来た。……悪あがきだった」 高杉の声が震えた。両目をきつく塞いだ包帯がじわりと濡れていた。 夜叉殺しの代償として、血の涙でもなく、ただの人のそれを俺達は取り戻した。灼熱の涙で死んでしまえばいいのに。 「鬼兵隊は半分を割っていた。白夜叉、桂、久坂、入江……挙げるのが馬鹿馬鹿しいくらい友が所属していた隊は例外なく壊滅状態だった」 「全てが終わりかけていたんだ、高杉」 「そうだったなァ。若干二名ほどの愚か者が終わらすまいと話を継続させてしまったんだったな。―――とにかく壊滅した隊をかき集めた軍だった」 あの日以来、夢を見ない日はなかった。俺達は毎日自分が見た夢を―――大抵複数回見ている―――を一日掛けて語り合う。それ以外にすることは何もない。 同じ経験をしていても、心に留まる記憶は人によって違う。その心理が俺達を食い散らすと知りながら、互いの夢語りで思い出せていなかった仔細のことを思い出していく。 「白夜叉は鬼と人の狭間を彷徨っていた。本当は俺もお前も皆が、銀時を鬼にしてはいけないと分かっていた。ああ、今ようやく認めることが出来た。―――それこそが、松陽先生が望んだことだった」 だが俺達は怖かった。攘夷が破れたら全てが無くなると思い込んでいたからだ。 いつの頃からか、白夜叉と攘夷は一体化してしまっていた。 皆一様に可哀想で、攘夷の名を借りて自分で自分の愛したものを捨ててしまおうとしていたことに最後まで気がつかなかった。なんだって一番気がつくべきでなかった銀時だけが気がついてしまったのだろう嗚呼! 夢は全て銀時の夢だ。 それは彼が望んだかもしれない事と俺達が彼に望んでしまった事を奇妙に繋いだ狂気だ。 「不思議だよなァ。万事屋の銀時を追っていた時は、傷つけ傷つけられた思い出しかないのに」 高杉と俺の夢は同調している。これが銀時の呪いだったらどんなに楽だったことか。 「―――奇妙に優しい、だろう?高杉」 高杉が力なく頷く。もはや抜き身の刀のようであった彼はいない。喜ぶべきか悲しむべきかも分からない。嗚咽が聞こえる。彼の心が流れ込んできて、自分の奥底にもざわつきが起こる。 「………許して欲しくなどなかったのに」 「知ってる」 「銀時が、白夜叉が戻れば全て終わると思っていた……。だがあいつこそが終わらせないための男だった、嗚呼ちくしょう!」 三年の間、俺達が喰らう酒といえば「夜叉」ばかりだった。食事が終われば必ず呑む。 「夜叉」を絶え間なく萩から取り寄せているのは万斉だ。奴の愚痴など半分くらいしか覚えていないが、真撰組や幕府の目が萩に光っている今なかなかの重労働らしい。 桂が手を抜いていいと労う度、万斉はすぐに刀に手を掛ける。廃人に等しい桂でも斬りたいらしい。多分桂が反射的に刀の柄に手を掛けたら、万斉は彼を斬るのだろう。 その勝敗など心底どうでもいい話だが、不幸にも桂は刀に触れない。押入れにでも放り込んであるに違いない。 彼は死ぬことも生きることも望んでいなかった。 ああそういえば一つだけ例外があった。萩に松陽先生と銀時の墓参りに行く時だ。 青い空だけ共通で、冬と夏に逝った二つの魂を弔うのは春だ。喪失の狭間に埋め込まれた季節。この世で一番悲しく、同時に俺達を最も狂わせた季節。 この日ばかりは俺達は生きたいと切に願う。刀は差さない。爆弾も持たない。服装を変え、傘を被り、万斉に用意させた偽の身分証明書で行く。真撰組の横だって何食わぬ顔で素通りだ。全く俺達の次くらいに馬鹿なのではないか。俺達は既に攘夷派としての力はないが、お前達が妙に近づいた銀時を殺した犯人としては健在なのに。 日頃は桂の世話なしでは生きられない俺も、杖を持てば歩けるようになる。 死者に触れることで生命力が漲って潮騒に辿り着く。 死者は語らず。俺達が望んで憎んだ不変がそこいらに転がっている。抱きしめる冷風で灼熱が蘇る。俺達は青春の熱を捨て切れなかった。 「高杉。酒だ。―――早く潰れてしまおう」 頷く前に酒が喉に流し込まれた。「夜叉」は甘く喉を犯し、胃に優しく広がる。 「……こんな甘さじゃ酔えねェよ」 夜叉よ。お前に復讐の機会を与えているのにどうして応えてくれない。 「銀時はいつでもそうだったな。俺達が優しくして欲しい時には冷たい激情を押し付け、俺達が断罪を望んだ時には優しく包容した。空気を読まない、馬鹿で嫌な男だった」 「それは、白夜叉がおぬし達を最も恐れたからでござろうよ」 突然、何処かで聞いた声が割り込んだ。銀時ではない………そうだ、万斉、もうそんな季節か。 その言葉、あいつから聞きたかったよ。 「なんだァ、万斉。なんか用か?」 「おや、一応拙者の名前を覚えていてくれたようでござるな」 「今思い出した。―――春になったのか?」 万斉が静かに首を振った。その瞬間、もたれかかっていた桂が急速に興味を失ったのを感じる。 我関せずを決め込もうとした桂の横面を万斉は容赦なく叩いた。俺にまで振動が伝わる。 仕方ないな、という桂の溜息が部屋に流れた。 「討幕が始まる」 「ふぅん」 「白夜叉もいないのにか?」 俺は気のない返事、桂は正直に疑問を吐露した。世界は白夜叉に破壊されなければならないのに。 「坂本殿、西郷殿、エリザベス殿、鬼兵隊、攘夷戦争を生き残った志士達がことごとく参加する。一時的に天導衆の利権独占に不満を持つ天人と手を組み、幕府と天導衆を倒す」 「―――今や白夜叉なくして革命は成る」 その言葉を言い終える前に、万斉は三味線を鳴らした。あっという間に手首を絡め取られて、立て膝も縛られて後ろに転がった。一拍遅れて桂も倒れた。 「そんなことしなくても、貴様に攻撃したりはせん」 桂が心底小馬鹿にした口調で笑う。同感だが、首に触れるテメーの髪の方が心底うざい。早く切れ。 「……おぬしらは、白夜叉を追うために全てを捨てたのではなかったか!」 万斉が声を荒げて手に力を込める。糸が肉に食い込んだ。 全く馬鹿だな、分かろうとするから辛いんだよ。惚れた腫れたは惚れた奴にしか分からないのになァ。 「違うな。俺達は何かを得るために彼を追い、彼を殺したんだぜ?」 それに俺達は捨てるものなどとうの昔に地獄に流してしまったさ。 「皆が晋助と桂の力を欲している。―――戻れ」 銀時。お前の気持ち分かったよ。俺達を愛しながら、容赦なく振り切ったその気持ち、今理解した。 「どうでもいいが何故坂本は殿で、俺は呼び捨てなんだ」 桂がふてくされた声で言った。 「五月蝿い。拙者が嫌いだからに決まってる。………お前さえいなければ、晋助は、」 「容疑者が後二名ほど抜けているぞ。大体それは貴様の自己弁護だ。貴様が高杉を抱え込めるだけの男であったら、こんなわけのわからん馬鹿者はのしつけてくれてやったよ」 その言葉、全部お前に返してやる。なあ銀時。ヅラのうざさって実は不変だよな。 「……晋助」 「適当にやれよ。白夜叉以外の誰かが壊す世界など興味はない。―――ああ、折角来たんだ。桂の夢語りを聞いていけばいい」 万斉はこの時本当に悲しい顔をした気がする。あくまでそんな気だが。 四人の銀時が立っていたんだ。場所は万事屋。子供達は出掛けていた。 中央のソファーに線対称な位置取りで子供の銀時が座っていた。右側は……そう、初めて会った時くらいの銀時。左側は村塾で馬鹿やってた時の緩い銀時だった。 その子供から少し離れた所で白夜叉と万事屋坂田銀時が向き合っているんだ。 二人はどちらが生き残るかでもめている。両方真剣を持っていた。すぐに抜きあうだろう。 殺気が一本の線になりかけた時、二人の子供がその足にしがみついたんだ。 「やめて!どちらにも死んで欲しくない!どちらも同じだけ大切なんだ!」ってな。 反吐が出そうだろう、高杉。俺達が一番嫌いだった言葉じゃないか。 いつでもたった一つしか選べなかったのに、何を都合のいい事を。 そうしたら、笑えるじゃないか。殺気まで子供の銀時だった二人は、俺と高杉じゃないか。 ……酷い顔だったぞ。ぐしゃぐしゃに歪んで、鼻水たらして、泣くしか能がなかった。 銀時、白夜叉はあの鮮やかな赤目で俺達を見下ろした。―――ああ、斬ってくれると思った。 いつでもあいつは残酷だったよ。 寂しそうに、それでも心底嬉しそうに、銀時と白夜叉は俺達の頭を撫でた。 「その言葉、ようやく聞けて嬉しいよ」 俺は高杉がこの夢の本流を受け止めてくれるように、出来るだけ耳元で話をした。もっとも河上の糸で十分な身動きは取れなかったのだが。 夢喰らい、二人寄れば戻れない。夢を追うのは易いけど、帰りはひたすら茨道。 「なァ、ヅラ。銀時は背中で語れる男だったな」 「うむ」 銀時の記憶は自分達の思い出を消し去るほど胸に焼き付いているが、後姿は嫌に強烈だ。 (最後まで美しく生きようじゃねーか) だが、そんな美しい男はぎこちない言葉が好きだった。 「それなのに銀時は言葉を欲しやがった」 「本当はずっと昔に分かっていたくせに、俺達の確かな言葉を欲した……。酷い男だ。俺達には奴を許す権利も奴に許される権利もなく、彼が望む言葉など分からないか恥ずかしくて言えないかのどっちかだったと知っていたくせに」 だから俺達は万事屋の子供達が、真撰組が、お登勢殿が、お妙殿が羨ましかった。 銀時に多くの言葉をぶつけることが出来て、その中の幾つかの破片で彼を救っていたのが憎らしかった。 「高杉。俺達はいつから言葉の要らない関係になってしまったのだろう」 高杉は苦笑して首をかしげただけだったが、何故か河上が答えた。陰鬱な声だった。 「おぬし達には分かるまい……。おぬしらとの、その言葉の要らぬ関係を望んで、どれだけの人間が落伍したかなど」 彼は慎重に俺達二人をがんじがらめにしていた糸を三味線に戻した。首を斬るなりするかと思ったのだが。 「万斉」 優しく声を掛ける高杉にもはや修羅はない。慈愛の鬼と地獄に落ちた。 「城が落ちたら、天守閣の天辺で三味線を鳴らせよ。……俺達を謡うような救いのない奴を」 唇を強く噛んだ河上が始めて俺に向かってすがるような視線を送った。 すまぬが無駄だよ。俺は静かに頷くしかない。剣を忘れた元侍の餞など忘れてしまえよ。 「………もう、おぬしらを殺してやれる人間もいないのに……どうして…」 (戦場で死のうとしない) お前はあれだけ高杉に付いて苦労しても、何も分かっていないんだな。 もう高杉は死のうが生きようが興味はない。ある日いきなり天に召されても気がつかない。 終わらないことを嘆いているだけの俺達を世界から切り離して捨てればいいのに、馬鹿だな本当に。 「ククッ……万斉ィ」 少し驚いた。高杉のあの意地の悪い笑い声など久しぶりだ。 懐かしいだろう、銀時。ろくなこと起こんねーよ、と言ってくれ。 「いろいろ勘違いしているが、最高の勘違いだけ特別に教えてやるよ」 物語は残念なことにまだ続く。俺達の自由の断罪は執拗に、冷酷に、執行され続けていく。 でも、俺と高杉はたった一つだけ希望を持つことにしたんだ。おまけの希望として。 「俺達を殺すかもしれない人間はまだいるぜ」 風葬の鐘が響く。白夜叉の白骨にいつの日か帰ってみせよう。 世界を一周回った嘘は真実になる。俺達のための嘘は今まさに世界を回っている最中なのだ。 友 よ 何 処 万斉すごい可哀想になった……。流れる曲は修羅がいいかも。あと一話。 |